『Johannes Brahms / ヨハネス ブラームス』は Luther (ルター)

派の信徒であり、長い年月を費やして創作した『Ein deutsches

Requiem /ドイツ.レクイエム』の歌詞はドイツ語版聖書の文言から

抜粋されている。Hamburg (ハンブルク) で生まれ Wien (ウイーン)

で生涯を閉じており、J.S.Bach に強く傾倒していた。世の中に多く

普及しているレクイエムは、カトリックを土台に創られている事が

多い。それとは対照的に Brahms はプロテスタント信仰を基とする。

 

作品の冒頭では「Requiem eternam (永遠の安息を)」という言葉に

続き「dona eis domine」。通して日本語に訳すなら「主よ 永遠の

安息を彼に与えたまえ」という意味になる。例えば日本で主流の仏教

や神道の場合は、死者の霊を対象にして呼びかける類の祈りが顕著

ではあるが、レクイエムに於いては神に祈りを捧げる。キリスト教の

基本的な定義として神は全知全能であり、死者の霊も神の支配下に

置かれるという思想。「鎮魂曲」という日本語訳は誤りでもある。

 

 

:ハンブルク (ドイツ) の市庁舎:

 

 

 

 

〈楽章構成〉

 

第1曲 Selig sind, die da Leid tragen

第2曲 Denn alles Fleisch ist wie Gras

第3曲 Herr,lehre doch mich

第4曲 Wie lieblich sind deine Wohnungen

第5曲 Ihr habt nun Traurigkeit

第6曲 Denn wir haben hie

第7曲 Selig sind die Toten

 

 

〈 Brahms Ein deutsches Requiem hr-Sinfonieorchester 〉

 

 

 

【第1曲】 Selig sind, die da Leid tragen

     (幸いなるかな、悲しみを抱くものは)

 

雲間から光が差し込む様な舞台上で合唱が「Selig sind」と囁き、

Selig (喜びに溢れる) はドイツレクイエムの全曲を通じて重要な

役割を担う主題。妙なる輝きに包まれながら目の前には天国への

階段が現れて、敬虔な祈りを胸に種を蒔いてきた人達への救いが

描かれる。涙を拭い去り喜びに溢れる者達の光景が浮かんでくる。

この楽章ではヴァイオリンが登場せず、低弦 (ヴィオラとチェロ)

主体で構成されており、以下の聖句は有名な『山上の垂訓』。

 

悲しむものは幸いです。その人は慰められるからです。

 

(マタイによる福音書 5:4)

 

 

聖書を紐解いてみると、この時代の民衆はローマの圧政により苦渋

を強いられており、重税に泣き努力は報われず夢や希望を持てない

世の中であった。そんな時に『イエス キリスト』が民衆の前に姿を

現わして、上記の山上で言葉を説いたというのが第1曲目。終止一環

として ド ミ ファ の動機が姿形を変えながら何度も現れており、

序奏の一節が繰り返された後に、動機はマタイ福音書の聖句となり、

パレストリーナ風の対位法による美しい『ア.カペラ』。

 

『a cappella(イタリア語)』は合唱音楽において無伴奏の純粋に

声のみによる編成や演奏の事で、そうした響きに基づく作曲の様式、

即ちパレストリーナに代表される声楽の対位法様式を意味している。

『Palestrina (1525-1594)』はイタリアの作曲家で、ルネサンス

の声楽ポリフォニーにおける純粋対位法の技法を基礎に様式を確立。

そこで、第1曲の中間部では詩篇126章に記されている「労働者の涙が

喜びに変わりゆく」様子が描かれる。(以下はドイツ語歌詞と聖句)

 

Die mit Tranen saen, (涙と共に蒔くものは)

werden mit Freuden ernten. (喜びと共に刈り入れん)

 

涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に狩り入れる。

種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は

束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

 

(詩編 126:5-6)

 

 

当時の農民は本当に苦しい生活を強いられており、涙を流しな

がら種を蒔いていたと伝えられている。いつの日か悲しむ人々

が慰められて希望の到来を望むという感慨深い序曲である。

 

 

 

【第2曲】 Denn alles Fleisch ist wie Gras

     (人はみな 草のごとく)

 

 

 

厳粛な趣でティンパニの連打が歩み寄り、まるで葬送行進曲の

ような雰囲気である。合唱がユニゾンで「人はみな草のごとく」と

歌い始めると、上昇していく印象的な男性陣の発声には威厳すら

漂っている。(ユニゾンというのは複数の声部が同じ旋律を同じ

音程で合奏や合唱をする事) 陰鬱さと神聖さとが交錯しながら

旋律は次第に重厚感を増して、再びティンパニの強連打から高揚

していくと頂点に達する。第2曲を初めて聴いた若い頃の私は、

完全に Brahms 芸術の虜になってしまい震え慄いた程である。

 

僅かに勢いは異なるが『Verdi / ヴェルディ』作曲の怒りの日

(Dies irae) に似た凄みを感じる。Sequentia (続唱) にあたる

部分で、最後の審判の情景が9つの楽曲で描かれており、衝撃的な

4つの和音が強奏されて絶叫するように「Dies irae」の言葉が

繰り返された後に、弦楽器群が天国から地獄へと転げ落ちるかの

如く3オクターブの幅広い音域を烈しい16分音符で駆け降りる。

三大レクイエムの1つに数えられており、他には Faure も有名。

 

 

〈 Karajan Requiem Mass Verdi "dies irae, dies illa 〉

 

 

 

そこで、第2曲の主題は第1曲の序奏と関連しており、J.S.Bach

の『カンタータ第27番 コラール』を基とする説が有力。やはり

常に Brahms は Bach を意識している事が改めて理解できる。

 

「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、

草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。

 

(ペトロの手紙 1:24)

 

 

世の中には何一つとして永遠なるものは無い事を表現しており、

唯一変わることのない神の真理、神の愛が歌われている。絶対的

な権力を誇る邪悪な者達も必ず最終的には滅ぼされる運命にあると。

その当時、ローマ圧政の世の中では正義が偽られるという動乱に

巻き込まれながらも、迫害を受けながら耐え忍び闘い続けた教会

の信者達に送られた手紙であると後世には伝えられている。

 

主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に

立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが

彼らを迎え 嘆きと悲しみは逃げ去る。

 

(イザヤ書 35:10)

 

 

35章の聖句は『Handel / ヘンデル』作曲の『Messiah』にも使用

されており、正しく神に従う者達は掛け替えのない喜びを抱きな

がら約束の地 (シオン) に帰ることが約束されていると。即ち永遠

の神の国に住める事が歌われており、メサイヤとはヘブライ語で

『メシア』即ち救世主を意味する。イエスの生涯を描いた作品。

 

 

〈 Handel's Messiah in Grace Cathedral 〉

 

 

 

Handel の母親は牧師の娘で、幼少期から聖書を読み祈るという

環境で育ったクリスチャン。当然 Handel に多大な影響を与えた。

歌詞は旧新約の両方から抜粋されたもので、大きく3つの部分

(救世主生誕の預言と降誕 / 受難と贖罪 / 復活と永遠の生命)

より構成されており、演奏時間は2時間30分程の大作でもある。

 

 

 

【第3曲】 Herr,lehre doch mich

     (主よ 知らしめ給え)

 

 

 

合唱は重厚感の加わるオーケストラを伴いながら独唱を模倣。

人々は虚しい事のために騒ぎ立てながら懸命に積み蓄える。

神の存在を忘れてしまい、自分の名誉や財産ばかりに捕らわれて、

それを少しでも傷つけられまいと必死になり守り抜く。詩編では

「神が人を造られたのだから神の愛に倣う事こそが最良の道」

であるとダビデは述べており、Brahms は音楽で見事に表現する。

 

「我が望みは、あなた(神)にある」と気付いた場面から、次第に

旋律が深みを増して上昇していくと、壮麗なフーガにまで至る。

『フーガ(fuga)』というのは対位法を主体とした楽曲形式の1つで、

最初に提示される主題を他声部が繰り返しながら、追いかける

ように加わり展開する。主題とは、作品の中心となる旋律の事で、

フーガ形式を用いた楽曲といえば J.S.Bach の『フーガ ト短調』

が典型例。『canon(カノン)』というのは複数の声部が同じ旋律

を異なる時点から開始する演奏様式。Pachelbel の作品が有名。

 

「教えてください、主よ、わたしの行く末を わたしの生涯は

どれ程のものか いかにわたしがはかないものか、悟ように。」

 

(詩編 39:5)

 

 

御覧ください、与えられたこの生涯は僅か、手の幅ほどのもの。

御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに

立っているようでも すべて空しいもの。ああ、人はただ影のよう

に移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし だれの手に渡るとも

知らずに積み上げる。主よ、それなら何に望みをかけたらよい

のでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。

 

(詩編 39:6-8)

 

 

 

 

 

【第4曲】 Wie lieblich sind deine Wohnungen

     (如何に愛すべきかな 汝のいますところは)

 

 

 

引き続きダビデによる詩編が奏でられる。曲は下降する木管楽器

の序奏を受けて、合唱が対立的な旋律を歌い始める。先程の

「Selig」動機の変奏。フルートと弦が優美に触れ合う協奏部分。

ヴァイオリンの高音域の響きに低弦の豊かさ、そして天使の様な

コーラスが見事に調和しており、「あなたを常に讃える人 (die

loben dich immerdar) の箇所で『Die Doppelfuge(二重フーガ)』

が使用される。(第1主題と第2主題が順次に登場して両者が合致)

 

万軍の主よ、あなたのいますところは、

どれほど愛されていることでしょう。

 

(詩編 84:2)

 

 

主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。

命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。

 

(詩編 84:3)

 

 

いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことが

できるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。

 

(詩編 84:5)

 

 

 

【第5曲】 Ihr habt nun Traurigkeit

     (汝らも今は憂いあり)

 

 

 

まるで織物を想像させる伴奏に導かれながら、ソプラノ独唱が

「Ihr habt nun Traurig keit (あなた方は今は悲しんでいます)」

と歌われる。やがて転調して中間部となり音程が変化する場面では

憂いを含みながら悲しむ人達に歩み寄るかの様な表現が成される。

並行して合唱は「Ich will euch trösten (あなた方を慰めま

しょう)」と歌い、続いて「wie einen seineMutter tröstet

(母が子を慰めるように)」が独唱に重なると、天の声と母の声とが

二重写しにされるという神聖で透明感のある響きが聴こえてくる。

 

ソプラノ独唱を思う存分に味わいながら物想いに浸れる第5曲。

その背景では男性陣による歌唱が圧倒的に美しい土台を形成して、

更には女性陣による歌唱が全体を包み込む様に溶け込んでいく。

時折見られる音の跳躍には深淵たる神の息吹が込められており、

物静かなまま曲の終わりに至ると、舞台は第6曲へと展開される。

 

今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再び

あなたがたと会いあなたがたは心から喜ぶことになる。

その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

 

(ヨハネによる福音書 16:22)

 

 

母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。

 

(イザヤ書 66:13)

 

 

 

【第6曲】 Denn wir haben hie keine bleibende Statt,

     (我らここには 永久の地なくして)

 

 

 

第5曲とは雰囲気が変わり陰鬱な趣を漂わせている。思い詰めた

かの様に合唱は「我らここに永遠の地を持たず」と歌い始める。

主和音に解決しない不安定な状態のまま、転調したバス独唱の

「Siehe, ich sage Euch ein Geheimnis (見よ あなた方に奥義

を話しておく)」という場面を機転にして次第に音楽は厳しさを

増しながら、復活と再生の時の劇的な描写へと突入していく。

 

荘厳なラッパの響きに嵐の如くティンパニが強打された直後、

凄まじいヴァイオリン群の下降音が緊迫感を倍増させながら、

沸き起こる合唱が追い討ちをかけては劇的に舞台を昇華させる。

最後の審判、死者の復活という意味で非常に重要な楽章でもあり、

天を貫くかの様な合唱の高音域は震撼する程に圧倒的。映像の中

では最もリプレイ回数が多い場面。私自身も何百回と聴いてきた。

 

 

 

 

やがて死に打ち勝つと「Tod, wo ist dein Stachel? (どこに

あるのだ おまえの勝利は?)」と歌われるクライマックス。

レクイエム全曲を通して最大の局面。ヨハネの黙示録4章による

「Herr, Du bist würdig (主よ あなたこそ相応しい御方)」が

続くと、やがて140小節にも及ぶ渾身の大フーガにまで至る。

 

「Selig」の動機が木霊する主題は力強く、優美に或いは華麗に

展開されながら圧倒的な賛歌が繰り広げられる。立て続けに

「zu nehmen Preis und Ehre und Kraft,(賛美と誉れと力を)」

と繰り返しながら神を最大限に讃えており、第3曲の場面と同様

に輝かしいフォルテで終わりを告げる。マエストロによる圧巻の

締め括りが感慨深く、これぞ Brahms でありレクイエムの最高峰。

 

 

:ブラームス自筆 ドイツ・レクイエム歌詞:

 

 

 

わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、

来るべき都を探し求めているのです。

 

(ヘブライ人への手紙 13:14)

 

 

わたしはあなたがたに神秘を告げます。

わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。

わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。

最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。

ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、

わたしたちは変えられます。

 

(コリントの信徒への手紙① 15:51-52)

 

 

次のように書かれている言葉が実現する。

「死は勝利にのみ込まれた。」

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

死よ、お前のとげはどこにあるのか。

 

(コリントの信徒への手紙① 15:54-55)

 

 

「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、

栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。

あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し

また創造されたからです。」

 

(ヨハネの黙示録 4:11)

 

 

この世で人々が求めるべき真理とは何か。目に見える物質や

地位や名誉や金銭や欲望に心を奪われる事でもない。豪華に

着飾りながら外面を取り繕う事でもないはず。真の喜びとは

来るべき天の都を求めて神への賛美が沸き起こる信仰であると。

血肉の身体は神の国を相続できない。人間の身体は朽ちるもの。

死の方が勝ってしまう場合に、人は刹那主義や不道徳に陥り、

「金だけ今だけ自分だけ」という姿勢に偏ってしまう。

 

12弟子の1人である『洗礼者ヨハネ』は1世紀の終わり頃に、

地中海に浮かぶパトモス島に、その信仰の故に島流しとなり

孤独に暮らしていた。晩年を迎えたヨハネが諸教会に書き送った

神からの幻がこの黙示録である。黙示録というのは将来に関わる

希望を記すと共に、ローマ帝国時代の迫害により苦しみ続けた

キリスト者達を励ますという目的があるとも伝えられている。

 

暗号のような数字や想像するのも難しいような獣の姿などは、

言論の自由や表現の自由が完全に断たれた状況の中で、真理を

伝える手段でもあったと言われており、やがて訪れる再臨の時の

幻をヨハネは見て、その内容を書き記している。聖書中では他の

箇所において「私たち被造物は、どんなに力を持ったとしても

自分の髪の毛一本さえも自由にすることができない」とある。

神の偉大さと深淵さを褒め称えている重要な一説でもある。

 

 

:洗礼者聖ヨハネ (ダヴィンチ) :

 

 

 

 

【第7曲】 Selig sind die Toten, die in dem Herrn sterben,

     (主にあって死ぬ者は幸い)

 

 

 

Brahms の200年前にドイツ語によるレクイエムを作曲した

『Heinrich Schütz / ハインリヒ シュッツ』もまた、終曲では

ヨハネ黙示録の同じ章を取り上げている。そこで第7曲は合唱と

オーボエが「祝福されたる」を第1曲末尾の「慰められる」と同じ

音程の旋律で歌い、転調しては「労苦から解き放たれる」で表明

されるのは、Brahms の重要な命題である『救い』と『報い』。

 

冒頭を繰り返しながら小さなクライマックスを築いた後、第1曲の

最初が回顧されて円環が閉じるように「Selig」の響く余韻の中で

静かに音楽は消えていく。Brahms が求めた人生における究極の

解決が示さており「主にあって死ぬ者は幸い」という第1楽章冒頭

のテーマに対する解答である。キリストを信じて従い歩んだ後に

死んだ人は幸いであると Brahms は最後まで訴え続けている。

 

地上の人生の旅を終えた結末において、どのように生きたのかを

最後に問われる場面が訪れる。肉体の死だけが終わりではなくて

最終的には審判を待たなければならない。これがヨハネの思想で

あり死人とは最終審判を待つ人の事で、その審判結果により

全ての労苦から解放されると書かれている。Brahms は決して大声

を上げない。静かに「Selig sind die Toten」と囁きながら、

祈るように全楽章を閉じていく。これもまた Brahms の美学。

 

やがて死に対する恐怖は完全に払拭されて、永遠の安らぎに敬虔

な心を添えては、その時を迎えていく。神に向き合う事が人生。

 

von nun an. Ja, der Geist spricht, daß sie ruhen von

ihrer Arbeit; denn ihre Werke folgen ihnen nach.

 

主に結ばれて死ぬ人は幸いである 霊も言う 然り彼らは労苦を

解かれて安らぎを得る その行いが報われるからである

 

(ヨハネの黙示録 14:13)

 


Brahms という人物は愛国主義者でもあり「反ユダヤ主義は狂気の
沙汰だ」と知人に語っている。自然を愛しウィーン周辺の森を散策
する事が習慣で、その際にはキャンディを持参して子供達に与えた。
完璧主義な性格は徹底されており、現存する一部を除いては完成した
作品のスケッチや初稿の殆どは破棄してしまうのが常。晩年において
友人に昔の作品を処分するよう依頼しており、気難しい感じがある。
財政的な成功を収めた後も、Brahms は質素な生活を好んでいた。

 

以上が Brahms 作曲、ドイツレクイエムの聖書的解釈。

「Soli Deo gloria (神にのみ栄光を)」という究極的な主題を

J.S.Bach から受け継いでいるが故に、完璧主義な Brahms が

創作した史上最高峰の『Ein deutsches Requiem』である。

 

 

《参考文献》ドイツ.レクイエムの歌詞と音楽

      ブラームス ドイツレクイエム の歌詞研究