順応性の良さが東山の良い所であった。慣れてしまえばキャバクラ嬢も普通の女の子も接し方は同じである。そういう心のゆとりが持てた今、後は雄司の奢りで素直に楽しむだけ。そう思っていたのだが……。
「おい東山。お前についた理沙な?ここのNo1だぜ」
雄司が小さな声で耳打ちする。
「No1?どういうこと?」
同じように声を殺して返答する東山に、雄司はさらに言葉を続ける。
「売り上げNo1。つまりは人気も一番ってこと。人気が一番って事はだ……。気をつけろよ」
不敵な笑みを含んだその言葉に目を点にしている東山だったが、意味を聞く間も無く雄司は詩織に連れ戻される。
「ちょっと雄司さん。何を二人でこそこそ話しているの?」
「いや、その……。そう、理沙ちゃんの事どうかなって」
とっさについた嘘がそのままこのテーブルの話題となる。詩織と理沙二人が東山と話し始めた為、雄司は一人寂しくグラスを傾ける事となった。それにしても初対面の女性二人を相手に軽快なトークを続ける友人には、大学時代の硬派を気取っていた頃の面影がやはり見られない。その話の内容はと言うと、こういったキャバクラに来たのは今日が初めてであり、すごく緊張している。そういった自分の体験談を、相手に聞かせるように巧みに話していた。自分には出来ない話術。暫くは友人の行動を見守る事にしようと煙草を取り出すのだが、その事に気付くことなく二人と会話を楽しむ詩織。
「なあ詩織さん?ライター借りてもいい?」
「え?何、雄司さん」
「いや……何でもないです」
雄司の心の中で、ライターではなく嫉妬心に火がつけられた。そんな事に全く気付くことなく話し続ける三人。思わず雄司は皆の気を引く為に、東山の話の内容に突っ込みをいれてしまう。
「こいつキャバクラは初めて……って言っているけど、さっきラヴィアン・ローズで美雨ちゃんってキャストを指名してたんだぜ」
瞬間三人の視線が雄司に集まる。それに気を良くした雄司はさらに言葉を続けた。
「なんだか昔好きだった娘にそっくりだって、かなり喜んでいたよ」
彼は友人を売る事で、一時の優越感に浸るはずだった。だがそんなアクシデントでさえ会話の種として楽しいそうに話し続けている。一人の女性を除いてだが。
「どういう事かしら?今日二軒目ってこと?ねえ、雄二さん?」
一瞬ゾクリと背筋に冷たいものが走る。声のする方向にゆっくりと顔を向ける雄司。
「亜由美さんだっけ?ラヴィアン・ローズって今言ったよね。聞かせてもらおうかな?」
「あの……詩織さん?」
「なに?」
「カツ丼は食べさせてもらえるの?」
「事情聴取が終わったらね」
引きつった笑顔で雄司の耳を引っ張る詩織。こうしてこの後長い尋問が続くのであった。
「ねえ東山さん。ローズとフェンディーってやっぱり雰囲気が違う?」
「向こうは騒がしい雰囲気だったからね。いかにもキャバクラって感じの。こっちは落ち着いた雰囲気だよね」
「どっちを気に入りました?例えば……美雨さんと理沙だと?」
「もちろん理沙さんだよ。落ち着いて酒が飲めるし自分にはこの店の方があっていると思うよ」
「うれしいな。理沙も東山さんと話していて楽しいよ。でももうすぐ席を変えられちゃうかもしれない」
この時東山は雄司から教えてもらった基礎知識を思い出す。この台詞から推測されるのは、露骨に指名のお願いである。さらに思い出す雄司の言葉。通りすがりにキャバクラに入って安く上げたい時は、楽しく飲める娘が付いた時に迷わず場内指名をする。そうする事で、巡って来るキャスト達全員にドリンクを渡すよりもずっと安く上げられるという事だった。知り得た机上の理論は実践してこそ価値がある。東山はためらわず理沙を指名する事にした。
「ずっといればいいよ。今日は理沙さんと話し続けたいしね」
「え?本当に?ありがとう」
理沙はかわいい笑顔を見せると、黒服に何かを伝えた。いわゆるこれが場内指名と言うやつなのだろう。理沙はあらためてグラスを差し出すと、詩織と雄司にも声をかけ再度乾杯の音頭をとった。
予想外の展開だった。この店もワンセットで帰る予定の東山だったのだが、詩織と雄司が互いに駄々をこねた為にまだ同じ場所で酒を飲んでいる。そろそろこの環境にも飽きてきた頃。今度黒服が延長交渉に来たら、雄司を捨ててでもワトソンに移動しようと考え始めていた。その意志が通じたのか、一人の黒服がテーブルにやって来る。
「失礼いたします。理沙さん……」
なにやら理沙に耳打ちをすると、黒服はそのまま奥へと戻って行った。どうやら時間が来た訳ではなさそうである。
「ごめん。東山さん。ちょっと呼ばれたので行って来るね」
そういって理沙は名刺をグラスの蓋の様に置き、軽く会釈をしてどこかへ去っていった。現状把握が出来ていない様子の東山に、雄司が新しい知識を授ける。
「これが指名被りって奴だよ」
「指名被り?」
その質問に答えたのは詩織である。
「理沙ちゃん人気あるんだよ。きっと今も理沙ちゃん指名のお客様がやって来たんだと思う。そんな時は互いのテーブルを行ったり来たりしなきゃ行けないの。そんな状態を、指名被りって言うんだよ」
詩織はすっかり酔っ払っており、細かくキャバクラにおける客が知らなくてもいい事を赤裸々に喋ってくれた。
「っで?俺はこの状態でどうすればいいの?」
完全に二人の世界を構築している雄司と詩織の横で、一人酒と煙草を楽しむというのもかなり辛いものがある。まだまだシステムを知らない東山は、再びこの状況に戸惑いを感じた。
「大丈夫ですよ。ヘルプって言って、ちゃんと女の子が付きますから。ほら、噂をすれば……」
詩織がそう言って指差す方向に視線を向ける。一人のキャストが足早にこちらへ向かって来ていた。
「失礼します。少しの間お邪魔しますね」
赤いドレスに身をつつんだその小柄なキャストは、楽しそうな笑顔を携え東山の横に腰を下ろす。そのキャストの雰囲気は、見た目どことなく幼さが残るようであった。だが話してみると、見た目とは裏腹にしっかりとした大人の女性の振る舞い。今日一日数名のキャバ嬢と呼ばれる女性達を見てきたが、そのどの娘とも違う印象。
「ごめん。聞いていなかったけど……君の名前は?」
「そういえばお互い名乗ってなかったですね」
「そっか、俺も言ってなかったね。えっと……東山って呼んでね」
「東山さんですね。私は……愛華です。よろしくお願いしますね」
この時ヘルプで付いただけのキャスト。おそらく理沙が戻って来るまでの、僅かの時間だけしか話す事はないであろうキャスト。それなのに東山は、妙にその愛華と名乗ったキャストの事が気にかかっていた。ヘルプ嬢だからという理由なのか?一切営業トークが入る事のない素直な会話。先ほどまでの理沙との会話が全てバーチャルだとするのならば、彼女との会話はただ素直にリアルなものであった。
「お仕事は何をされているんですか?」
よく使われるトークの一つだ。普通なら初対面のホステス達に素性を話す事などは無いのであろうが、思わず東山も本当の事を話してしまう。これも愛華の不思議な魅力のせいなのだろうか……。
「薬剤師さんなんだ。ひょっとしたら私の先輩だったりして?」
「えっ?ひょっとして現役の学生さんなの?」
「いいえ。ちゃんと卒業しましたよ。ついこの間ですけどね。石川大学の経済学部でした」
「びっくり。本当に後輩なんだ」
「やっぱり同じ大学なんですか?なんだか嬉しいです、先輩」
思わず雄司にもその事を嬉々として話す東山。詩織も交え四人でその事で盛り上がる。聞くところによると、詩織と愛華はフェンディーで最年長の二人という事もあって、私生活でも仲の良い友達関係であるという。だからと言う訳ではないのだろうが、詩織は東山に愛華の色々な楽しい一面を話してくれる。そんな中東山から発せられた言葉。その一言を雄司は聞き逃さなかった。
「今度から愛華さんの事、後輩って呼ぼうかな?」
次回を予感させる一言なのか?さすがに親友として、その時ばかりは本音か虚言かどちらなのかは容易に判断できた。表情が先ほどとは違うのである。今日の東山の行動は解読不可能なものが多かった。結果キャバクラにははまらない……。そう感じていたのだが、今まさに東山の気持ちの変化を目の前で確認している。
「あっ。雄司先輩。煙草の灰……落ちちゃいますよ」
愛華がなんの策略もなく、ただ素直に雄司にも先輩と声をかける。
「えっ?俺も先輩?」
「違うんですか?東山先輩と同級生さんなんですよね?」
思わず顔を真っ赤にする雄司。その横では同じく、東山も先輩と言う響きに照れている。学生時代に感じていたような甘い感覚。二人は久しぶりに味わうその感覚を素直に楽しんでいた。
楽しい時間ほどすぐに経過してしまうものだ。ローテーションの時間がすぐにやって来る。黒服がテーブルにやって来て愛華の名前を呼んだ。
「ありがとうございました。これからもヘルプで付けた時には、楽しいお話聞かせて下さいね。先輩」
「俺も楽しかったよ。また来るから……」
「はい。理沙さんによろしくです」
そう言って彼女は去って行った。最後に愛華が言った言葉。この日の東山には、まだこの言葉がどういう意味なのかは理解することが出来なかった。程なくして理沙が戻って来る。すぐに先ほどまでの空間へと戻るコーナーのボックス席。雄司の目に映る東山の笑顔は、どことなく遠くを見ているように見えた。
時間は過ぎ、現実へと戻る為チェックを済ませた二人。コートを羽織ると店の外へと足を向ける。
「あっ……東山さん」
見送る為二人について来た理沙と詩織。だが不意に東山に声をかけてきたのは詩織のほうだった。周りに聞こえないように静かに話を続ける。
「愛華ちゃん言い娘でしょ?理沙ちゃんには黙っててあげるからね」
そういって片目を閉じ、何やら合図をする素振りを見せた。その光景が気になったのか、思わず雄司が声をかけてくる。
「二人で何こそこそ話しているのさ?」
すっかり焼酎が回ってしまった彼は、完全に心のマスクがずれ落ちてしまっているのであろう。真剣な顔で問い詰められた東山は、込み上げて来る笑いを必死で抑えながら答えた。
「詩織さんが、雄司が来てくれると本当に楽しいってさ。ね?詩織さん」
「もう、東山さん。本人に言わないで下さいよ」
シンクロニシティー。とっさのアドリブは見事に調和する。まるで会話のセッションだ。
「何言ってんだい。二人して俺をからかっているんだろう?」
そう言いながらも、その口元が緩んでいる事は誰が見ても明白であり、三人はその事を楽しそうに笑っていた。静かにベルの音が鳴る。エレベーターが到着した合図だった。乗り込んだ男達に二人は手を振り、そしてお礼の言葉を発する。
「東山さん。またメールするね。今日はありがとうございました」
「雄司さんがこれ以上お酒飲み過ぎないように、しっかり見張っておいてくださいね」
再び詩織の下へと戻ろうとする雄司の手をしっかりと掴む東山。やがて詩織と理沙の姿は、扉にその姿を隠されていった。
まだまだ人込の絶えない夜更け過ぎ。再びスクランブルに戻って来た二人。もはや今日の感想を聞く事など意味がないと感じた雄司は、自分のお気に入りである詩織について問いかけてみた。
「どうだった?実際に詩織を見て」
「すこしお前の気持ちがわかったかな?俺的にも、亜由美さんより詩織さんの方が一緒にいて楽しかったしね」
「まあそう言うな。あれでいて、亜由美にも可愛い所はあるんだぜ?」
「はいはい。わかったよ」
数時間前に比べて、随分と東山の回答が変わっている事が分かる。友人を変えてしまったのは、おそらく美雨でも理沙でもないだろう。雄司はその考えを心の中にしまいこみ、そして何事も無かったように歩き出した。
「さて。ワトソンに行くんだろ?」
「おっ?珍しく乗り気だね?」
「まだまだ語り合いたい事がたくさんあるだろうからね」
「違いない」
この日の片町の夜もまだまだ終わる事はなかった。むしろ始まったばかりなのかもしれない。二人は信号が変わると、早足でバー・Dr・ワトソンがある区画へと消えて行く。二月の空には珍しく空を覆っていた雲は綺麗に消え、彼らの頭上にはネオンに負けることなく星達が輝きを放っていた。
北陸一の都市金沢。そこから距離にして数百キロは離れているであろうその場所にも、ネオンが輝く歓楽街があった。日本有数と言っていいほどの規模。人によっては新宿歌舞伎町よりも活気があると言う意見もある。そこでも街の雑踏は、まだまだ終わりを見せる様子がなかった。
「未耶美ちゃんお疲れ。ん?誰にメール送っているのかな?」
「お疲れ。そんなにニヤニヤしなくても、お客様にだよ」
「ふうん?でも営業にしては楽しそうだよ?」
「まあね。月に一回。出張の度に来てくれる人なんだ。なんていうか……」
「ん?」
「駄目な兄貴を見ているような……。いい人だけどね。こっちも楽しくいられるから」
「いいなあ。私なんて、エロ客とかキモ客とかが多くて辛いよ。私もお兄様が欲しいね」
「そのうち現れるよ。きっと」
「そうかな?期待しています。それじゃあ未耶美ちゃん、先に上がるね」
「あっ、そうだ。空を見上げてみて」
未耶美が指を指す方向には、見事な光を放つ満月が浮かんでいた。
「すごい。この季節には珍しいよね?」
「さっき雲が流れたかと思うと、一気に星が見え始めたんだよ」
月明りの下、その光を魅せられたように眺める二人。その輝きの魔力なのだろうか?時間が止まってしまったようにも感じる。
「今この瞬間……、この月を見ている人が日本中にいるんだろうね」
「何処にいてもこの美しさに感動しない人はいないよ」
「もっともこの時間だし。月を見ているのは夜の住人達ばかりだろうけどね」
「違いない」
思わず吹き出す二人。時間が再び動き出す。
「さて。それでは帰ります。未耶美ちゃんもあんまり遅くならないようにね」
「ありがとう。おやすみ、美羽ちゃん」
「おやすみ……」
夜更けすぎ。光を求めて歓楽街へと繰り出す人々。様々な思惑が入り乱れる世界。華やかな面もあれば、その影で泣く人間もいる。だが月だけは嘘偽り無く、平等に街を照らし続けていた。
第二章 第1節 ~ 終 ~