たとえ貴方がそう言ったとしても、私はリヒテルを聴くのです。
まだ東京に住んでいたころの話である。
秋葉原の高架下に、雑然と電気店が立ち並んでいた。その中の一つに、知る人ぞ知るといった趣きでH電気という小さな店が、雑多な店の並びに紛れるように構えていた。オーディオアクセサリーを売る店である。あるオーディオ雑誌に紹介されたことから、私の知るところとなった。
そこでケーブルを購入したときの一言が忘れられない。その店のNさんから「これで、いい音楽が聴けますよ」と言われたのである。それまで、さまざまなオーディオ店に行ったが、「いい音になる」と言われたことはあっても、「いい音楽が聴ける」と言われたことは初めてだった。本来、「音楽」を聴くための装置であるオーディオが、いつしか「音」を聴くための装置となってしまう。いわゆるオーディオ愛好家は、「音楽」を聴くのではなく、「音」の良さの追求に走ってしまうきらいがあり、その点でどうにも首をかしげてしまう場面に何度も遭遇してきたので、このNさんの一言は印象に残った。そして、この店は信頼できる店だと思った。
残念ながらH電気はまもなく閉店する。その後しばらくして、Nさんは秋葉原に近いある事務所の一角に自分のお店を構える。
私が東京を去ることが決まり、最後の挨拶がてらケーブルを買いにNさんのお店に行った。コーヒーをご馳走になりながら、Nさんと様々な話で盛り上がった。1950年代ごろまでの巨匠たちの音楽の素晴らしさ、私が小学生の時に生で聴いたマタチッチとN響のコンサートの思い出、オーディオの話…それらは、東京を去るにあたって、忘れ難い思い出となった。
Nさんは、この職に就いてから音楽を聴くようになったという。往年のピアニスト・リヒテルの演奏会を聴いたことがあると仰っていた。スヴャトスラフ・リヒテル。彼のコンサートは、一度でいい、生で聴いてみたかった。Nさんにそう申し上げた。
生で聴く感動にどれほど迫ることができるかわからない。しかし、幸いにして、リヒテルは多くの録音を残しており、名演の数々を部屋に居ながら偲ぶことができる。スケールの大きい、豪放磊落な表現から、繊細にして詩情溢れるニュアンスまで、幅の広い表現力をそなえた稀有のピアニストであった。
だが、私は、最近までリヒテルには良いイメージは抱いていなかった。音楽評論家・宇野功芳氏がリヒテルを評価していなかったから、という単純な理由である。なにごとも受け売りは良くない。そんなお手本かもしれない。
晩年の書においても、宇野氏はロシア物以外には高い評価を与えていない。「舞台姿は頑健な田舎の名士」という感じがしたという。「単に神経質なだけ」「鈍い」「大味」といった言葉が並ぶ(『クラシックCDの名盤 演奏家篇』文春新書)。
シューベルトのピアノ・ソナタ第13番についても、「いかにも気持ちをこめて弾いています、という演奏」と切って捨てている。
だが、たとえ宇野氏がそう言っても、私はこのシューベルトは素晴らしいと思う。まるでシューベルトの孤独の魂と向き合い、孤独の魂と対話しているような演奏。宇野氏の絶賛するリリー・クラウスのような、玉を転がすような美しさはないかもしれないが、生と死のはざまを行き来するような神妙さがこの演奏にはある。
東京を離れて3年。Nさんは元気で店を続けているだろうか。リヒテルの演奏を聴くと、あの頃の思い出がよみがえる。
