北海道・名寄も、学会攻撃の暴風雨にさらされた地域の一つである。
本部長だった有澤清志のもとに連日、脱会届が届いた。激励のために遠い剣淵や和寒にも足を運んだ。「『わかったよ本部長、学会で頑張るよ』と言ってくれた時、どんなに嬉しかったか」
明け方に自宅に帰り、横になる。玄関のポストに「ぽとっ」と郵便物の音。胸騒ぎがした。脱会届。差出人は、なんと「さっきまで励ましていた人物」である。
有澤は呆然とした。精神的に追い込むために、また有澤が中心地の名寄で活動する時間を奪うために
”脱会届を先に投函しておいてから、嘘をついて遠方まで呼びつけた”のである。
あまりの心労に、有澤の髪は真っ白になった。
後に池田は、苦境を乗り切った名寄の有澤たちに、「血涙を いくたび流せし わが友の 名寄の建設
仰ぎ讃えむ」と和歌を贈っている。
日本列島を北から南まで、至る所で「血の涙」が流された。しかもその狂気の実態は「僧俗和合」を守るために、聖教新聞にも事立てて報じられることはなかったのである。
山崎の動きに乗せられた宗門。それを止めることができない学会首脳。悪循環が続く。
「今度こそ解決した、と学会本部から連絡があっても、そのたびに寺は正反対の動きをする」(熊本 勝木昭八郎)「もう大丈夫だ、と聞かされた直後、不思議にも学会と宗門の関係が悪化する。その繰り返しだった」(秋田 小松俊彦)こうした証言は数限りない。
そんな中、昭和54年3月、福島源次郎という最高幹部が九州・大牟田の会合で、物知り顔で宗門を揶揄した。池田の足を引っ張る愚行だった。宗門は猛反発。これが仇となり、「私一人が退いて済むならば」と、池田は会長辞任を決断する。
学会も宗門も、ともどもに繁栄をー
牧口、戸田、池田と繋いできた望みは、蛍火のように弱く、消えかかっていた。