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小説『営業SMILE』文庫用再編集ブログ

文庫本を作る前の再編集用です。ご興味のある方は、http://ameblo.jp/eigyou-smile/ をごらんください

「いらっしゃいませ。あれ? 今日は随分遅い御来店ですね」
 
エレベーターを下りてすぐの重厚な扉を開けると、聞きなれた優しい口調で迎え入れられる。バー・Drワトソン。片町で飲んだ時の締めには、やはりここのカクテルが外せない。ブツブツと呟く雄司を完全に無視したまま東山はカウンターのいつもの席に腰を下ろした。
 
「スティンガーを……」
 
チーフは静かに頷くと、シェイカーを手に取り用意を始めた。
 
「なぁ、腹減った」
 
最高の一時を今から過ごそうとしていた東山の気分を一気に折ってしまう雄司の一言。深い溜息をつくと、投げやりにマスターにも注文をする。
 
「マスターごめん。こいつにはガーリックライスを」
 
いつも寡黙なマスターはこの日も声を発することなく目で注文の受領を確認すると、奥のキッチンスペーズで調理を開始した。暫く無言のまま煙草を吹かす二人。雄司は詩織の事を。東山は愛華の事をそれぞれ考えていた。その思考内容は違うとはいえ、結局二人とも考えている事はキャバクラ嬢の事である。傍目から見ればバーで真面目に何かを考えているようにも見えるのだが、そんな二人を鋭く見透かす女性がいた。
 
「二人とも渋い顔をしているけど……、女の子の事を考えているでしょう?」
 
明日香がガーリックライス用のスプーンと取り皿を二人の下へと運んで来た。他人の色恋話が大好きな彼女は、この二人を本日の獲物としたようだ。さすがは昔ここ片町のトップホステスであっただけに、人間観察力には恐れ入るものがある彼女。逆に言えば、悩み事があった場合に頼りになる存在とも言える。非常に厳しい意見で突っ込まれるのが玉に瑕だが……
 
「さすがは明日香さん。鋭いね。雄司が今日お気に入りのホステスさんと喧嘩して不貞腐れているんだよ」
 
すかさず友人を狩人に獲物として差し出した東山。自分は第三者になるつもりらしい。案の定彼の思惑通りに明日香が雄司の話に興味を引き始めた。彼女は一度カウンターの中に戻ると、二人の前にやって来て満面の笑みを漏らす。腰をすえて話を聞くつもりのようだ。
 
「で? 喧嘩の原因は何なの? まあ……なんとなく分かるけど」
 
雄司を挑発するように鼻で笑う明日香。彼は簡単にその誘いに乗ってしまう。
 
「なんかむかつく。どういう理由だって分かるんだよ?」
 
とても三十路越えとは思えない発言。ムキになった子供のように雄司は明日香に問いかけ直した。
 
「その子供っぽい所。その娘に対して、また大人気なく拗ねたりしたんじゃないの?」
 
普段明日香に厳しい事を言われ続けているチーフと東山。二人は思わず今の発言に耐え切れずに吹き出す。言葉につまる雄司を見て、明日香の洞察力の恐ろしさを再確認したようだ。その対象が自分達では無かったので、その光景を楽しんでいるのであろう。
 
「俺は何も悪くないし。詩織がいちいち突っかかって来るんだよ」
 
「ほらほら。そうやって私の言った事にもすぐに熱くなる。まだまだ余裕がないのよ。女の子を相手にする時はもっと冷静に駆け引きしなきゃ。互いにそれを楽しむくらいにね」
 
「……」
 
明日香の恋愛講座が進む中、東山は注がれたスティンガーを口に運ぶ。彼は雄司達二人を酒の肴にチーフと会話を楽しみ始めた。
 
 
 スティンガーのグラスを置くと、東山はピーナッツを手に取りそれを割り始める。取り出したナッツを口に運び、その歯ごたえをゆっくりと楽しんでいた。肘がぶつかる程の、それくらい近くにある空間とは全くと言って違う程の穏やかな空間。チーフもいつもの雰囲気を取り戻している。カウンターの奥で少ししゃがみこみ煙草に火をつけると、その煙の行き先に細心の注意を払いつつ一時の休息を取っていた。
 
「最近一樹さん頻繁に片町に戻ってこられるようになりましたね」
 
煙草の火を消したチーフがふとそのような事を口にする。その表情から読み取るに、決して悪い意味で言っているわけではない事が彼にも理解できた。
 
「そうだね。富山に転勤になってからは、半年に一回くらいしか来る事が出来なかったから」
 
「私といたしましても遠くに行ってしまわれた常連のお客様のお顔を、再びこうやって見る事が出来るのは嬉しい事です」
 
「たぶんこれからはこのペースが続くと思うよ。もうあっちも限界でね。やっぱり金沢にくると癒されるんだよ」
 
「理由はそれだけですか? 何か楽しい事を見つけられたとか?」
 
グラスを棚へと片付けるチーフは、背中越しに鋭い意見をさらりと投げつけてきた。表情が見えなかっただけに、その返答に一瞬言葉がつまる東山。残っていたスティンガーを飲み干すと、煙草を手に取り淡々とした口調で答える。
 
「……いや、別に。ただ多感な時期を過ごした金沢が大好きなだけだよ。それと、雄司が嫁さんに逃げられて寂しい思いをしているからさ」
 
「御友人思いです。そういう事ならぜひこれからも戻って来なければ……ですね」
 
「本当に」
 
この時僅かだが、東山の目が泳いでいた事にチーフは鋭く気付いていたのだろう。何かを胸のうちにしまいこんだまま話を流してくれていた。
 
「チーフ。俺の酒は?」
 
明日香にすっかりと言いくるめられたのか。反論が出来ずにいた雄司がこっちの空間へと逃げ出して来る。横を見ると明日香が勝ち誇った顔で笑っていた。
「詩織さん久しぶり。俺の顔に何か付いている?」
 
不思議そうな表情で彼を見つめる詩織に東山が問いかける。一瞬詩織は口を開きかけたのだが、舌の上までやって来ていた言葉をそのまま飲み込むと、何事も無いかのように笑ってその場を流した。
 
 
 
 丁度詩織がやって来てから二十分程が過ぎた頃。黒服が延長を伺いに席までやって来る。当初不貞腐れていた雄司も、この時にはすっかりと笑顔に戻っていた。そのまま延長する事を黒服に告げると、再び詩織と楽しそうに話し出す。すぐに拗ねる所もすぐに機嫌が直る所も、彼が何時までたってもガキである証拠に違いない。
 
「ところで雄司さん。一つ聞いてもいい?」
 
一つの話題に区切りが付いた頃、詩織は他の二人に聞かれないようにと雄司の耳元で囁く。
 
「どうした? 真面目な顔して」
 
彼女の様子を察した雄司が同じように小さな声で答える。そんな彼に詩織が問いかけてきたのは、やはり東山の今日の行動についてであった。彼女曰く自分ではかなり男を見る目があったとの事なのだが、今日の東山に関しては見誤ったという。
 
「絶対に東山さんは愛華ちゃんに逢いに来ると思っていたのに。男って所詮そんなものなのかな……。彼は誠実そうに見えたんだけど」
 
深い溜息を漏らす詩織。そんな彼女に雄司は、相変わらず流れの読めていない余計な事を付け加えて話し出す。
 
「お前は客でくる男になに理想を求めているの? キャバクラに来るような男にそんな誠実な奴なんて居ないって。大体今日はあいつ……」
 
一応雄司はこの時東山が理奈を指名するに至った経緯を話そうとしたのだが、どうやらまた言葉を選びそこなったようだ。詩織は雄司が話し終えるのを待つことなく怒った形相で口を挟む。
 
「じゃあ雄司さんも誠実な男ではないって事だ。私も適当な夜の女なんだ。そうだよね。亜由美ちゃんもいることだしね」
 
手元にあったグラスの中のアルコールを一気に飲み干すと、詩織は雄司の許可を得ることなく黒服にお代わりをお願いした。必死に言葉のアヤを訂正する雄司を見て東山と理奈はただ暢気に笑っている。
 
「良く分からないけど、形勢は見事に詩織さんへ軍配があがったね」
 
楽しそうに話す理奈に対して、東山は同じ男として情けないとばかりに溜息をつく。理奈は慰めるように東山の肩を叩いていた。今日はこのまま楽しい時間が過ぎていく。そのはずだったのだが……。
 
 
「ああ。先輩達来ていたんだ。久しぶりです」
 
 
一瞬テーブルの横を足早に過ぎ去った一人のキャスト。雄司と東山二人の存在に気付くと、急ブレーキをかけ声をかけに戻ってきた。何が起こったのかすぐには理解できなかった東山。
 
「詩織さん、またいつでもヘルプで呼んでくださいね。それじゃあ」
 
彼女はペコリと頭を下げると奥へと走っていった。
 
「あれ? 愛華ちゃんの事知っているんだ。私の昔からの友達なんだよ」
 
当然のことながら状況を何も知らない理奈は、友達の登場に嬉々として話し出す。どうやら彼女が言っている事は本当の様で、裏の無い楽しそうな笑顔で色々と話してくる。ただそんな彼女とは相反して、まさに言葉通り心ここに在らずの東山は、ただ形式的に頷いているだけであった。次元と呼ばれている黒服は確かに愛華は休みだと言っていた。ひょっとしたら自分達が入った後に急遽出勤したのだろうか? 東山の頭の中であらゆる考えが巡り出す。そんな彼を無理やり現実に引き戻すかのように冷たい言葉が飛んできた。
 
「東山さん今日はどうしたのかな? 何か間違っていない?」
 
酔っ払って言葉足らずではあるが、詩織が東山に絡んでくる。心なし目が据わっている様子の彼女。この前の雄司と詩織の会話など何一つ知ることの無い東山は、ただその鋭い視線に訳も分からず動揺するのみであった。
 
「え……? いや、俺何か悪い事していたの?」
 
いきなりの展開にたじろぐだけの友人が哀れに見えたのか。雄司は詩織を引き戻すと、今日の経緯を理奈に聞こえないように説明し始める。もちろん亜由美の所に行っていた事だけはしっかりと削除しての事だが、今日東山が愛華に逢いたいが為に金沢に来ていた事はしっかりと強調しての説明である。
 
「えっ? 次元の馬鹿そんな事言っていた?今日は最初から愛華ちゃんいたのに」
 
「だからフリーで入っていたんだけど……。あいつ今日でフェンディーに来るのは二回目だろ? 最初の理沙への場内指名は許されるにしても、ルールを知らなかったとはいえさすがに今回も場内入れたら……」
 
「そりゃあキャバクラは永久指名ではないよ? でも、あんまり指名変えを繰り返す客は……」
 
「客は?」
 
「店のキャスト達から嫌われるわね。どうして教えてあげなかったの? 本当に駄目ね」
 
「駄目ってなんだよ? 知らん。気付いたら場内入れていたし、そこまで面倒見てられないよ」
 
「最低……」
 
「最低な男ですみませんね」
 
何時の頃からかは分からない。最近の雄司と詩織はふとした事で言い合うようになっている。最初出会った頃に比べると、本当に二人とも変わってしまっていた。雄司に関しては変わったというよりも、素直な自分を出せるようになってきただけなのだろう。ただそれが良い変化なのか悪い変化なのか……。もっとも当の本人は変わったことにすら気付いていないに違いないが。最初は二人とも小声で話していたので何も見えていなかったのだが、次第に声が大きくなった為東山もその言い争いがただならぬ状態である事に気付き正気を取り戻す。しかし時既に遅し。もはや仲裁に入る余地は無かった。そんな中一緒に様子を見ていた理奈はニコリと笑うと東山に言う。
 
「この二人本当に仲がいいよね?」
 
この状況を見て何を言い出すのかと戸惑った東山ではあったが、そんな彼に理奈は続ける。
 
「喧嘩するほど仲が良い……って言うじゃない。キャバクラでここまで言い合える人達って普通いないよ。一方的に切れる事はあってもね」
 
「そうかもしれないけど……」
 
雄司達の言い争いは結局黒服が時間を告げに来るまで続いた。ハラハラとしている東山とは対照的に、理奈はその様子を最後まで笑いながら見ていた。
 
 
 今日の争いの張本人。もっとも本人はそんな事など知る由もないのだが、結局その愛華嬢が席に現れたのはあの時一度きりであった。東山も席を立つ時に周りを見渡すのだが、その姿を確認する事は出来なかったようだ。雄司と詩織は結局今日仲直りする事も出来ず、エレベーターを待つ間にも微妙な緊迫感を漂わせたままであった。半ば強引に雄司を扉の中に引っ張りこむ東山。そっぽを向いてしまった詩織に突っかかろうとする彼をなだめつつもオロオロとするしかない。そんな彼に理奈は何事も無いかのように手を振っていた。
 
 
 
 深夜一時三十分。街中はまだまだ賑わいを見せている。妙にテンションの高い男一人と、テンションの低い男が一人。そんな二人は人ごみを抜けてアールビルの角からいつもの路地裏へと曲がっていく。その視線の先には灯りのついた一つの看板があった。
一瞬耳を疑う。確かに出勤日を確認していたわけではなかったのだが、稼ぎ時の週末なだけに安心していたというのが本当のところ。そんな呆然と立ちすくむ東山を放ったらかしにしたまま、雄司と次元は店に向かって歩き出した。少し進んだ所で立ち止まると、振り返り一言だけ声をかける。
 
「なにやってるの? いくぞ」
 
飼い主に引っ張られる犬のようにとぼとぼと足を進める東山。その姿は心なしいつもより小さく感じられた。
 
 
 
 今日のフェンディーはいつもより込み合っているようであった。珍しくいつものソファーとは違う対面四人すわりのテーブル席に通されると、二人はそこに腰を下ろす。シートもそうであったが、雄司の行動にも少しいつもと違う様子が見られる。なんとなくソワソワとしているそんな彼。対照的にその様子を見ている東山は肩を落としていた。
 
「いらっしゃいませ。珍しく間が空きましたね」
 
「一言余計だよ。街宣に出ていないと思ったら込み合っていたんだね」
 
声をかけて来たのはフェンディーの店長である徹也だった。彼の性分なのか、どちらかと言えば普段店の中にいるよりも街宣に出ている事が多い。正直頼りになるとは言い難い次元に街宣を任せていたのは、今日十分に客が入っているからなのだろう。
 
「詩織……、今日はもう来ているよね?」
 
黙っていても雄司が詩織を待っている事など、フェンディーのスタッフならば誰でも知っている事。それでも今日の雄司は確認してしまう。前回一見開き直ったような行動を取っていた彼ではあったのだが、やはりどこかで詩織に逢いたくて仕方がなかったのだろう。しかしこの暫く空いてしまった時間。詩織もただ日々を過ごしていたわけではなかった。
 
「すみません。ちょっと今日は見ての通り込み合っておりまして……。少しお時間を下さいね」
 
徹也の発言を意外に思う雄司。いつもなら自分がフェンディーに入ればすぐにでも飛んできてくれる彼女だったのだが……。
 
「指名被ってる?」
 
「……。今ヘルプが参りますので」
 
そう言って頭を下げると徹也は奥へと去っていった。薄暗い店内を見渡す雄司。目を凝らすうちに、奥のシートに詩織の姿を発見する。見たことも無い年配の男性の横で楽しそうに笑っている彼女。キャバクラに限らずこういった水売りの店では当たり前の光景。亜由美にしても指名が被ったりした時には、平気で雄司の席から離れる事もある。だがこの時雄司には不思議な嫉妬感のようなものが生まれていた。それはまだ本人にも気付かない程度の小さな炎……。
 
「どうした雄司。指名ぐらい被るだろ?いいじゃん、いるだけ……」
 
完全に脱力感で満たされている東山には、キャストを待っている間の一杯の麦酒でさえ酔っ払うには十分のアルコールであった。
 
「俺の横にはいないけどね……」
 
考えて発した言葉なのか? 東山にも聞こえないくらいに小さく囁かれた言葉。雄司は珍しく焼酎のお湯割りを一気に飲み干すと煙草に火をつけた。
 
 
 席に座って十分が過ぎる。込み合っているのと相まって、キャストの絶対数不足がこの日のフェンディーをマイナス営業にしていた。この状態で店に入れた次元の要領の悪さを感じる。二人の席にもなかなかヘルプ嬢がつかない状態。だが愛華という目的が無くなりヤル気を無くしている東山と、詩織の指名被りに苛立つ雄司。無言で酒を飲んでいるこの状況を打破してきたのは意外にも雄司の方からであった。
 
「なあ、東山。お前今日愛華を指名するつもりだったよな?」
 
「そうだよ。いなかったけどね」
 
「この間指名していた理沙って娘覚えている?」
 
「理沙?誰だっけ、それ……」
 
「いや、気にするな。聞いてみただけだよ」
 
「そうか……」
 
雄司が何を言いたかったのかを理解できなかった東山ではあったが、その事を深く考える事ができないくらいに無気力になっている。一方雄司はある事を伝える前に話を切っていた。この時の雄司に心のゆとりがあったのならば、いつものようにキャバクラにおける心得なんかを語っていたのだろうが……。
 
「失礼します」
 
見事なハモリを披露したキャストが二人、やっとの事で男祭りだった席にやってくる。雄司も見た事がないというそのキャスト達。一人は詩織のヘルプという事からか、名を名乗る事もなく雄司の横にさっさと座る。
 
「ごめんね。詩織さんもう少ししたら来ますから」
 
そう言って焼酎のお湯割りのお代わりを作り出す。そんな彼女の仕草を何気なく見ていた東山だったのだが、ふと自分に向けられている視線に気付き振り向いた。席の横で名刺を両手に持った細身の女性。フリーで入っている東山に着く為にやって来たそのキャストは、彼が名刺を受け取ると同時に大きく元気な声で挨拶をする。
 
「始めまして、理奈です。よろしく」
 
ドレスで着飾ったその可愛らしい姿からは、一瞬ギャップを感じるくらいの体育会系のノリ。雄司から見ると東山が苦手なタイプだろうと感じたそのキャストだったのだが、彼は意外にも笑顔で受け入れた。
 
「なあ。お前の苦手なタイプだろ?」
 
こそりと耳打ちをする雄司。だが東山はすぐに疑問を表情に表すと、雄司に小さな声で話し出す。
 
「いや。この娘は大丈夫だよ」
 
「へえ……、意外かも」
 
「そんな事無いぜ。この娘の目かな? 凄く素直な目をしているから」
 
「お前のいう事はたまに分からないよ」
 
「失礼な。雄司と違って人を見る目には自信あるんだぞ?」
 
「どうだか……」
 
彼女達を放ったらかしにしたまま思わず話し込む二人。雄司に着いたヘルプ嬢は、客だけで話しこむその様子をよくある光景だとばかりにその場を流している。そんな時二人に割って入ったのは理奈だった。
 
「ねえねえ。二人とも折角飲みに来ているんだから男同士でコソコソ話さないの」
 
屈託の無い笑顔でそう言うと理奈は二人を引き離した。改めて東山に挨拶をする彼女に、彼も自己紹介を始める。
 
「えっと、理奈ちゃんだね。俺は東山って呼んでくれたらいいよ」
 
「東山さんだね。了解です。フェンディーは初めて……でもないのかな?」
 
「今日で二度目だったかな? この男はほぼ毎日来ているみたいだけど」
 
適当な事をいう東山に思わず横槍をいれる雄司。正確には多くても週4回であり、しかもここ暫くは来ていなかったのである。そんな事を訂正するようムキになって言っている雄司であったが、皆はただ笑うしかなかった。
 
「確かに良く見る顔かも」
 
理奈はさらに笑い続ける。本当に元気の良いキャストである彼女。東山は彼女と話す事が楽しくなってきたのだろう。どんどん会話が盛り上がる。
 
「へえ……。輪島出身なんだ。学生時代はよく無意味にいったなあ」
 
「無意味に行ってたんだ。っていうか、何をしに行っていたの? 朝市とかじゃないよね?」
 
「辛い事や切ない事があると、よくバイクを走らせて喫茶店に行ってた」
 
「わざわざ輪島まで? 本当に無意味だね。若さゆえの過ちって奴かな? なんてね……」
 
「違いない」 
 
すっかりと意気投合している二人に対して、なんとなくヘルプ嬢に対してヤル気のない雄司。いつもならこんな事もなかったのだが、この日に限っては意識が奥のテーブルに飛んでしまっているようだった。そんな彼相手にやりづらそうにしているキャストを見かねてか、姉御肌の理奈が雄司にも声をかけてきた。
 
「ねえねえ。今日は二人で何を食べてきたの?」
 
コロコロと楽しそうに笑っているだけのキャストかと思えば、きちんと周りを見て状態把握が出来ている。管理職として部下や顧客の様子に目を配る癖がついていた東山は、思わずそんな理奈の仕事振りにも関心してしまう。だがそんな気配りにも気付く事がない男は、無愛想に答えるだけであった。
 
「焼き鳥」
 
折角の会話が止まってしまう。流石の理奈も動きが止まってしまうのだが、今度は東山が気配りを見せてみた。
 
「そういえば進学の時、大阪から初めて北陸にやってきて家族で能登半島に行ったんだ。その時初めて輪島で入った料理屋が焼き鳥屋だった。地元の魚の焼いたのとかが美味しかったね。駅のすぐ側だったけど……知ってる?」
 
思い出した記憶を頼りに話題を続かせる。その時理奈が立ち上がって叫んだ。
 
「それ私の実家だよ」
 
あまりの大きな声に一瞬店中の視線が理奈に集まった。さすがの理奈も恥ずかしそうに、周りに頭を下げると静かに腰を下ろす。
 
「店でそんな話聞けるとは思わなかった」
 
「そうなの? 駅で聞いたらその店を紹介してくれたから」
 
「結構有名なんだよね。私の実家」
 
嬉しそうな顔で東山に語ってくる理奈。そんな彼女を見ていた彼が、このままこの娘と話していたい。そう感じたのは当然の心理だったのだろう。雄司がだるそうに焼酎を飲んでいる横で事は進んでいった。様子を見ていたのならば、なんらかの耳打ちをしたのかも知れないのだが……。
 
「理奈ちゃんこのままここにいなよ。今日はこのまま懐かしい話もしたいし」
 
「いいんですか? ありがとうございます」
 
これが場内指名を意味するものであることは東山にも分かっていた。もちろんそのつもりでの言い回しであったのだろう。ただ、まだまだこの世界に入って間もない新兵。暗黙のルールについてはまだ知る由もなかった。 
 
 
 東山は理奈に指名を入れたのを期に、その時来た黒服にドリンクを何か頼んでいたようだ。二人は楽しそうに乾杯をして、なにやらローカルなネタで盛り上がっていた。そんな時雄司についていたヘルプ嬢が呼び戻される。すぐにその意味に気付いた雄司は、大きく背伸びをすると姿勢を一度正す。予想は当たり、少ししてから本日の主演女優が登場した。
 
「ごめんね。かなり待たせたみたいだね。ところで……雄司さん久しぶりじゃない?」
 
「そうだっけ? 金ねえもん。そんな頻繁にこれねえよ」
 
「何だか冷たくない? そんな事言わないでよ」
 
付回しの黒服が時間を見切れなかったのだろうか? 三十分も経った頃、やっとの事で詩織が雄司の横に座る。本当は嬉しいはずなのに、また不貞腐れた態度を取る雄司。そんな彼をあやす様に詩織は煙草に火を付け焼酎のお湯割りを作り直した。すっかり彼の扱いに手馴れたものを感じる。感心して見入っており言葉すら発する事の出来なかった東山。詩織はようやくその存在に気付いたようだ。
 
「あっ、東山さんだ。また来てくれたんだね……って。あれ?」
 
詩織の視界に入ってきたのは、横に愛華ではなく理奈を座らせている東山であった。
散々空けたカフェ・ド・パリは割り勘。しかも、何も分からないまま頼まれていたそれらは全て彼の指名嬢のポイント。つまりは雄司が亜由美の為にと行っていた行動なのである。
 
「最低でも一対二な……。後で回収するから」
 
ぼやき続ける雄司を放っておいて会計をすませた東山。さっさと帰り支度をすると、腰の重い雄司の背中を押す。再びソファーで寝息を立てていた美雨も目を覚ますと、二人を見送る為にとエレベーターまでやって来た。完全に千鳥足になっている彼女の肩を抱えながら、亜由美が雄司に何かを耳打ちする。
 
「それじゃあまた後でね……」
 
かすかに東山の耳にも入った亜由美の声。この時彼にはこの言葉の意味が分からなかったのだが、あまり気にすることも無くエレベーターに乗り込む。手を振る亜由美達の姿は閉じていく扉に隠れていった。
 
 
 
 夜の十一時。片町スクランブル交差点。この日もいつもと何一つ変わらぬ風景。そして何一つ変わらぬ行動。例によって、二人はドーナツ屋の横の自販機で煙草を補充していた。
 
「なあ、雄司?誰がラヴィアン・ローズに行こうって言った?」
 
「だって……、お前キャバクラが気に入ったんだろ?」
 
何一つからかうような素振りもなく、すごく普通の事のように話す雄司。東山は思わず誤解されている事に対しての訂正を入れる。
 
「決してキャバクラが好きになったわけではない」
 
その台詞に対して雄司は、『目の前の男は何を冗談言っているのだろう?』そう考えているに違いない笑いを飛ばす。そしてその様子に頬が膨れている東山をさらにからかう様に続けた。
 
「だってこの間の出張の時……」
 
「あれは後学の為にだな……。それはともかく、どうせキャバクラに連れて行くのなら、詩織さんの所にいけばいいじゃん」
 
「最近亜由美が可愛いんだよね。今日約束していたし。東山が金沢に来ているんだったら美雨ちゃんの所に連れて来いって言われていたし」
 
「俺は今日後輩の所に……」
 
一瞬何かを言いかけたのだが、あわててその口を閉じる東山。雄司がその言葉を聞き逃さなかった事なぞ知る由もなく、彼は改めて言い直した。
 
「俺は詩織さんの店の方が好きだな」
 
視線を雄司に向ける事が出来ない東山。交差点反対側の、ビル壁にかかるネオン看板を意味無く眺めていた。そんな彼をニヤケ面でジロジロと眺める雄司。その様子には気付いているのだが、今更顔を向ける事も出来ない。煙草に火を着けると無言のまま空へと白い煙を溶かし込んでいた。そんな時間が数分経った時、雄司が一人の黒服を見つけて声をかける。彼は東山をそのままにして、その黒服の元へと駆けていった。
 
「俺はこのまま放ったらかしかよ……」
 
東山は溜息を吐き出すと、煙草を靴の裏に押し当て友人の後を気だるそうに追った。
 
 
 東山にもなんとなく見覚えがあったその黒服。雄司はまるで親しい友人と話すようでもあったその男。
 
「雄司さん。久しぶりにうちにも来てくださいよ」
 
「どうしようかな?行きたい店があるって言う友達が一人、ここにいるからな……」
 
「今日沙耶ちゃんでてますよ?」
 
「マジ? 行こうかな」
 
黒服の名前は比呂斗。CLUB・Isの街宣である。雄司が比呂斗とここまで親しくなったのには、それなりの行動があったに違いない。片町での彼の行動。それはまだまだ東山の知る限りではないという事を意味していた。
 
「雄司くん……。今度はどこに連れて行く気だい? いい加減にしろよ?」
 
彼らのやりとりを傍から見ていた東山が口を挟む。この日の自分の予定を見事に崩されていた東山だけに、冗談ではなく肩が震えている様子が鈍感な雄司にも理解する事が出来た。
 
「いや……キャバクラ好きの一樹くんに新しい店を教えてあげようかと……」
 
何かが切れる音。聞こえるはずの無いその音が、確かに夜の片町で鳴り響いた。先ほどまで苛立ちの表情を見せていた東山の顔が、不気味なほどの笑顔で満たされていく。そして彼は雄司に口調だけ優しく告げた。
 
「わかったよ。それじゃあ楽しい時間を過ごしてきてね。俺はワトソンで一人美味しいカクテルを頂いています」
 
くるりと背を向けると、東山は再び元いたアールビルの方向へと歩き始める。
 
「そんなに怒るなよ。それじゃあ後で電話するね」
 
真に受けた雄司はありえない言葉を本音として友人の背に投げかけた。この事からも分かる通り、雄司は本当に周りの事に対して気が利かない男であった。そんな様子を冷静に見て、そしてフォローしたのは意外にも比呂斗だった。
 
「雄司さん。それはまずいでしょう?」
 
当初何も考えずにIsへ来ないかと勧誘してきた彼。ただ売り上げだけを考える黒服であったのならば、このまま雄司を引っ張っていったところである。だが彼はそうやって割り切れる程、気持ちまでを夜の世界に沈みこめてはいなかった。そんな彼だからこそ、雄司も仲良く話すようになったのかも知れないのだが……。
 
「大丈夫だよ。沙耶の所にワンセットだけ顔を出したら彼を迎えに行くし」
 
完全に自己中心的に物事を進めていく雄司。そんな彼を戒めるように比呂斗が続ける。
 
「友達なくしますよ? あの人今日行きたい店があったんじゃ……」
 
真剣に心配してくれるその素振りに、雄司も少し真面目に答える気になったようだった。
 
「どうやらフェンディーに行きたいみたいなんだよね。けど……」
 
「けど?」
 
「俺は今日フェンディーに行きたいと思わない」
 
駄々をこねる子供のように首を横に振る雄司。彼の行動を大体把握している比呂斗なだけに、その言動には不可解なものを感じた。そして確認する。
 
「行きたくないって……。雄司さん一番のお気に入りの詩織さんの店でしょ?なにかあったんですか?」
 
率直に質問してくる比呂斗に思わずたじろぐ雄司。正直前回の一件以来、なんとなく詩織と顔を会わし辛いだけなのだが……。答えられずに困っている彼を見た比呂斗は、優しく笑うと一つのアドバイスを送る。
 
「ちょうどいいじゃないですか。お友達を理由に詩織さんの所に行くって事で。意地張っていたら楽しいお店がなくなっちゃいますよ」
 
自分の店の売り上げには繋がらない事なのに、彼は本気で雄司の事を心配してくれている。そんな比呂斗の優しい部分には気付く事無く、都合のいい部分だけをとらえた雄司は一気に元気を取り戻し……。
 
「比呂斗君頭いいなあ。俺は行きたくないけど、あいつがどうしてもって言うから仕方ないよね? よし。ちょっと東山を呼んでくるわ」
 
結局の所、雄司も詩織の所に行きたくて仕方が無かったのかもしれない。喧嘩をした子供が仲直りのキッカケをつかめないのと同じ状態だったのであろう。比呂斗への挨拶もそこそこに、彼は東山を連れ戻す為に走り去った。
 
「ちょっと、雄司さん。フェンディーに行くのなら俺から徹也さんに……。ああもう。仲介マージン取りそこなったよ。まあ……たまにはいいか」
 
一瞬がっかりとする比呂斗ではあったが、珍しく気持ちを表に出した雄司の背中にエールを送った。
 
 
 東山は相変わらずの自己中な友人、雄司に対してブツブツと文句を言っている。それを適当に聞き流しながら、雄司は徹也を探す為にと十億年ビルを目指して歩いていた。
 
「なあ、雄司?」
 
「なんだ?」
 
「あの後輩の娘。愛華さんでよかったよね?」
 
「なに? 本指で入るの?」
 
「なんだよ。なに笑っているんだよ」
 
「いや、別に……」
 
東山の目的に関しては雄司もよく理解している事だった。それにもかかわらず自分の思うがままに行動を取っていた今日の雄司。こういった行動が周りの人間に多大な迷惑をかけていることなど本人には知る由も無かった。さすがに大学来の親友である東山だけはこういった雄司の性格を理解している。いや、諦めているからこそ今も仲良くしていられるに違いない。これが嫁に逃げられた根本的原因なのだろうが、雄司には暫くその事を理解する事が出来ないであろう。
 
「おいおい。もうすぐ麗しの姫に逢えるってのに、まだ不貞腐れてるのか?」
 
「うるさい。そんなんじゃねえよ」
 
「怒鳴るなよ。素直じゃないなあ……」
 
片町ではさすがに歓楽街だけあって奇声を上げている人間も少なくは無い。かと言って大声を出していれば周りの目も引くと言うもの。二人も例外ではなく、一瞬周りの視線の中心にさらされる事になった。そんな視線の中に一本。雄司を雄司と認識できた人間がいた。
 
「雄司さん。今からうちの店ですか?」
 
徹也ではないその男。やはり黒いスーツに身を包んでいる。東山の記憶にはなかったのだが、確実にわかるのはサラリーマンなどではなく街宣に出ている黒服であるという事であった。また新しく聞くキャバクラか? 彼がそう疑惑を抱いた時、雄司がその考えを否定する言葉を発する。
 
「おう、次元君。珍しいぜ? 徹也君に代わって街宣か?」
 
その次元と呼ばれる男。どうやらフェンディーの黒服であるらしい。ホッとするのも束の間、東山にはある笑いが込み上げてきた。
 
「次元って呼ばないで下さいよ。ちゃんとした名前があるんですから」
 
「だってそっくりじゃん」
 
おそらく日本では一番有名なある大泥棒。その相棒にそっくりな容姿。スーツには決して似合わないその顎鬚と、ハードボイルドには到底届かないその頼り無さ気な雰囲気。だが確かにニックネームをつけるとしたら、彼は次元である。
 
「いいですよ……なんでも。詩織さん指名とポッキーセットですよね?」
 
「おっ? 学習してるじゃん」
 
「これだけ頻繁に来てくれれば覚えますよ。えっと……友達さんはフリーでよかったですか?」
 
不意に投げかけられた問いかけに思わず言葉がつまる東山。そんな彼の様子を見ていたのかは分からないが、隣の男が勝手に話を進める。
 
「こいつは愛華指名で。この前店で見てからそればっかり言ってるんだよ」
 
「言ってねーよ」
 
ちらりといやらしい笑みを投げかける雄司にムキになる男が一人。とはいえ、これでやっと今日の目的である後輩との再会が果たせる。その気持ちは表情に表れていた。咳払いを一つ。改めて東山は次元に愛華を指名する事を告げる。
 
「愛華さん指名で……」
 
暫くの沈黙。時間にしたら数秒だったのかもしれないのだが、妙に長く感じたその沈黙。次元は腕を組んで何やら考え出すのだが、目を開いた瞬間想像もしていなかった言葉を返してきた。
 
「すいません。愛華さん今日は休みでした」
   第二章~3~
 
 
「ねえ、雄司君?」
 
喫煙所の入り口。煙草女が中に入るでもなく、ドアの所に立ったまま雄司に話しかけてきた。彼女から声をかけてくる事も決して珍しくは無いのだが、なんとなくいつもと違う雰囲気に身構える雄司。
 
「なっ……、何だよ。“君”付けで気持ち悪いなあ」
 
気持ち悪いと言われれば誰でも気を悪くするもの。一瞬煙草女の表情にも怒りの形相が表れたのだが、すぐに深呼吸して笑顔に戻る。
 
「ちょっと意見を聞きたくてさ……」
 
「なんだよ。気持ち悪い」
 
一度ならず二度までも失言を吐いてしまった雄司。もちろん彼にはそんな事に気付くほどのデリカシーは持ち合わせていなかった。
 
「人が下手に出ているのに気持ち悪いを連発して。いいから質問に答えなさい」
 
切れた彼女に流石の雄司も大人しく姿勢を正す。そして彼女が言葉を続けた。
 
「男からしたら、可愛い女ってどんなの?」
 
思わず彼女には似つかわしくもないその質問に噴出しそうになる雄司。その様子をしっかりと見ていた彼女の眉毛がピクピクと動く。雄司は必死でこらえると、彼なりに真面目に答えた。
 
「ヤキモチを焼いてくれる子……かな?」
 
静かな時間が喫煙所に流れる。彼はそれなりに、素直に思った事を答えていたのだが……。
 
「あんたに聞いた私が馬鹿だったわ。っていうか、女にヤキモチ焼かせるんじゃないわよ」
 
大きな溜息を吐き出すと、煙草女は背を向け喫煙所を去っていく。
 
「俺……、変な事言ったのかな?」
 
一瞬悩むのかと思ったのも束の間、雄司は何事も無かったかのように煙草に火をつけた。
 
 
 明るい店内に響き渡る大音量の音楽と若い女性の笑い声。そして慌しく動き回る黒服達。この日もそこに雄司の姿があった。ただいつもと違うのは、珍しく友人らしき男が横に座っている事だろう。
 
「楽しんでいる?」
 
流れる音楽に消される声を伝えようと、雄司は隣の男の耳元で囁く。
 
「なあ、雄司。どうして俺は今日ラヴィアン・ローズにいるんだよ?」
 
少し苛立った様子で雄司に囁き返す。そんな様子を見ていた美雨が二人の間に割って入ってきた。
 
「東山さん。美雨がいるのにどうして雄司さんと話しているんですか?」
 
「ごめんね。ちょっと雄司君に言っておかなければいけない事があったんだよ」
 
この日東山は半月振りに片町へと戻って来ていた。いつもの焼き鳥屋・とり吉で食事を済ませて来たのだが、その後の展開は彼には理解出来ないものだった。
 
「折角今日美雨に会いに来てくれたのに……。こっち向いていて下さいよ」
 
「ごめんね。ちょっと雄司君に……」
 
かなり酔っ払っている美雨が擦り寄ってくるのに必死で抵抗する東山。そんな彼に非難の声があがる。
 
「ちょっと今日の東山さん冷たいんじゃない?美雨ちゃん可哀そう」
 
美雨と同じく酔っ払っている亜由美が、ケラケラと笑いながら指差してくる。
 
「美雨ちゃん可哀そう」
 
そんなに酔っ払っていないはずの雄司も、亜由美に合わせて突っ込んでくる。その言葉に煽られるように露骨な泣真似をする美雨。なぜか三対一の構図が出来上がっている。さすがにこの状況にイライラしてきた東山だったのだが、そこはフェミニストの彼。美雨をなだめるように声をかけるのだが……。
 
「いっぱい泣いたら喉が渇いちゃった。東山さん。何か飲みたい」
 
泣いていたにしてはやたらと晴れやかな笑顔の美雨が上目遣いに言ってくる。この短時間ですっかりと疲れ果てていた彼に、そのおねだりを拒否する気力は失われていた。
 
「はいはい。トロピカルドリンクね」
 
その言葉に喜ぶ美雨。再度擦り寄ってくる彼女に、彼もまた再度抵抗していた。
 
「お待たせいたしました」
 
ある意味盛り上がっていた時、不意に現れた黒服が見たことの無いボトルをテーブルに運んでくる。
 
「カフェ・ド・パリ、お持ちいたしました」
 
何の事だか分からない東山の横ではしゃぐ雄司と亜由美。同時にテーブルに置かれた四つのグラスに亜由美がそれを注ぐ。
 
「これは何?」
 
東山の問いかけに笑顔で答える雄司。
 
「俺が頼んだシャンパン。亜由美が前から飲みたいって言っていたから」
 
そういって雄司が亜由美に微笑みかけると、彼女は嬉しそうな顔で雄司にもたれかかる。
 
「雄司さん有難う。それじゃあ、東山さんが再びローズに来てくれた事に乾杯」
 
流されるままにグラスを空ける東山。モスカート・ダスティーが好きだった彼は、久しぶりに飲むスパークリングワインに少し機嫌を取り戻した。
 
「雄司、ご馳走様」
 
笑顔でそう言った東山に、雄司と亜由美はニヤニヤと笑っている。美雨はなぜだか不貞腐れていた。そんな三人の様子になど、この時の東山は何一つ気付いていなかったのである。
 
 
 本当はこの日、東山はラヴィアン・ローズに来る予定などは全く無かったのだ。とり吉で焼き鳥を食べながら、例によって雄司の離婚問題ついて真面目な話をしていたのである。ただ今までとは違って、その後の彼には一つの計画があった。それが狂ってからはや二時間弱。気がつけばテーブルにはカフェ・ド・パリの空き瓶が三本転がっていた。
 
「雄司。そろそろ帰るぞ」
 
アルコールに強い東山。この時も冷静な判断力は残したままだった。周りには飲んだくれが三人。特に酷かったのは美雨である。
 
「もう帰るの?まだ早いじゃん」
 
完全に酔っ払っていた彼女は、東山が声を発するまでソファーでぐったりとしていたのである。
 
「用事があるから駄目だよ。もう行かなきゃ。なあ雄司?」
 
ちらりと目で合図を送るのだが、完全に意思の疎通が出来ていない。
 
「雄司さん。この後何か用事あるの?」
 
「三時過ぎにはあるけど、この後すぐに何かあったかなあ?」
 
完全に二人の世界を作り上げている亜由美と雄司。どうしようもないと判断した東山は、黒服を呼んでチェックしてもらおうとするのだが美雨がそれを止める。
 
「東山さん帰ったら駄目。美雨もワイン飲みたい」
 
先ほどまで散々と飲んでいたはずのスパークリングワイン。酔い潰れている美雨は、一体この期に及んで何を言っているのだろうか? 理解に苦しむ東山はそのまま強引に黒服を呼びつける。そのままチェックを告げる彼の横では美雨がさんざん駄々をこねていた。その様子を見て笑っている雄司達。いったいこの世界はなんなのか? 東山は眉間を指で押さえると、目を閉じ混沌に支配されている自我を整理し始めた。
 
「お待たせいたしました。こちらが明細になります」
 
程なくして黒服が伝票を持ってくるのだが、その額を見て思わず息を飲む。
 
「5万8千円……。なぁ雄司?」
 
意見を求める彼に雄司は手をあげて一言。
 
「おお。割り勘な」
 
その時名古屋で美羽に教えてもらったキャバクラのルールを幾つか思い出す。瞬間にして本日の流れを推測出来たのだが、あえて東山は雄司に対してとぼけた態度を取ってみた。
 
「雄司君。伝票が一枚だよ?」
 
睨みつける東山に、何一つ悪びれる様子が無い彼が言い放った言葉。
 
「だってさ、テーブルで会計するもん。ごちそうさま」

 とあるホテルの一室。夜の十二時過ぎ。シャワーを浴び終わった東山が、窓の外に広がる景色を眺めていた。すっかりと空を覆ってしまった厚い雲。もはや月の光でさえ、地上には届かなくなっている。それが逆に良かったのだろうか?彼の視界に飛び込んでくるのは、眩いばかりに光り輝く下界の星達。テレビ塔に近づくにつれ輝きを増すその光は、さしずめ銀河系のようでもあった。
 
「ネオンの灯り。そこに集まる人々。夜の街をこういった感覚で見たのは初めてだよ」
 
カーテンを閉じベッドへと向かう。
 
「今度……もう一度愛華さんに逢いに行こう……」
 
スタンドの光量を絞ると、静かに目を閉じ彼は眠りについた。


 
 片町十億年ビル地上一階。夜の十二時過ぎ。現実世界へと戻ってきた雄司。
 
「もともと何も期待はしていなかったじゃないか。俺はただ現実から逃げるために、癒される空間に行っていただけ……」
 
空を見上げると、ビルへ入る前には輝いていたはずの月や星座も見えなくなっていた。スクランブルに目をやると、悲しいくらいに光り輝く夜の歓楽街。酒の酔いにまかせた浮世で騒いでいる人々。
 
「割り切って楽しめばいいか?いや……、最初はそうだったはず。所詮俺は金を払って飲みに行くただの客。向こうは金をもらって接客をする。そういう関係」
 
煙草を取り出そうとポケットに手を突っ込むと、指先に触れたのは携帯電話。思い出したように亜由美からのメールを開く。
 
「今から……。亜由美の所で飲みなおすか。あいつをからかって気持ち入れ替えなきゃ」
 
携帯を閉じ、再度ポケットへと突っ込む。大きく深呼吸をすると、雄司は歩幅を大きく取りアールビルへと向かった。
 
 DEEP・BLUE。夜の三時過ぎ。黒服達が閉店準備をする中、キャスト達が次々と帰宅準備を始めていた。
 
「未耶美ちゃん、お疲れ」
 
皆が疲労からか黙々と作業をしている中、一人元気良く声を出す女性が一人。美羽だった。
 
「お疲れ美羽ちゃん。どうしたの?そんなに慌てて……」
 
「ちょっと聞きたい事があって」
 
「なんなの急に?」
 
「うん。あのさ……。この間言ってた駄目兄貴みたいな客って、なんて名前だっけ?」
 
「外で話していた時の? 雄司さんだよ」
 
「やっぱり? なんだか退屈な日常が動きはじめたよ」
 
「なに? どうしたの?」
 
「一緒に駄目兄貴達をサポートしようさ。実はね……」
 
彼女は未耶美をソファーに座らせると、今日たまたま出会った一人の男の話を楽しそうに語り始めた。
 
 
 
 片町スクランブル交差点。夜の三時過ぎ。タクシーを拾う為、詩織は一人その場にたたずんでいた。だが何台かのタクシーが目の前を通り過ぎていくのにも気付かないくらい、彼女は携帯の画面を睨み続けている。
 
「メールくらいしてきてよ。まったく……」
 
今日の雄司が取った行動。その真意を全く理解する事が出来なかった詩織。考えれば考えるほど、ただ苛立ちの感情だけが増幅してくる。この時、彼女自身は気付いていなかったのかもしれないが、ただのキャバクラ客であったはずの男の事で頭が一杯になっている。
 
「詩織さん、お疲れ様」
 
そんな彼女の意識を取り戻したのは愛華だった。
 
「あっ……。お疲れ。愛華ちゃんもタクシー待ち?」
 
「私は妹待ちです。今から迎えに来てくれるみたいで。一緒に乗っていきますか?」
 
「ん……。悪いからいいよ。反対方向だからね」
 
彼女は笑顔で話していたのだが、愛華は先ほどまでの詩織の様子をしっかりと見ていた。このような仕事をしていれば毎日ストレスも溜まるし、嫌な事だってある。愛華自身もそれが良く分かっているだけに、詩織の気持ちを解きほぐそうとしていたのだろう。
 
「今日なにか嫌な事がありました?」
 
下から覗き込むような仕草で聞いてくる。いつも朗らかな愛華。詩織はそんな彼女にやっと肩の力を抜く事が出来た。
 
「雄司さん。どうして今日いきなり帰ったんだろう? 訳も言わないし、こんなの初めてだし、なんだか考えていたらイライラしてきて……」
 
「本当ですよね。実は傍から見ていたんですけど……。最初私が着いた時は、いつも通りだったんですけど……」
 
「えっ?愛華ちゃん雄司さんのヘルプに入っていたの?」
 
「はい。店長にいわれて最初に」
 
「何か変わった事無かった?」
 
「……気にしすぎですよ。別に変わった事なんて」
 
愛華は、雄司が自分に場内を入れようとしていた事を思い出す。この世界……というより、酔っ払った男が言うよくある話。けれどもその事は、仲の良い詩織には言えなかった。話している途中で、この時の詩織の様子に違和感を覚えたから……。
 
「あっ、妹が待っているから行きますね。おやすみなさい」
 
「……おやすみ」
 
思い出したかのように待ち合わせ場所へと向かう愛華。大きく手を振りながら何度も振り向き、そして詩織の視界から消えていった。
 
「愛華ちゃんって……私から見てもかわいいんだよね」
 
詩織の深層心理が呟いた言葉……。ちょうどメールを送ったくらい?愛華ちゃんと盛り上がっていた?だから気付かなかった?彼女らしくない考えばかりが頭に浮かぶ。
 
「……そんな分けないよね。機嫌が悪かった私に雄司さんも疲れたんだよ。反省しなきゃ……」
 
手を挙げると、行き交うタクシーの中の一台がいとも簡単に止まってくれる。詩織はそれに乗り込み帰路へとついた。片町より少し離れると、たちまち周りから灯りは消えていく。星灯りもなく、薄暗い夜空の下。タクシーの窓から空を眺める詩織の顔に笑顔はなかった。
  

   
     第二章第2節~終~

 穏やかだった、星が舞い落ちるような夜。街中を吹き抜けた風。人々がコートを押さえ、髪を抑え立ち止まった。ほんの一瞬の出来事。皆は直ぐに何事も無かったかのように歩き出す。その遥か頭上でゆっくりと、そして静かに雲が動いている事には気付かず……。
 
「そういえば、大阪はオレオレ詐欺の被害が日本で一番少ないらしいよ」
 
「どうして?」
 
「子供を装った犯人が電話してくるだろ?そうした時、大阪のおばさん達は何て言うと思う?」
 
「んっと……。なんだろ」
 
「今あんたと親子の縁切ったから自分でなんとかしいや。と言って電話切るねん」
 
「そりゃあ詐欺犯も諦めるよ」
 
お腹を押さえて笑う美羽を見ながら、満足そうにグラスの麦酒を飲み干す東山。美羽は込み上げる笑いを抑えると、黒服を呼び麦酒のお代わりを頼む。
 
「東山さんって本当に面白いね。関西人ってみんなこうなの?」
 
「いや。普段は俺もこういうキャラクターじゃないよ。なんだかこの店……っていうか、美羽ちゃんの前だとアホになれるのかも」
 
出会って二十分しか経っていないのに、すっかりと意気投合できた二人。東山は美羽に、ずっとこの席にいればいいよと言う。
 
「ありがとう。でも、なんだか慣れているよね」
 
「何に?」
 
「キャバクラ。あんな風にスマートな言い方で場内入れてもらえると、こっちも素敵な気持ちになるもん」
 
「そんなに気の聞いた事言ったかな……って。場内?」
 
まだキャバクラのシステムには慣れていない東山。ただ単純に、話が盛り上がっているからとこのままいてくれるように発した言葉だったのだが。
 
「うん。嬉しいです」
 
澄んだ瞳で真っ直ぐと東山を見据える美羽。この眼差しもキャバクラ嬢のテクニックなのだろうか?一瞬ドキリとした彼だったが、すぐに初心を思い出し会話に戻る。
 
「いや、全然慣れていないよ。っというよりも、今日はキャバクラの事や色んな営業についてなんかを勉強しに来たんだ」
 
思わず目の前の男が言い始めた事に怪訝な顔を見せる。だが、言い出した馬鹿なセリフとは相反する真剣な眼差しに、身構えた美羽の緊張は一気に解される。
 
「やっぱり東山さんって面白い。っていうか、馬鹿正直でかわいいかも」
 
「おいおい。可愛いって……。おじさん相手に何を言い出すかな」
 
「おじさん?十分若いよ」
 
先ほどとは打って変わって、営業トークとは思えない素の表情に変わった美羽。軽快に話しているようには見えても、実のところ東山もかなり身構えて酒を飲んでいた。ようやくここに来て、彼は肩の力を抜く事ができたようだ。
話が弾むと時間が経つのさえあっと言う間である。二時間が過ぎた頃、黒服が2セット目の終了を知らせに来る。東山は明日の会議の事を考え、三十分だけ延長するよう美羽に言うと、姿勢を正すように座りなおす。
 
「なあ、美羽ちゃん。実際キャバクラに来る男ってどう思う?」
 
神妙な面持ちで唐突に話を切り出す。急の展開に、美羽の頭上にはクエスチョンマークが浮かんでいた。そんな彼女の様子にも表情を崩さぬ東山に美羽が問いかける。
 
「どうしたの、急に。さっき話していた雄司ってお友達の事?」
 
「あいつはどうしようもないよ。暫くは放っておく」
 
「じゃあ……。東山さん自身の事?」
 
目の前の男が切り出した話。たんなる質問なのかもしれないが、相談を持ちかけているようにも見えた。美羽も改めて姿勢を正すと、真剣に話を聞く態度をとった。
 
「俺は雄司を止めようとしていたんだけど……」
 
一旦言葉を止め、頭の中で話したい事をまとめる東山。考えが整ったのか続きの言葉を発し始めた。
 
「たまたまあいつの奢りだからとキャバクラに付いて行ったんだ。好奇心でね」
 
「そしたら、自分もはまった?」
 
「いや。そこまで思わなかったよ。けれども……」
 
美羽は言葉を挟むことなく真剣に耳を傾ける。目の前の女性が自分の話をきちんと聞いてくれている事を確認した東山は、核心を投げかけた。
 
「なんだか気になるキャストの娘がいたんだ」
 
馬鹿にしている訳ではないのだが、思わず溜息を漏らす美羽。
 
「一目惚れ?だめだよ。キャバ嬢に惚れたら」
 
誰もがこんな話を聞いたら冷静にそう言うだろう。そんな彼女に東山は、決してムキになる事無く淡々と続ける。
 
「違うって。俺はそんなに簡単に女性に惹かれない。ただ……」
 
「うん」
 
「なんだかもう一度逢って話してみたいって気になったんだ」
 
「それって絶対に営業にはまっているよ」
 
冷静に話す東山とは相反し、思わず声のトーンを高める美羽。本職としての意見なのだろうか?まだまだこの世界においては新兵である東山に、美羽はキャバクラ嬢の裏を話し始める。どうやって客の心を掴むか?どうやってお金を使わせるか?営業の種類。本当に赤裸々な話を東山に隠さずに言う。決して彼女にとって特ではないような話の数々。まるで家庭教師に勉強を教えられている生徒のような状態。そんな不思議な雰囲気のまま、彼の人生2度目のキャバクラライフは過ぎていった。
 
 
 黒服が伝票をテーブルに持ってくる。東山はその額に一瞬驚くが、すぐに割り切り会計を済ませた。
 
「どうして俺に色々と教えてくれたの?」
 
最後の一服にと煙草を取り出すのと同時に、ふと浮かんだ疑問を美羽に投げかける。
 
「さっきも言ったけど、東山さんって馬鹿正直なんだよね。目に嘘がないからこっちも嘘ついちゃ駄目かな……って」
 
昼間の生活でさえ、かかわる女性達はなにかと言葉にマスクをかける。生まれながらのアクトレス。東山は、彼の過去にあった幾つかの出来事でその事をよく知っていた。けれども、言葉は悪いが営業と言う呼び名の嘘……。バーチャルの世界で仕事をしているはずの、この美羽という娘のいう事は信じる事が出来る気がしていた。
 
「今日は美羽ちゃんと話せて良かったよ」
 
「私も不思議な感じ。お客さんとこんな話を真剣にした事は無いから」
 
同時に笑いが込み上げてくる。チェックを済ませた手前、何時までもダラダラとしている訳にはいかず、東山は帰り支度を始めた。
 
「ありがとう」
 
「それは私の台詞ですよ。またいつでもメールか電話してね。なんでも相談に乗るよ。カズ兄」
 
「カズ兄?」
 
「一樹さんでよかったよね?なんだか放っておけない駄目な兄貴みたいだから」
 
そう言ってクスクスと笑う美羽。実際の東山には姉貴が二人いるだけの末っ子である。そんな彼に、ある感覚がこの女性を目の前にしてなんとなくだが理解出来始めた。
 
「じゃあ美羽ちゃんは妹だね」
 
「美羽でいいよ。妹なんだし」
 
黒服がお釣りを持ってやって来る。店を出る時間がやってきた。コートを羽織って外へと出る東山を見送ろうと、美羽も付いて来る。
 
「それじゃあ帰るね。今日は本当に楽しかったよ」
 
「カズ兄もまたこっちに来た時は遊びにきてね」
 
「すっかり妹だ。半年後くらいかな?また来るよ」
 
「今日はありがとうございました。お気にの娘、頑張ってね。気をつけながら」
 
「そんなんじゃないよ。って言うか気をつけなきゃ駄目なんだ?」
 
「キャバ嬢は怖いよ?」
 
「肝に命じておきます。それじゃあ……」
 
美羽に手を振りホテルへと向かう。店に入る前には感じなかったのだが、頬をかすめる風は少し強くなってきているようだった。ふと空を見上げると、厚い雲が何処からともなく空を覆い始めている。星座達が飲み込まれていく中、かろうじて月だけがその光を精一杯照らしていた。
 
 
 詩織の手に握られていた携帯電話が不意にメロディーを奏でる。ジャズの独特のリズム。だが、その着信音は直ぐに途切れてしまった。
 
「詩織さん?お願いだから携帯返してくれないかな?」
 
酔っ払った彼女に奪われた携帯電話を必死に取り戻そうとする雄司。どうやら詩織の手に握られていた携帯電話は彼の物のようだ。
 
「何焦っているのかなあ?今の着信の相手は誰なんだろ。ねえ、雄司さん?」
 
今日はずっとこんな調子の詩織。乾杯した直後は機嫌も良かったのだが、アルコールがまわりだしたとたんに絡んでくる。彼女からのメールに気がつかなかった事をかなり根にもたれているようだ。流石に詩織も他人の携帯データを勝手に見るような真似はしない。だが雄司は、今日の状況で亜由美からのメールを読まれる事の恐怖で冷静な判断が出来なくなっている。
 
「マジで返してってば。今の着信東山からだって」
 
これは本当の話であった。仲の良い特定の友人からの着信には、それぞれのイメージに合わせた音楽が登録されている。ただこの時は東山からの着信を理由に携帯を取り戻そうとしか考えていなかった。
 
「ふうん……。仕方が無い。どうやら本当のようだし」
 
二時間以上も人質ならぬ物質となっていた携帯が、自分の下へと帰ってきた事に胸を撫で下ろす。その時点で完全に安心しきってしまった雄司に油断が生まれた。何気なく開いた東山からのメール。瞬間その内容が、この場において危険なものだという事に気がつく。遅かった。地雷を踏んでからそこが危険地帯である事を思い出してもアウトだ。恐る恐る横を向くと、そこには画面を見つめる詩織の顔。
 
《お疲れさん。雄司が指名している未耶美ちゃんには結局会えずじまいだった》
 
締め付けられる思いで彼女の対応を待つ雄司にポツリと呟く声。
 
「……ふうん。未耶美ちゃんねえ」
 
あらゆる世界から遮断されたかのような恐ろしく静かな刻、そして空間。しかし膨張し今にも破裂しそうだった風船が、その栓を抓んでいた指を放したようにその空間が消えていく。
 
「仕事先……名古屋のキャバ嬢?雄司さんもほどほどにしておかないと」
 
予想だにしなかった詩織の対応。怒るでもなく、悲しむでもないいたって普通の対応。雄司の無意識もがその予想外の展開についていけなくなっていた。
 
「どうしたの?雄司さん」
 
その声にようやく思考が戻る。そんな彼に湧き出した感情は空しさ……。
 
「いや。てっきり怒られるかと思っていたから」
 
つい先ほどまでの詩織の態度からは想像も出来ないくらいに落ち着いた表情を前に、どんどん彼の心に生まれた隙間が広がっていく。そんな彼の感情を知ってかどうかは分からないが、詩織は淡々と言葉を続けた。
 
「仕事先でちょっと遊びに行くのまで束縛したら悪いよ。金沢で浮気されたら怒りたくもなるけど」
 
おそらく詩織が言っているのは亜由美の事だろう。どういう意図で言ったのかは知らないが、少なくともこの時の雄司にはその言葉すら耳に入ってはいなかった。
 
「どうしてこんなに空しいんだ?俺……」
 
詩織には聞き取れないくらいに力なく、小さく呟かれた言葉。さすがに詩織も気になり再度問うのだが、雄司は少しの間沈黙を保ったままだった。詩織のライターを断り自ら火をつけた煙草を吹かし一言。
 
「ごめん。今日はもう帰るよ」
 
戸惑う詩織が何を言っても、問いかけても雄司は何も答えなかった。さすがにこの時ばかりはただ事ならぬ雰囲気が漂ったのだろう。たまたま店内にいた徹也が雄司の席まで声をかけにやってくるのだが、そのままチェックするよう告げると帰り支度を始めた。
 けたたましく大きなクシャミが響き渡る。あるビルの二階、ガラス製の扉にすら振動をあたえていた。
 
「雄司か? 何か噂してやがるな……」
 
遠く離れた北陸の地を思い出すように後ろを振り返る。やっとの事で目的の店に到着はしたものの、たまたまなのだろうか?扉の向こうからは楽しそうな笑い声が聞こえているのだが、当然いるはずの黒服の姿が見えなかった。階段の上下には、お世辞にも品の良いとは言えない店がある。無料案内所で聞いて来たとはいえ、最初このビルに足を踏み入れる事には多少なりとも躊躇いを感じていた東山。意を決して階段を上がったまでは良かったのだが。
 
「さて……。どうすればいいんだろう」
 
眼前のガラス扉に描かれたDeep Blueの文字。濃い色で作られたその扉からは、中を見る事も出来ない。
 
「今日は本当にありがとう」
 
不意に扉が開く。中からは、煌びやかなドレスに身を包んだ女性と、客と思われる男性の二人。
 
思わず進路を空ける東山の横を颯爽と過ぎ去って行く。春を感じさせる甘い香り……。香水の残り香に思わず意識が飛ぶ。そんな彼の背中に声がかけられた。
 
「いらっしいませ。本日御指名の方は?」
 
振り返るといつ現れたのか黒服が一人。セリエAとやらで活躍しているサッカー選手に少し似ていたその男は、つい気を許してしまうような……そんな万遍の笑みで直立していた。
 
「いや、その。今日初めて来たんだけど」
 
キャバクラに来たのが人生で二日目。しかも一人で来たのは今日が初めてであった東山。まだ《フリー》という言葉すら知らない彼は、とっさに言葉を選ぶ。
 
「ありがとうございます。当店のシステムの御説明は?」
 
「あっ、大丈夫。友達がここによく来るらしくて、ある程度聞いているから……」
 
さすがにこれはウソであった。雄司はそこまで気が効く男ではない。システムについては、さきほどホームページを見て調べていたのだ。
 
「わかりました。それでは御案内いたします。どうぞこちらへ」
 
男は笑顔を崩さないまま軽く会釈をすると、東山を導くよう中へと入っていった。後を着いて行く東山の目に入ってきたのは、ラヴィアン・ローズやフェンディーとは全くといっていいくらい規模の違う店内。熱帯魚が泳ぐ大きな水槽。綺麗に飾られた大きな生け花。決していやらしくはない、青を基調とした色使いの内観。まさにそこは南の島で見る夜の海岸にさえ思えた。
 
「お飲み物は何になさいますか?」
 
先ほどの黒服が、おしぼりを差し出しながら変わらぬ笑顔で聞いてくる。
 
「麦酒はある?」
 
「はい。かしこまりました。それでは少々お待ち下さい」
 
広い店内。開放的な空間。片町のキャバクラに感じたような、窮屈な感じが全くといっていいほどしない。カラオケが置いてあった事も東山にとっては衝撃だった。周りではお気に入りの女の子達とデュエットを楽しむ客。ひたすら酒を飲みまくる客。後はありきたりの、女の子に触ろうとする客。良いか悪いか、男達はそれぞれの時間を満喫している様子であった。
 
「どっちが普通のキャバクラって奴なんだろう」
  
店内の様子や、女の子達の接客ぶりを眺めていたちょうどその時。視線の遠く先から、一人の青いドレスを着たキャストが歩いてくるのが見えた。他の大勢のキャスト達がいる中でも、一際目鼻立ちの整った女性。彼女クラスならば、きっと指名をする男達が後を断たないだろう。姿勢良く、凛とした態度で歩いて来るそのキャストに、東山も一瞬視線が釘付けになったのだが……。
 
「失礼いたします。初めまして……ですね」
 
「えっ……。俺?」
 
改めて見回すが、自分の周りには誰一人座ってはいない。まさか新規客である自分の席にやってくるとは思っていなかった彼は、声を発する事も出来なかった。
 
「ん?どうかなさいました?」
 
「……あっ。ごめん。いきなり綺麗な娘がやってきたからビックリして」
 
「またまた。最初からうまいですね」
 
もちろん東山にとっては、色々な計算の上に言葉を選んだ訳ではなかった。ふいに思った気持ちをそのまま言葉に代えて出してしまう。これが彼のいい所であり、悪いところでもあった。
 
「うまい……って。本当にそう思っただけだよ」
 
「そうなんですか?じゃあ、素直に喜ぼうかな」
 
嬉しそうに笑う彼女。すぐに表情が変わると、何かを思い出したかのようにバッグから名刺を取り出す。両手でそれを東山に差し出すと、軽く咳払いをしてから口を開く。
 
「自己紹介がまだでした。美羽と言います。よろしくお願いしますね」
 
年齢的にはまだかなり若いだろうに、しっかりとしたその接客。ただ例えるのならば、一生懸命背伸びをしている……。そう、年頃の妹が頑張って大人ぶっているような雰囲気を醸し出していた。
 
 
 
 片町バス停から喧騒の中を急ぎ足で進む詩織。一番の盛り上がりを見せる時間帯だけあって、周りには酔っ払いが少なくはなかった。当然シラフである彼女は、そんな中を見事なステップで通り抜ける。2分も歩くと、詩織の職場がある十億年ビルがあった。エレベーターを下り、そっとフェンディーの扉を開いて覗き見る。側にお客がいない事を確認した詩織は、音もなく控え室へと潜り込んでいった。
 
「あっ。詩織さんおはよう」
 
「おはよう愛華ちゃん。昼の仕事が長引いちゃったよ」
 
「お疲れ様です。あっ、そういえば……」
 
愛華が言葉を続けようとした時、奥から詩織を呼ぶ声が聞こえる。
 
「おうい、詩織。早く用意してくれな。雄司さんとっくに来てるぞ」
 
出勤してきた事に気付いた徹也だった。
 
「えっ?雄司さん来てるの?」
 
思わず振り返り、カーテンの向こうにいる徹也に問いかける。
 
「連絡あったんじゃないのか?」
 
「あったけど……」
 
なんとなく落胆したような表情を見せる詩織。バッグから携帯を取り出し、送信済みメールを読み返す。
 
「返事がないと思ったら……。結局はそんなものか。あいつも」
 
さほど深くは無い溜息をつき、携帯をバッグにしまう。落胆の表情は、呆れのものへと変わっていた。
 
「なんでもいいから早くな。あと愛華。ヘルプ入るぞ」
 
「はあい了解。それじゃあ詩織さんまた後でね」
 
元気良く返事をし、愛華はパタパタと席へ向かう。
 
「さて、雄司さんの相手でもするか……」
 
詩織は立ち上がると、ロッカーからドレスを取り出しそれに着替え始めた。
 
 四人目のヘルプ嬢が、座ってから五分も経たないうちに奥へと引き戻される。雄司にはこの事が何を意味するのか。それがすぐに分かったようだ。
 
「やっと詩織の登場……いや。到着かな?」
 
今日に限っては、何気にヘルプ嬢との時間を堪能していたはずの雄司なのだが、詩織の気配を感じたとたんに少し不貞腐れた態度に豹変する。彼なりの指名嬢に対する優勢作りの工作のようだ。そんな彼の読みは見事に当たった。フェンディーに入ってから約1時間。詩織が雄司の前に姿を現す。
 
「おまたせ、雄二さん。今日はもうすっかりご機嫌かな?」
 
雄司にしてみれば、遅れて来たくせになぜか突っかかってくるようなその態度に腹が立ったのだろう。思わず声が大きくなる。
 
「機嫌良い訳無いだろ。待ちくたびれたって」
 
その言葉を受けて、冷静だった詩織も思わず熱くなってしまう。だが、飛び出しそうになった言葉をなんとか飲み込み、淡々と返答を返す。
 
「そう思ったからメールしたじゃない。返事は来なかったけどね」
 
初めて見せる冷ややかな笑みに、更なる感情の高ぶりを感じた雄司だったのだが……
 
「返事をくれなかったのはお前……」
 
ふと雄司の脳裏にある記憶が甦る。先ほどの携帯メールの受信は3件。最初に開いた東山からの1件と、愛華に見られないようにと携帯を隠した為にすっかりと忘れ去られていた2件。後者が詩織からの返事だったのでは?怒りは消え去り一気に不安が心を侵食し始める。
 
「私は返信したわよ」
 
ここまで言われ、先ほどの不安は一気に全身を襲う。今更言い訳をしても仕方が無い。気弱になると、どんどん想像は悪い方向へと進むもの。返信の内容を見ていないので分からないのだが、雄司からの返事が無いという事だけが詩織を不機嫌にさせる原因とも思えなくなってきた。そう思った雄司は、先ずメールの内容を確認しようと素直に謝る。
 
「ごめん。気付いていなかったかも」
 
「気付かなかったんだ。着信音消していたの?」
 
「そ……、そうなんだよ。直ぐに確認させていただきます」
 
携帯を取り出すと、すぐさま口実の通り今更意味のないマナーモードに切り替える。この行動がばれていないかとちらりと詩織の方に視線を向けるのだが……。
 
「どうして今更マナーモードにするのかな?」
 
さすがは携帯ショップの店員である。さりげなく行動出来たと感じていたのだが、しっかりと今の行いはばれていた。あなたの行動は信じる事が出来ません。そう言っているような冷たく突き刺さる視線。これ以上嘘の上塗りをする度胸はすっかりと消えうせていた。
 
「気付いていなかったのは本当で……」
 
黙ったまま睨む詩織の視線を思わず避け、受信メールをすぐさま開いた。
  
「読んでくれましたでしょうか?」
  
 
《最近あまり来てくれないし、今日は逢いたいな。そうだ。雄司さんが見たいって言っていたDVD。友達から返してもらったから、今日持って行くね。楽しみに待っています。雄司さんの亜由美より♪》
 
 
「……。」
 
一瞬身体の硬直を感じた雄司。あと数秒正気に戻るのが遅かったなら、さらなる悲劇に襲われていたかもしれない。なんとか詩織に気付かれる事なく、さらに親指でボタンを押し込む。
 
《あと三十分ほどで店に到着するから、他の女の子と飲まずに私が到着するのを待っていてね。雄司さんが他の娘といるのがなんとなく嫌なんだ…》
 
 
「ちょっと。雄司さん?」
 
「はい。読ませていただきました」
 
「……で?」
 
「ごめんなさい」
 
素直に頭を下げた雄司を見て、詩織は険しかった表情をやわらげ、肩の力を抜いたような溜息を漏らす。その様子を視線の外で確認した雄司も、彼女に気付かれないように横隔膜を再始動させた。
 
「今日は昼の仕事でもくたくただったんだよ?せっかく雄司さんが来てくれる日なんだから、もっと癒されたかったな」
 
わざと遠くを見る素振りをする詩織。作戦通り雄司はその光景にたじろぎ、そして自ら相手の思惑に乗る。
 
「……何か飲む?」
 
「本当に?ご馳走様です」
 
古くはギリシャ・ローマ時代からの風習だともいう。古代ゲルマン民族がルールを作ったとも言われている。乾杯というのは世界共通のコミュニケーション。二人は仲直りの意味を込めてグラスを合わせた。
 雄司が愛華にお湯割を作ってもらっていた頃、東山はひたすら寒空の中を歩いていた。地下鉄が発達している街ではあるのだが、出張で久しぶりにやってきた彼にはそんな事など知る由もない。理解している情報は、雄司から聞いた店の名前。そしてその店がある歓楽街のおおよその位置。ネットを使って地図を見たのだが、下した決断はテレビ塔を目指すという事だった。一度駅に戻ってから、その正面の大きな通りをひたすら真っ直ぐに進む。関西人である東山の歩く速度はかなり速い。それでも三十分は歩いただろうか?やっとの事で、ホテルの窓からは小さかったテレビ塔を見上げなければいけない場所まではやってきた。
 
「やっとここまで来たよ。さて……、飲み屋街はいったい何処にあるんだ?全く気配が無いんだけれども……」
 
駅からの道のり。東山はひたすらテレビ塔だけを見ながら歩いてきた。周りを見ている余裕などはなかったのだろう。ガードレールに腰を掛け煙草を一本取り出し着火。火が着いた煙草は、ジリジリと音を立てながら眼前を明るく照らす。その煙は喉を焦がしながら肺へと到達。ニコチンが身体中の血管を広げると、東山は軽い脱力感に襲われた。
 
「なんだか、どうでもよくなってきたぞ……」
 
吐き出された煙が、白く細い線となって空へと消えて行く。その行方を追っていた時。視線の先にある空が、周りに比べ確実に明るい事に気付いた。
 
「歓楽街は……あの下か」
 
一度は折れかけた彼の心。だが、武道を通して培われたその強靭な精神力は、再び彼の気持ちを繋ぎとめる。決してこのような事の為に道場へと通っていたのでは無いのだろうが……。
 
「せっかくここまで来たんだ。行ってみますか。日本有数の歓楽街……錦三へ」
 
煙草を携帯灰皿へと突っ込み、男は勢い良く立ち上がる。コートの襟を正し、東山は立ち並ぶビルの隙間を抜け、目指す歓楽街へと急いだ。
 
 
 コンクリートジャングルの中、明るく照らされた空に導かれるままに突き進んできた。どういう道のりでやってきたのかはもはや思い出す事も出来ない。今彼の目の前に、片町とは比べ物にならない数のネオンや看板が乱立している。行きかう人の数。上昇し続ける熱気。歓楽街と言うにふさわしい何とも言えぬその雰囲気に、東山はすっかりと飲まれていた。
 
「俺はこんな所にいてもいいのか?」
 
自分ではすっかり夜の住人だと自負していたのだが、まさに井の中の蛙である事を実感させられる。さきほど取り戻したばかりのやる気。それが再びプレッシャーに押し潰されそうになっている。そんな東山は、自分に暗示をかけることで冷静を取り戻そうとした。
 
「俺は関西人。東海の連中には舐められない。舐められない……って」
 
一瞬自己暗示が成功するかに見えたのだが、根本的な事を思い出す。
 
「俺……新地に行った事ないやん。ミナミで飲むのとは勝手がちゃうって」
 
明らかに挙動不審な行動。さすがに自分でも気まずさを感じたのだろう。とりあえずその場から逃げ去るように歩き出す。
 
「お兄さん。おさわりいかがっすか?」
「一時間飲み放題。たったの四千円ぽっきりだよ……」
「ちょっと話だけでも聞いてよ……」
「写真を見るだけなら無料……」
 
耳に飛び込んでくる明らかに東山を勧誘しているであろう言葉の数々。この歓楽街全てがそうではないのであろうが、どうにも迷い込んだ区画がいけなかったようだ。徐々に歩行速度が増す。心で耳に栓をしながら、ひたすら前へと進んだ。そうこうしているうちに一区画ほど移動しただろうか?ニコチンの血中濃度が急激に低下していることに気付く。すぐにその場で煙草をくわえるのだが、どうにも周りの街宣達に狙われそうな気がして落ち着かない。どこかに落ち着いて喫煙できる場所がないのか?そう思い回りを見渡しているうちに、東山はあるビルの一階に目がいった。開放されたドアの中にはベンチと灰皿。中は同じようなスーツ姿のサラリーマンらしき連中。
 
「無料案内所……」
 
看板に書かれた文字をつぶやくように声にだす。東山は、いつも雄司が片町で時間を潰すのに利用していた事を思い出していた。
 
「まず煙草を吸って落ち着く。そして……キャバの場所を聞く。完璧だね」
 
自分の属するかの地より旅立ち、そして彷徨う事早半日。遠く300km離れたこの地に、ようやく足を下ろした安堵感を感じ始める。この戦場では、東山もただの一人の新兵に過ぎなかった。
 
 北陸鉄道バス。市内に鉄道が通っていない、ここ金沢の交通の要である。東山が錦三を彷徨い、雄司が愛華に酒を作ってもらっていた丁度その頃、片町経由金沢駅行きのバスに飛び乗る一人の女性。見た目は普通のOLの風貌ではあるが、決して片町まで飲みに出るという雰囲気でもなかった。
 
「店長も急に残業入れないでよね。かなり遅刻だよ……」
 
混みあう時間ではなかった為か、幸いにも空いていたシートに腰を下ろす事ができた。女性は携帯を取り出すと、今時にしては慣れない手つきでメールを打ち始める。
 
「携帯ショップに勤めているくせに、我ながらメールを打つのって苦手なんだよね」
 
おそらくそれほど長い文章を打っていた訳ではないのであろうが、傍から見ると決して短くは無い時間が過ぎていた。
 
「送信……っと」
 
彼女は携帯を折りたたみ、バッグへとしまう。シートにもたれかかると軽く溜息をつき、そして呟く。
 
「さてと、沙織から詩織に変身しなきゃね」
 
詩織は周りをさっと見渡してから、軽く背伸びをした。
 
 
 すっかり愛華との時間を楽しんでいる雄司。いつもの彼ならヘルプの子に対して、ここまできちんと会話を成立させない所なのだが……。
 
「失礼いたします。愛華さん……」
 
楽しい一時を打ち破るように、黒服が愛華を呼びに来る。詩織がくるまでの間、フリーで待っていた雄司には数名のキャストが入れ替わりつく事となる。黒服がヘルプをチェンジさせようとしているのだった。
 
「それじゃあ雄司さん。詩織さんが来るまでゆっくりと待っていて下さいね」
 
そういって立ち上がる愛華。この時の雄司は少し酔っ払っていたのかもしれない。愛華を引き止めると、ルール破りの発言をする。
 
「愛華このままいれば?場内入れるし」
 
そんな発言に愛華は、酔って冗談を言っているのだろうと楽しそうに笑う。
 
「詩織さんに怒られちゃいます。きっとそろそろ登場しますよ」
 
「そろそろって何時だよ?もう二十分も待ってるぜ?」
 
「まだたったの二十分ですよ。じきに現れますって」
 
「待ってられねえ……」
 
そう言って時計を見るため携帯を取り出すのだが……。
 
「メールが来ていた……」
 
着信音を消していたわけではないのだが、この時に限って全く気付くことが無かった雄司。珍しく3件のメールがこの短時間のうちに重なっていた。
 
「詩織さんからだったりして」
 
「絶対に違うと思う。あいつは本当に返事をくれないからね」
 
そう言って携帯のボタンに親指の先を静かに押し付ける。
 
「ほら。東山からだ」
 
「東山さん?……あっ、先輩だ。今日来るんですか?」
 
画面を覗き込もうとする愛華の視線を遮りながら雄司は文面を読む。
 
 
《Deep Blue発見。これより修行に行ってくる》
 
 
「……。本当に行ったよ」
 
ぼそりと呟く雄司の表情が、一瞬で先ほどまでとは違うものへと変化した。その様子を見ていた愛華の興味がメールの内容へと向けられる。
 
「先輩なんて言ってきたんですか?今日来るのかな……」
 
出張先のキャバクラを斡旋しただなんて、口が裂けても言えなかった。この前東山は、確実に愛華の登場に対して何らかの変化を見せていた。まだ結論は出せないが、おそらく東山は愛華に心惹かれ始めている……。
 
「えっと……。出張で疲れたって」
 
友情という絆の下、とっさに嘘をつく。携帯をあわてて閉じ、そしてポケットへと片付けた。
 
「先輩も忙しいんだね。今度はいつ来るのかな……」
 
「何時って言っても、あいつが今住んでいるのって富山だぜ?そうなかなか来れないよ」
 
「富山?富山から片町に飲みに来ていたんですか?」
 
眼を大きく見開いて驚きを表現する。この素直な所が愛華のいいところであり、チャームポイントなのだろう。
 
「すみません。愛華さん……」
 
再度黒服が呼びに来る。愛華はしまったとばかりに軽く舌を出すような素振りを見せた。
 
「それじゃあ本当に失礼します。また先輩に、理沙さんへ逢いに来るよう言っておいて下さいね。それでわ」
 
「おお。またな」
 
雄司は愛華に軽く手を挙げると、そのままソファーにもたれかかった。考えてみれば、愛華はこの間理沙のヘルプに入っていただけであって、東山は単なる他のキャストの指名客でしかないのだ。
 
「さて、東山くん。君はこの先どういう道を進んで行くのだい?」
 
遠く離れた場所にいる友人へと意識を飛ばす。自分の置かれている境遇などは考えていないかの如く無責任な意識だった。
 
「失礼します」
 
「あ。百合ちゃん。久しぶり」
 
続いてやってきたヘルプ嬢にも、どうやら顔を合わせた事があるようだ。今度は妙にかしこまったキャラクターの雄司。この三十分ほどの記憶はすっかりと消えてしまっている。詩織が来るまでのわずかな時間でさえ、雄司は心の隙間が空かないようにと楽しんでいた。彼の携帯電話はポケットの中、その存在を忘れられたまま静かに眠りについている。
   第二章 ~2~
 
  
 三月十九日の土曜、15時51分富山発。JR特急しらさぎ14号は、名古屋を目指して北陸本線をひた走っていた。禁煙車両のとある座席に、休みだというのにスーツにトレンチコートを着込んだ一人のヘビースモーカーが座っている。彼曰く日本の鉄道の喫煙車両は、世界で一番空気の汚れている場所であるという。約四時間にも及ぶ行程ではあるのだが、頭が痛くなるという理由からその座席を指定して座っていた。
 
「もうすぐ米原か……。座席をひっくり返す前に、雄司にメールを送ってみるか……」
 
明日の会議に出席する為、休日返上で名古屋に向かう東山。ついでと言ってはなんだが、久しぶりに友人の顔でも見ようと早めの列車の切符を取っていたのだ。だが約束していたはずの友人が、急遽仕事が入ったとのことで予定をキャンセルしてきた。ほとんど行った事がない街。ぽっかりと開いてしまった時間。どのように過ごそうかと悩んでいた時に、東山は以前雄司と飲んでいた時に聞かされたある事を思い出していた。
 
「何事も経験だよね。一つしっかり勉強するか」
 
メールを打ち終え携帯を閉じる。返事を待っているうちに、特急しらさぎはスピードを殺し米原駅構内へと入っていった。ここから先は北陸エリアではなく、東海エリアの管轄となる。乗客は協力して座席の向きを変えると、名古屋へと向かう列車で再び一時の休息を取った。
 
 
 三月も後半。普通なら春の香りを感じても良さそうな時期なのだが、今年はまだまだ気温の上がらぬ日が続いていた。ここ金沢も例外ではなく、百貨店にやって来る人々の服装も、とても春を感じさせるものではなかった。
 
「ん?ブルッた……」
 
一人喫煙室で煙草を吹かす雄司のポケットの中から、モーターが発生させる振動が伝わってくる。一応仕事中だった為、携帯をマナーモードに切り替えていたのだ。気だるそうに手を突っ込みそれを取り出す雄司。どうせキャバ嬢から来た営業メールだろう。そう思って以前のようなトキメキを見せることなく画面を開く。だが次の瞬間、吸っていた煙草を灰皿に押し付けニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
 
「東山の奴……。楽しいこと言ってきやがった。ミイラ取りはミイラになる。これ自然の摂理なり……」
 
すぐさま東山の要求どおりの返事を送り返す雄司。自称女子高生よりもメールを打つのが早い東山だけあって、すぐさま返信が来た。
 
《サンキュー♪》
 
この先繰り広げられる物語を想像しながら、同じ世界にやってきた友人に心の中でエールを送る。
 
「ほどほどに楽しめよ……友よ」
 
雄司はそうつぶやくと、煙草をポケットにしまい喫煙室を後にしようと立ち上がる。
 
「あら。もう喫煙タイムは終了?」
 
禁煙していたはずの煙草女がふいに声をかけてきた。
 
「あれ?お前禁煙して……」
 
雄司が言葉を発し終えるまえに、煙草女が言葉を重ねてくる。
 
「かわいい女を演ずるのなんて馬鹿らしいってこと」
 
そういって喫煙所の扉を閉める。その言葉の意味が気にはなったのだが、なんとなく聞いてはいけない気がした雄司。そのまま振り返ることなく店へと戻った。
 
 
 久しぶりに感じる都会の風。駅の改札口を抜けると、そこには今の居住地では想像も出来ない程の人で溢れている。金沢駅に降り立った時でさえその人の多さに安心感を覚えるくらいなのだが、ここは地元大阪にも引けを取らないくらいの別世界であった。
 
「名古屋に来たのは大学の時以来か……。会議はいつも岐阜ばかりだったからな」
 
駅の構内を歩く東山は明日の会議の事などすっかり忘れ、その雰囲気に興奮を隠せずにいた。
 
「さて……。さっさとホテルのチェックを済ませて、雄司に聞いた店を探さないとな」
 
東山は荷物を持ち直しホテルの地図に目をやると、まだまだ冷たい風に覆われた名古屋の街へと足を進めた。
 
 
 
 駅から徒歩十五分。東山はフロントでチェックを済ますと、缶コーヒーを一本購入して自分の部屋へと上がって行った。ここはいわゆるビジネスホテルと呼ばれるもの。一人仕事で使うには、十分過ぎる広さと設備であった。無線LANが設置されている事は事前に確認済みであったので、早速持ってきたノートパソコンを鞄から取り出し電源を入れる。立ち上がるまでの間、東山は缶コーヒーをゴクリと喉に流し込む。そして煙草に火をつけると、窓の外に広がる景色に目をやった。
 
「あの東京タワーみたいな奴が昔行ったTV塔だな……」
 
ホテルの周りは比較的落ち着いた雰囲気の町並みであり、夜の灯りを感じることはない。視線の先、TV塔の下に広がるネオンの灯り。あの辺りに目的の店があるはずであった。この間雄司と飲みに行った時に感じた、未知の世界へ踏み込もうとする際の不安と興奮。そんな気持ちがこみ上げてきた時、Windowsの起動音が後ろから聞こえてくる。
 
「さてと……。ググるかな?キーワードは……」
 
軽やかにキーボードを叩く東山。検索サイトの入力欄に次々と文字が打ち込まれていった。
 
「名古屋……クラブ……っと。そして……」
 
携帯を取り出し雄司から来ていたメールを確認する。そして続けてキーボードを叩く。
 
「最後は、Deep Blue……。さてと、検索」
 
エンター・キーを弾くと同時に画面にあらわれる様々な情報。そのトップには、目的の店のホームページであろうURLが表示されている。
 
「ヒット」
 
東山はマウスカーソルを合わせると、笑みを浮かべたまま静かにクリックした。
 
 見える夜景は違えど、空に浮かんだ星達。そしてそれらが作り出す数々の星座は何一つ変わる事が無かった。違いを挙げるのならば、名古屋に比べると若干夜の冷え込みが辛い金沢の歓楽街。仕事が終わった雄司は、週末なのにぽっかりと空いてしまった時間を埋めるべく、いつもの喧騒の中に身を委ねていた。ただ、その雰囲気は以前のものとは違う。香林坊から片町へと向かうその姿には、どことなく楽しげな雰囲気さえ感じとれた。もっともすれ違う人々にはそんな変化など知る由も無いのだが……。
 
「おっ。今日はすぐに見つけたよ」
 
片町スクランブルに到着した雄司は、さほど苦労することなく一人の客引きをしている黒服を見つける。三月の下旬。まだまだ春の訪れを感じるには気温が上がらない。花見の時期もあと数週間先である。一見活気付いて見える片町ではあったが、この時期は皆財布の紐を締めている様であった。雄司はしばらくその黒服を眺めていたのだが、その頑張りも空しく客は誰一人店に行く様子がない。こんな光景はその場だけではなく、交差点のいたる所で見られていた。
 
「徹也君。おはよう」
 
後ろから気付かれないように近づいた雄司は、徹也の両肩に手をやると思い切り元気よく声をかけた。一瞬の事にかなりの驚きと、それに続く怒りの形相で振り返る徹也。だが雄司の顔を見た瞬間気が抜けたのか、心からの笑顔を見せる。
 
「よかった。今日はまだ誰も店に入っていなかったんですよ」
 
「一人も?まだまだ早い時間とはいえ、それはやばいんでない?」
 
「本当に大変ですよ。来月になれば花見の二次会とかで盛り上がるんですけどね」
 
「まあ徹也君ならなんとか出来るでしょ?ところで詩織はもう出勤している?」
 
雄司の当然の質問に、一瞬動きが止まってしまった徹也。最近の彼の行動を、ある意味一番理解しているがゆえであった。
 
「えっと……。今日は少し遅くなるそうで……」
 
「遅いってどれくらい?」
 
「い……一時間くらいかと」
 
「じゃあ他の店に行って来ようかなぁ」
 
意地の悪い顔をする雄司の言葉を真剣に取ってしまう。何一つ疑う事無く彼の来店を信じていただけに、その動揺は少なく無かった。
 
「雄司さん。最初のワンセット、ポッキー付き六十分三千円でいかがですか?今日だけです」
 
思わず転がり落ちてきた棚の上のボタ餅。実際一時間待つくらいならばフェンディーに行こうと思っていただけに、この上ない申し出であった。
 
「仕方ないなあ。他ならぬ徹也君のお願いだし。ここで行かなければ御先祖様に顔向けできないよ」
 
「ありがとうございます。雄司さんが呼び水になってくれますよ」
 
「ところで……。詩織が来るまでのヘルプとはいえ、良い娘をつけてね。もちろん今言った事は内緒で」
 
「了解です。男の約束です」
 
顔を見合わせいやらしく微笑む二人。徹也はいつもの通りインカムで店に連絡をいれると、雄司を案内して十億年ビルへと向かった。
 
 
 すっかりと見慣れてしまった重厚な扉。雄司の隠れ家の一つ。クラブ・フェンディー。まるで我が家に帰ったかのごとく当たり前に、雄司は指定されるまでもなくいつものソファーに腰を下ろした。
 
「いらっしゃいませ。お飲み物はいつもの焼酎のお湯割りでよろしかったでしょうか?」
 
「当たり。よく覚えているよね」
 
黒服は静かに頭を下げると、微笑みながら奥へと戻って行く。
 
「さてと……。詩織にメールを送っておくか」
 
一途さなのか、弁明なのか……。詩織がいない間にヘルプ嬢をつけてもらって酒を飲む事をメールの文面に打ち込む。
 
「送信っと」
 
携帯を閉じ、煙草を一本取り出した。口には銜えるが、火をつけることなく雄司は目を静かに閉じている。
 
「あいつも変わったよな……。ってか、変えてしまったのは俺なのかな?」
 
罪の意識を感じているのか、同じ土俵に上がって来た事への喜びを噛み締めているのか。この時の雄司の心境は、彼自身にも分かっていなかった。考えていても仕方がないと思ったのだろう。目を開くとポケットに手を突っ込みライターを探す。聞いたことのある声が聞こえてきたのは、まさにそんな時だった。
 
「お待たせしました。ちょっと待って下さい。今火をつけますね、雄司さん」
 
顔を向けた瞬間、思わず声をあげる。
 
「うわ。お前なの?」
 
声の主はこの間東山にヘルプでついていたキャスト。大学の後輩である愛華であった。
 
思いもかけなかったキャストの登場に思わず声を上げて驚く。もちろん詩織を指名している雄司のヘルプに、愛華がついた事も過去に二度ばかりあった。ただ、ちょうど友人の変貌について考えていた事も重なり、そのきっかけとなったかもしれない女性の登場に動揺してしまったのだった。
 
「うわ……って。お化けでも見たような言い方やめて下さいよ」
 
詩織とは全く別の表情や仕草。元気よく、それでいて決してうざったくはないその笑顔。人なつっこそうに視線を向けてくる彼女に、雄司は一瞬動きが止まる。
 
「雄司さんどうかしましたか?」
 
差し出されたライターの炎で我に返るまでのほんの数秒間。記憶がまるで無い事に気付く。
 
「ああ、ごめん。ありがとう」
 
煙草に火をつけてもらいひと吹かし。リズムを取り戻した雄司は、やっと愛華の顔を冷静に見る事ができた。
 
「ん?私の顔に何かついています?なんだか今日はおかしいですよ」
 
かなり明るい栗色をした髪は縦に巻かれており、その外見はまさにキャバ嬢という雰囲気なのだが……。
 
「愛華って夜の仕事は長いの?」
 
なんとなく彼女に感じた違和感を、雄司は一つの質問に集約して聞いてみた。
 
「どうしたんですか?急に」
 
その質問にまるで動揺する事も無く、愛華は笑顔を保っている。
 
「いや……別にいいんだけど。正直ノリとかそういうのではなく、他の娘達より接遇がしっかりしているからさ」
 
雄司が感じた違和感。それはキャバ嬢というよりは、クラブのホステスレベルの質の高さが感じ取られた事だった。
 
「雄司さんったら私の事買いかぶりすぎですよ。そんな大したキャストじゃないですから」
 
そう言って愛華は雄司の空いたグラスに焼酎とお湯を注ぎ、静かに混ぜ始めた。