第三章
1
ショップが並ぶ華やかなフロアの片隅にある小さな勝手口。そこを抜けると配管がむき出しになった従業員専用の通路が伸びていた。出勤時や退社時には人通りも多いものだが、昼間の三時ともなると静かなものである。こんな時間にここを通過する連中の目的はというと、奥にある小さな部屋へと向かう事であった。
「さて。今日も雄司くんをからかいますか」
勢いよく喫煙室の扉を開けた煙草女。そこには雄司ではなく、たまに顔を合わすだけの名前も知らない男が一人いるだけであった。
「あれ? この時間に雄司君がいないのって珍しいな……」
思わず声にでてしまった彼女の独り言。意識していたわけではなかったのだろうが、部屋にいた男がそれを聞き、そして話しかけてきた。
「あの……。雄司くんって鼓さんの事だよね? 午前中にここで話したけど、お昼の電車で京都まで何かの集会に行くって言っていたよ」
「えっ? そ……、そうなんだ。ありがとう」
不意に声をかけられた事に少々たじろいだ煙草女だったが、一応彼にお礼を言う。
「京都か……」
椅子に座り煙草に火をつけ、しばしその煙の行方を追っていた彼女。何かを思い描いたのかニマニマと顔を緩めると、周りに聞こえている事も気付かぬまま独り言を発する。
「お土産。何か買ってきてくれるかな……」
気がつくと喫煙室には彼女一人。いつもはそれなりに騒がしい雰囲気にあるその小さな部屋も、この日は不思議と広さを感じさせた。
夜風も暖かくなってきた五月の中旬。大型連休が終わった夜の片町にも、ようやくひと時の休息が訪れていた。とは言え、片町に出店している数多くの店。そしてそこで働く者達にとっては決して心休まるひと時とは言えなかった。競争の激しい夜の世界。こういったイベントの少ない時期に、いかに飲みに出ている数少ない客を来店させる事が出来るのかが勝負の分かれ目になるからだ。努力を怠った店や、客のニーズを掴めなかった店にはそれなりの試練が訪れる。そしてここ十億年ビルの一角。クラブ・フェンディーにもそんな空気が流れていた。
「申し訳ございません。店との方針が合わないのだから、これ以上ここにいる気は無いです」
午後八時。開店直後とはいえ、店内にはまだ一組の客も入っていなかった。客だけでなく、週末だというのにキャストの出勤数が異常に少ないという現実。黒服の管理不足だけを理由には出来ないのだが、キャストも含めて店全体を盛り上げる事が出来なかった事がこういったキャバクラにおける失策なのだろう。
「おい愛華。もう少しお前も、店のやり方に合わせようっていう気持ちが持てないのか?」
先ほどから店に響いていたのは徹也と愛華の口論のようである。互いの主張を受け入れる事が出来ないまま、ここ数日こういった光景が繰り広げられていた。どちらも考えている事はフェンディーをいかに盛り上げていくかという事なのだろうが、一度頭に血が上ってしまった二人にはもはや歩み寄るという事が出来なくなっているようである。
「店のやり方って……。現実こうやってキャスト達の出勤が減ってきているのが、店長達の考えが間違っている証拠じゃないんですか? 心配しなくても来週一杯は店にでますよ。その後は放っておいて下さい」
「おい。ちょっと待てよ……」
勢いよくドアを開け、愛華は事務室を飛び出る。出勤していた数名のキャスト達は、店内の空いているソファーで各々、二人のやり取りに関心を示すことなく携帯の画面だけを見つめていた。
「せっかく人が頑張ろうと思っているのに……」
奥の席に座り込んだ愛華は、煙草を取り出すが火をつけることもなく俯いてしまう。そうしている間も客が入って来ることはなく、時間だけが静かに過ぎていった。
片町スクランブルを少し越えた場所に止まった一台のバスから大慌てで駆け下りてくる詩織。いつも慌てているイメージのある彼女ではあるが、この日は普段と違って表情に強張りを感じた。徹也からかかってきた一本の電話。その内容が彼女の緊張を高めているようであった。十億年ビルのエレベーターに乗り込む詩織。いつも以上に上昇が遅く感じる。鉄の扉はプログラム通りにゆっくりと開くのだが、詩織はそれを待つ事が出来ないとばかりに隙間から外へと飛び出す。そんな彼女を待っていたかの様に一人の黒服が店の外で待機していた。
「いったいどういう事?」
息が落ち着く間も無く詩織は徹也に詰め寄る。同郷であり古くからの知り合いである二人。周りに人がいない事を一瞬で確認すると、店長やキャストとしてではなく一友人として話しだす。
「愛華が来週一杯で店を辞めるって言い出した。お前が一番あいつと仲が良かったし……。なんとか止められないかな?」
詩織を待っていた間もずっとこうだったのだろう。徹也は少しの余裕も見せる事が出来ないままいきなり本題を切り出す。
「最近徹也君と愛華ちゃんがよく口論している姿は見ていたけど……。どうしてそうなっちゃったの?」
正直詩織にも、以前からこういったことになるのではないか? そんな思いが心の片隅にあった。電話で徹也は、『頼みたい事がある。できるだけ早く来てくれ』そう告げただけだったのだが、それを聞いた瞬間に考えた事。それは寸部の狂いもなく現実となる。彼女はまず徹也を落ち着かせるように優しく言葉をかけた。その雰囲気で少し冷静になった徹也が経緯を話しだす。
「正直俺は愛華の素質を高く買っている。だからこそ今後の店のやり方を一緒に考えたかったんだけど……」
「意見がぶつかって頭に血が登った……ってとこ?」
「俺は社長からこの店を預かっている。だから理想だけでなく現実……。数字も見ていかないといけないんだ。利益を考え、そうやって皆の給料を搾り出していかなきゃい駄目なんだ」
「愛華ちゃんならそれくらいわかるでしょうに」
「あいつは理想を求めすぎなんだよ。結果として利益が出る……。そう考えているのだろうけど、普通の企業とは違うんだ。この世界少しでも遅れをとったら……」
徹也は本気でフェンディーの事を考えていた。他の黒服にだけ任せることなく、自ら街宣として街に出ているのもそんな気持ちの表れなのだろう。詩織も驚いたこの時の彼の横顔。自分の事だけを考えているのではなく、スタッフの生活の為にも店を盛り上げるという考え。そんな管理者……。店のトップとしての横顔だった。普段女性同士で話す事が多いこの職場。どちらかと言えば愛華よりだった詩織の気持ちがこの時揺らぎだす。
「私にはどっちの考えが正論かなんてわからない。けど、どちらかが相手に近づかないと駄目なんじゃない?」
「プライドなんて言葉は使わないけど、俺にはそれが出来ないから沙織に頼んでいるんだよ」
詩織の言った言葉。本当にその事がわかっていたのは他ならぬ徹也なのだろう。けれども引く事が出来ない時がある。彼の言葉の半分は本当であり、もう半分は嘘であった。徹也は仕事の為に自らのプライドを口には出さないだろう。だが全スタッフの上長としては、今後のスタッフ達への影響を考え先に折れることは許されない。ギリギリの駆け引きだった。この緊張の中、結論として退店を口にしてしまった愛華は、まだまだ年齢が若すぎたのかもしれない。
「フェンディー……。徹也君にとっても愛華ちゃんは必要な存在なんだよね?だから引き止める。そう認識していいかな?」
「そう思ってくれ。ただ……それ以上に……」
一瞬言葉に詰まった徹也だったが、そんな彼の目を真剣に見つめる友人としての詩織の眼差しに心の内を全て告げる。
「それ以上に、愛華が抜けた時の周りのキャスト達への影響が怖い」
彼の言葉の意味は詩織にもよく理解できるものであった。接客だけでなく、仲間への気配りや世話焼きも良い愛華。長い経験からかもし出される彼女のオーラ。他のキャストも口には出さないが、そんな愛華への信頼と安心感は非常に大きなものがあった。そんな彼女が店を辞めるとなったら……。キャバクラで働くキャスト達の大半は、完全に水売りの世界に足を踏み入れたわけではないバイト感覚の娘達が多い。そんなキャスト達を黒服が精一杯フォローしてはいるが、最終的に頼りにするのはやはり同じ立場である女性。信頼できる姉のような存在。他店に引抜をかけられるよりも、そんなリーダー的存在について行き店を去られる事が、経営側からすると一番恐れる事態なのだろう。
「わかったよ。一度私から話してみる。さて……。愛華ちゃん出勤しているよね?」
詩織は一度深呼吸をして心を落ち着けると、徹也が開けた扉を通って店内へと入っていった。
照明が落とされた店内を見渡すと、二組の客がそれなりに盛り上がっていた。私服のままであった詩織は、客の目につかない様そそくさと事務室へ移動する。待機しているキャスト達が数名いたのだが、その中に愛華の姿が見えない。今来ている客に着いているのだろうか? そう考えた詩織は、とりあえずドレスに着替えようと奥の更衣室に向かった。
「詩織さん。ちょっと聞いてもいいですか?」
彼女に声をかけてきた二人のキャスト。振り返ると、そこには入店してまだ一ヵ月ほどの新人が立っていた。嫌な予感。詩織はそんな気持ちを悟られぬ様に気をつけながら笑顔で答える。
「おはよう。どうしたの二人とも?」
この二人のキャストは、今回始めて水売りの世界に入ってきたばかりであった。その理由を詮索したことは無かったが、全ての事に緊張していた入店当初。仕事のやり方から悩みの相談まで、親身になって見守ってきたのが愛華と詩織だった。
「あの……。ちょっと噂になっているんです。愛華さんの事……。本当に辞めちゃうんですか? 詩織さんなら知っていますよね?」
仕事にも慣れてきて、店でも本当に楽しそうな笑顔をいつも見せてくれていた二人が、この時入店したばかりの頃と同じ不安げな表情を見せる。徹也が予想していた通りの展開。まだまだ夜の世界では右も左もわからない新人だからこそこうやって詩織に相談を持ちかけてきたのだが、ある程度の経験者となると……。
「まだね? 本当に辞めるって決まったわけじゃないの。私もさっき店長に聞いたばかりだけど、私が一度愛華ちゃんに話してみるから」
こういった話はすぐに拡がるもの。下手に隠してしまったら後々影響が大きくなるかもしれない。そう思った詩織は包み隠さず二人に話した。
「二人は心配しないでいいよ。今日も笑顔で頑張ってね」
彼女の優しい口調と表情に安心したのか、二人はいつもの笑顔を取り戻し、詩織に軽く頭を下げると事務室へ戻っていった。
「それにしても愛華ちゃんは指名でも入っているのかな……。お願いだから早く戻って来てよ」
事務室で同じような質問が飛んでくる事を恐れた詩織は、その場を動くことが出来ないまま更衣室で待機することとなる。一人で静かな部屋にいれば、頭の中に色々な事が思い浮かんでくるものだ。もちろん今の心境ではろくな考えしか浮かんできやしない。段々と気が滅入ってきた彼女は、不意に携帯を取り出し一人の男にメールを打ち込み始める。問題が愛華の事だったから? 共通の知り合いだったから? なぜこの時その男を相談相手に選んだのかは、詩織本人も意識してはいなかった。携帯のディスプレイの中で紙飛行機が遠くへ飛んで行く。そしてそのメールは、遠く金沢から100kmほど離れた場所を走行していたJR特急へと届けられた。
ちょうど福井駅を出発した特急サンダーバード。時刻は二十時半を過ぎたところだった。喫煙車両の窓際の座席。決して態度が良いとは言えない姿勢で煙草を吹かしていた一人の男は、足元の紙袋から鮮やかな模様の包装紙に包まれた一つの箱を取り出す。煙草を灰皿に突っ込むと、その箱を両手に取ったまま満足そうな笑みを浮かべた。
「俺がお土産を買うなんてね。我ながら珍しいよ。へえ……。生八橋って《おたべ》って商品名なんだ」
暫くそれを眺めていた雄司。賞味期限をみると、意外にそれが短いことに気付く。