「永遠の生命 君も 皆も」 ①
白樺グループが結成された二年後、初代責任者の林栄子のもとに池田からエッセー集『私の人生観』が届いた(1971年)。「言論・出版問題」の渦中、池田が体調を崩しながらも書き続けた一冊である。栄子が表紙を開くと、見返しに池田の筆で、
病める人
心の傷ついている人を
私の使命感として
私は堕落させない。
と書かれていた。白樺会総合委員長の小島明子は「林栄子さんに贈られたこの言葉は、看護に携わる私たちの大切な指針です」と語る。
栄子は「女子部の時代に自らを鍛え、人生の基盤を固める」ことをまず自らに課し、真新しい組織である白樺グループの範を示していく。
「私の母が老衰で床についたときも、彼女は、真っ先に駆けつけて手厚い看護をしてくれた」(同『忘れ得ぬ同志』)と池田は感謝を綴っている。
結婚後は二人の子宝に恵まれた。長女の新子が小学二年の時、栄子は体調不良を感じて入院する。1984年(昭和59年)の年末だった。
「母はメラノーマ(悪性黒色腫)という、今でも治療が難しい悪性の皮膚がんでした。担当医師からは余命三ヶ月と告げられました」(長女の新子)。
「なぜこんな病気に」と涙を流す実妹の扇を、栄子は「信心してなかったら、もっと大変よ」「さあ、今こそお題目よ」と逆に励ましている。朝晩、夫の徳一と御書(日蓮の遺文集)を読み合った。
がんは体中に転移していた。「看護婦であった彼女は、病の重さは、だれよりも自分自身が知っていたにちがいない」「医師は『痛くないはずがない』と言って何度も痛み止めの注射を用意した。しかし、彼女は一度も使うことがなかったという」(同『忘れ得ぬ同志』)。
長女の新子は東京創価小学校に通っていた。
「母が入院中のある日、担任の教師から呼ばれました。行ってみると、玄関前のロビーで池田先生が待っておられました」。
この日は創価小の卒業式だった。すでに林栄子の病状を聞いていた池田は、娘の新子を精一杯励ました。
「お母さんが入院して、家にいなくても、がんばるんだよ。獅子の子だからね」。新子の肩を抱きかかえ、廊下を歩いて一緒に食堂へ向かった。
食堂では謝恩会が開かれていた。その最中も池田は、8歳の新子を隣に座らせ、家族についての話に耳を傾け、小学校を後にするまで励まし続けた。
林栄子は入院から三ヶ月が過ぎ、自宅療養に切り替わった。ともに白樺グループを支えてきた稲光禮子は、栄子の闘病の様子を鮮やかに覚えている。
「不思議なくらい顔色もよく、お見舞いに来た人たちのほうが励まされて帰っていきました。病院でお世話になった看護婦まで自宅に迎え、学会の信仰の素晴らしさを語る姿に胸が熱くなりました」。
栄子が自宅療養を経て再入院したのは初夏だった。稲光は7月15日、仕事を終えたその足で栄子の病室を訪ねた。「ああ、もう時間がない」と直感した。栄子の夫、徳一に相談し、「明日の朝、子どもたちを学校に行く前に連れて来てください」と頼んだ。
翌朝。栄子は「夕べはよく眠れたわ。あなたが泊まってくれて」と稲光にお礼を言った。しばらくして、わが子二人の予期せぬ訪問に目を見開いて喜んだ。小学三年生になった新子と創価小に入学したばかりの尊弘の手を握り、かすれた声で「いってらっしゃい」と見送った。
そして「今日は大事な検査があるから、お題目上げてね」妹の扇に語りかけ、ゆっくり身を横たえた。看護婦が栄子の手をとり、爪を切っている時、眠るように息をひきとった。48年の生涯だった。