竜頭蛇尾の指示書 ②
池田はこの日、札幌へ移動した。翌3日、千歳空港から羽田空港を経由し、伊丹空港へ向かい、大阪府警に出頭した。夕張を出発する時、男子部の最高幹部に「私はこれから大阪へ行く。あとのことはよろしく頼む」と言い残している(東京からの応援隊だった浦部秀雄の手記)。
文京支部の婦人部幹部たちは、夕張で池田を見送った後、三笠の学会員宅から池田の自宅に電話した。妻の香峰子に状況を伝えるためである。香峰子は「結婚した当初から覚悟していたことですし、何も心配しておりません」と答えた。
北の大地から、舞台は関西へと移る。その前に、「夕張大会」後の炭労の動きを記しておきたい。
「夕張大会」と同じ7月2日、北海道炭労はある会議を開いた。その内容を北海道新聞が「創価学会追放へ/炭労、総評大会に提案」という見出しで報じている(7月3日付)。
この会議では、炭労が所属している総評(日本労働組合総評議会)の大会に「総評の組織内からも(創価学会を)追放する提案」を出すことが了承された。
わざわざ対決を申し込み、その対決を撤回しておいて、今度は総評に訴えようというのである。3日後の同紙は、総評が炭労の提案を受け、「宗教対策委員会」を設ける予定を報じている。
こうした動きは、その後どうなったのか。「夕張大会」の前後、炭労が中央委員長の名前で各支部の委員長に宛てた指示書がある。
炭労はまず6月8日、創価学会の「問題」を総評大会で報告し、炭労を超えた問題へと「発展」させるために、「創価学会の実態」を16項目にわたって細かく報告するよう各所に指示している。
すでに炭労は、6月初旬の段階で、総評まで巻き込んだ学会弾圧の計画を練っていたのである。
ところが「夕張大会」から10日後、7月12日の指示書では、学会との問題は「(新聞やラジオが)興味本位に報道したため論議がふっとうし、創価学会は炭労と対決する方針を打ち出し」たという。そして「現在の状況はジャーナリストによって創られたものであり、その実態は炭労の方針にそわない」と弁明。世論の風向きが変わったと感じ、元々の問題の責任をマスコミに押し付けた。
さらに2ヵ月後の9月19日、各支部宛てに出した3通目の指示書には、炭労の焦りがにじんでいる。