以前、Facebookで
少しだけ心が疲れてしまった出来事があった。

同じ趣味の方から友だち申請が届き、
挨拶のメッセージがあり、
私は一般的な社交の範囲で、丁寧に返事をした。

やり取りが続きそうな気配を感じたとき、
私は正直に
「普段はメッセンジャーで頻繁にやり取りをしない」
という自分のスタンスを伝えた。

それでもメッセージは続き、
返事をしないでいたら、

「読んだのに返事をしないのは失礼だ」
「何か悪いことをしたのか」
そんな強い言葉が、立て続けに届いた。

その出来事で、
Facebookという場そのものが
少し苦しくなってしまった。


当時の私は、

「申請してくれたのだから」
「メッセージをくれたのだから」
「せめて返事くらいはしなくては」

そう思っていた。

返事がなくて寂しかった経験。
スタンプひとつが嬉しかった記憶。
忙しい人の立場を想像して、納得しようとした過去。

それらが重なって、
返事をすること=誠実さ
のようになっていたのだと思う。


でも、あるとき気づいた。

理由が「見える人」だけでなく、
理由が「見えない人」にも、
同じ権利は最初からある、ということに。

返さない自由。
距離を取る自由。
黙っている自由。

それらは、
説明や正当化がなくても
本来は許されているものだった。


私は、
「理由を見せなければ」
「ちゃんとした在り方でいなければ」
と思い込んでいたのかもしれない。

それはきっと、
自分の感情や状況を
無視されてきた記憶があったから。

理由がなければ、
受け取ってもらえない。
説明できなければ、
存在を許されない。

そんな幼い頃の感覚が、
まだ静かに残っていたのだと思う。


でも今は、少し違う。

自分が落ち着く距離。
自分が黙っていたい時間。
関わらない、という選択。

それらを
無理に説明しなくてもいい場所を、
少しずつ持てるようになってきた。

だから、あのとき疼いた感情は、
傷が深いからではなく、
癒え始めたからこそ動いた感覚
だったのかもしれない。


理由は、
存在するための条件ではない。

説明は、
後から必要になったときに
添えればいいもの。

理由が見えなくても、
私は在っていい。

そう、
何度でも思い出せるように。