私が若き日に愛読した、フランスの思想家モンテェーニュは「精神を鍛錬する 最も有効で自然な方法は、私の考えでは、話し合うことであると思う」
「話し合うということは人生の他のどの行為よりも楽しいものだと思う」
その 通りだ。語らいには、常に新鮮な発見がある。
「さあ、対話をしましょう!」
大歴史家トインビー博士と私の対談も、一緒に名曲を奏でゆくような弾む心で始まった。
2年越し40時簡に及ぶ語らいは、人類と世界、歴史と未来、そして宇宙と生命を論じ合いながら、魂の共鳴を深めていった。
「若いあなたはー」
対談の最終日、84歳の博士は、45歳の私の手を握って言われた。
「このような対話を、さらに広げていってください!」
遺言の響きをもった一言であった。
博士から託された対話の調べは、今、世紀を超えて、壮大な交響楽となり、世界に広がった。
対話は、自説に固執した自己主張のぶつけ合いではない。単なる言葉の往復でもない。対話を通して、互いの語る言葉の「意味」を共有し、理解し合うことである。
そして、新たな価値を創造しゆく作業なのだ。
対話がなくなれば澱む。活発な対話のあるところ、新しい命が流れ通うのだ。
恩師・戸田第二代会長は展望されていた。
「これからは『対話の時代』になる。人と語るということは、信念のために戦うことである。また、心を結び合うということだ」
「世界宗教の創始者たちが、一堂に会したならば、大きな慈愛の心で語り合い、尊重し合うであろう。
そして、人類の恒久の幸福に向かって、戦争や暴力・紛争を断じて食い止めようと、手を携えて立ち上がっていくに違いない」
これは、初代牧口会長も、戦時中に述べられていた信念であった。
私は、牧口、戸田両会長の弟子として、全世界の指導者・識者と対話を重ねてきた。その数は、七千人を超えるようだ。
世界は広い。人類は多彩である。語り合うことは、学びあうことである。知り合うことである。そして、尊敬し合うことである。
対話は、人類を友とし、世界を味方にすることだ。
日蓮大聖人が権力の魔性を正された「立正安国論」は、問答形式(主人と客の対話)で示されている。それ自体が、時の最高権力者に、「対話」の重要性を真っ向から打ち込まれた警鐘とも拝される。
「立正安国論」の冒頭は、「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで天変地妖・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る」(御書17P)と書き起こされている。
対話の出発点は、乱れ切った社会への悲憤である。苦しみ悩む民衆に同苦する心である。
この共通の地平に立てば、いかに差異があっても、同じ人間として、真摯な対話がいつでも可能なのだ。