日蓮大聖人の御生涯 2 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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「日蓮大聖人の御生涯」「立宗宣言」で、日蓮大聖人が「立宗宣言」された事を書きました。


今回は「立宗宣言」されてからの、日蓮大聖人の御生涯について勉強したいと思います。




建長5年(1253年)四月二十八日の正午に、清澄寺において「立宗宣言」された大聖人は、念仏の強信者であった、安房の国東条郷の地頭・東条影信の激しい怒りをかったため、大聖人は影信から逃れ、鎌倉の名越に、松葉ヶ谷(まつばがやつ)に草庵を構え、弘教を開始されました。




大聖人の御在世当時は、鎌倉に広まっていた念仏と禅宗の破折を中心としながら、法華経の正義を説き、南無妙報連華経の題目を唱え、弘められました。




同年十一月、後の六老僧の一人となった「弁阿闍日昭(べんあじゃりにつしょう)」が、松葉ヶ谷の草庵を訪ねてきて大聖人の弟子になりました。


在家信者では、下総の国の守護・千葉氏の家臣であった「富木常忍」が大聖人に帰依(相手の教えに従うこと)しています。


その後、大聖人の教えに共鳴する人々が次第に増えて、康元元年には、四条金吾、工藤吉隆、池上宗仲らが入信しています。


この頃大聖人は、「諸宗問答抄」「一生成仏抄」を残されています。




大聖人が鎌倉での弘教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震等が相次ぎ、大飢饉・大火災・疫病などが続発していました。


特に、正嘉元年(1257年)八月に鎌倉を襲った大地震は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させる大被害をもたらし、人々を苦悩の底に突き落としました。


大聖人は、この地震を機に、世の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する方途を世に示すため、正嘉二年二月、駿河の国の岩本実相寺にこもり、一切経を閲読されました。


その時に、第二祖日興上人が大聖人の弟子となっています。


そして大聖人は、「立正安国論」を著し、文応元年(1260年)七月十六日、時の最高権力者であった北条時頼に提出され、第一回目の「国主諫暁」をされました。