エレベーターを下りてすぐの重厚な扉を開けると、聞きなれた優しい口調で迎え入れられる。バー・Drワトソン。片町で飲んだ時の締めには、やはりここのカクテルが外せない。ブツブツと呟く雄司を完全に無視したまま東山はカウンターのいつもの席に腰を下ろした。
「スティンガーを……」
チーフは静かに頷くと、シェイカーを手に取り用意を始めた。
「なぁ、腹減った」
最高の一時を今から過ごそうとしていた東山の気分を一気に折ってしまう雄司の一言。深い溜息をつくと、投げやりにマスターにも注文をする。
「マスターごめん。こいつにはガーリックライスを」
いつも寡黙なマスターはこの日も声を発することなく目で注文の受領を確認すると、奥のキッチンスペーズで調理を開始した。暫く無言のまま煙草を吹かす二人。雄司は詩織の事を。東山は愛華の事をそれぞれ考えていた。その思考内容は違うとはいえ、結局二人とも考えている事はキャバクラ嬢の事である。傍目から見ればバーで真面目に何かを考えているようにも見えるのだが、そんな二人を鋭く見透かす女性がいた。
「二人とも渋い顔をしているけど……、女の子の事を考えているでしょう?」
明日香がガーリックライス用のスプーンと取り皿を二人の下へと運んで来た。他人の色恋話が大好きな彼女は、この二人を本日の獲物としたようだ。さすがは昔ここ片町のトップホステスであっただけに、人間観察力には恐れ入るものがある彼女。逆に言えば、悩み事があった場合に頼りになる存在とも言える。非常に厳しい意見で突っ込まれるのが玉に瑕だが……
「さすがは明日香さん。鋭いね。雄司が今日お気に入りのホステスさんと喧嘩して不貞腐れているんだよ」
すかさず友人を狩人に獲物として差し出した東山。自分は第三者になるつもりらしい。案の定彼の思惑通りに明日香が雄司の話に興味を引き始めた。彼女は一度カウンターの中に戻ると、二人の前にやって来て満面の笑みを漏らす。腰をすえて話を聞くつもりのようだ。
「で? 喧嘩の原因は何なの? まあ……なんとなく分かるけど」
雄司を挑発するように鼻で笑う明日香。彼は簡単にその誘いに乗ってしまう。
「なんかむかつく。どういう理由だって分かるんだよ?」
とても三十路越えとは思えない発言。ムキになった子供のように雄司は明日香に問いかけ直した。
「その子供っぽい所。その娘に対して、また大人気なく拗ねたりしたんじゃないの?」
普段明日香に厳しい事を言われ続けているチーフと東山。二人は思わず今の発言に耐え切れずに吹き出す。言葉につまる雄司を見て、明日香の洞察力の恐ろしさを再確認したようだ。その対象が自分達では無かったので、その光景を楽しんでいるのであろう。
「俺は何も悪くないし。詩織がいちいち突っかかって来るんだよ」
「ほらほら。そうやって私の言った事にもすぐに熱くなる。まだまだ余裕がないのよ。女の子を相手にする時はもっと冷静に駆け引きしなきゃ。互いにそれを楽しむくらいにね」
「……」
明日香の恋愛講座が進む中、東山は注がれたスティンガーを口に運ぶ。彼は雄司達二人を酒の肴にチーフと会話を楽しみ始めた。
スティンガーのグラスを置くと、東山はピーナッツを手に取りそれを割り始める。取り出したナッツを口に運び、その歯ごたえをゆっくりと楽しんでいた。肘がぶつかる程の、それくらい近くにある空間とは全くと言って違う程の穏やかな空間。チーフもいつもの雰囲気を取り戻している。カウンターの奥で少ししゃがみこみ煙草に火をつけると、その煙の行き先に細心の注意を払いつつ一時の休息を取っていた。
「最近一樹さん頻繁に片町に戻ってこられるようになりましたね」
煙草の火を消したチーフがふとそのような事を口にする。その表情から読み取るに、決して悪い意味で言っているわけではない事が彼にも理解できた。
「そうだね。富山に転勤になってからは、半年に一回くらいしか来る事が出来なかったから」
「私といたしましても遠くに行ってしまわれた常連のお客様のお顔を、再びこうやって見る事が出来るのは嬉しい事です」
「たぶんこれからはこのペースが続くと思うよ。もうあっちも限界でね。やっぱり金沢にくると癒されるんだよ」
「理由はそれだけですか? 何か楽しい事を見つけられたとか?」
グラスを棚へと片付けるチーフは、背中越しに鋭い意見をさらりと投げつけてきた。表情が見えなかっただけに、その返答に一瞬言葉がつまる東山。残っていたスティンガーを飲み干すと、煙草を手に取り淡々とした口調で答える。
「……いや、別に。ただ多感な時期を過ごした金沢が大好きなだけだよ。それと、雄司が嫁さんに逃げられて寂しい思いをしているからさ」
「御友人思いです。そういう事ならぜひこれからも戻って来なければ……ですね」
「本当に」
この時僅かだが、東山の目が泳いでいた事にチーフは鋭く気付いていたのだろう。何かを胸のうちにしまいこんだまま話を流してくれていた。
「チーフ。俺の酒は?」
明日香にすっかりと言いくるめられたのか。反論が出来ずにいた雄司がこっちの空間へと逃げ出して来る。横を見ると明日香が勝ち誇った顔で笑っていた。