小説『営業SMILE』文庫用再編集ブログ -3ページ目

小説『営業SMILE』文庫用再編集ブログ

文庫本を作る前の再編集用です。ご興味のある方は、http://ameblo.jp/eigyou-smile/ をごらんください

「初めまして。理沙さんだね。よろしく」
 
順応性の良さが東山の良い所であった。慣れてしまえばキャバクラ嬢も普通の女の子も接し方は同じである。そういう心のゆとりが持てた今、後は雄司の奢りで素直に楽しむだけ。そう思っていたのだが……。
 
「おい東山。お前についた理沙な?ここのNo1だぜ」
 
雄司が小さな声で耳打ちする。
 
「No1?どういうこと?」
 
同じように声を殺して返答する東山に、雄司はさらに言葉を続ける。
 
「売り上げNo1。つまりは人気も一番ってこと。人気が一番って事はだ……。気をつけろよ」
 
不敵な笑みを含んだその言葉に目を点にしている東山だったが、意味を聞く間も無く雄司は詩織に連れ戻される。
 
「ちょっと雄司さん。何を二人でこそこそ話しているの?」
 
「いや、その……。そう、理沙ちゃんの事どうかなって」
 
とっさについた嘘がそのままこのテーブルの話題となる。詩織と理沙二人が東山と話し始めた為、雄司は一人寂しくグラスを傾ける事となった。それにしても初対面の女性二人を相手に軽快なトークを続ける友人には、大学時代の硬派を気取っていた頃の面影がやはり見られない。その話の内容はと言うと、こういったキャバクラに来たのは今日が初めてであり、すごく緊張している。そういった自分の体験談を、相手に聞かせるように巧みに話していた。自分には出来ない話術。暫くは友人の行動を見守る事にしようと煙草を取り出すのだが、その事に気付くことなく二人と会話を楽しむ詩織。
 
「なあ詩織さん?ライター借りてもいい?」
 
「え?何、雄司さん」
 
「いや……何でもないです」
 
雄司の心の中で、ライターではなく嫉妬心に火がつけられた。そんな事に全く気付くことなく話し続ける三人。思わず雄司は皆の気を引く為に、東山の話の内容に突っ込みをいれてしまう。
 
「こいつキャバクラは初めて……って言っているけど、さっきラヴィアン・ローズで美雨ちゃんってキャストを指名してたんだぜ」
 
瞬間三人の視線が雄司に集まる。それに気を良くした雄司はさらに言葉を続けた。
 
「なんだか昔好きだった娘にそっくりだって、かなり喜んでいたよ」
 
彼は友人を売る事で、一時の優越感に浸るはずだった。だがそんなアクシデントでさえ会話の種として楽しいそうに話し続けている。一人の女性を除いてだが。
 
「どういう事かしら?今日二軒目ってこと?ねえ、雄二さん?」
 
一瞬ゾクリと背筋に冷たいものが走る。声のする方向にゆっくりと顔を向ける雄司。
 
「亜由美さんだっけ?ラヴィアン・ローズって今言ったよね。聞かせてもらおうかな?」
 
「あの……詩織さん?」
 
「なに?」
 
「カツ丼は食べさせてもらえるの?」
 
「事情聴取が終わったらね」
 
引きつった笑顔で雄司の耳を引っ張る詩織。こうしてこの後長い尋問が続くのであった。
 
「ねえ東山さん。ローズとフェンディーってやっぱり雰囲気が違う?」
 
「向こうは騒がしい雰囲気だったからね。いかにもキャバクラって感じの。こっちは落ち着いた雰囲気だよね」
 
「どっちを気に入りました?例えば……美雨さんと理沙だと?」
 
「もちろん理沙さんだよ。落ち着いて酒が飲めるし自分にはこの店の方があっていると思うよ」
 
「うれしいな。理沙も東山さんと話していて楽しいよ。でももうすぐ席を変えられちゃうかもしれない」
 
この時東山は雄司から教えてもらった基礎知識を思い出す。この台詞から推測されるのは、露骨に指名のお願いである。さらに思い出す雄司の言葉。通りすがりにキャバクラに入って安く上げたい時は、楽しく飲める娘が付いた時に迷わず場内指名をする。そうする事で、巡って来るキャスト達全員にドリンクを渡すよりもずっと安く上げられるという事だった。知り得た机上の理論は実践してこそ価値がある。東山はためらわず理沙を指名する事にした。
 
「ずっといればいいよ。今日は理沙さんと話し続けたいしね」
 
「え?本当に?ありがとう」
 
理沙はかわいい笑顔を見せると、黒服に何かを伝えた。いわゆるこれが場内指名と言うやつなのだろう。理沙はあらためてグラスを差し出すと、詩織と雄司にも声をかけ再度乾杯の音頭をとった。
 
  
 
 予想外の展開だった。この店もワンセットで帰る予定の東山だったのだが、詩織と雄司が互いに駄々をこねた為にまだ同じ場所で酒を飲んでいる。そろそろこの環境にも飽きてきた頃。今度黒服が延長交渉に来たら、雄司を捨ててでもワトソンに移動しようと考え始めていた。その意志が通じたのか、一人の黒服がテーブルにやって来る。
 
「失礼いたします。理沙さん……」
 
なにやら理沙に耳打ちをすると、黒服はそのまま奥へと戻って行った。どうやら時間が来た訳ではなさそうである。
 
「ごめん。東山さん。ちょっと呼ばれたので行って来るね」
 
そういって理沙は名刺をグラスの蓋の様に置き、軽く会釈をしてどこかへ去っていった。現状把握が出来ていない様子の東山に、雄司が新しい知識を授ける。
 
「これが指名被りって奴だよ」
 
「指名被り?」
 
その質問に答えたのは詩織である。
 
「理沙ちゃん人気あるんだよ。きっと今も理沙ちゃん指名のお客様がやって来たんだと思う。そんな時は互いのテーブルを行ったり来たりしなきゃ行けないの。そんな状態を、指名被りって言うんだよ」
 
詩織はすっかり酔っ払っており、細かくキャバクラにおける客が知らなくてもいい事を赤裸々に喋ってくれた。
 
「っで?俺はこの状態でどうすればいいの?」
 
完全に二人の世界を構築している雄司と詩織の横で、一人酒と煙草を楽しむというのもかなり辛いものがある。まだまだシステムを知らない東山は、再びこの状況に戸惑いを感じた。
 
「大丈夫ですよ。ヘルプって言って、ちゃんと女の子が付きますから。ほら、噂をすれば……」
 
詩織がそう言って指差す方向に視線を向ける。一人のキャストが足早にこちらへ向かって来ていた。
 
「失礼します。少しの間お邪魔しますね」
 
赤いドレスに身をつつんだその小柄なキャストは、楽しそうな笑顔を携え東山の横に腰を下ろす。そのキャストの雰囲気は、見た目どことなく幼さが残るようであった。だが話してみると、見た目とは裏腹にしっかりとした大人の女性の振る舞い。今日一日数名のキャバ嬢と呼ばれる女性達を見てきたが、そのどの娘とも違う印象。
 
「ごめん。聞いていなかったけど……君の名前は?」
 
「そういえばお互い名乗ってなかったですね」
 
「そっか、俺も言ってなかったね。えっと……東山って呼んでね」
 
「東山さんですね。私は……愛華です。よろしくお願いしますね」
 
この時ヘルプで付いただけのキャスト。おそらく理沙が戻って来るまでの、僅かの時間だけしか話す事はないであろうキャスト。それなのに東山は、妙にその愛華と名乗ったキャストの事が気にかかっていた。ヘルプ嬢だからという理由なのか?一切営業トークが入る事のない素直な会話。先ほどまでの理沙との会話が全てバーチャルだとするのならば、彼女との会話はただ素直にリアルなものであった。
 
「お仕事は何をされているんですか?」
 
よく使われるトークの一つだ。普通なら初対面のホステス達に素性を話す事などは無いのであろうが、思わず東山も本当の事を話してしまう。これも愛華の不思議な魅力のせいなのだろうか……。
 
「薬剤師さんなんだ。ひょっとしたら私の先輩だったりして?」
 
「えっ?ひょっとして現役の学生さんなの?」
 
「いいえ。ちゃんと卒業しましたよ。ついこの間ですけどね。石川大学の経済学部でした」
 
「びっくり。本当に後輩なんだ」
 
「やっぱり同じ大学なんですか?なんだか嬉しいです、先輩」
 
思わず雄司にもその事を嬉々として話す東山。詩織も交え四人でその事で盛り上がる。聞くところによると、詩織と愛華はフェンディーで最年長の二人という事もあって、私生活でも仲の良い友達関係であるという。だからと言う訳ではないのだろうが、詩織は東山に愛華の色々な楽しい一面を話してくれる。そんな中東山から発せられた言葉。その一言を雄司は聞き逃さなかった。
 
「今度から愛華さんの事、後輩って呼ぼうかな?」
 
次回を予感させる一言なのか?さすがに親友として、その時ばかりは本音か虚言かどちらなのかは容易に判断できた。表情が先ほどとは違うのである。今日の東山の行動は解読不可能なものが多かった。結果キャバクラにははまらない……。そう感じていたのだが、今まさに東山の気持ちの変化を目の前で確認している。
 
「あっ。雄司先輩。煙草の灰……落ちちゃいますよ」
 
愛華がなんの策略もなく、ただ素直に雄司にも先輩と声をかける。
 
「えっ?俺も先輩?」
 
「違うんですか?東山先輩と同級生さんなんですよね?」
 
思わず顔を真っ赤にする雄司。その横では同じく、東山も先輩と言う響きに照れている。学生時代に感じていたような甘い感覚。二人は久しぶりに味わうその感覚を素直に楽しんでいた。
 
 
 
 楽しい時間ほどすぐに経過してしまうものだ。ローテーションの時間がすぐにやって来る。黒服がテーブルにやって来て愛華の名前を呼んだ。
 
「ありがとうございました。これからもヘルプで付けた時には、楽しいお話聞かせて下さいね。先輩」
 
「俺も楽しかったよ。また来るから……」
 
「はい。理沙さんによろしくです」
 
そう言って彼女は去って行った。最後に愛華が言った言葉。この日の東山には、まだこの言葉がどういう意味なのかは理解することが出来なかった。程なくして理沙が戻って来る。すぐに先ほどまでの空間へと戻るコーナーのボックス席。雄司の目に映る東山の笑顔は、どことなく遠くを見ているように見えた。
 
 
 時間は過ぎ、現実へと戻る為チェックを済ませた二人。コートを羽織ると店の外へと足を向ける。
 
「あっ……東山さん」
 
見送る為二人について来た理沙と詩織。だが不意に東山に声をかけてきたのは詩織のほうだった。周りに聞こえないように静かに話を続ける。
 
「愛華ちゃん言い娘でしょ?理沙ちゃんには黙っててあげるからね」
 
そういって片目を閉じ、何やら合図をする素振りを見せた。その光景が気になったのか、思わず雄司が声をかけてくる。
 
「二人で何こそこそ話しているのさ?」
 
すっかり焼酎が回ってしまった彼は、完全に心のマスクがずれ落ちてしまっているのであろう。真剣な顔で問い詰められた東山は、込み上げて来る笑いを必死で抑えながら答えた。
 
「詩織さんが、雄司が来てくれると本当に楽しいってさ。ね?詩織さん」
 
「もう、東山さん。本人に言わないで下さいよ」
 
シンクロニシティー。とっさのアドリブは見事に調和する。まるで会話のセッションだ。
 
「何言ってんだい。二人して俺をからかっているんだろう?」
 
そう言いながらも、その口元が緩んでいる事は誰が見ても明白であり、三人はその事を楽しそうに笑っていた。静かにベルの音が鳴る。エレベーターが到着した合図だった。乗り込んだ男達に二人は手を振り、そしてお礼の言葉を発する。
 
「東山さん。またメールするね。今日はありがとうございました」
 
「雄司さんがこれ以上お酒飲み過ぎないように、しっかり見張っておいてくださいね」
 
再び詩織の下へと戻ろうとする雄司の手をしっかりと掴む東山。やがて詩織と理沙の姿は、扉にその姿を隠されていった。
 
 
 
 まだまだ人込の絶えない夜更け過ぎ。再びスクランブルに戻って来た二人。もはや今日の感想を聞く事など意味がないと感じた雄司は、自分のお気に入りである詩織について問いかけてみた。
 
「どうだった?実際に詩織を見て」
 
「すこしお前の気持ちがわかったかな?俺的にも、亜由美さんより詩織さんの方が一緒にいて楽しかったしね」
 
「まあそう言うな。あれでいて、亜由美にも可愛い所はあるんだぜ?」
 
「はいはい。わかったよ」
 
数時間前に比べて、随分と東山の回答が変わっている事が分かる。友人を変えてしまったのは、おそらく美雨でも理沙でもないだろう。雄司はその考えを心の中にしまいこみ、そして何事も無かったように歩き出した。
 
「さて。ワトソンに行くんだろ?」
 
「おっ?珍しく乗り気だね?」
 
「まだまだ語り合いたい事がたくさんあるだろうからね」
 
「違いない」
 
この日の片町の夜もまだまだ終わる事はなかった。むしろ始まったばかりなのかもしれない。二人は信号が変わると、早足でバー・Dr・ワトソンがある区画へと消えて行く。二月の空には珍しく空を覆っていた雲は綺麗に消え、彼らの頭上にはネオンに負けることなく星達が輝きを放っていた。
 
 
 
 北陸一の都市金沢。そこから距離にして数百キロは離れているであろうその場所にも、ネオンが輝く歓楽街があった。日本有数と言っていいほどの規模。人によっては新宿歌舞伎町よりも活気があると言う意見もある。そこでも街の雑踏は、まだまだ終わりを見せる様子がなかった。
 
「未耶美ちゃんお疲れ。ん?誰にメール送っているのかな?」
 
「お疲れ。そんなにニヤニヤしなくても、お客様にだよ」
 
「ふうん?でも営業にしては楽しそうだよ?」
 
「まあね。月に一回。出張の度に来てくれる人なんだ。なんていうか……」
 
「ん?」
 
「駄目な兄貴を見ているような……。いい人だけどね。こっちも楽しくいられるから」
 
「いいなあ。私なんて、エロ客とかキモ客とかが多くて辛いよ。私もお兄様が欲しいね」
 
「そのうち現れるよ。きっと」
 
「そうかな?期待しています。それじゃあ未耶美ちゃん、先に上がるね」
 
「あっ、そうだ。空を見上げてみて」
 
 
未耶美が指を指す方向には、見事な光を放つ満月が浮かんでいた。
 
 
「すごい。この季節には珍しいよね?」
 
「さっき雲が流れたかと思うと、一気に星が見え始めたんだよ」
 
月明りの下、その光を魅せられたように眺める二人。その輝きの魔力なのだろうか?時間が止まってしまったようにも感じる。
 
「今この瞬間……、この月を見ている人が日本中にいるんだろうね」
 
「何処にいてもこの美しさに感動しない人はいないよ」
 
「もっともこの時間だし。月を見ているのは夜の住人達ばかりだろうけどね」
 
「違いない」
 
思わず吹き出す二人。時間が再び動き出す。
 
「さて。それでは帰ります。未耶美ちゃんもあんまり遅くならないようにね」
 
「ありがとう。おやすみ、美羽ちゃん」
 
「おやすみ……」
 
 
夜更けすぎ。光を求めて歓楽街へと繰り出す人々。様々な思惑が入り乱れる世界。華やかな面もあれば、その影で泣く人間もいる。だが月だけは嘘偽り無く、平等に街を照らし続けていた。
  
 
 
     第二章 第1節 ~ 終 ~

「失礼いたします。本日のお会計ですが……」
 
美雨がなんとか東山達を引き留めようと頑張っている所に割って入ってきた男。一瞬ちらりと笑顔で何かを雄司に伝えるようにも見えた。
 
「東山さん……。今日は楽しかったよ。メールするしまた飲みに来てね」
 
「時間が作れたらね。今日は楽しかったよ。ありがとう」
 
内心どう思っていたのかは当の本人にしか分からないのだが、会計を済ませた客をこれ以上引っ張るわけにもいかない。どうしても渋々にしか見えなかったが、美雨は東山を見送る為に扉の方へと歩いていった。
 
「ねえ、雄二さん」
 
「なに?」
 
席を立つ時あえて時間をずらした亜由美が雄司へと問いかけてくる。珍しく見せた真面目な顔つきが、一瞬雄司の背中に冷たいものを流させる気もした。
 
「東山さん美雨ちゃんに逢いにこれからも来てくれると思う?」
 
「いや……。今日の反応から察するに、キャバクラにははまらない気がする」
 
「そうかな?結構楽しそうにしていた様に見えたんだけど……」
 
亜由美は何か……決してよろしくない事を考えている様子であった。他人の世話を焼くような性格ではない事を、雄司もしっかりと把握している。おそらく自分の成績にとってプラスになる……そんな計画をこの短時間の間に練っていたのであろう。
 
「……さん。雄司さん。聞いているの?」
 
「あっ、ごめん。ちょっと考え事をしていた」
 
「まったくもう。亜由美また泣いちゃうよ?」
 
「それは勘弁してくれ」
 
「とにかく、今度また東山さんを連れてきてね。亜由美からのお願いだよ?」
 
「はいはい、努力いたします」
 
「ほら、雄二さん。早く行かないと東山さんが待っているよ」
 
亜由美に背中をおされ店をでる。廊下にでると、エレベーターの前で美雨と楽しそうに話をする東山の姿があった。二人はドアが開ききるのを待って、現実世界である地上一階へと続く小さな箱に乗り込む。
 
「ありがとうございました。またお待ちしています」
 
先ほどまでの裏を感じさせる真面目な表情はすっかり消えうせた亜由美。美雨と二人閉じ行く扉の向こうで手を振り続けていた。
 
 
 
「どうだった?」
 
アール・ビル地上一階。巻寿司屋にはホステス達へのお土産を選んでいる大人達の姿があった。煙草に火をつけ一吹かしすると、雄司が興味津々に聞いてくる。
 
「美雨ちゃんか?正直最初は驚いたよ。昔好きでたまらなかった女性の生き写しだったしね」
 
雄司の煙草を一本奪い一緒に煙を並べる。少しの間フレーバーの香りを黙って楽しんでいた東山だったが、靴の裏で火を消し言葉を続けた。
 
「けど。顔は生き写しであっても、沙耶歌とは……好きだった娘とは全くの別人。はまらないよ」
 
 
雄司は返答に困っていた。さっきの質問に対する東山の真面目な回答にである。ただキャバクラ初体験に対する感想を求めただけだったのだが……。
 
 

 冷たい風がビルの間を吹き抜ける。思わず背中が丸くなってしまう二人。身体に蓄えられたはずのアルコールが、瞬く間に消失していくのが分かる。
 
「それで東山。バーを予約してあるって言っていたけど……」
 
「ああ……、あれ?美雨ちゃんには悪かったけど、ワンセットで店を抜けるための言い訳」
 
「なるほど……って。嘘であれだけキザなセリフを言っていたの?」
 
「結果的に予約をしている……っていうのは嘘だったけれども、それ以外は本当だからね。普通に思った事を言っただけだよ」
 
苦笑いを浮かべながら東山は言い放った。
 
 
 
 片町スクランブル夜の十時。歓楽街の喧騒は今まさに絶頂を迎えている。煙草を補充する為にドーナツ屋横の自動販売機にコインを入れる二人。そんな彼らに声をかけてくる黒服の数はいちいち数えていられないほどであった。
 
「どうするの?少し早いけどワトソンに行くか?」
 
組んでいた予定をあえて破棄した提案を投げかける雄司。決して友人を試したわけではなく、そうするのがこの時一番良い選択であると思ったからであった。ラヴィアン・ローズでの東山の行動は全く読み取る事が出来ず、また理由は分からないのだが湧き上がる不安。それは次に東山が発した言葉で益々と膨れ上がっていった。
 
「えっ?フェンディーの詩織さんを見に行かないと」
 
この日俺は取り返しのつかない事をしてしまったのではないのか?雄司の感じた小さな不安は今確実に大きなものへと変わっていく。
 
「いや、別に無理して詩織に逢いに行かなくたっていいんだぞ?」
 
弱気になった。当初東山をキャバクラにはめてやろうと目論んだ自分ではあったのだが、今はただ友人の事が心配になる。ここで引き返せばこの世界に足を踏み入れる事もない。そう考えたのだが、この時すでに運命は動き始めていたのかもしれなかった。神の悪戯か?二人に近づく一人の黒服。まるでこの時この場所で遭遇する事が決められていたかのようであった。
 
「おはようございます雄司さん。詩織、今日はもう出勤していますよ」
 
声をかけてきたこの男こそフェンディーの黒服である徹也であった。いつもならここで楽しく会話が始まる二人なのだが、思わず言葉に詰まった雄司に徹也も不思議な顔をしている。
 
「どうしたんですか?なんだか挙動不審ですね」
 
「そっ……そう?そんな事ないよ」
 
「じゃあ行きますか。いつものセット……、雄司スペシャル付けますね」
 
店に来るのが当然のような徹也の振る舞い。いつも雄司がどういった生活を送っているのかが容易に理解できる。
 
「今日は大学のダチと飲んでいるから……」
 
「お二人様ですね?それじゃあ御案内いたします」
 
「いや、徹也君。今日は……」
 
そんな彼の言葉を制したのは東山だった。無言のまま雄司の肩を軽く叩くと、背中を押して徹也の後を歩き出す。
 
「お連れ様は今日御指名の方は?」
 
「初めて行くから指名はないよ」
 
「ありがとうございます。今後もよろしくお願いしますね」
 
レール上の列車が静かに動き始める。三人は足先を同じ方向へと向け歩き出す。目指すのは十億年ビル。クラブ・フェンディーが入る片町の砦の一つであった。
 
 
 再び現実世界から空へと向かう小さな箱に乗り込む二人。上昇をやめ、開いた扉の先にあるエンブレムはClub Fendi。黒服に案内されソファーに腰を下ろす二人。ラヴィアン・ローズの騒がしい雰囲気とはまた一味違う落ち着いた空間であった。黒服が作る焼酎のお湯割りと、運ばれてきた麦酒で取り急ぎ乾杯をする二人。先ほどまでの怯える猫のような東山はもはやいない。雄司は再度キャバクラを初めて体験した感想を友人に聞いてみた。
 
「お前……ひょっとしてキャバにはまったんじゃない?」
 
「今日初めて来たんだぞ?そんな簡単にはまるかよ」
 
「そうか?それならいいんだけど。でも本当にフェンディーへ行こうなんて言うから」
 
「お前がよく話題に出す詩織さんってのを見てみたいだけだよ。どんな営業なのかなって」
 
「亜由美や美雨とは違うタイプだな……って。やっぱりキャバにはまり始めていないか?」
  
どうにもこうにも東山の考えている事が読み取れない雄司は、さらにしつこく聞いてみた。
 
「正直……」
 
ゴクリと唾を飲み込み彼の返答をじっと待つ。たいした時間が過ぎる事も無く、すぐに言葉は続いた。
 
「今日は奢りだから来たけれど、自分で金を払ってまで来たくはないね。ワトソンでカクテルが何杯飲める?」
 
身体中の力が一気に抜ける。思い過ごしだったのか?今日東山についた美雨は、恐らく色恋営業をするタイプのキャストだろう。だがこの男はそんな演技には騙されない。今更だが雄司は、長年付き合ってきた友人の歩んできた人生を思い出した気がする。ある意味色々と人の裏切りを経験してきている東山には、あれくらいの演技は何の誘惑にもならないのであろう。
 
「ちょっと安心したよ」
 
安堵の息をもらす雄司。焼酎のお湯割りを一気に飲み干すと、煙草を一本取り出した。
 
「ちょっと雄司さん。煙草吸い過ぎだよ」
 
「うわっ。お……、お疲れ詩織」
 
「おまたせ雄司さん。あっ。こちらが噂のお友達ね?」
 
雄司が思わず落としてしまった煙草を拾い上げ、彼のグラス横にそっと置く。席につく前に軽く東山に頭を下げ、そして挨拶の言葉を発する。
 
「初めまして。詩織です」
 
東山にとってのキャバクラというものは、先ほど行ったばかりのラヴィアン・ローズが全てである。だがブラウン管の中で見ることがあるキャバ嬢というものを、確実に体験したはずであった。今彼の目の前にいるのも確実にキャバ嬢と呼ばれる女性である。だがその醸し出す雰囲気は、決してそれとは違うものに感じさせる。
 
「えっと……。東山です。いつもうちの馬鹿息子がお世話になっております」
 
思わずかしこまってしまい、おかしな返答をする。その様子にコロコロと笑う詩織に、その場の主導権はすっかり持っていかれたようだった。
 
「こいつがどうしても詩織さんに会いたいっていうから」
  
「そうなんですか?どうせ雄司さんの事だから悪い事ばかり言ってそう……」
 
そう言ってちらりと東山を見る。目力を感じる視線。世の中にはこれで言葉以上に意志を伝える事ができる人間がいる。彼女もきっとそのうちの一人に違いない。
 
「そんなこと無いよ。よっぽど詩織さんの事が大好きなのか、この店の事ばかり言っているよ」
 
「そうなの?ちょっと安心」
 
再び雄司に顔を向けると、首をかしげニコリと笑う。その時の雄司の表情は、なんとも言えない力の抜けた顔をしていた。最初詩織という女性に対して少し緊張を覚えてしまった東山ではあったが、すぐに冷静を取り戻す。詩織の優しい口調が場を和やかにするのだろう。そうして三人でたわいのない会話を楽しみ出した時、一人の黒服がキャストを連れてテーブルまでやってきた。
 
「失礼します。理沙です。よろしくお願いしますね」
 
理沙と名乗る女性はソファーに腰を下ろすと、一枚の名刺を東山に差し出し頭を傾げて微笑んだ。

キャバクラのシステムについては先ほど雄司から少なからず聞いていた東山ではあったが、こういったパターンはシュミレーションしていなかったみたいである。この場合は顔も見ていないのに指名ということになるのであろうか?東山は目で意見を求めるのだが、雄司は亜由美に友達を連れてくるように話す。
 
「ありがとう。凄くいい娘なんだ。よかったらまた指名してあげてね」
 
亜由美は黒服を呼ぶと、その娘をこの席に連れてくるように指示をだした。
 
 
 
時間にしたらほんの一分も経っていないのだろう。亜由美はすぐに雄司と喋り始め、東山は一人で今からやってくるキャストを待つ羽目となった。緊張からかなり長く感じているのだろう。やたらとソワソワし、店内をキョロキョロと見回し……。雄司は見ていない素振りをしながらも、きっちりその様子を楽しんでいた。
 
「美雨さんお願いします」
 
店内にその声が聞こえて間も無く。黒服に連れられた一人の女性が店の奥から席へと向かって来る。スラリと整ったボディーライン。普段の生活ではまず目にする事が無いであろうその美しいドレス姿。心の中では自分の席につく事を確信しているのだが、なんとなく直視することができずに視線を逸らしてしまう東山。そんな男に彼女はやさしく声をかけて来た。
 
「初めまして。美雨です」
 
東山はその声に視線を向けるのだが、瞬間雄司も見たことの無い動揺を見せる。
 
「さっ……。沙耶歌?」
 
札幌時代から色々と辛い恋を経験してきた東山。そんな中、心の一部が壊れてしまったあの頃から四年。女性を本気で好きになる事が出来なくなっていた彼が再び本気で気持ちを向け、そしてもう逢う事が出来なくなった唯一の女性。そんな愛しい女の生き写しのような姿がそこにあった。
 
「美雨ですよ。誰か知り合いの方に似ていましたか?」
 
一瞬目を疑ったのだが、その声は東山の記憶の中にあるそれとは違うものだった。
 
「あっ……ごめん。美雨ちゃんだね。あまりに昔知っていた娘に似ていたものだから」
 
正気に戻った東山は、あわてて彼女に頭を下げる。
 
「昔の彼女さんとか?」
 
そんな彼に嫌な顔一つ見せずに、美雨は優しく微笑み答える。
 
「彼女……じゃないよ。ただ本当に、胸が苦しくなるくらい好きだった娘にそっくりなんだ。ごめん……変な事言っちゃったね」
 
「いいですよ。私に逢っている時はその娘の姿をだぶらせて下さい。東山さんの心が癒されるのなら……」
 
「いや……。そんな失礼な事出来ないよ。美雨さんに逢っている時は、美雨さんと過ごさなきゃ」
 
「ありがとうございます。でも東山さんみたいに真面目に接してくれると、私もなんだか緊張してきちゃった」
 
照れた表情を隠そうとする美雨。軽く会釈をすると、そのまま東山の横に静かに座った。
 
 
ここ暫く忘れていた女性に対するときめきに近い感情。この時出会った美雨が悪かったのか?昔の熱い思いがどんどん甦っている。決して沙耶歌と呼んだその女性ではなく全く別の人物であるのに、東山は逢いたくても逢えないその娘の姿を重ねていった。その様子は明らかに先ほどまでの東山の姿ではなく、雄司と亜由美は予想もしていなかった展開に声を出す事もなく見入ってしまう。そんな東山が美雨を場内指名するまでに、さほどの時間もかかることはなかった。
 
 話が弾む。時には二人だけで、時には四人で……。自称ハードボイルドの東山だけあって、普段は本当にニヒルな姿を見せることが多い。それだけにこの時の感情を隠さない、むしろ抑える事の出来ない友人の姿には驚かせられるばかりであった。自分の行動を肯定する為に東山をキャバクラに連れ出した雄司ではあったが、心のどこかから心配という感情がこみ上げてきている。
  
「うわあ、可愛い。なんて名前なの?」
 
その声に我に返った雄司。美雨が東山の携帯画像を見て声を上げている。
 
「サザって言うんだ。可愛い俺の娘」
 
「じゃあこれからは、東山さんの事サザって呼ぶことにしよう」
 
「なんでやねん」
 
「決めた。携帯の登録もサザにしておくね」
 
どうやら東山が可愛がっているウサギの話で盛り上がっているようだ。驚くことでもなくキャバでは普通の出来事ではあるのだが、すでに二人はメールアドレスの交換までしていた。もう少し時間が経ってからだと思っていたのだが……。
  
「すみません。そろそろお時間が来たのですが……」
 
あっという間のワンセット終了。黒服が延長の交渉にやってきた。
 
この短時間のうちに、どう見ても何らかの変貌を遂げてしまった東山。どう成長したのか?いや、むしろどう堕ちてしまったのかを判断するにはこの瞬間以外にはない。おそらく美雨はキャバ嬢お決まりのトークを使って、東山を引き続きこの空間に引き止めるであろう。その時彼はどういった行動にでるのであろうか。先ほど生まれた心配という気持ちは、再び友人に対する興味に覆い隠されていった。
 
「さて、東山どうする?俺はどっちでもいいよ」
 
雄司は意地の悪い笑顔で問いかける。それに呼応したのかどうかは定かではないが、亜由美と美雨も延長を促すように営業をかけてきた。
 
「東山さんもう少しゆっくりしていくよね?美雨ちゃんと折角こうやって知り合えたんだし」
 
そう言って亜由美はちらりと美雨に視線を送る。
 
「もう少し一緒にいたいな。東山さんって色んな事知っているし、美雨も久しぶりに楽しくて……。仕事って事を忘れて過ごしていたんだよ」
 
今となっては亜由美達が自分に対してこういった営業をかけてくる事は無い。今日の二人のこのトークは、雄司にとっても非常に新鮮であった。同時に雄司がキャバクラにはまり始めた頃を思い出させ、切ない気持ちにもさせていた。昔同じ道を歩んだ結果、今こうやってキャバクラに通ってしまっているのだから。
 
「さあさあ、東山くんどうしましょう?」
 
決断を迫る雄司の言葉に、亜由美と美雨……そして黒服の視線が一斉に東山へと向けられた。普段あまり見せることの無い屈託の無い笑顔の東山。その口が開く。
 
 
「チェック……でいいかな?会計を」
 
 
おそらく全員が予想を裏切られたであろう結末。先ほどまでの頼りない東山の姿は既に無く、そこにはいつもの背筋を伸ばし凛とした姿で煙草をふかす男がいた。
 
一番驚いたのは美雨ではなく、やはり雄司だったであろう。彼の場合家庭の崩壊、そしてその事から来る寂しさという事もあった。だが東山にしても、もう逢うことの出来ない愛しい女性の生き写しとの出会い……。場合は違えど、この世界に深く足を踏み入れるには十分すぎる条件であるはずだった。
 
「東山さん本当に帰っちゃうの?美雨……東山さんが好きだった娘の代わりにはなれなかったのかな」
 
美雨の最後の攻勢に我に返った雄司。すぐに視線を東山に向けたのだが……。
 
「ごめんね。美雨ちゃん。今日はこの後行きつけのバーを予約してあって……」
 
「だったら美雨も仕事が終わってから連れて行ってほしいな。それまで一緒に居てくれないの?」
 
「そのバーは俺の秘密の隠れ家なんだ。過去の事や未来の事。そういった思いに耽りながらカクテルを楽しむ……」
 
「素敵なお店なんだね」
 
「今日美雨ちゃんに出会って本当にびっくりしたし、久しぶりに楽しい気持ちにもなれた。神様に感謝だよ。けれども……」
 
「けれども?」
 
「そのバーには誰も連れて行きたくないんだ。俺の特別な場所だから……」
 
長い付き合いだというのに、東山のこんなキャラクターは見たことが無かった。二人で一緒にいる時に女性とこういった話をする機会がなかっただけなのかも知れないが、正直こんな言い回しが出来る男だとは知らなかったのだ。同じ男としても照れてしまうのだが、その言葉の数々には思わず注目してしまう。そのやり取りの中、突っ込むことが出来ずにいた雄司を尻目に美雨はさらに言葉を続ける。
 
「美雨はまだ特別じゃないんですよね。美雨は連れて行ってもらえないんだよね?」
 
流石は亜由美が連れてきたキャストだけある。巧みに手法を変えながら攻撃の手を休めない。だが東山はそれらを全て交わし続ける。そんな永遠に続くかと思われたこの状況を打破したのは意外にも一人の黒服だった。
「おい東山。向こう側へ渡るぞ」
 
東山の返事を待つことも無く、雄司は青に変わった交差点を足早に渡り始めた。まさに唯我独尊。悪い面も何一つ昔と変わらぬ雄司の行動に、東山は溜息交じりの笑顔を送った。
 
「おい雄司。急にどうした?フェンディーの店長とやらが見つかったか?」
 
先に渡り終えた雄司は、ドーナツ屋と道路を挟んだ角にいる街宣の黒服と話を始めていた。そのすっかりと仲の良い光景に、東山はその男がフェンディーの店長だと確信したのだが……。
 
「おう東山にも紹介しておくな」
 
「フェンディーの店長か?」
 
「いや……。クラブ・I’sの黒服で、比呂斗君」
 
「やっぱり出てきたよ……。第四のキャバクラが」
 
一瞬崩れ落ちるかと思われるくらいの脱力感が東山を襲うのだが、そんな事はお構いなしに雄司は比呂斗となにやら話しを始める。
 
いったいこの二ヶ月余りの間に、雄司はどういった行動をとっていたのだろう?スクランブルにいる黒服達との交流の多さ。それはつまり、彼の飲み歩いている頻度の多さと深さを意味するのである。
 
「おい雄司。そのクラブI’sとやらには、何ちゃんっていうお気に入りがいるんだ?」
 
決して興味から聞いたのではなく、彼の行動に対する呆れから突っ込んだ東山の質問。そんな意図には気付くことなく雄司は楽しそうに答えた。
 
「沙耶ちゃんって言ってな。詩織や亜由美さんとも違うタイプなんだよ」
 
「どう違うんだ?」
 
「賢い感じで……。そう、友達感覚に飲みにいける娘かな?」
 
それ以上この話を引っ張ることなく、東山は煙草に火をつけ二人のやり取りが終わるのを待つことにした。傍から話を聞く限り、このクラブI’sの比呂斗君は他の店への斡旋も得意としているらしい。たまたまI’sが込み合っていたこともあってか、雄司は携帯で他の黒服をこの場所まで呼び出してもらったようであった。
 
「サンキュー比呂斗君。今度またI’sにも顔出すからね」
 
「いつもの飲み放題プランを用意してお待ちしていますよ」
 
そうしてしばし雑談なんかをしていると、息を切らしながら一人の黒服が駆け寄ってきた。雄司は比呂斗君にお礼を言うと、そのままやってきた黒服と共に歩き始める。
 
「そら、東山行くぞ」
 
「はいはい。もう観念したよ」
 
なにやら盛り上がっている二人の後を、とぼとぼと東山はついて行く。向かった先はアール・ビルだった。
 
 
 エレベーターを下りてすぐの所に雄司が見慣れた目的の店はあった。よくテレビで見るような、いわゆるキャバクラらしい門構えはない。ビルのテナントとして入っているので仕方はないのであろうが、逆にその派手ではないドアの作りに東山は不安を感じずにはいれなかった。
 
「なあ雄司……。マジでこの店って安全な店なんだろうな?」
 
「アホか。危険な店だったら俺も通わないよ」
 
「確かにそうだよな」
 
「さてさて。東山にもいい出会いがあるといいね」
 
「いらないよ。そんな出会い」
 
どうやら雄司が黒服に要らぬことを告げていたようだ。東山の人生初キャバを演出するかのように黒服は高らかに声を上げ、大げさな身振りでドアを開き二人を店内へと導く。
 
「ようこそ。クラブ・ラヴィアン・ローズへ。お客様に今宵素敵な出会いがあらんことを……」
 
求めていた以上に良い演技をしてくれた黒服に、雄司はかなり満足気な様子であった。想像通り東山は借りてきた猫の様におとなしくなっている。外からは想像できないような煌びやかな照明と音楽。ドレス姿の女性達と、その横でだらしない笑みを浮かべた男達。並ぶシャンパンの空き瓶にグラス。見るものすべてが東山にとって新鮮なものであり、そして圧倒される光景だったようだ。
 
ボーイに案内され、角にあるエル字型のソファーに腰をかける二人。すっかりこの空間の雰囲気に呑まれていた東山は、横で寛ぐ雄司の姿さえもが不思議なくらい格好良く見えてしまっていた。運ばれてきたビールを一気に飲み干し、酔いにまかせてこの場を乗り切ろうとする。そんな彼の目に飛び込んできたのは、どうみても先ほど雄司の携帯画像に写っていた女性の姿であった。
 
「雄司さんお待たせ。何?今日はお友達も連れて来てくれたの?」
 
「こいつがどうしてもキャバに行きたいって駄々をこねるから仕方なくね」
 
「そうなんだ。初めまして、亜由美です。えっと……お名前はなんてお呼びすればいいかしら?」
 
先ほど東山が感じた疑問は、今まさに現実であることが証明される。二人の目の前にいる女性は確かに亜由美と名乗ったのだ。店に入る時の黒服の言葉……。クラブ・ラヴィアン・ローズへようこそ……という言葉。先ほど耳に入る事がなかったと思われたその言葉が、記憶の中から沸々と甦ってくる。
 
「東山でいいよ。初めまして、亜由美さん。話はいつも雄司から聞いているよ」
 
その挨拶の深い意味は、確実に鈍感な雄司の心にも届いていた。
 
「まあまあ、東山。ちょっと詩織の所に行く前に、ある意味キャバクラらしい店にも連れて来てあげたくて」
 
亜由美に聞こえないように東山の耳元で囁く。悪びれた様子はなく、全てを楽しんでいる様子であった。
 
「……構わないよ。どうせ君の奢りだから」
 
「ちょっと待て。ワンセットだけだろ?」
 
「詩織さんの所のワンセットだろ?予定外に連れて来られたこの店の払いをする気はない」
 
本当はさほど怒ってはいないのだろうが、ちょっとイラだった様子で雄司を畳み掛ける。東山が本気で怒った時の怖さを知っている雄司は、素直にその要求を呑むことにした。
 
「今日だけだぞ?」
 
「大丈夫。今日だけしかキャバクラになんて来ないから」
 
そんなやり取りから除け者にされていた亜由美が二人の間に割ってはいる。
 
「ちょっと雄司さん。私の存在忘れているでしょう?」
 
怒ったような、それでいてどこか拗ねたような表情で雄司に擦り寄る彼女。その様子はまさにブラウン管の中で見る光景であり、他人事のように見ていた東山にさえ不安と興味を感じ始めさせていた。
 
「あっ、東山さんごめんなさい。雄司さんが冷たいからつい……。今日初めて来たんですよね?」
 
「ああ。ここが初めてというより、キャバクラに来るのが初めてというか……」
 
「そうなんだ。それじゃあ亜由美の凄く仲のいい友達を紹介したいんだけど……。連れて来てもいいかな?」

「つまりだな。もともと仕事で名古屋に行った時に先輩に連れて行かれたのが俺のキャバライフの始まりであって……」
 
「名古屋でも行っているってことだね?大概キャバが好きなんだ」
 
「あくまで仕事の付き合いなのよ。もともと亜由美の所も接待で使うのに行っていただけだし」
 
「もともとだろ。今はどうなんだよ?」
 
「今か?」
 
雄司は再び携帯を手に取ると、なにやら操作を始めた。先ほどまでの言い訳苦しい表情はすっかりと消えうせ、奢ったような表情で何かのデータを探している。そんな友人の行動をすでに見ようとしていなかった東山は、焼き鳥屋の女将に追加のシソ巻きを注文していた。機械音痴の雄司にはいつまでたっても探している物が見つからないのか、気がつくと時間は五分ほども過ぎている。東山はジョッキの麦酒を飲み干すと、さらに御代わりを注文していた。
 
「あった」
 
ようやく探し物が見つかったのか、雄司は携帯の画面を東山に突きつけ、自信満々に言い放つ。
 
「これが亜由美。どうよ?むちゃくちゃ可愛いだろ?」
 
「ごめん。何か言った?」
 
ジョキを片手に持ったままTVに心奪われていた親友であろう男の意識が戻ってくる。
 
「お前なあ……。人が必死で亜由美の写真を探していたというのに」
 
深い溜息をつきながら思い切り肩をおとす。演技ではなく本気で落胆するのに必要な理由なのかはおそらく雄司自身にしかわからないであろう。そんな様子を見ていたのか見ていなかったのか、東山は再びTVに意識を戻し、ついでに言葉を続けた。
 
「キャバ嬢に必死になれるお前が凄いよ」
 
「別にキャバ嬢に必死なんでなく、写真を探すのに必死なだけです」
 
「っで、どれが亜由美さんだって?」
 
「ああ、そうだった。これだよ」
 
必死で今の話題に戻そうとする雄司の心意気を買ってか、ただしつこく感じて話を流そうとしたのか。東山は携帯を奪って画面に目をやった。ただその後の言葉が続かない。
 
「あれ?感想は?」
 
「さっきの未耶美ちゃんだっけ?あの子は確かに俺も好みだった。けど……」
 
「けど?」
 
「亜由美さんはちょっと俺のタイプではないね。まぁ可愛い娘ではあるけども」
 
興味がまるで沸いていない様子が見て取れる。閉じられた携帯が雄司の下へと戻ってくる。自分のお気に入りの女の子を否定され少し気分を害したのか、さらに食って掛かってくる。
 
「はっ?亜由美の可愛さが分からないなんてお前の趣味がおかしいって。まあ昔から……」
 
「昔からなんだよ?」
 
「お前の女の趣味は他の連中とはちょっとずれているからな」
 
「失礼な。俺の好みがスタンダードだって」
 
「はいはい。わかったよ」
 
「ぜったい分かってないだろ?」
 
「分かっていますよ。東山くんの趣味は特殊だってことだけね」
 
「超むかつく。その台詞超むかつく」
 
まるで子供の喧嘩のようである。二人は互いに今年で三十二歳になる立派な大人なのだが……。
 
「なんか納得できないなぁ。それなら詩織さんの写真を見せてみろよ」
 
「いやそれが……」
 
「ん?」
 
「あいつは写メ取らせてくれないんだよ」
 
「どうして?」
 
「最近太り気味だから嫌なんだって」
 
「太っているキャバ嬢なんだ」
 
「そんなわけないだろ?どちらかといえば痩せているくらいだよ」
 
「とりあえず、詩織さんも雄司の好みのタイプなんだろ?」
 
「いやいや。一緒にいると癒されるって感じだけど、顔は亜由美が断然好みだよ」
 
その言葉に何かを考え出した東山。酔っ払っているとはいえ、昔からどうでもいいことにこだわる性格は変わっていない様子であった。この後雄司の狂い始めていた予定が、もとの道筋に戻る事となる。
 
「詩織さんの顔を見てみたいな」
 
展開的にはかなり強引なようにも感じたのだが、何はともあれ東山が詩織に興味をもった。つまりは初めてのキャバクラ計画へともって行くことが出来るのである。決して一緒にキャバクラに通いたいという訳ではなく、年末から散々自分の行動を否定していた男の動向を見てみたい。ただそれだけが今日の目的だった。
 
「二軒目はどこに飲みに行く?バーに行くにはまだ早いだろ?」
 
「ん?カラオケかビリヤードにでも行こうさ」
 
「それでいいの?」
 
「どうして?」
 
「いやいや……。詩織の顔を見てみたいって言っていたから」
 
「アホか。興味はあるけれど、そんな馬鹿な金は持っていないよ」
 
「じゃあ俺が奢るって言えば?行く?」
 
「俺はキャバクラになんて行きたくは……。奢り?」
 
案の定奢りという言葉の網に気持ちが引っかかった様子である。もともと異常とも言えるくらいの探究心とチャレンジ精神をもった東山。今回にしても金銭面というセーフティーレバーがかかっていただけであって、言わば無料で探検が出来るのであれば乗ってこない男ではなかった。もっとも雄司の予想以上に素早い切り替えではあったのだが……。
 
「ワンセットだけなら奢ってあげるよ。行くか?」
 
針先の餌をつついている魚の様子を慎重に伺っている釣り人。
 
「そうだな。お前が普段どれだけ馬鹿な行動をしているのかは見てみたい」
 
美味そうな餌をつついては見たが、まだまだ食いつくほどには警戒心の解けていない小魚。
 
「素直に行ってみたいと言えばいいのに」
 
「あのな?決して俺は女性のいる店が好きなのではなく、むしろ苦手なんだよ」
 
「スナックにはよく行っているじゃん」
 
「あれは部下の幼馴染が勤めているから行き始めたのであって……」
 
「まあなんでもいいよ。そしたらメールだけ入れておくし」
 
「マジで行くの?」
 
「あれ?やめておくの?臆病風でも吹いたのかな?」
 
「誰が臆病者だって?奢りだったら一回くらいキャバ探検っていうのも付き合ってやるよ」
 
釣り人は魚が針を飲み込んだ瞬間を逃さなかった。一気に釣り糸を巻き取ると、そこには意外にも大物が引っかかっていた。
 
「了解」
 
そう言って雄司はいつもにも増して早い指さばきでキャバ嬢であろう女性にメールを送った。その行動に東山が突っ込みを入れる間も取れないくらいの速攻で返信が入る。
 
「……早いな。返事」
 
「そりゃあ俺は愛されているから」
 
「客としてだろ?」
 
「男としてじゃない?きっと俺の魅力にメロメロなんだよ」
 
「俺の目の前に馬鹿が一人いる」
 
「えっ?俺しかいないぜ。さてそれじゃあ会計すませようか」
 
二人は女将さんにチェックを済ませてもらうと、上着を手に取り店の外へと向かう。積雪こそ無いものの、二月の北陸地方の風はまだまだ冷たかった。
 
 
 北陸最大の都市金沢。加賀百万石を称したその城下町の活気は、街中の至る所で感じ取る事が出来た。
 

近江町市場では夕飯の材料を求めてやってくる市民から、冬の日本海の幸を求めてやってくる観光客など様々な人々で賑わいを見せている。

 
日本三名園の一つとして名高い兼六園では、冬の名物詩である雪吊りの美しさを見学する事もできる。
 
そしてここ最近では北陸新幹線の開通を目指して、玄関口である金沢駅を中心に加賀文化を広める為の開発も進められて来た。駅東口の広場には加賀宝生をモチーフとした、鼓門と呼ばれるもてなしドームが金沢へと到着した者達を歓迎してくれる。
 
そうやって変貌と発展を遂げていった街ではあるが、俺達にとってその活気を一番肌に感じ取れる場所はやはり歓楽街片町であった。今も昔も……きっとこれからもそうなのかも知れない。 
 
「いつも言うけれど……」
 
「なんだ?」
 
「片町の喧騒はいつになってもワクワクするよな?」
 
スクランブルへ向かう為にと犀川大通りに出るなり、東山は愉快そうにそう語った。
 
「お前って本当に夜遊びが好きだよな」
 
「確かに好きだけど、向こうにいる時はこんなにワクワクとする感覚にはとらわれないね」
 
「そんなものか?」
 
「金沢は俺の第二の故郷だからな」
 
「そりゃあ良かった。その故郷で今からキャバクラデビューだぜ?」
 
「ちょっと憂鬱になってきた」
 
先ほどまでの嬉々とした表情が、徐々に緊張の面持ちへと変わっていく。目の前にいる男の過去の姿からは、決して女性が苦手という事が想像は出来ない。俺に言わせれば自分よりもよっぽど慣れている様に思う。実際最近もスナックの娘にご執心だった様であるし……。
 
「あれあれ?一樹様ともあろう方が何を緊張しているのでございますか?」
 
「何ってキャバクラだろ?俺……色目使いで擦り寄ってくる様な女って凄い苦手なんだよな……実際。怖いもの見たさの興味でつい誘いに乗ってしまったけど…」
 
「乗ってしまったけど?」
 
「今はちょっと後悔かも…」
 
からかう雄司に反論する事もなく、素で本音を漏らす彼にいつもの面影は全くと言っていいほど見えなくなっていた。
 
「はっ?スナックだって同じだろ?」
 
「違うわ。スナックは本当に楽しく酒を飲んで歌って……。世間一般のやましいイメージなんてないぜ?」
 
「まあ何にせよ、皆はそうやって女性が横にピタリとついてお酒が飲める事が楽しくてキャバに行くんだけど。擬似恋愛ってやつだよ」
 
「俺には理解できないかも。やっぱりお前はあの親父の血を引いているよ」
 
溜息をつき肩を落とす東山。足取りの重くなった彼に色々と余計な知識を吹き込みながら、雄司はスクランブルへと友人を誘っていった。
 
 週末の歓楽街だけあって、特別のイベントがある訳でもない二月の下旬なのだがその雑踏は途絶える事が無い。あえて理由を考えるのであれば、美味い冬の幸に銘酒。それらをさらに高めてくれる北陸の気候が人々を町へと繰り出させるのであろう。
 
「で?どっちに向かうんや?」
 
「ちょっと待ってくれ。今人を探しているところだから……」
 
すっかり落ち着きの無くなった東山を尻目に、雄司はフェンディーの店長である徹也を探していた。いつもなら八時過ぎにこの辺りで客引きをしているのだが、この日この時に限ってその姿を見つけることが出来なかった。
 
「直接店に行けばいいんじゃないの?」
 
何も状態が分からぬまま連れられている東山にとって、雄司の行動は何一つ理解する事ができない。
 
「ん?今フェンディーの黒服君を探しているんだよ。あいつを捕まえたら俺用の特別セットを付けてもらえるんだ」
 
「特別セット?」
 
「イチゴ・ポッキーを付けてもらって、セット料金がなんと五千円になるのよ」
 
「五千円?キャバクラって意外に想像よりも安いんだな」
 
「そうか?五十分ワンセットだけどな。指名料別で……」
 
「……マジ?まさに無駄金」
 
スナックやバーでそこそこ酒を楽しんでも、一夜でせいぜい六千円そこらでお釣りが来る。酒を飲みにでたら三時間は過ごすとしても、最低二万以上の金が飛んでいくという計算に……。東山はブツブツとそんな計算を続けていた。

  第二章
 
   1
 
 煙草女が禁煙したらしい。いつものように喫煙所で休憩している雄司だが、最近彼女の姿を見る事はない。健康増進法とやらができてからは肩身が狭い喫煙者だが、おそらくそんな事は全く関係のない理由なのだろう。俺はどうかと言うと相変わらず喫煙所で携帯をいじっている。この時も東山と今日の待ち合わせについてメールのやり取りをしていたところだった。
 
 前回親友と飲みに出てからもう二ヵ月になる。あいつも仕事が忙しいようで、年が明けてからは金沢に来ることも出来なかったようだ。そんな東山から久しぶりに連絡があったのは先週末のこと。仕事やバンド活動に行き詰って息抜きをしたいという事だった。あいつが弱音を吐くなんて事は長い付き合いの中でも2度くらいである。俺にはそんな東山を癒す術と言えば思いつけることは一つであった。俺がそうだったように、あいつもきっと心の洗濯ができるに違いないと確信している。前回片町に来た時はかたくなに拒否をしてはいたが、たまには羽目を外す事も必要である。俺の奢りで付き合ってもらうということであれば、断る理由を探す事も出来ないであろう。友人を癒してやりたいという思いの他、あいつがどういう行動をとるか……。左肩の白い羽を生やした俺と、右肩の黒い尻尾を生やした俺。若干右肩が重く圧し掛かっている……そういった状況であった。
 
 待ち合わせは例によって中央公園交番前。すでに街中には入っているようで、先ほど数分で到着するという連絡が入った。少し不安になるのだが、また目の前にオープンカーが停車するのではないだろうか?この寒空の中そのような行動を取ったのならば、正真正銘の大馬鹿者でありいつもの東山である。だがそんな期待を裏切り、到着したのは幌を被ったいたって普通のスポーツカーであった。
 
「お疲れ」
 
「久しぶりやぜ?年明けすぐに金沢まで飲みに来るって思っていたけど」
 
「ちょっとばかり仕事の事とかで行き詰っていてさ……」
 
そう答える東山にはいつもの力強さが見られなかった。雄司は助手席のドアを開けると車に乗り込み元気よく声をかける。
 
「よし。まずは夕飯からだね。片町までよろしく」
 
二人は車を置く為、片町から少し外れた所にある雄司の父親の所有地へと向かった。
 
 
 
 二人が向かうのは例によって焼き鳥屋とり吉。どちらかが落ち込んでいる時には必ずここでの乾杯となる。店の雰囲気が酒を飲んで語り合うのにもってこいなのである。シソ巻きを肴に生麦酒で乾杯。互いのここ二ヶ月弱の間にあったことなどを話しながら時間は過ぎていく。
 
「……っで、結局バンドは解散。クリスマスライブが最後だったよ」
 
「どうしてまた?」
 
「お互いの音楽性の違いだね。特にトランペット担当とは方向性の違いでぶつかってね」
 
「なかなか難しいんだね」
 
「仕事でもそうだけど、人間関係ってのが一番大変なんだよ」
 
「それわかる。俺も大変だもん」
 
「ん?お前は実家だからそんな事ないだろう?」
 
「いやぁ……。詩織が亜由美からの受信メールを見てから大変で」
 
何気に冷ややかな視線を待っていた雄司だったのだが、意外にも東山は軽く微笑むだけであった。
 
「おいどうした?てっきりまた怒られると思ったんだけど」
 
「疲れているのかもね」
 
「結構重症だな」
 
「なんだか疲れたよ。お前は元気そうだよね」
 
ジョッキの麦酒を一気に飲み干しさらに注文をする病んだ男が一人。昔から何かに悩んでいる時の東山は、酒を飲むスピードと量がかなり増える。ただでさえ酒豪であるだけに、こういった時の彼について行くのは相当の努力が必要になる。雄司は最初の計画通り別の発散方法を提供する必要を痛烈に感じていた。
 
「しかしお前が俺のキャバクラ批判をしないっていうのが妙に寂しいなあ」
 
「言っても無駄だろ?」
 
「まあね」
 
「そういえばさっき気付いたんだけど、詩織……って呼び捨てになっていたな」
 
「まあ付き合いが長くなると、どんどんフランクにもなるよ。あいつもキャラが変わってきた……っていうか素がでるようになったし」
 
「それでもはまっているんだろ?」
 
「どうだろ?最近は亜由美の方もかわいいからな。顔だけで言うと亜由美が断然好みだしね」
 
そう言って写真を見せようとする雄司。携帯を取り出し画面を開くと、その待ち受け画面には一人の美しい女性の姿があった。
 
「なるほど……。確かに可愛い。しかし俺とお前の趣味が合うっていうのも珍しいな」
 
東山は雄司の携帯を手に取ると、ポーズをきめている女性の画像をマジマジと眺める。その東山の様子を見ながらなぜか気まずそうな顔をする雄司。何かを言いたそうなのだが、その言葉を挟むタイミングを与えない東山の言葉が続く。
 
「これが亜由美さんか。この笑顔で色恋をかけてくるんだな?」
 
「いや、それは……」
 
「ふむ。金沢らしくない女の子だね。ちょっと興味が沸いてきた」
 
「たしかに金沢にはいないタイプかも……」
 
「だよな……。この顔で小悪魔になるのだからキャバクラっていうのは本当に怖い怖い」
 
「あのな、東山……」
 
「なんだ?」
 
「その娘……亜由美さんではないのだよ」
 
「なんだ。詩織さんとやらか。まあ何にしてもキャバ嬢しているだけあって可愛いな」
 
「いや、それは未耶美ちゃんの写真であって……」
 
焼き鳥をはさんで見詰め合う二人。言葉を発する事が消えてしまった気まずい時間。色々な表情で必死で何かを伝えようとしている雄司に、冷たく言い放たれる。
 
「……誰だそりゃ?」
 
再び閉じられた携帯がぽつりと置かれたテーブルが一つ。店にいる他の客の声だけが妙に響き渡る空間。苦笑いをするしかできない雄司の前で、東山は口をあける事しかできなかった。

「雄司。俺本当に泣きたいわ」
 
瞼を開くと同時に雄司に対して口も開く。グラスに残っていたスティンガーを一気に飲み干すと、再び深い溜息をついた。
 
「どうした?煙草の煙が目にしみるの?」
 
「そうそう……《Smoke Gets In Your Eyes》って、違うわ。このボケ」
 
束の間の沈黙。口をポカンと開いたまま固まる雄司。二人の間に流れているのは、レコードから流れるジャズだけだった。
 
「あのな、雄司。お前もなんだかんだ言って、本当は清美ちゃんの事を考えとるんやろうな……って思っていたんやけど」
 
「やけど?」
 
「全然真面目に考えてないやろ?」
 
段々と東山の口調に関西弁が戻ってくる。普段は不思議なくらい流暢に標準語か金沢弁を話す彼だけに、雄司も穏やかではない雰囲気を感じとる事ができた。昔からそうだったのだが、普段温厚に見える東山の心は実に熱い。今回にしても口では飲み歩きに来たと言ってはいるが、離婚して落ち込んでいる雄司の事を本気で心配して会いににやって来たのだろう。
 
「ごめん。真面目には考えるつもりだけれども、今は現実逃避したいっていうのが本音」
 
さすがの雄司も友達にここまで怒られると素直に謝るしか出来なかった。そんな彼に東山はさらに言葉を続ける。
 
「現実逃避したくなる気持ちはようわかる。けどな……」
 
反省している雄司の姿をみて少し冷静を取り戻した東山だったが、今度は説教している自分に酔いしれ始めていた。スティンガーのアルコールがある種の高揚感を生み出しているのだろう。まるでアメリカ人の様なオーバーゼスチャーを交えながら説教はひたすら続いていた。内容的には確かに的を得ており、また自分の為に言ってくれている事もよく分かる。雄司は親友の助言を素直に聞いていた。
 
「まあ、きつい事も言ったけどお前らの為だと思ったから。なんでも手伝ってやるから一緒に頑張っていこう」
 
「うん……。ありがとう」
 
長い説教がやっと終わる。チェイサーを一気に喉へと流し込むと元の穏やかな東山に戻っていた。その時タイミングを計っていたかのようにチーフが東山に耳打ちする。チーフには似合わない意地の悪い笑みを浮かべると、店の奥へと去っていった。
 
「ちなみにもう一つ言いたい事があるのだけれども、その前に一曲俺からプレゼントするよ」
 
その言葉が合図だったのかチーフがレコードを交換する。先ほどまでとは雰囲気が違う曲。何処と無く哀愁漂う、そんな雰囲気の曲が始まった。
 
「これはなんて曲なの?」
 
自分へのプレゼントと言われると、あまり興味がなかったジャズとは言え気にはなる。ニヤケ顔で目を閉じ曲に耳を傾ける東山。彼に代わってチーフが答えてくれた。
 
「はい。一樹さんのリクエストで、《My Foolish Heart》というスタンダード曲になります。日本での曲名は……」

「愚かなり我が心……。今の貴様の事だ」
 
雄司を指差しながら、チーフの言葉を遮り東山が答えた。
 
「ちょっと待て。どうして俺が愚か者なんだよ」
 
東山はまるでロダンの考える人……のようなポーズを取ると、詰め寄る雄司に説明を始める。いつもながら誰の真似だか分からないのだが、まるで推理ドラマにでてくる刑事か探偵のような芝居が入っていた。
 
「お答えしよう。君が愚か者だというその理由を。それはな……」
 
「それは?」
 
「現実逃避はいいが、その矛先を理由にキャバクラなんかにはまっている現実だよ」
 
再度キャバクラ通いのネタを掘り起こされた事に言葉を詰まらせる。正直弁明のしようはない。そんな雄司に探偵はさらに言葉を続けた。
 
「キャバって一回行ったらいくらくらい使ってる?」
 
「まぁ……3~4万かな」
 
「最近は週にどれくらい行っていた?」
 
「今週は三回くらい……。いや、普段はそんなに行ってないよ」
 
「どれくらい?」
 
「週二回くらい」
 
「やっぱり愚か者だ」
 
「……俺もそんな気がしてきたよ」
 
東山に言いくるめられ自分が馬鹿な事をしていた様な気がしてきた雄司。頻繁に片町に出るようになってから、貯金どころか収入以上を食い潰している自分に気付く。人以上に単純な雄司はこのままキャバクラ人生に終止符を打つかに思われたが、運命はまだまだ彼を舞台から下ろす事を許さない様子だった。攻撃に負けそうだった雄司に一件の支援メールが届いたのはその時である。携帯の画面には送信者名として詩織の名前が表示されていた。

「ちょっと待っててね。詩織からメールが来たよ」
 
「お前今自分で愚か者かもって言っていたばかりだろ。おい雄司。聞いているか?」
 
そんな声も全く耳に入らぬ様子。携帯の画面を真剣に見ているかと思うとニヤニヤと笑い出す。そして横で騒いでいる友人を放ったらかしにしたまま返事を打ち込み始めた。間も無く送信が完了すると、雄司は満足気な顔で東山に言い放つ。
 
「東山もキャバクラに行けばわかるよ。この安らぎが」
 
「安らぎ?」
 
開き直ったように答える雄司に一瞬戸惑う東山。そんな彼に言葉はさらに続いた。
 
「たしかに営業メールも来るけれど、ふとした時にくる些細なメールで心が癒される時もあるのだよ。今の俺には傷を癒す為のリハビリが必要なのだよ。」
 
「ある意味高いパケット代だな」
 
「メールは例えだよ。傷ついた小鳥が羽を休める宿木のような場所。それが俺にとってはキャバクラだね」
 
雄司はたまにおかしな理論を持ち出してくる事がある。長い付き合いになる東山には、この屁理屈に対抗することの空しさがよくわかっていた。開き直りではなく完全な自己陶酔に入っていることを意味するからだ。キャバクラ通いをやめさせるという目的が達成できていない事に悔しがる東山だったが、今日はここで話を終わらせたいというのも本音であった。そんな時、素晴らしいガーリックの香りが瞬間店内に広がる。それまで会話を楽しんでいた客達が一斉に無口になりマスターの方へ顔を向ける。雄司もその中の一人だった。

「なあ東山。なんか凄く言い匂いがするんだけど……」
 
ふいに雄司の気がそれる。良いタイミングとマスターの業に感謝した東山が、話の舵取を一気に料理へと向けた。
 
「あれがDr.ワトソン……しいてはマスター自慢の特製ガーリックライス。今から俺達の胃袋に入る一品だ」
 
「マジで?すごく美味そうだよ。今胃酸が吹き出た気がしたもん」
 
「これがここの楽しみ方だよ。良いだろ?」
  
 
しばらくすると明日香さんが完成したガーリックライスを二人の前に持ってきた。焼き鳥を大量に食べた記憶などどこかへ忘れてきたとばかりの勢いでスプーンを口に運ぶ雄司。その満足そうな表情を見ていた東山も思わず微笑んでしまう。自分のお気に入りが認められる喜びって奴だろう。
 
「お待たせいたしました。それでは二杯目のカクテルはガーリックライスに合うもので御用意しましたよ」
 
チーフがグラスを置くやいなや、雄司はガーリックライスを口に含んでいるにもかかわらず手に取り喉へと流し込む。
 
「美味い。凄いねチーフ。ガーリックと逢うカクテルもあるんだね」
 
品なくスプーンとグラスを交互に口へと運び続ける雄司を嬉しそうに眺めるチーフ。東山はもう少し味わって食べろと注意をしていたが、その光景に笑顔がこぼれていた。
 
 
美味い料理に美味い酒。これがあるだけでも人間は幸せになれる。今日は最初から離婚の事やキャバクラ通いの事で繰り返し言い合った二人ではあったが、最後はここDr.ワトソンで楽しい時間を過ごす。時間は流れ時計は深夜の三時過ぎを指していた。
 
「それじゃあ今日は帰るね。良いお年を」
 
雄司と東山は三人に挨拶をすると店を後にした。
 

 かなりの冷え込みの中を帰路につく二人。すでにスクランブルは人もまばらになり始めている。歩きながらたわいのない会話をしていたのだが、東山には先ほどから気になっていた事があった。最後にきた詩織からのメールの内容。雄司が開き直るような特別なものだったのだろうか?再三キャバクラの話を持ち出すのは嫌であったのだが、興味の方が僅かにそれを上回っていた。
 
「なあ雄司」
 
「何?」
 
「ちなみに……さっきの詩織さんのメールはなんて送ってきたの?」
 
「どうした?急に」
 
「いや。ちょっと気になっただけ」
 
雄司はニヤリと笑うと東山に聞いた。
 
「キャバクラに興味が湧いてきたか?」
 
なぜか嬉しそうな笑顔を見せる。
 
「違うわ。俺の言葉に落ちそうだったお前を、再度キャバライフに戻させたメールっていうのがどういう内容だったのかが……」
 
「飲みすぎたらダメだよって。優しいだろ?詩織さん」
 
東山の言葉を待つ事も無く楽しそうに話す雄司。携帯を取り出すと、おそらくそのメールであろう受信履歴を再度読み返す。その様子にもはや呆れる事もしなくなった東山が突っ込みをいれた。
 
「キャバ嬢が飲みすぎるなって……矛盾しているだろ?」
 
「まだまだ分かってないね。一樹くん」
 
「一生わからなくてもいいよ」
 
これでメールについての話は終了。再びたわいの無い会話に戻ると家へと急いだ。
 

二人が酒を交わすのはこの日が二〇〇四年の最後となる。寝床に入り電灯を消した二人は、来年一年の目標や希望なんかを話しながら眠りが訪れるのを待っていた。
 
「なあ、東山」
 
「何?」
 
「年が明けたら、一度一緒にキャバクラに行こうな」
 
「うん。行かない。おやすみ」
 
「おやすみ」
  
 
〔 第一章 四節 終 ~第二章へ続く~〕

 生麦酒を数杯飲んだ後の熱燗が一気に二人のテンションを上げている。焼き鳥屋を後にした二人はその足で片町スクランブル交差点に向かう。東山は携帯を取り出すとどこかの店に電話を入れていた。
 
「……了解。それじゃあ十二時過ぎに行くからカウンターに二席空けておいて下さい」
 
今は富山に住んでいるというのに、実に手際よく予約を入れる。
 
「次は何処に行く予定?」
 
「今Dr・ワトソンに電話したら混んでいるって言っていたし。十二時過ぎに予約入れておいたからそれまでどこかに行くべ。良い店知ってる?」
 
「良い店か……」
 
腕を組んで考える雄司。もともと酒が嫌いなわけではないのだが、町にのみに出るようになったのはここ数年のこと。しかも接待で来たり、悪い先輩達に連れてこられたりとそういった飲み方しかしていない。いわゆる女性がいる店だったらいくらでも連れて行けるのだが……。
 
「あれ?雄司さん。今日も飲みに出ているんですか?」
 
黒いスーツに身を包んだ男が不意に声をかけてくる。街宣にでていた徹也だった。

「ちょっと徹也君。ビックリするなあ。こんな人込みの中でまで俺を見つけないでよ」
 
「なんとなくいつも見つけちゃいますよね。だって雄司さんいつもこの辺りに居るじゃないですか」
 
友人の存在を忘れて二人で話し込む雄司と徹也。昔からそうなのだが、雄司は本当に周りに気を遣うということが苦手だった。本人にその自覚がないので、苦手というよりも意識が無いのである。東山は片町でこういった街宣と話すことがなかったので、かなり訝しげな表情で二人を眺めていた。距離を置いて煙草をふかすのだが、その吸殻が三本足元に転がっても雄司は存在を思い出さない。
 
「おい。雄司くん。雄司くん。早く二軒目いこうぜ?」
 
やきもきした東山が声をかけると、仕方がないとばかりに振り返る。
 
「あいつ何者よ?」
 
「徹也君?クラブ・フェンディーの店長さんだよ」
 
「クラブ……ってキャバクラか?その店長さんと随分仲が良さそうだけども、そんなに通っているんだ」
 
「え?いや、そんなには……」
 
「さっきのメールもそのフェンディーとやらのキャバ嬢からだろ?」
 
「違うって。さっきのは亜由美さんからだよ」
 
「亜由美さん?他にも通っている店があるんだ」
 
「ローズは接待で使っているだけだって。誤解だよ」
 
東山は呆れて何も言えないといった様子だった。しかし雄司に言わせると、東山のスナック通いも大して違いはない。二人は一軒目であれだけ真面目な話をしていた事などすっかりと忘れ、しばしスナックとキャバクラについて自らの意見をぶつけ合った。
 
「東山も行けば分かるって。仕事が終わってから家に帰りたくない時なんかに癒されるんだって」
 
「スナックでもいいじゃん。大体キャバなんて単価が全然違うって。スナックにしとけよ」
 
「別に酒を飲んで酔っ払いたいんじゃなくて、癒されたいからキャバに行くんだよ」
 
「癒されたいって……。キャバの接客ってのは色恋営業って奴だろ?」
 
「うわ。それ偏見。そういうのに引っかかる奴もいるけど、俺は単純に仲良くなった娘と楽しく話したいだけだから大丈夫だって」
 
傍からこのやり取りを見ていた連中はきっとこう思っているに違いなかった。なんて低レベルな争いだと……。それは当の二人も感じていた事であり、なにより寒空の中いつまでも続ける会話でもない。仕方がなく東山は妥協案を出してきた。
 
「とりあえず今日は中間の意見をとってガールズ・バーでカラオケでもしよう」
 
「どう中間なんだよ?」
 
「イメージが」
 
「なるほど……。納得した」
 
二人がずっと友人で居られるのは、お互いのこの妙に抜けた所なのであろう。徹也にお勧めのガールズ・バーの場所を聞くと、二人はその店があるビルへと向かった。
 
「友人さんもぜひ今後フェンディーに来てみて下さいね」
 
手を振る徹也に東山が答える。
 
「絶対に行きませんってば」

 喉が枯れるかと思われるほどにカラオケが盛り上がる。徹也の進める店だったのだが、その雰囲気の良さとは裏腹に今日は貸切状態に近いものがあった。
 
「カラオケを独占できたのは嬉しいけども、どうしてこんなに空いているんだろ?」
 
選曲集をめくりながら東山が疑問を口にした。ママというには若い、おそらく二十代後半のホステスも苦笑いしている。
 
「景気が回復してきているって聞くけど、金沢は以前と変わらず不景気なままだからな」
 
雄司が自分の仕事の事も重ねてそう答えた。スクランブルに立って周りを見渡しても分かるのだが、確かに以前に比べてネオンの灯が減っているように見える。
 
「うちの店も昨日みたいに込む日もあれば、今日みたいに閑古鳥が鳴く日もあるからね。今の片町で水商売をするのも楽ではないんですよ」
 
ママも溜息混じりに愚痴をもらす。自らを“金沢に帰化した男”と称する東山にとっても悲しい現実だった。
 
「金沢に活気がないのを見るのは辛いね」
 
「お前が見ているのは片町の活気のような気もするけどな」
 
「人が折角センチな気分に浸っていたのに……」
 
冷やかすようなツッコミに東山が溜息を吐き出した。
 
「あっ。詩織からメールが来ていた」
 
携帯を取り出した雄司がうれしそうな声を上げる。相変わらず人の話を聞いていない男である。
 
「詩織って誰や?」
 
大きなあくびを手で隠しながら自己中な男に問いかけるその友人。
 
「フェンディーのキャスト。昨日クリスマス・プレゼントをもらったんだ」
 
明らかに先ほどのメールの相手とは違う反応に興味がわく東山がからかう様に言う。
 
「色恋営業でもしてきたか?今日も逢いたいなあ……って」
 
「だからそれは偏見だって。昨日のお礼と、《友達とカクテル楽しんでいますか?》ってメールが来ただけ」
 
「なんでカクテルって知っているの?」
 
「昨日お前の話をしていたから。明日くる友達はハードボイルド目指すとか言っている変わった男だってね」
 
「だれが変わった男や……って。忘れてた。今何時?」
 
時計を見ると午前十二時三十分。カラオケに熱中しすぎて、すっかり予約を入れていた店の事を忘れている。東山は慌ててチェックを済ますと、詩織にメールの返事を返している雄司を急かした。

 信号が変わるのを待っていると、雄司がまた誰かを見つけたのか駆け寄って話しかけていた。例によって黒いスーツの男にである。予約を入れている手前、先ほどのように悠長に待っている事もできず、信号が青に切り替わると同時に彼を引っ張っていく。
 
「そんなに急がんでも大丈夫だって」
 
「俺は金沢が大好きだけども、唯一嫌いな事がある」
 
「何?」
 
「金沢時間って奴だよ。関西人の俺にはあれだけは理解できない」
 
「壕に入れば壕に従え……ってね。金沢じゃ約束の三十分の遅刻は当たり前だよ」
 
「はいはい。昔から聞き飽きたよ。金沢時間だろ?分かったから急げって」
 
二人は急ぎ足で交差点を渡ると、アールビルの横にある細い路地裏に入っていった。
 
 
 
 華やかな表通りから少し入ったその場所に目的の店がある。正直知っていなければ素通りしてしまいそうなそのビルの外観。これが逆に隠れ家としての空間を維持するのに丁度良いカモフラージュなのかもしれなかった。
 
決して広いとは言えないエレベーターに乗り込みボタンを押す。少しの間上昇したかと思うと、静かにそれが止まる。扉が開いた目の前に、その歴史を感じさせるような重厚な趣のドアがあった。
 
 
窓硝子から零れ落ちるランプのような赤い灯とレコードの音。
 
 
東山はドアノブに手をやると、そっと扉を開いた。

 決して嫌味なく鼻をくすぐる煙草の香り。程よい音量で流れているのは、懐かしさを感じさせるジャズのスタンダードナンバー。昔から何一つ変わっていないであろう店の雰囲気。片町は随分と変わってしまったが、ここだけは初めて来たその時から時間が止まっているのだと東山は言う。
 
「いらっしゃいませ、一樹さん。お待ちしておりました」
 
カウンター席に座る二人にバーテンダーが声をかけてきた。
 
「チーフ、久しぶり。4ヵ月ぶりくらいかな?」
 
旧友に久しぶりに会ったかのような笑顔で答える東山。この店が彼にとって特別なものであることが良く分かる。
 
「そうですね。富山に転勤になってからはなかなかお忙しそうで。たしか前に来た時もお友達が一緒でしたね?えっと……」
 
「雄司だよ。今日が二回目だったかな?」
 
そう言ってちらりと雄司の顔を見る。
 
「三回目かな?随分前になるけどお前につれて来られたよ」
 
「そうだったっけ?」
 
頭の中のメモリーに残された古い記憶を検索する東山だったが、今ひとつその時の事が思い出せない。記憶力には自信があっただけに腑に落ちない様子だった。
 
「そんな昔にも一緒に来たかな」
 
「多分お前が記憶から消し去りたい時代の話だよ。忘れときな」
 
「そうか……。そうだね」
 
チーフはこの店に訪れる客の事を事細かに覚えている。ただシェイカーを振っているだけではなく、その時の客の空気や雰囲気を読んで最高の時間を過ごさせてくれる為だ。おそらく東山の事に関しても、全てを理解してくれているのだろう。そんなチーフはいつもの優しい微笑みを保ったまま、話題をさり気なく変えてくれた。
 
「さて……。一樹さんは最初スティンガーですね。雄司さんには先ず何をお作りいたしますか?」
 
東山はいつも最初に頼むカクテルが決まっているようだ。友人ながらバーでそのような飲み方が出来る事を、少し格好良いと思ってしまった。不覚である。カクテルなぞ滅多に飲む事のない雄司は一瞬チーフの問いかけに固まってしまったのだが、すぐに臆することなく答えた。
 
「美味しいカクテルを」
 
その注文に悩んでしまうかと思ったチーフだったが、顔色一つ変えずに切り返す。
 
「そうですね。ちなみに今日のお食事は何を食べられましたか?」
 
「焼き鳥」
 
「かしこまりました。それでは先ず一杯目は美味しいお食事の余韻を崩さず、お腹をスッキリとさせるものをお作りいたしますね」
 
バーテンダーは頭の中のカクテルレシピ集をめくると、一見無造作に並べられているボトルの中から幾つかを選んでいった。

 カウンターの中でシェイカーを振っているチーフ。注文をしてから目の前でカクテルが注がれるまでの一連の流れは、思わず感嘆の溜息を漏らすほどの美しささえ感じさせる。この動作を眺める事もバー・Dr・ワトソンの楽しみの一つであり、東山がカウンター席を予約する理由でもあるようだ。
 
「いらっしゃい。一樹君久しぶりじゃない?今日はお友達と一緒なんだね」
 
一人の美しい女性が、マスター自慢の付け出しを二人の前に並べる。
 
「明日香さん久しぶり。こいつは大学からの友達で雄司だよ」
 
不意に紹介された雄司はぎこちなく挨拶をする。東山が言うには、彼女も元片町のトップホステスの一人だったそうだ。マスターの奥様と言う事だが、まさに美女と野獣。仕事の後ワトソンに飲みに来ている内に、なにやらロマンスがあったらしい。そんな彼女の御主人であるマスターは、いつも寡黙にカウンターの奥で料理を作っている。その料理の数々もここの楽しみの一つだそうで、少し小腹のすいた二人はフードを注文する事にした。
 
「チーフ。特製ガーリックライスを一つ。それにあわせて二杯目も考えておいて」
 
「かしこまりました」
 
チーフが注文を入れると、マスターは静かに微笑み準備に入った。

「お待たせいたしました。スプモーニになります」
 
雄司の前にロンググラスに注がれた赤いカクテルが置かれた。不思議な細かい泡が気持ちの良い音を鳴らしている。先に出されていたカクテルに口を付けず、香りだけを楽しんでいた東山。二人のカクテルが揃うと、待っていましたとばかりにグラスを差し出す。
 
「それじゃあ改めて。君の復縁とキャバクラ卒業を願って乾杯」
 
「どうしてそんな音頭なんだよ」
 
ブツブツと良いながらもグラスを軽くあてると、雄司はスプモーニを口に含んだ。
 
「……美味しいなあ、これ」
 
初めて飲むそのカクテルの味わいに思わず声がでる。続けて二口目を喉へと流し込むその光景を、チーフは嬉しそうに見ていた。
 
「だろ?せっかくお酒を飲むのなら、こういった美味しいお酒を楽しまなきゃ」
 
確かに落ち着いたこの雰囲気の中、音楽と酒と煙草をゆっくりと楽しむのは最高の気分だ。普段酒の味の違いになどあまり興味をしめさなかった雄司でさえ、この後どのようなカクテルが出てくるのかが楽しみになっている。
 
「確かにここでカクテルを飲むのも楽しいね。でも……」
 
東山の言葉にさりげなく隠れていた意味を感じ取っていた雄司が言葉を続ける。
 
「一人で来ても寂しいし、やっぱりキャバクラで楽しく会話を楽しむというのもいいかと思うのですが……。どうでしょうか、東山君?」
 
お強請りをする子供のように下から見上げる素振りをしながら雄司が問いかけた。その言葉に深い溜息を漏らした東山は、チーフに何かを耳打ちすると煙草を取り出しマッチを擦る。普段使っている様なガスライターでは感じる取る事ができない鼻を透くような良い香り。瞳を閉じて煙草をふかすその姿は、てっきりそれを楽しんでいるものとばかり思っていたのだが……。


  第一章
 
    4
 
 クリスマス・イブというイベントが終わったことで、街は束の間の落ち着きを取り戻している。とはいえここ中心街の賑わいには変わりがなく、今日も三時過ぎになってやっと休憩に入る事が出来た。昨夜の酒とニコチンがまだ身体に残っているのか、喫煙所にはやって来たのだがなんとなく煙草に手が出ない。
 
「…なんか、良い事でもあった?」
 
雄司の問いかけに返事を返す事もなく、煙草女は黙々と携帯でメールを打っていた。昨日までとはあからさまに違う様子。
 
「彼氏にメールだろ?」
 
「うーん……まだ違うよ」
 
「まだ?」
 
煙草女は意味深な言葉と笑顔を返すと再び携帯メールを打ち始めた。

 仕事を終えた雄司は中央公園横の交番へと向かった。富山から帰ってくる東山を待つ為である。交番前を待ち合わせ場所に指定するのは分かり易くてよいのだが、なんとなく警官にいつも睨まれている気がして落ち着かない。
 
「手袋持ってくればよかったかな」
 
家に置いてきた事を少し悔やんだが、使ってくたびれてしまうのも忍びない。雄司は冷える両手をコートのポケットに突っ込んだ。
 
「雄司。お待たせ」
 
クラクションがなると同時に聞き覚えのある声がした。
 
「おお。東山早かったなあ……って。」
 
目の前の光景にいつもの眩暈が生じた。東山御自慢のスポーツカーが止まってはいるのだが、何かが違う。もっとも違っているのは東山の頭の構造なのだろうが。
 
「どうした?」
 
「どうしたじゃなくて。なぜ君の車には屋根が無いのだね?」
 
「なぜって……オープンカーだから」
 
「それはわかる。君のオープンカー好きもよくわかる」
 
「札幌時代に遊びに来た時のJEEPも最高だっただろ?」
 
「確かに最高でした。でもな?」
 
「でも?」
 
「今何月だよ?冬だよ。冬」
 
冷たい風が吹き抜ける十二月の夜。寒さも身に刺さるが周りの視線もグサグサと刺さる。我が友人ながらたまに一緒に行動するのが恥ずかしくなる。
 
「雄司。おまえそういう所だけ大人になっちゃったよな。行動はガキなのに」
 
「ガキ違うわ。俺らもう三十路だぜ?」
 
「雄司。よく聞け?」
 
雄司の顔を真っ直ぐに見つめ、東山は言葉を続けた。
 
「俺たちは昔何やった?バイク乗りだろ?身体は寒くてもハートは熱くだろ?」
 
その時東山が発した言葉は、雄司の中で忘れられていた大切な何かを思い出させるのに十分なものだった。
 
「すまん。俺……あの頃のハートを何処かに置き忘れていたよ。取り戻せるかな?こんな俺でも」
 
「雄司。乗れよ。今日はその為に来たんだから」
 
ノリで馬鹿な芝居をする二人。大学時代から変わらぬ光景だった。同級生がどんどんと落ち着いていく中、俺たち二人は何時までも変わる事が無いのかもしれない。
 
「今日は飲むぞ?とりあえず片町に向かうか」
 
「えっ?このまま?」
 
「そう、このまま。それじゃあミュージックスタート」
 
東山はエルビスのCDをセットすると、ボリュームを目一杯あげる。二人を乗せたオープン2シーターは爆音を立てて歓楽街に突入して行った。
 
「東山……やっぱり俺大人になりたいかも……」

 土曜の夜。歓楽街片町は、昨日のクリスマス・イブとは別の賑わいを見せている。スクランブルから少し歩いた路地裏の焼き鳥屋に二人はいた。
 
「御主人。まずは生二つね」
 
久しぶりの金沢の空気にテンションの上がる東山。それとは逆に昨夜の飲み歩きの寝不足からかアクビの止まらない雄司。二人は久しぶりの再会……といっても一ヶ月ぶりなのだが、それを祝う場所としてこの店を選んでいた。
 
「東山って本当にこの店好きだよな」
 
「焼き鳥屋っていえばやっぱりここだろ?」
 
「まあ確かに他の店とは一味ちがうけどね」
 
「とり吉のシソ巻きは最高だよ。とりあえず乾杯するか」
 
「じゃあ再会に」
 
「乾杯」
 
二人はジョッキを軽く当てると一気に半分くらいを喉へ流し込む。
 
「大学の時は皆で月に一回片町でるのが楽しかったよね」
 
「金も無かったしなかなか出れなかったからな」
 
「そういや東山。とり吉によく来るけど誰に教えてもらったんだ?結構知る人ぞ知る……って店だろ?」
 
「まあ……病院に勤めていた頃にね」
 
雄司の質問に昔話を思い出したのか、東山は店のカウンター席の隅っこに目をやる。
 
「よくあの席で一緒にシソ巻きを食べていた」
 
「……お前が大変だった時の話?」
 
「確かに大変だった。好きになっちゃいけない人だった」

東山は麦酒を一気に飲み干す。
 
「すみません、生もう二つ」
 
その言葉に雄司もあわててジョッキを空ける。
 
「そんなことよりも雄司。今回来たのは俺の話じゃなくてお前の話をしにきたんだよ」
 
過去を見つめていた東山は、思い出したかのように雄司に今現在の話をきりだす。
 
「……あいつの話なんかしたくもないけど。何とかしないとはいけないんだよな」
 
「もう完全に離婚は成立しているんだよな?」
 
「まあ紙切れに印鑑を押したからなあ」
 
「結局理由は?」
 
「お互い結婚するにはガキだった……ってことかな。精神的に」
 
「お互いっていうよりお前がな」
 
「なんで俺だけなんだよ」
 
「今だから言えるけど、清美ちゃんからよく相談の電話もらっていたんだよ」
 
「初めて聞いたぞ?そんな事」
 
「泣いて電話してきて、もう別れる……そんな事もあったんだぞ。今回は気付いたらもう離婚していたけど」
 
「俺は何も悪い事ない。あいつがノイローゼ気味だったんだよ。」
 
「じゃあなんでノイローゼになったか考えた事はあったか?」
 
「どうしてだろう?」
 
「俺に聞くなよ。まったく」
 
昔から変わらず二人で酒を交わす時によくでる話題は女性関連の相談。もっとも今の雄司は悩むことを放棄しているので性質が悪かった。悩まなければいけない時もあるのだから。
 
「まあ済んだ事は仕方がない。後は事後処理どうするかだけだよ」
 
「あのな?俺にとっては二人とも同級生であり親友なんだよ。なんとか元鞘にもどしてやろうと……」
 
説教を遮るように雄司の携帯が鳴り響いた。
 
「あっ、ごめんね」
 
メールの着信だったのか、画面を見てニヤニヤと笑っている。目の前の友人を放ったらかしにしてメールの返事を書いている一人の男。真剣に心配していたのが馬鹿らしくなるそんな表情。東山は煙草をふかすと彼に問いかけた。
 
「誰からのメール?」
 
「ん?」
 
「バツイチになったばかりの男の表情には見えないからさ」
 
「きついなあ。すごく傷ついているんだから」
 
「いやいや。人の真面目な話を後回しにするようなメールらしいから」
 
「そんなに嫌味いうなよ。キャバ嬢からのメールだよ」
 
「キャバ嬢……って。お前馬鹿じゃないの?」

今の自分の生活を肯定しようとは思わない。東山が罵倒するのも良く分かる。けれども笑うしか出来ない、笑って誤魔化すしか出来ない今の状態を理解してもらえないのも辛い。
 
「寂しかったんだよ」
 
雄司の心からの叫びだった。
 
「少し前までは家に近づくと窓に灯がついていた。家に入ると暖かい料理が待っていた。でもだんだんとそれが壊れていった」
 
雄司は麦酒を一気に飲み干すと、頭を抱え込む。東山は知り合って十年以上にもなる友人の初めて見せたその姿にただ驚くばかりだった。
 
「壊れ始めたときにどうして相談しなかった?」
 
自分の麦酒を半分、雄司のジョッキへと移すと、それを彼の手に渡す。互いに軽くジョッキを合わせると、二人は残りの麦酒を一気に喉へと流し込んだ。
 
「相談する余裕もないまま……。気がついたらあいつはいなくなった。ちょうど犀川の花火大会の日だったよ」
 
「……ん?確か大学の時も花火大会の日に彼女と別れたって一緒に酒を飲んでいたよな」
 
「そういえばそうだった。花火にろくな思い出がないなあ」
 
「大丈夫。俺の花火の日の記憶に比べたらましだよ。かなりね……」
 
苦笑いで話す東山。その言葉に友人の暗い過去を思い出し、雄司は冷静を取り戻す。
 
「そうだった。すまん」
 
「もう六年も前の話だよ。大丈夫。それより今日は飲むぞ。お前が寂しい時は俺がいる。だろ?」
 
「そうだな。飲むか」
 
麦酒をさらに頼むと改めて乾杯する。空腹だった事を思い出した二人は、テーブルに持ってこられた大量の焼き鳥を次々と平らげていく。東山は笑顔を取り戻した雄司にひとまず胸をなでおろした。
 
「でも東山は強いよな」
 
「ん?どうした?」
 
「六年前の事にしても、病院時代の事にしても……普通なら耐えられないからさ」
 
「耐えられなかったよ。だから壊れている。お前はそうならないようにね」
 
言葉の意味が良く分からずキョトンとする雄司に、東山は妙にやさしい視線を投げかけていた。





「瀬菜さんお願いします」
 
黒服が瀬菜を呼びにくる。せっかくなのでもう少し話をしていても良かったのだが、そういうわけにもいかない。
 
「それじゃあゆっくりしていって下さいね」
 
瀬菜は軽く手を振ると早々に席を立っていった。
 
店に入ってから結局三十分は過ぎている。さすがにシステム上から考えてもそろそろ亜由美が来るはずなのだが、あいつはどういう先制ジャブを打って来るのだろうか?亜由美はレギュラーメンバーだけあって生粋の夜の女。テレビなんかでよくみるキャバ嬢特集なんかに出てきそうなタイプ。そういえば昔そんな番組を見ていて、モザイクのかかった客を馬鹿にしていたものだけども……今の俺はその客の一人。困ったものである。っと、そんな事を考えていた時誰かが近寄ってくる気配を感じる。
 
「雄司さん。本当に遅くなってごめんね」
 
ヒロインの遅すぎる登場だった。この限られた空間の中、どこをどう走ってきたのか息を切らした素振りをみせる。私はあなたに逢いたくて大急ぎでこっちに向かってきたの。そういう設定なのだろうか?
 
「本当に遅いよ。帰ろうかと思ったくらいに……」
 
待たされていた事に腹を立てていた雄司は思わず本音を口にだす。不貞腐れて天井に向かって煙草の煙を吐いた雄司。視線を下げてどんな顔をしているのか確かめてやろうとしたのだが……。
 
「何?帰るって……。私雄司さんにやっと会えると思って大急ぎで来たのに」
 
震える声でそうつぶやいた亜由美の顔に笑顔はなかった。大きな瞳は今にも零れ落ちそうな涙液が蓄えられており、少し唇をかんだその表情で雄司をまっすぐに見つめていた。

周りの席にいた客達の視線が雄司に向けられている。非常に気まずい状況。今この場で強気にでる程の度胸は雄司にはなかった。
 
「ごめん。言い過ぎでした」
 
相手選手が放った先制ジャブ。その軽い一発をなめてかかったが故に出した大振りのストレート。この一発で今日の主導権を握れると思っていたのに、拳はただむなしく空を切る。あいつはその隙を見逃さなかった。伝家の宝刀クロスカウンター。その一撃は雄司にかなりのダメージを負わせた。俺はこいつに勝てるのだろうか?
 
「隣……座っても良いの?」
 
「早く座れよ。三十分…亜由美さんを待っていたんだから」
 
彼女は席に座ってからもハンカチを目にあてている。その涙は本物にしか見えない。っというよりも本当に泣いていた。
 
「今日来て欲しいっていったのに、三十分も待たせたら雄司さんも腹が立つよね」
 
「でも亜由美さん人気があるから仕方ないよ」
 
「人気なんてないよ。雄司さんくらいしか亜由美指名してくれないもん。今日はたまたま場内が入ったんだよ」
 
それなら今日待たされた三十分はいったいなんだったのだろう?だいたい瀬菜も指名が被っているからと言っていたし。色恋営業されるのも楽しいから良いのだけれども、たまにキャストの発言の矛盾に突っ込みを入れたくなる時もある。もちろん今日はそんな事は出来やしないのだが……。
 
「亜由美さんそろそろ泣き止まないと」
 
「ごめんね。雄司さんの顔を見たら仕事の事も忘れちゃって」
 
「まあ俺たち客側からしたら、仕事だからではなく素で話をしてくれたほうがうれしいけどね」
 
「雄司さんは違うよ。最近はお客さんって思ってないもん。私キャバ嬢失格だね」
 
やっと涙も止まり亜由美も笑ってくれた。目が真っ赤になっている事を言うと、恥ずかしそうにハンカチで隠している。女優は役を演じる時、自由自在に涙を流す事ができるという。ホステスは客好みの女を演じる女優……なんて誰かが言っていたけれども所詮プロの役者ではない。亜由美の涙は本物だった。実際に泣いていた。営業でなく本当に俺に会いたかったのか?女の涙は最終兵器。知らずの内に雄司は亜由美の行動で頭が一杯になっていた。もう少しで大切な事を忘れるところだったのだが……。
 
「うん。もう大丈夫。涙も止まったよ」
 
「良かった。俺もどうなる事かとドキドキしたよ」
 
笑顔を取り戻した彼女はいつものように元気に話してくる。
 
「ねえ。雄司さん?」
 
「何?」
 
「なんだかたくさん涙を流したら、喉が渇いちゃった」
 
「で?」
 
「ドリンク頼んでもいい?」
 
「あはは。……駄目」
 
色恋の魔法はかけた本人によって解かれることとなる。俺は大丈夫だと思っていたのに気がつくと相手のペースにはまっていた。まだまだ修行が足りないのか、はたまた向こうが上手だったのか。なんにせよラッキーだったのは、亜由美が最後の最後でポイントに眼が眩み墓穴を掘ってくれた事。もう少しでフェンディーに行くという目的を忘れるところだったのだから。

「失礼いたします。そろそろお時間なんですが……」
 
時間が来た事を黒服が告げにくる。なんだかあっという間に過ぎた一時間だった。なにせ亜由美とはドリンク争奪の話しかしていなかったのだから。
 
「延長でいいよ。まだ乾杯もしてないし」
 
亜由美が勝手に答える。ここはいつからVIP席になったのだろう。自動延長制にしてくれとは一言も言っていないのに。
 
「おい亜由美。今日はマジ用事があるって言っただろ?もう行かなきゃ」
 
真に受けそうだった黒服を引き止めるように反論する。
 
「えー?まだ一時間しかいてないよ?」
 
「正確には君は三十分もいなかったけどね」
 
「なんで今日の雄司さんそんな意地悪ばかり言うの?やさしくない」
 
「しっかり勉強させてもらったからね。また来るからいいだろ?」
 
直立不動で返事を待つ黒服。冷静に今日は雄司を引き止められそうにないという事が分かっているのだろう。早くしてくれと言わんばかりにそわそわとしている。
 
「あの……どういたしましょう?」
 
「チェックね」
 
「かしこまりました。」
 
亜由美が言葉を入れる間も無く黒服はキャッシャーへと向かった。
 
「ちょっと雄司さん。今度来た時はシャンパンで乾杯してよ?」
 
「わかりましたよ。シャンパンね。一番安いやつで」
 
「もう……本当に意地悪ばかりだね」
 
支払いを終わらせて席を立つ。亜由美に連れ添ってもらいながら店を出るが、外には入店待ちの列ができていた。クリスマスに寂しい思いをしている男達の多い事よ。そんな事を考えていたがすぐに自分も同類だという事を思い出し悲しくなった。
 
「ねえ、雄司さん?」
 
エレベーターを待っている時、亜由美がふと怪訝な顔で聞いてくる。
 
「他の女の所に行くんじゃないよね?仕事だよね?」
 
女の感のするどさに息を飲んだ。俺の顔はそんなに判りやすいのか?それともやはり俺の携帯電話には亜由美の隠しマイクか何かが…。
 
「なんて。そんな訳ないよね」
 
亜由美はニコニコと笑いながらそう言うが、雄司は心臓が止まる思いがしていた。もっとも亜由美にそこまで気を遣うほどの関係ではないのだけれども。
 
「雄司さんにクリスマス・プレゼントあげる。携帯貸して」
 
「えっ?なんで携帯なんか」
 
「いいから早く」
 
幸い常にロックをかける習慣があったので、そのままコートから取り出した携帯を亜由美に手渡した。亜由美はポーチからシールの様な物をとりだすと、携帯の画面の隅にそれを貼り付ける。
 
「はい。これでいつでも亜由美が一緒だよ」
 
満面の笑顔で写っている彼女のプリクラがしっかりと貼り付けられていた。
 
「えっ?マジ?嬉しいなあ……って。この携帯もちろん仕事でも使うんだけども」
 
「皆に見せびらかしたらいいじゃん」
 
「いや、あのね。やっぱりこういうのは……」
 
「剥がしたりしたらきっと泣いちゃうから」
 
「……わかりました」
 
「あ、エレベーターが来たよ」
 
開いたエレベーターに乗り込みボタンを押す。元気に手を振る彼女の姿が閉まる扉に隠れていった。 

 夜の九時過ぎ。片町スクランブル交差点の賑わいは最高潮に達している。先ほどまでと異なるのは、明らかに酔っ払っている連中が増えているという事。楽しそうに歌っている者。なぜかサンタの格好をしている者もいる。大晦日もここ歓楽街は賑わうのだろうが、年末一番の盛り上がりを見せるのはやはり今日クリスマスなのだろう。
 
「さてと。徹也君を探さないと」
 
とりあえずドーナツ屋の前に戻ろうと信号が青に変わるのを待っていた雄司。そこに声をかけて来た若い黒服がいた。黒いスーツで決めてはいるのだが、どこかまだ幼さの残るその顔で元気に話しかけてきた。
 
「お兄さん。キャバクラなんかいかがですか?」
 
随分ダイレクトに言ってくる男だった。それにしても本当に街宣が多くなった事を実感させられる。街宣というよりキャバクラの出店が多くなったという事なのだろうか。
 
「今からフェンディーに行くところだよ。だいたい今も予定外にローズで飲んでいたところだって」
 
行く店が明確に決まっていれば大体の街宣は諦めてくれる。その時のお決まり文句は《ではその後お待ちしていますので声をかけて下さい》である。この黒服も同じだろう……そう思っていたのだが。
 
「フェンディーですか?じゃあ黒服に連絡とりますよ」
 
そういって携帯を取り出す。
 
「え?フェンディーの街宣?」
 
「違いますよ。でもある程度の横つながりで、仲の良い店同士なら連絡とれますから」
 
「そうなんだ。片町のネットワークもすごいね」
 
「自分もそうする事でバックが入りますからね。今日なんかだと自分の店が混みあっているので、友達の黒服に紹介するんです。互いにそうやって上手くお客さんをまわすんですよ」
 
「じゃあ徹也君も連絡とれる?」
 
「もちろん。っていうかフェンディーは徹也さんしか知らないですけどね」
 
そういって携帯で徹也に連絡を取ってくれる。今まで色々と街宣を見てきたがこの男も始めてのタイプだった。見た目と違ってある意味しっかりとした男である。
 
「すぐに来てくれるみたいですよ」
 
「ああ、有難う。ところで名前はなんていうの?」
 
「そうでした。自分の店の宣伝も忘れていましたね」
 
名刺を一枚とりだし雄司に差し出す。
 
「CLUB・Isの比呂斗です」
 
「クラブ・アイズ……。」
 
「こられた事ありましたか?」
 
「行った事はないね。よく聞くんだけれども」
 
「じゃあ今度お暇な時はぜひ声をかけて下さいね」
 
「安くしてくれるのなら考えるよ」
 
「もちろん。通常料金で麦酒飲み放題をつけます」
 
「期待しない程度に覚えておくよ」
 
街宣の黒服と楽しそうに話をする連中はあまりいない。中にはいるのだが大概行きつけの店がある場合だった。雄司はその人懐っこさもあって、着々とスクランブルに知り合いが増えていく。相手が街宣であっても人と話す事が心を満たしてくれるから。そうして片町という存在にどんどん依存していくことになっていった。

「雄司さん。お待たせしました」
 
信号が青になり人々が交差点になだれ込む。それを掻き分けるように徹也が走ってきた。
 
「お疲れ様。えーと……」
 
「はい。詩織さん来ていますよ。つい先ほど店に入ったばかりだからちょうどよかったですね」
 
「じゃあ行こうか」
 
「はい。いつものお席でいいですね?」
 
「うん。それといつものセットは?」
 
「わかりましたよ。雄司さんスペシャル。ポッキーサービスですね」
 
二人は比呂斗に挨拶をすると、十億年ビルに向かって歩き出した。
 
 
 エレベーターを降りると、そこには見慣れてしまったいつもの扉。エンブレムにはクラブ・フェンディー。比較的小さな店だった事もあり、すっかり顔見知りになった黒服達がいつものように迎え入れてくれる。
 
「ではお席にご案内いたします。お飲み物はいつもと同じでよろしかったですか?」
 
「そう。焼酎のお湯割りね」
 
「かしこまりました」
 
席に案内されお決まりのように煙草に火をつける。周りを見渡すとさすがに街にでている人間が多い事もあり、いつもよりは込み合っていたが満席というわけでもない。詩織の人柄もそうだがこの店の決して騒がしくない落ち着いた空間が雄司を通わせる要因なのかもしれない。
 
「雄司さん」
 
黒いドレスに身を包んだ一人の女性。初めて見たそのドレスは、今までの物に比べてなにか彼女をエレガントに見せる気がする。もうすっかり見慣れたはずの姿なのだが、しばらくの間視線が釘付けになっていた。

「お待たせ。ちょっと来るのが遅くなったよ」
 
「大丈夫だよ。私も今日遅くなったから。雄司さんが先に来ていたらどうしようって思っていたところ」
 
「俺も先に入って待っているのが嫌だったから、徹也君に聞いてから来たんだよ」
 
「ところで今日のドレスどう?似合っているかな?」
 
「俺もそのドレス姿は始めてだなって思っていたところ。大人って感じでいいね」
 
「有難う。今日初めて着るんだよ」
 
軽く会釈して雄司の隣に座る詩織。黒服を呼び灰皿を交換してもらうと、グラスの焼酎お湯割りを新しく作ってくれる。
 
「メリークリスマスだね」
 
「なんかだが恥ずかしいな」
 
詩織に会いに来るようになって今日でちょうど五回目。話をするのには大分と慣れたとはいえ、まだ時折みせる一瞬の仕草にドキリとすることがある。
 
「えっと……。詩織さんも何か頼まないと。乾杯できないぜ?」
 
「いいの?そしたらご馳走になろうかな」
 
テーブルにあるメモ帳に注文を書いて黒服にわたす詩織。少しして届いたものは意外にも麦酒だった。キャスト達は仕事上本気で酔っ払うのを避ける傾向があるので、てっきりソフトドリンクかなにかだと思ったのだが。
 
「麦酒なんて飲んで大丈夫なの?」
 
「私結構お酒強いんだよ。さっきまで仕事していたしちょっと飲みたかったの。駄目だったかな?」
 
「いいけど、酔っ払ったらこの後も大変じゃない?」
 
「大丈夫。今日は雄司さんと約束していたから出勤したようなものだし、ずっとこの席にいれると思うから」
 
「それじゃあ、あらためて乾杯」
 
「メリークリスマス」
 
美味しそうにグラスの中の麦酒を喉に流し込む。その横顔に思わず見とれる雄司。その視線に気付いた詩織が恥ずかしそうに笑う。
 
「どうしたの?なんだか見つめられているし」
 
「え?いや……。本当に美味しそうに飲むなって」
 
「うん。美味しいよ。雄司さんが来てくれている時って自分も素でいられるからかな?」
 
そう言って逆に雄司を見つめる。なんだか心の中を見透かされていそうなそんな視線。この瞬間の緊張を悟られまいと煙草を取り出す雄司に、彼女はそっと火を近づけた。
 
「ところで……こうやって会いに来てくれるのは嬉しいけれど、今日クリスマスなのによかったの?」
 
唐突な質問は色々な意味に取れた。ポジティブな返答もある。ネガティブな返答もある。詩織は……というよりも、キャストに対してこういった場合はどういった返事が適当なのか?ネガティブな真実。とっさにそれを思い出した時、雄司は心の中でへんに冷静に駆け引きを考えてしまった。
 
「もちろん……詩織さんに会いたいからこうやって飲みに来ているんだよ」
 
「そうなの?有難うございます。なんか嬉しいな」
 
ポジティブな返事を選んで答えた雄司。詩織が聞きたかったのはそう言った事ではないのかもしれない。けれども今の嬉しそうな表情を見ていると、あえてこれ以上言う必要もないと思い話題を変える。
 
「そういえば急に話を変えるけども」
 
「何?」
 
「理由は置いておくけども……」
 
「なんだろ。焦らすね」
 
「俺の携帯に盗聴器が付けられているかもしれないんだ」
 
「あはは。そんなわけないよ」
 
「だよね。でも気になるんだよな」
 
「それじゃ今度持っておいでよ。調べてあげるし」
 
「調べるってどこに?」
 
「私昼間は携帯ショップで働いているもん」
 
意外なところで知った詩織の素顔。昼の仕事を打ち明けてくれるなんて絶対にないと思っていただけに不思議な喜びを感じる。
 
「A社の携帯だけど大丈夫かなあ」
 
少し浮れていたことは認める。だからと言って調子に乗って携帯を見せたのが失敗だった。
 
「ねえ、雄司さん」
 
「なに?」
 
「見てもよかったのかな……」
 
開かれた二つ折り携帯を雄司に返す。それを見た瞬間に雄司は自分の記憶のなさ、迂闊さを呪った。

「可愛い子だね……彼女かな?」
 
さっきローズで張られた亜由美のプリクラ。気まずいような怒っているような……寂しいような。その真意が読み取れない表情で写真について問いかけてくる。
 
「いや…それは」
 
「ほったらかしにしてキャバクラになんか飲みに来てていいの?そりゃあこうやって来てくれるのはうれしいよ?でも同じ女性として思うけどクリスマスだけは……」
 
「違うよ。彼女でも大切な人でもないって」
 
詩織の言葉を遮るようにあわてて否定する。とっさに出た、誤解されたくないという素直な気持ちから出た言葉だった。
 
「ふうん。じゃあ誰なんですか?」
 
必死で否定する雄司が滑稽だったのか詩織の顔に笑顔が戻る。先ほどとは打って変わって今度はその好奇心が抑えきれない様子。意地悪な目線を雄司に投げかけながら質問を続けてきた。
 
「だ・れ・な・ん・で・す・か?」
 
もはや返答を逃れる術はない。もっとも別にやましい事ではないのだし、堂々と説明すればいいだけの事である。
 
「ラヴィアン・ローズの亜由美さんだよ。接待で使わなきゃいけないからたまに飲みに行くんだけど……冗談の度が過ぎているよね」
 
窮鼠猫を噛む。実際には噛み付いた訳ではないのでただの開き直りである。
 
「ふうん。亜由美さんかぁ。他のキャバクラにも良く行くんだ」
 
「いや、その……。良くは行かないです。接待に使うくらいで……」
 
「雄司さん」
 
「はい」
 
「なんか喉が渇いちゃった」
 
「はは……」
 
「お願いしまーす」
 
この後彼女自身が言っていたお酒の強さを見せ付けられる事になる。もちろん酒のつまみはラヴィアン・ローズ、しいては亜由美の話だった。

「失礼いたします。そろそろチェックのお時間になりますが……」
 
気がつくともう夜の三時。店が閉まる時間になっていた。
 
「雄司さんもう帰っちゃうの?」
 
かなりの飲酒量に詩織は完全に別人になっている。最初出会った頃の面影はいったいどこへ飛んで行ったのだろう?
 
「詩織さん。そろそろ酔いを醒まさないと」
 
「酔ってなんかいませんよ。沙織結構お酒強いんですよ」
 
「沙織って……。源氏名間違えているよ。すみません。チェックお願いします」
 
黒服に支払いを済ませ帰る準備をする。横からはすやすやと寝息が聞こえていた。
 
「それじゃあまた来るね。沙織さん」
 
目を閉じている彼女にからかう様囁き、起こさないようにとそっと立ち上がり出口に向かう。
 
「今日も有難うございました」
 
徹也君が扉まで見送りに来てくれた。三回目にやっと知ったのだが、ずっと街宣だと思っていた彼こそがここフェンディーの店長なのである。
 
「なんかすっかりVIPの気分だね」
 
「もうすっかり常連様ですからね。これからもよろしくお願いします。お気をつけて」
 
雄司は軽く手を上げると店を出てエレベーターのボタンを押した。
 
 
「沙織は本名だよ」
 
「え?」
 
振り返った視線の先にいたのは小さな紙袋をもった詩織。
 
「雄司さん。どうして黙って帰っちゃうの?」
 
「だってかなり酔っ払って辛そうだったから……」
 
「これくらい大丈夫ですよ。それよりもエレベーターが来る前で良かった」
 
そう言って手に持っていた紙袋を雄司に差し出す。
 
「はい。クリスマス・プレゼント。外に出てから開けて下さいね。お休みなさい」
 
詩織は手を振ると、お礼を言う間もくれないまま店の中へと戻って行った。
 
 
 予想もしていなかった事に、一人下へと降りていくエレベーターの中で微笑んでしまう。飾りも何もない小さな紙袋。他人がそれを見てもクリスマス・プレゼントだとは気付かないだろう。知っているのは自分だけ。営業の一つだとは思いながらも、素直に心が満たされていく感じがした。
 
 
冬の午前三時過ぎ。冷たい風が身体を縮こまらせる。コートのポケットに手を突っ込んで歩き出した時、ふと詩織の言葉を思い出した。
 
《外に出てから開けてくださいね》
 
紙袋を開けて中を見る。そこに入っていたのは男がするには少し可愛すぎる毛糸の手袋。取り出して手にはめてみたが、やはり似合わない。
 
「ロングコートに可愛い毛糸の手袋。かっこ悪いなぁ」
 
苦笑いしながらショップのショーウィンドーに映る自分を眺める。
 
「けど……。暖かいね」
 
雄司はその手を再度ポケットに入れることなく帰路についた。
 
  
〔第一章 三節 終〕