戦時中第二代戸田会長は、小笠原慈聞の「神本仏迹論」によって、師匠である牧口初代会長の命を奪われ、自身も2年間の厳しい獄中生活を送ることになった。
昭和27年、総本山大石寺での「700年祭」において、学会の青年部が牧口会長の墓前で小笠原慈聞に「神本仏迹論」の邪義を認めさせたが、その後小笠原は「謝罪は暴行、脅迫によるもの」と主張した。
しかも小笠原は、僧籍を剥奪されていたにもかかわらず、反省もなしに宗門に対し「正宗の僧侶として死にたい」と訴え、僧籍に復帰を許されていた。
学会側は小笠原の僧籍復帰を知らされていなかった。
その後日蓮正宗宗門は、立宗700年大法会執行中、惹起せる事件は開山上人以来、未曾有の不祥事にして、霊域を汚し参拝の僧侶に少なからざる不安を与えたるは、洵(まこと)に遺憾とし、小笠原慈聞には処分をせず、戸田会長に対しては、謝罪文の提出、大講頭罷免、登山停止処分という不当極まる処分を下した。
戸田会長は小笠原を告訴し、事情聴取のため取調べを受けた。
当時の日昇法主は、小笠原に誡告文を出したが、小笠原は返って法主を告訴すると言い出した。
この時後の日達法主が小笠原の説得に当たり、小笠原が住職を務める寺の檀家とも会い指導した。
小笠原事件の真相を初めて聞いた檀家・信徒は、自分たちが小笠原に騙されていたことを知り、小笠原を免責した。
頼みの綱の檀家・信徒にも離反され孤立した小笠原は、事ここに至って初めて自らの非を認め、陳謝の意を表した。
後に小笠原は、利殖金融詐欺にあい、生活もままならぬほどの窮状に陥ってしまった。
これを知った戸田会長は、なんと、小笠原に見舞金を贈るとともに、男子部に援助を提案した。これを受けて男子部の有志が金を出し合い、池田青年室長(当時)が代表して支援金を小笠原に届けた。
これによって小笠原は、窮地を脱することができた。
戸田会長にしてみれば、師匠の死の原因になった人物であり、戸田自身も2年間の獄中生活の辛酸をなめた。
慈悲を口にすることは容易である。しかし、憎んでも憎み足りない相手に慈悲を施すことは至難であろう。だが戸田会長は、仏法の大慈悲をもって、小笠原をも寛容の腕で温かく包んだのである。
参考文献、「新・人間革命 第3巻」より