昭和57年には、青年部の文化祭などが、多く開かれました。
4月の「関西青年平和文化祭」の映写会。
6月30日には「女子部合唱祭」
合唱祭では、池田名誉会長の「青年よ21世紀の広布の山を登れ」の詩に曲をつけた「青年よ広布の山を登れ」が発表されました。
その後、「第2回世界青年平和文化祭」が所沢の西武ライオンズ球場(当時)で行われました。代々木公園で練習している、女子部のメンバーに差し入れを持って行った思い出があります。
6月5日付けの「栄光の日々共戦の魂は永遠!神奈川」で、昭和59年9月8、9日に横浜スタジアムで行われた「第1回神奈川青年平和音楽祭」の写真が掲載されていて、ハッとしました。
神奈川に転居した翌年、人文字と、合唱組曲「民衆」を合唱するメンバーとして参加しました。
当日の晴天と月が出るようにと、皆が題目に挑戦しましたが、当日は集中豪雨に見舞われました。
午後4時、グレーのスーツを着た池田名誉会長が、場内を1周してメンバーを激励してくださいました。皆先生に届けどばかりに「先生!」と叫びながら大きく手を振りました。
「平和の心を 世界へ 世紀へ」をテーマに行われましたが、豪雨のため音楽祭は途中で中止となりました。
池田名誉会長は、2万人の青年の演技を、とても讃えて下さいました。
音楽祭終了後、雨が上がり場内から「民衆」コールが起こり、5千人が歌う「民衆」の
曲に合わせ、男子部の「光のチューブ」のメンバーが演技をして、大成功しました。
後日、池田先生は風邪を引いていて、奥様に出席を止められたと伺い、参加メンバー皆で感激して泣いた事を覚えています。
この日が私の「師匠」との原点になりました。