日本法制史ノート1~古代 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 自民党の日本国憲法の改正草案をみてみると、まず全面変更しているのは前文で、現行憲法では国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の3つの基本原理が取り上げられています。
 海外での紛争の大半は、武力を背景に強者か多数派が、弱者か少数派を抑圧し、それに反発する構図で発生しており、これら3つの基本原理がないことがわかります。
 つまり、現行憲法は、紛争国ほど手本にすべきで、前文にはどの国でも通用する理想的・普遍的な原理を取り上げているのが特徴です。
 一方、改正草案の前文は、おおむね日本を説明した文章のようにみえ、その中に日本の歴史・文化・伝統等を盛り込もうとしているようですが、実際は曖昧な文言となっています(「長い歴史」「固有の文化」「良き伝統」)。
 これは、大日本帝国憲法作成の際に、伊藤博文がドイツの法学者から「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚すべきで、そのためにはその国の歴史を勉強せよ」と助言されたことを想起させますが、それで伊藤はドイツ・プロイセン憲法を手本にしますが、内容には歴史・伝統・文化は一切みられません。
 それは、帝国憲法制定の理由が、欧米諸国との不平等条約撤廃・改正が目標だったからで、近代国家の一員になり、欧米列強と対等になるため、あえて取り入れず、現行憲法もそれを継承しており、歴史・伝統・文化には多様な見方があるので、抽象化すれば取るに足らず、具体化すれば押し付けになります。
 そのうえ、日本の歴史・文化・伝統は、原始の「縄(=縄文)魂弥(=弥生)才」、古代・中世の「和魂漢(=中国)才」、近代の「和魂洋(=欧米)才」と、外来の先進性を摂取する中で、独自性を発揮しており、常時変化・変動することが多様な発展につながっています。
 また、改正草案の前文には、儒教的な道徳も混ぜ込まれていますが(「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って」)、そもそも家族・郷土・国家等の共同体への感情は多様なのに、それを断定することに違和感があります。
 さらに、改正草案の本文には、個別的な「個人としての尊重」が、一般的な「人としての尊重」へ、個人の人権どうしを調整・保障するための制約である明確・具体的な「公共の福祉」が、為政者の都合で解釈・濫用できる曖昧・抽象的な「公益及び公の秩序」へと書き換えられています(13条)。
 「公共の福祉」は、個人の人権どうしが衝突してはじめて、協議で合意・裁判で確定し、その過程が可視化され、その結果の蓄積が公共の秩序となりますが、「公益及び公の秩序」は、あたかも以前から公共の秩序が存在・公共の利益が明白かの印象を植え付け、それが個人を安易に規制しそうで危険です。
 人々の価値観が多様になった近年、公共の秩序・公共の利益も複雑になっているにもかかわらず、短絡的に単純化するのは暴挙です。
 それとともに、改正草案の本文には、家族の尊重と助け合いが付け加えられており(24条)、個人の尊重を弱体化し、共同体(家族・郷土)や社会の秩序を強化していますが、それらの背後には、「法規による統治=法治」だけでなく、「道徳による統治=徳治」を加味しようとしていることが見え隠れします。
 
 そこで、ここでは日本史上の憲法的な法規を、法治・徳治の両面にも注意してみていくことにします。
 
 
●飛鳥期
 
○604年「十七条憲法」作者不明
:法規というより、大和政権の豪族・官僚への道徳的訓戒、政治的服務規程で、人民は対象外
※推古天皇(33代)の命令で、聖徳太子(厩戸皇子、推古の兄か弟の子)の制定が有力
※推古天皇+聖徳太子+大臣(おおおみ)・蘇我馬子(推古の母の兄)が政権を主導
※当時は、各豪族がそれぞれの私有地・私有民を統治しつつ、大王(天皇)がその豪族達を統率する連合政権(二重構造)から、有力豪族の蘇我氏が突出するようになった時期で、天皇中心の中央集権(公地公民)が本格化するまでの過渡期
※第1次遣隋使を派遣したが(600年)、隋の文帝に倭国の政治が未熟で接見の衣装が無礼だと非難され(『隋書』東夷伝倭国条、日本の史料はなし)、国際社会で通用しないことを痛感し、帰国後には十七条憲法とともに、冠位十二階の制定(603年)・飛鳥小墾田宮(おはりだのみや)の造営(603年)・国史の編纂(620年)等で政治改革
※憲法に仏教を取り入れたのは、仏のもとに人々が平等なのと同様、天皇のもとに豪族・官僚を一元化させるためと、私利私欲(煩悩)を捨て去るため
※憲法に儒教を取り入れたのは、中国の儒教では、道徳に有能な有徳者が政権を主導すれば(徳治)、国家が繁栄するといわれているから
※中国では、隋・唐から律令制が本格化し、儒教(儒家)由来の徳治に、法家由来・秦以来の刑罰による法治を組み合わせることで、国家を統治したが、日本では、なかなか刑罰が成文化されずに大宝律から(近江令・飛鳥浄御原令には、律なし)
※全17ヶ条(「日本書記」に記載)、漢文体
・1条:協調・親睦(和)を大切にして議論せよ(『論語・学而篇』の「礼の用は和を貴(とうと)しと為(な)す」からの引用、礼には和が大切だ)
・2条:仏教の三宝(仏・法・僧)を崇敬せよ(仏教の影響)
・3条:臣下(豪族・官僚)は主君(天皇)に服従せよ(儒教の五倫の「君臣の義」)
・4条:礼節・礼儀(礼)を基本にせよ(礼は儒教の五常の1つ)
・5条:訴訟を公平に裁定せよ
・6条:勧善懲悪を徹底せよ
・7条:各々の任務を忠実に遂行せよ
・8条:朝早くから夕遅くまで勤務せよ
・9条:真心(信)を根本に正義(義)を徹底せよ(信と義は儒教の五常の2つ)
・10条:怒りを捨てよ(仏教の煩悩除去)
・11条:官僚の功績・過失によって賞罰を適正に実行せよ
・12条:国司・国造は人民から不当に徴税するな
・13条:自分の職務だけでなく、同僚の職務も熟知せよ
・14条:他人を嫉妬するな(仏教の煩悩除去)
・15条:私心を捨て去って公務に専念せよ(仏教の煩悩除去)
・16条:人民を使役する際には季節に配慮せよ
・17条:重大な決定はみんなで議論して判断せよ(1条へ回帰)
 
○689年「飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)」
:日本初の法規だが(38代・天智天皇の時代の近江令は、存在が不確実)、律(刑法に相当)はなく、令(行政法・民法に相当)のみ
※天武天皇(40代、途中で死去)+皇后(のちの41代・持統天皇、天智の娘、途中で死去)の命令で、681年に編纂を開始し、文武天皇(42代)の時代(689年)に完成
※兄・天智天皇の死後、弟・大海人皇子(のちの天武天皇)が反乱(壬申の乱・672年)で天智の息子・大友皇子(39代・弘文天皇)から政権を奪取し、中央集権制が加速化、政権の中枢が一掃されたので、天皇+皇族による専制政治(皇親政治)と官僚機構の制度化が推進
※天武天皇は、飛鳥浄御原令の施行とともに、藤原京の造営を着工(690年)・国史(『古事記』『日本書紀』)の編纂を開始(681年)
※全22巻(現存せず)
 
◎律令法
:中央集権制(公地公民制)下の法規
 
○701年「大宝律令」刑部親王(おさかべ/忍壁しんのう、天武の子)+藤原不比等(鎌足の次男)ら編
:日本初の本格的な律・令
※飛鳥浄御原令の制定後も、律令編纂は継続され、文武天皇(42代)の時代(701年)に完成
※全国一斉に施行するため、朝廷は明法博士を派遣して各地で講義
※全17巻(律6巻・令11巻、現存せず)
※大宝律は、唐の律を参考にしたと推測
※大宝令は、868年頃に惟宗直本(これむねなおもと)が私撰した養老令の注釈書「令集解(りょうのしゅうげ)」で一部が推定可能
 
 
●奈良期
 
○757年「養老律令」藤原不比等(途中で死去)+藤原仲麻呂(藤原南家の始祖・武智麻呂の次男)ら編
:大宝律令の修訂
※元正(げんしょう)天皇(44代)の命令で編纂を開始し、孝謙天皇(46代)の時代(757年)に施行
※平安中期には荘園の発達で形骸化したが、江戸末期まで存続
※全20巻(律10巻12編・令10巻30編、現存せず)
※養老律は、唐の律を参考にしたと推測
・養老律の巻1:名例(めいれい、刑罰法例)律の上巻
・巻2:名例律の下巻
・巻3:衛禁(えごん、宮城の警備・関所の守固)律、職制(しきせい、官僚の服務規程)律
・巻4:戸婚(家族・婚姻)律
・巻5:厩庫(くこ、馬屋・牧場・倉庫)律、擅興(せんこう、軍事・土木の動員)律
・巻6:賊盗(ぞくとう、謀反・大逆・殺人・呪詛/じゅそ・強盗・窃盗・略奪)律
・巻7:闘訟(傷害・誹謗/ひぼう・訴訟手続)律
・巻8:詐偽(さぎ、主君の信用・名誉失墜)律
・巻9:雑(ぞう、その他)律
・巻10:捕亡(ぶもう、犯人の逮捕手続・逃亡・隠匿)律、断獄(囚人の取り扱い・審理手続・恩赦・刑の執行)律
※養老令は、833年に編纂された淳和(じゅんな)天皇(53代)の命令による令の解説書「令義解(りょうのぎげ)」と「令集解」で大半が推定可能
・養老令の巻1:官位(位階・官職)令
・巻2:職員(しきいん、官僚)令、後宮(ごくう、天皇の配偶者)職員令、東宮(皇太子)職員令、家令(けりょう、天皇の家政機関)職員令
・巻3:神祇(国家祭祀)令、僧尼(そうに、男の僧・女の尼)令
・巻4:戸(戸籍)令、田令、賦役(ぶやく、課税)令、学(中央の官僚養成の大学・地方の学校)令
・巻5:選叙(位階・官職の授与と官僚の人事)令、継嗣(けいし、皇族の範囲・婚姻・後継)令、考課(官僚の勤務評定)令、禄(貴族・官僚の給与)令
・巻6:宮衛(警備)令、軍防(軍事)令
・巻7:儀制(儀式・儀礼)令、衣服令、営繕(施設・物品整備)令
・巻8:公式(くしき、公文書・法規の様式)令
・巻9:倉庫令、厩牧(くもく)令、医疾(医療・疾病)令、仮寧(けにょう、官僚の休暇)令、喪葬(そうそう、陵墓・葬儀)令
・巻10:関市(げんし、関所・市場)令、捕亡令、獄(刑事裁判・刑の執行)令、雑令
 
 
●平安期
 
○830年「弘仁(こうにん)格式」藤原冬嗣(内麻呂の次男、藤原北家の始祖・房前のヒ孫)・編
:基本法典の律・令は改定せず、格(きゃく、補足・修正した法令)・式(施行細則)で対応
※嵯峨天皇(52代)の命令で、701~819年の格・式を編纂し、830年に施行、不備が発覚して840年に改正
※嵯峨天皇は、令に規定されていない新官職(令外官/りょうげのかん)として、天皇直属の秘書機関の蔵人所(くろうどどころ)や、平安京内の警察+司法機関の検非違使(けびいし)を設置(810年)
※蔵人所の実質責任者である蔵人頭(くろうどのとう)には、嵯峨天皇の側近だった藤原冬嗣らが任命
※格は、詔勅(しゅうちょく、天皇の意思を表示した文書)・官符(太政官が管轄下の諸官庁・国衙/こくが=国司が政務する地方機関へ発布した公文書)・官奏(太政官から天皇へ奏上した文書)等
※弘仁格は全10巻(一部現存)、官庁別に分類
・弘仁格の巻1:神祇官(国家祭祀・神事)・中務(なかつかさ)省(天皇補佐・宮中事務)
・巻2・3:式部省(文官人事・学校)
・巻4:治部(じぶ)省(貴族対応・仏事・雅楽・外交)
・巻5~7:民部省(民政・徴税)
・巻8:兵部省(武官人事・軍事)
・巻9:刑部省(裁判・刑罰)・大蔵省(財政・貨幣)・宮内省(宮中生活)・弾正台(だんじょうだい、監察・警察)・京職(きょうしき、都の行政・警察・司法)
・巻10:雑格(その他)
※弘仁式は全40巻(一部現存)
 
○869・871年「貞観(じょうがん)格式」藤原良相(よしみ、冬嗣の五男、途中で死去)+藤原氏宗(房前の玄孫)・編
※清和天皇(56代)の命令で、貞観格は869年、貞観式は871年に施行
※応天門の変での大納言・伴善男(とものよしお)の失脚直後、太政大臣・藤原良房(冬嗣の次男、清和の母の父)が摂政に就任し(866年、皇族以外で初)、政権を主導
※貞観格は全12巻(現存せず)、820~868年の重要な詔勅・官符・官奏等を官庁別に分類
・貞観格の巻1:神祇官・中務省
・巻2~4:式部省
・巻5・6:治部省
・巻7・8:民部省
・巻9:兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省・弾正台・京職
・巻10:雑格
・巻11・12:臨時格(追加分)
※貞観式は全20巻(現存せず)
 
○908・967年「延喜(えんぎ)格式」藤原時平(良房の養子・基経の長男、途中で死去)+藤原忠平(基経の四男)・編
※醍醐天皇(60代)の命令で、延喜格は908年、延喜式は967年に施行
※醍醐天皇は、摂政・関白を設置しなかったが(延喜の治)、実際は左大臣・藤原時平と右大臣・菅原道真が政権を主導したが、道真は時平の陰謀で大宰府へ左遷(901年・昌泰の変)
※10世紀中頃の醍醐天皇から村上天皇(62代)の時代(天暦の治)にかけて、朝廷は中央集権を断念し、国司は朝廷に一定額を納税すれば、国内を自由に統治してよくなり、徴税は国司の裁量になったので、国司達は従来の管理が煩雑な個人への課税から、管理の容易な土地への課税へ転換したので、これ以降は律令制が形骸化
※延喜格は全12巻(現存せず)、869~907年の重要な詔勅・官符・官奏等を官庁別に分類
・延喜格の巻1:神祇官・中務省
・巻2・3:式部省
・巻4・5:治部省
・巻6・7:民部省
・巻8:兵部省
・巻9:刑部省・大蔵省・宮内省・弾正台・京職
・巻10:雑格(その他)
・巻11・12:臨時格(追加分)
※延喜式は全50巻・約3300条(ほぼ現存)
※延喜式の巻1~10は神祇官関係、巻11~40は太政官8省関係、巻41~49はその他の官庁関係、巻50は雑式(その他)
 
(つづく)