【わたしにとっての86日】


広島の街は騒がしくなってきました。

騒がしいという表現が適切ではないけれど、

またやって来たなという空気感です。

今日は通勤のバスから、デモをしている人や街宣車が数台見ることができました。






わたしの職場の前のビルの中では、

原爆にまつわる展示をされていて、

朝からビラを配ってる方がいらっしゃったので、見に行ってきました。









壁一面には、新聞風の記事が100枚以上あって、

手に取れる距離にサビた爆弾や服、お弁当箱などが展示。

すべての記事に英訳がつけられていたのもあり、外国人の方もいらっしゃいました。

この準備をするのも、とても大変だったと思います。








戦争については、色んな解釈があります。

そして、中学校から広島に来たわたしは、

あまり戦争には詳しくありません。

(広島は小学校から平和学習が盛んです)




父も母も、祖父母がまったく原爆の日のことについては語らなかったので、あまり知らないです。

ホントに自分の体験を語る、語り部さんたちはすごいと思います。





詳しくないから、語りたくなかったんですが、

自分の思いを出すのは自由なので、少し書きたいと思います。






わたしは、

広島生まれ広島育ちの両親のもとに生まれました。

母方の祖父母はまだ結婚する前。

広島の市街地から離れた場所に住んでいました。


86

母方の祖母はいつもなら爆心地から徒歩10分ほどの工場で働いていました。 

しかし、その日はちょうどお腹を壊して、トイレに行っていて、いつもの電車を乗り過ごしました。



母方の祖父は、日交替の勤務で、その日たまたま爆心地に出向いていませんでした。



もし、祖母がお腹を壊さなかったら、

我慢してトイレに行かなかったら、

原爆が落ちる日が1日ずれていたら、

わたしはこの世には生まれていませんでした。




わたしが

いま

ここに

生きているのは、本当に小さなちいさな奇跡の連続です。




そして、

父方の祖父母も戦時中に3人の子どもを亡くし、地獄絵図のような広島の街に長男を探しに行き、失意の中にもかかわらず、父を産み育ててくれました。





わたしにとって86日は、

生きている方が辛いんじゃないかと思うような光景を目の当たりにしながらも、生き抜いてくれた祖父母や周りの人たち。


本当に原爆が落ちたのか⁈と疑いたくなるくらいにキレイな街を再建してくださった広島の方たち。


すべての人々に感謝する日です。