日蓮大聖人は松葉ケ谷の法難の後、一時鎌倉を離れましたが、幕府は翌年鎌倉に戻った大聖人を捕らえて、伊豆の伊東へ流罪しました。
これが「伊東流罪」です。
大聖人は、伊豆の地で船守弥三郎夫妻に守られ、地頭・伊東八郎左衛門の重病を治して、帰依(相手の教えに従うこと)を受けました。
大聖人は伊豆の地で「四恩抄」「教機時国抄」などを著し、御自身が法華経の行者であることを明かされました。
弘長3年2月に北条時頼の指示で、伊豆流罪を赦免されて鎌倉に帰られました。
大聖人は翌年、故郷の安房方面に赴きました。文永元年(1264年)11月11日、大聖人一行が、安房・天津の工藤吉隆邸へ向かう途中、小松原において地頭・東条影信の軍勢に襲撃され、信徒の工藤吉隆と弟子の鏡忍房が殺され、大聖人も額に傷を負い、左手を折られました。
これが「小松原の法難」です。
文永五年(1268年)閏1月、蒙古からの国書が届きました。国書には、蒙古の求めに応じなければ、兵を用いると記されていました。
大聖人が「立正安国論」で予言した他国侵逼難が現実のものとなりました。
大聖人は四月「安国論御勘由来」を幕府関係者に提出し、悪法への帰依を止めるよう諫めました。
それでも幕府は大聖人の諫暁を黙殺したので、十月大聖人は、時の執権・北条時宗をはじめとする幕府要人、権力者に取り入っていた、極楽寺良寛、建長寺道隆などの、鎌倉諸大寺の僧等、11カ所に対して書状「十一通御書」を送り、他宗との公場対決を呼びかけました。
大聖人御在世当時は、法論の場で負けた方が、勝者に帰依する慣習がありました。
大聖人の働きかけにも関わらず、幕府も他宗も誠意ある反応を示さないどころか、幕府は大聖人の教団を危険視し、弾圧を検討していました。
大聖人は激しい迫害にも屈せず、他宗の教義の誤りを厳しく破折されました。
大聖人の諸宗の破折は「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」との「四箇の格言」にまとめられています。