「自分の心に訴えるものならいいんだ」 ②
それから数ヵ月後のことである。サゴウはジャズバンドに所属し、米軍のクラブで演奏していた。夜通しの仕事になることもしばしばだった。サゴウはその足で信濃町の学会本部まで通った。池田に会うためである。
「池田先生は学会本部で毎朝のように、戸田先生の指導を録音したレコードに耳を傾け、その後、集まった学会員の質問に応じておられました。私もその場に何度も参加しました」。
ある朝、ずっと心にひっかかっていた質問を口にした。
「私はジャズが好きで、専門家を目指して勉強しています。しかし、ジャズがどういうふうに広宣流布の役に立つのか、わからないのです」
池田はジャズの音楽の何に悩んでいるのか、真意を尋ねた。サゴウは「じつはジャズというのは黒人の音楽で、世間からは下に見られています」と、悔しさをにじませながら説明した。
池田はサゴウの不安を解きほぐすように『必ず道は開ける」と言った。「先生は『自分の心にアピールするものならば、なんでもいい。全力で取り組みなさい』と言われました。『必ず道は開ける。しっかりやりなさい。人生には絶対に無駄はないんだよ』と。あの瞬間、私の腹は決まりました」。
いつかジャズの本場アメリカに行きたいと思っていた。しかし、まだ自由に海外渡航できない時代である。
「ある雑誌で『ブラジルを経由してアメリカに渡った若者』話を読み、その人を探しあてて話を聞きに行きました」。サゴウは移民船でブラジルに向かう道を選んだ。
1960年(昭和30年)の7月に日本を発ち、ブラジルに入国したのは9月初旬だった。
「サンパウロの町中を歩いていると、創価学会のバッチをつけている人とバッタリ出くわしたんです。喜んで声をかけると『池田先生がもうすぐブラジルまで来られるらしい』と聞いて、本当にびっくりしました。今から思うと、先生を出迎えるためにブラジルまで来たのかもしれませんね」と笑う。
この初訪問の際、サゴウは池田から南米全体の男子部責任者の任命を受ける。
「先生とサンパウロの街角を歩いている時、『ポルトガル語はできるのか』と聞かれました。正直に『日本で3カ月勉強しましたが、とても通用しません』と答えると、『言葉がわからないで、どうやってブラジルの広宣流布ができるのか』と厳しく叱られました」。
猛勉強を重ねた。音楽の仕事の合間を縫っては、サンパウロのすみずみまで男子部のメンバーを励まして回った。
「日本人メンバーのほとんどが農業移民です。どの家に行っても、仕事が不安定で、大変な思いをしている人たちばかりでした」
ブラジル人メンバーも着実に増えていく。彼らを放ってブラジルを出ていきたくない。少しずつ、そう思うようになった。
「自分の人生を考え直した結果、ブラジルで、この人たちとともに生きようと決めました」。
母のフミを呼び寄せた。サゴウはやがてリオデジャネイロの中心者として、ブラjジル創価学会の草創期を支えていくことになる。
「当時のブラジルにはまだ、組織と呼べるものはなかった。空港での歓迎も、座談会も、新聞広告をみて集まった人が大半でした」とサゴウは振り返る。
か細い、ようやく生まれ始めた「つながり」を太く、強くする必要に迫られていたのは、ブラジルだけではない。
池田は、すでにできあがった組織を見回りに行ったのではなかった。自ら動き、悩みを聞き、仏法の「種」を植えた。その道のりで生まれた出会いの数々を、さらに繙いていきたい。
先駆者たち 中南米編(1)終了しました。