小説『営業SMILE』文庫用再編集ブログ

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 第三章


    1


 ショップが並ぶ華やかなフロアの片隅にある小さな勝手口。そこを抜けると配管がむき出しになった従業員専用の通路が伸びていた。出勤時や退社時には人通りも多いものだが、昼間の三時ともなると静かなものである。こんな時間にここを通過する連中の目的はというと、奥にある小さな部屋へと向かう事であった。

「さて。今日も雄司くんをからかいますか」
 
勢いよく喫煙室の扉を開けた煙草女。そこには雄司ではなく、たまに顔を合わすだけの名前も知らない男が一人いるだけであった。
 
「あれ? この時間に雄司君がいないのって珍しいな……」
 
思わず声にでてしまった彼女の独り言。意識していたわけではなかったのだろうが、部屋にいた男がそれを聞き、そして話しかけてきた。
 
「あの……。雄司くんって鼓さんの事だよね? 午前中にここで話したけど、お昼の電車で京都まで何かの集会に行くって言っていたよ」
 
「えっ? そ……、そうなんだ。ありがとう」
 
不意に声をかけられた事に少々たじろいだ煙草女だったが、一応彼にお礼を言う。
 
「京都か……」
 
椅子に座り煙草に火をつけ、しばしその煙の行方を追っていた彼女。何かを思い描いたのかニマニマと顔を緩めると、周りに聞こえている事も気付かぬまま独り言を発する。
 
「お土産。何か買ってきてくれるかな……」
 
気がつくと喫煙室には彼女一人。いつもはそれなりに騒がしい雰囲気にあるその小さな部屋も、この日は不思議と広さを感じさせた。


 夜風も暖かくなってきた五月の中旬。大型連休が終わった夜の片町にも、ようやくひと時の休息が訪れていた。とは言え、片町に出店している数多くの店。そしてそこで働く者達にとっては決して心休まるひと時とは言えなかった。競争の激しい夜の世界。こういったイベントの少ない時期に、いかに飲みに出ている数少ない客を来店させる事が出来るのかが勝負の分かれ目になるからだ。努力を怠った店や、客のニーズを掴めなかった店にはそれなりの試練が訪れる。そしてここ十億年ビルの一角。クラブ・フェンディーにもそんな空気が流れていた。
 
「申し訳ございません。店との方針が合わないのだから、これ以上ここにいる気は無いです」
 
午後八時。開店直後とはいえ、店内にはまだ一組の客も入っていなかった。客だけでなく、週末だというのにキャストの出勤数が異常に少ないという現実。黒服の管理不足だけを理由には出来ないのだが、キャストも含めて店全体を盛り上げる事が出来なかった事がこういったキャバクラにおける失策なのだろう。
 
「おい愛華。もう少しお前も、店のやり方に合わせようっていう気持ちが持てないのか?」
 
先ほどから店に響いていたのは徹也と愛華の口論のようである。互いの主張を受け入れる事が出来ないまま、ここ数日こういった光景が繰り広げられていた。どちらも考えている事はフェンディーをいかに盛り上げていくかという事なのだろうが、一度頭に血が上ってしまった二人にはもはや歩み寄るという事が出来なくなっているようである。
 
「店のやり方って……。現実こうやってキャスト達の出勤が減ってきているのが、店長達の考えが間違っている証拠じゃないんですか? 心配しなくても来週一杯は店にでますよ。その後は放っておいて下さい」
 
「おい。ちょっと待てよ……」
 
勢いよくドアを開け、愛華は事務室を飛び出る。出勤していた数名のキャスト達は、店内の空いているソファーで各々、二人のやり取りに関心を示すことなく携帯の画面だけを見つめていた。
 
「せっかく人が頑張ろうと思っているのに……」
 
奥の席に座り込んだ愛華は、煙草を取り出すが火をつけることもなく俯いてしまう。そうしている間も客が入って来ることはなく、時間だけが静かに過ぎていった。


 片町スクランブルを少し越えた場所に止まった一台のバスから大慌てで駆け下りてくる詩織。いつも慌てているイメージのある彼女ではあるが、この日は普段と違って表情に強張りを感じた。徹也からかかってきた一本の電話。その内容が彼女の緊張を高めているようであった。十億年ビルのエレベーターに乗り込む詩織。いつも以上に上昇が遅く感じる。鉄の扉はプログラム通りにゆっくりと開くのだが、詩織はそれを待つ事が出来ないとばかりに隙間から外へと飛び出す。そんな彼女を待っていたかの様に一人の黒服が店の外で待機していた。
 
「いったいどういう事?」
 
息が落ち着く間も無く詩織は徹也に詰め寄る。同郷であり古くからの知り合いである二人。周りに人がいない事を一瞬で確認すると、店長やキャストとしてではなく一友人として話しだす。
 
「愛華が来週一杯で店を辞めるって言い出した。お前が一番あいつと仲が良かったし……。なんとか止められないかな?」
 
詩織を待っていた間もずっとこうだったのだろう。徹也は少しの余裕も見せる事が出来ないままいきなり本題を切り出す。
 
「最近徹也君と愛華ちゃんがよく口論している姿は見ていたけど……。どうしてそうなっちゃったの?」
 
正直詩織にも、以前からこういったことになるのではないか? そんな思いが心の片隅にあった。電話で徹也は、『頼みたい事がある。できるだけ早く来てくれ』そう告げただけだったのだが、それを聞いた瞬間に考えた事。それは寸部の狂いもなく現実となる。彼女はまず徹也を落ち着かせるように優しく言葉をかけた。その雰囲気で少し冷静になった徹也が経緯を話しだす。
 
「正直俺は愛華の素質を高く買っている。だからこそ今後の店のやり方を一緒に考えたかったんだけど……」
 
「意見がぶつかって頭に血が登った……ってとこ?」
 
「俺は社長からこの店を預かっている。だから理想だけでなく現実……。数字も見ていかないといけないんだ。利益を考え、そうやって皆の給料を搾り出していかなきゃい駄目なんだ」
 
「愛華ちゃんならそれくらいわかるでしょうに」
 
「あいつは理想を求めすぎなんだよ。結果として利益が出る……。そう考えているのだろうけど、普通の企業とは違うんだ。この世界少しでも遅れをとったら……」
 
徹也は本気でフェンディーの事を考えていた。他の黒服にだけ任せることなく、自ら街宣として街に出ているのもそんな気持ちの表れなのだろう。詩織も驚いたこの時の彼の横顔。自分の事だけを考えているのではなく、スタッフの生活の為にも店を盛り上げるという考え。そんな管理者……。店のトップとしての横顔だった。普段女性同士で話す事が多いこの職場。どちらかと言えば愛華よりだった詩織の気持ちがこの時揺らぎだす。
 
「私にはどっちの考えが正論かなんてわからない。けど、どちらかが相手に近づかないと駄目なんじゃない?」
 
「プライドなんて言葉は使わないけど、俺にはそれが出来ないから沙織に頼んでいるんだよ」
 
詩織の言った言葉。本当にその事がわかっていたのは他ならぬ徹也なのだろう。けれども引く事が出来ない時がある。彼の言葉の半分は本当であり、もう半分は嘘であった。徹也は仕事の為に自らのプライドを口には出さないだろう。だが全スタッフの上長としては、今後のスタッフ達への影響を考え先に折れることは許されない。ギリギリの駆け引きだった。この緊張の中、結論として退店を口にしてしまった愛華は、まだまだ年齢が若すぎたのかもしれない。
 
「フェンディー……。徹也君にとっても愛華ちゃんは必要な存在なんだよね?だから引き止める。そう認識していいかな?」
 
「そう思ってくれ。ただ……それ以上に……」
 
一瞬言葉に詰まった徹也だったが、そんな彼の目を真剣に見つめる友人としての詩織の眼差しに心の内を全て告げる。
 
「それ以上に、愛華が抜けた時の周りのキャスト達への影響が怖い」
 
彼の言葉の意味は詩織にもよく理解できるものであった。接客だけでなく、仲間への気配りや世話焼きも良い愛華。長い経験からかもし出される彼女のオーラ。他のキャストも口には出さないが、そんな愛華への信頼と安心感は非常に大きなものがあった。そんな彼女が店を辞めるとなったら……。キャバクラで働くキャスト達の大半は、完全に水売りの世界に足を踏み入れたわけではないバイト感覚の娘達が多い。そんなキャスト達を黒服が精一杯フォローしてはいるが、最終的に頼りにするのはやはり同じ立場である女性。信頼できる姉のような存在。他店に引抜をかけられるよりも、そんなリーダー的存在について行き店を去られる事が、経営側からすると一番恐れる事態なのだろう。
 
「わかったよ。一度私から話してみる。さて……。愛華ちゃん出勤しているよね?」
 
詩織は一度深呼吸をして心を落ち着けると、徹也が開けた扉を通って店内へと入っていった。


照明が落とされた店内を見渡すと、二組の客がそれなりに盛り上がっていた。私服のままであった詩織は、客の目につかない様そそくさと事務室へ移動する。待機しているキャスト達が数名いたのだが、その中に愛華の姿が見えない。今来ている客に着いているのだろうか? そう考えた詩織は、とりあえずドレスに着替えようと奥の更衣室に向かった。
 
「詩織さん。ちょっと聞いてもいいですか?」
 
彼女に声をかけてきた二人のキャスト。振り返ると、そこには入店してまだ一ヵ月ほどの新人が立っていた。嫌な予感。詩織はそんな気持ちを悟られぬ様に気をつけながら笑顔で答える。
 
「おはよう。どうしたの二人とも?」
 
この二人のキャストは、今回始めて水売りの世界に入ってきたばかりであった。その理由を詮索したことは無かったが、全ての事に緊張していた入店当初。仕事のやり方から悩みの相談まで、親身になって見守ってきたのが愛華と詩織だった。
 
「あの……。ちょっと噂になっているんです。愛華さんの事……。本当に辞めちゃうんですか? 詩織さんなら知っていますよね?」
 
仕事にも慣れてきて、店でも本当に楽しそうな笑顔をいつも見せてくれていた二人が、この時入店したばかりの頃と同じ不安げな表情を見せる。徹也が予想していた通りの展開。まだまだ夜の世界では右も左もわからない新人だからこそこうやって詩織に相談を持ちかけてきたのだが、ある程度の経験者となると……。
 
「まだね? 本当に辞めるって決まったわけじゃないの。私もさっき店長に聞いたばかりだけど、私が一度愛華ちゃんに話してみるから」
 
こういった話はすぐに拡がるもの。下手に隠してしまったら後々影響が大きくなるかもしれない。そう思った詩織は包み隠さず二人に話した。
 
「二人は心配しないでいいよ。今日も笑顔で頑張ってね」
 
彼女の優しい口調と表情に安心したのか、二人はいつもの笑顔を取り戻し、詩織に軽く頭を下げると事務室へ戻っていった。
 
「それにしても愛華ちゃんは指名でも入っているのかな……。お願いだから早く戻って来てよ」
 
事務室で同じような質問が飛んでくる事を恐れた詩織は、その場を動くことが出来ないまま更衣室で待機することとなる。一人で静かな部屋にいれば、頭の中に色々な事が思い浮かんでくるものだ。もちろん今の心境ではろくな考えしか浮かんできやしない。段々と気が滅入ってきた彼女は、不意に携帯を取り出し一人の男にメールを打ち込み始める。問題が愛華の事だったから? 共通の知り合いだったから? なぜこの時その男を相談相手に選んだのかは、詩織本人も意識してはいなかった。携帯のディスプレイの中で紙飛行機が遠くへ飛んで行く。そしてそのメールは、遠く金沢から100kmほど離れた場所を走行していたJR特急へと届けられた。


 ちょうど福井駅を出発した特急サンダーバード。時刻は二十時半を過ぎたところだった。喫煙車両の窓際の座席。決して態度が良いとは言えない姿勢で煙草を吹かしていた一人の男は、足元の紙袋から鮮やかな模様の包装紙に包まれた一つの箱を取り出す。煙草を灰皿に突っ込むと、その箱を両手に取ったまま満足そうな笑みを浮かべた。
 
「俺がお土産を買うなんてね。我ながら珍しいよ。へえ……。生八橋って《おたべ》って商品名なんだ」
 
暫くそれを眺めていた雄司。賞味期限をみると、意外にそれが短いことに気付く。

「あの二人本当に仲良しですよね」
 
顔色を変えることもなく、まるで質問予想していたかのように愛華は間髪を入れずに答えた。なんとなく話をはぐらかされた様な気がした東山だったが、そこに突っ込みを入れる事が出来ないまま話を続ける。
 
「えっ? あぁ……。それは傍から見ている俺も思うけれど。けどこういうお店だからね」
 
思わず出てしまった偏見的失言。心の中ではそんな夜だとか昼だとかの区別など考えてもいなかったのだろうが、自分が信じてみたい事への天邪鬼な発言をしてしまったようだ。その一言を聞き逃さなかった愛華は瞬間表情をキリっと固まらせると、少し声のトーンを上げ上半身を乗り出すような勢いで口をひらく。
 
「キャバクラだからと言って人との接し方に違いはないです。やっぱりいいな……って思える人とは一緒にいて楽しくいられるし、合わない人とは心の底から楽しく出来ないですし……」
 
最初真剣な眼差しで語る愛華に圧倒された東山だったが、すぐにもとの穏やかな顔に戻った事に安堵する。そして今度は言葉を選びながら静かに続けた。
 
「じゃあ少なくとも詩織さんは雄司といて楽しそうだから……」
 
「ですね。ちなみに、結構キャストがお客様と付き合う事ってあるんですよ。どうしても出会いが少ないし、仲良くなってその人と……って」
 
「またまた。それは無いだろう?」
 
「そんな事無いですよ。私も良い人がいれば……って思う時ありますし。まあ昔ほど彼氏が欲しいって思う年齢でもないですけどね」
 
「年齢って……。まだまだいくらでも良い人見つけられるだろう?」
 
「夜の仕事をしているとなかなか長く続かないんです。半年前にも終わったばかりですから」
 
ネットの世界でよく語られる色恋営業のトーク例。話をしながらそんな事を思い出していた東山。フェンディーに行き始めてから、この時初めて愛華に対しての警戒心を意識の上で持つのだが、感情は自分では操作できないもの。心の中では感情の高ぶりが意識的抑制を圧倒し始めていた。危険信号が点滅したのか? この場この話題からはとりあえず避難しなければいけないと劣勢ながらも残っていた意識が呼びかける。
 
「さてと……。そろそろお店に行かなくていいの?」
 
「えっ? もうこんな時間なんだ。楽しいひと時って過ぎるのが早いですよ」
 
携帯の時計を見た愛華が慌てた声を出す。途中この会話にのめりこんだのは、何故だか彼女のほうだった。東山は店主にチェックを告げ支払いを済ませる。
 
「先輩ご馳走様でした。美味しかったですね」
 
「ああ。美味しかったし楽しかったよ」
 
東山は席を立つと、彼女を店の外へとエスコートする仕草を見せた。
 
「先輩って本当に紳士ですよね」
 
「愛華ちゃん相手だからね。また食事に行こう」
 
「うまいなあ先輩。気をつけなくちゃ。今度は先輩の行きたいお店で大丈夫ですよ。楽しみにしています」
 
店を出た二人はそのまま道路を渡り、十億年ビルへと入っていった。
 
 
 東山達がフェンディーのソファーに座ってから早一時間。二人は今日食べた料理の事や、次回の同伴で何を食べに行くか……。そんな事で盛り上がっていた。程なくして黒服が延長の有無を聞きにやって来たのだが、まだ雄司が来ない事を理由にもう一時間ここにいる事を告げる。
 
「雄司さん遅いですね。何時に待ち合わせなんですか?」
 
「いや。あいつが仕事終わったらってだけで……」
 
雄司と待ち合わせているとはいえ、初めてフェンディーに一人でやって来た東山。いつも雄司と二人で店に来る事ばかりだっただけに、なんとなくいつもと雰囲気も違って感じたのだろう。そんな彼を愛華はからかう様に言った。
 
「ついに先輩も一人でキャバに来れるようになっちゃいましたね」
 
「そうだっけ?」
 
「あれ? 私が休みの時か何かに来たとか……ですか?」
 
何も考えずに会話の流れに乗っていた東山だったが、すぐに自分が放った言葉に絶句する。キャバクラというものに来るようになってから、比較的早い段階に一人で行った事実。名古屋のCLUB・DEEP・BLUE……。美羽の所である。当然その事を知っているのは雄司だけであった。知られたくない。知られたらまずい。そう思った東山は、精一杯にフル回転させたその頭脳でこの話題から逃げる策を考える。
 
「えっと……。そういや一人で来たことなかったね。スナックには一人で普通に行っていたからあまり考えた事なかったよ。一人といえば…」
 
「……?」
 
「雄司遅いね。ちょっとメールしてみようか?」
 
「本当に遅いですよね。早く来るように言いましょうよ」
 
心の中でホッと胸を撫で下ろした東山は言葉に従い携帯を取り出す。それを開くとディスプレイに一件のメール着信が入っていた。そのままそのメールを開くと、送信者に雄司の名前がある。
 
「あれ? 雄司からメールが来ていた。マナーモードだから気付かなかったよ」
 
「何時ぐらいになるか書いてあります?」
 
「ちょっと待ってね」
 
そう言って彼はメールを声に出して読み出した。
 
「 《悪い。会議が入ったから遅くなる。ワトソンで落ち合おう。愛華とよろしく♪》 だって」
 
「来れないんだ。詩織さんも残念がります」
 
残念そうにする愛華に合わせて東山も軽く溜息をつく。その理由は彼が考えていたある計画にあった。この日、さりげなく雄司と詩織の仲をさらに盛り上げてみようなどと悪巧みを考えていのである。それもあって食事の最中にあのような話を切り出したのだが……。今日の作戦はこのまま中止なのか? そんな事を考えていた時、ちょうど向かいのソファーに座っていた年配の男が複数のキャストを席につかせているのが目についた。すぐさま新たな案が脳裏に浮かぶ。
 
「ねえ。今ここに詩織さんも指名して座ってもらう事って出来るの?」
 
流石にこういったルールについてはネットでも見た事がないし、美羽からも聞いた事がなかった。恐る恐る愛華の顔を覗き込むのだが……。
 
「出来ますよ。呼びますか? 私も嬉しいですし」
 
意外にも愛華は本当に嬉しそうな態度を見せる。詩織と本当に仲が良い事が東山にもわかるくらいであった。
 
「よし。それじゃあ詩織さんも呼ぼう」
 
「ありがとうございます。では早速……。お願いします」
 
愛華は呼び声に駆けつけた黒服に詩織を席につけるよう指示をだした。
 
「俺なんかが二人も指名……。ダブル指名っていうの? こんな事してもいいのかな?」
 
「両手に花ですよ。出来る男って感じじゃないですか」
 
「いや。ただのしがないサラリーマンだから……」
 
煽てだとわかってはいるが、思わず照れてしまった東山はグラスの麦酒を一気に飲み干す。愛華がお代わりを頼む為手を挙げようとしたその時、奥から現れたキャストが声をかけてきた。
 
「今ボーイにお代わり頼んでおいたよ。こんばんは。呼んでくれてありがとうございます」
 
黒いドレスに身を包んだ、愛華とはまた雰囲気の違うたたずまい。大人の香りを漂わせたそのキャストは詩織であった。詩織の登場にはしゃぐ愛華とは反対に、東山はいたって落ち着いた面持ちで挨拶の言葉をかける。
 
「久しぶり詩織さん。指名したのが俺で残念だった?」
 
意味深な笑みを作る彼に言葉の意味を理解したのか、詩織は期待通りに応えてくれる。
 
「雄司さんがいないのに私を呼んでくれたんでしょ? 嬉しいに決まっていますよ」
 
「はは……。なんだか照れるな」
 
そのまま話が盛り上がりそうだった事もあり、愛華の一声でまずは三人で乾杯をすることとなった。それから暫くの間、東山と愛華の同伴の事やらで話しは尽きなかった。雄司不在の不思議な空間。彼が今日来れなくなった事は詩織もメールで知っていたようだが、それだけにこのサプライズは彼女にとっても楽しいものとなったようであった。そんな折、意外にも愛華から話のきっかけが飛び出る事になる。
 
「そういえば詩織さん。昨日雄司さんと焼肉食べに行ったんですよね? 楽しかったですか?」
 
彼女が雄司と詩織の店外焼肉の事を知っているとは思わなかった東山は、とっさに驚きを隠す事が出来なかった。そんな彼に愛華は、詩織から聞いた事を素直に、そして楽しそうに話す。続いて詩織も昨日の事を楽しそうに話し出し、その様子を見ていた東山も友達の事ながら幸せな気分に浸る事が出来た。このひと時が背中を押す事となり、東山はまさに直球の質問を詩織に投げかける。とっさの出来事に一瞬身構えた詩織に東山はそのまま問いかけを続けた。
 
「詩織さんにとって雄司って……」
 
東山と詩織のやり取りを食いつくように見入る愛華は、口を挟むことなく事の成り行きを見守っている。第三者としてなのか? 詩織側、つまりはキャスト側としてなのか? それとも東山の後輩……。先輩の友達の側としてなのか? どういう気持ちでいたのかは分からないが、この場を一番楽しめるのは彼女なのかもしれない。そんな愛華の期待を裏切る事の無い質問が東山の口から発せられる。
 
「ただのお客さん? 特別なお客さん。それとも……」
 
暫くの間誰も口を開く事が出来なかった。ほんの数十秒だったのだろうが、この沈黙の空間に耐えられなくなったのは質問をした本人。東山は質問の内容に気まずさを感じ出したのか、すぐに話を笑いで誤魔化そうとした。
 
「ただの客だよね。冗談だよ冗談。雄司があんまりフェンディーに通うから、詩織さんがどう思っているかな……って思っただけ。気にしない……」
 
東山が話し終えるのを待たないうちに、グラスのソフトドリンクを飲み切った詩織が話を折る。
 
 
「ただのお客さん……っていうより、私と雄司さんってお客さん以上になる事……。出来ないのかな?」
 
 
愛華と東山が思わず見詰め合う。少し酔っ払っていたとはいえ、詩織のこの発言は二人にとってかなりの驚きであった。おそらく雄司がこの場にいたら、この発言は聞けなかったかもしれない。愛華がからかう中、少し照れている詩織の表情に東山は何かを確信していた。
楽しい時間というものはあっと言う間に過ぎていく。三人で過ごした時間も、その後やって来た黒服のセット終了の合図でおしまいとなる。東山は雄司をからかう為にと、自分の両側に詩織と愛華を並べて写真を一枚撮った。会計を済ませた東山は、二人に見送られながら地上へと降りていくエレベーターに乗り込む。
 
「ありがとうございました。この後バーで飲み過ぎないように注意ですよ」
 
手を振る二人の姿が閉じていくエレベーターの扉に隠れていく。友人に訪れるかもしれない幸せに心躍らせていた東山は、この日が詩織と話をする最後の日になるとは思いもしていなかった。
 
 
 
 フェンディーを出てから片町を彷徨うこと約一時間。いつも以上に街のネオンが優しく感じる。日付が四月三十一日に変わった頃、東山はワトソンへと向かった。午前零時を過ぎるとある程度カウンターに空きが出来るからだ。
 
「いらっしゃいませ。今日はお一人ですか?」
 
「雄司と待ち合わせていたんだけど……。まだ来ていないみたいだね」
 
カウンターは比較的空いていたのだが、マスターと明日香に軽く挨拶した東山は隅の席に腰を落ち着ける。
 
「スティンガーを……」
 
ここでの定番を頼んだ彼は、煙草を一本取り出し火をつけた。そして思い出したように携帯を取り出し一件のメールを送る。そのデータは電波に乗って、遥か遠くにある名古屋へと飛んでいった。煙草を灰皿に押し付け、ちょうどスティンガーが東山の前に置かれた頃だろうか? 彼の携帯が電話の着信を告げようとメロディーを奏でる。
 
「もしもし? この時間に電話をくれるとは思わなかったよ」
 
「今日は体調が悪くてバイトを休んでいたの。声を聞くのは久しぶりだね。カズ兄」
 
電話はメールの送信先。美羽からだった。東山は詩織の言動に更なる確信を持ちたくて、師匠でもあり現役トップキャストでもある彼女に連絡を取ったというわけだ。早速雄司と詩織の店外焼肉の話から楽しそうに話しだす。そして自分と愛華の初同伴の事。かなり熱の入った語り口調だったのだが、そんな彼に美羽は溜息を交えながら淡々と解説をしてきた。
 
「二人とも共通して言えるのは、焼肉にせよカズ兄の同伴にせよ、まだまだ警戒されているね」
 
「どういう事?」
 
「まあ雄司さんの場合はいきなり店外だし、指名嬢がその後仕事があるから近場だったって事もあるからわからないけど……。カズ兄の場合は、この仕事に慣れている連中にとってはマニュアル通りの行動をされているって事」
 
「マニュアル通り? どんな行動だよ」
 
「初めての同伴をする場合、キャストは必ず何処で食事をするのかを店に報告するの。その場所にしても、店のすぐ近くに設定するのが普通なのよ」
 
美羽の言葉を聞き、東山は今日の出来事を再度思い出す。待ち合わせの場所から焼き鳥屋。そしてフェンディーに行くまでの時間。今にして思えば幾つか言い回しがおかしいと感じる発言が……。
 
「そう言えば気になる一言が……。 《今度は俺の行きたい店で大丈夫》って。いいですよ……じゃなくて、大丈夫……って」
 
「客が何かしでかそうとした時、キャストの身を守る為に黒服がすぐ駆けつけられるようにだよ。初めて店の外で会うまで本性ってわからないから」
 
「……考えすぎだろう?」
 
「私もこの世界に入って最初の同伴の時に、店長からしっかり説明されたもん」
 
「……信用されてなかったのか。そりゃそうだよね。お店の中でしか話していないんだし。なんだか空しくなってきた……」
 
がっくりと肩を落とす東山だったが、頑張って深呼吸をすると、さらに今日の愛華の発言について美羽に聞く。少し声のトーンが下がっている事に気付いていたのだろう。彼女なりに東山を励ましつつ言葉を続ける。だが結論は……。
 
「とりあえず今日の愛華ちゃんの発言は、全部とは言わないけど見事にマニュアル通りの営業トークだよ。今日はね? 今日はだよ? 今後はカズ兄しだいだよ」
 
たしかに美羽の言うとおりだった。何事も最初から上手くいくなんてことはないだろう。今日は初めての同伴。逆に言えば今日の東山の姿を見て愛華の信頼を得たのかもしれないのだし。美羽がきちんと本音で語ってくれたお陰で、彼は再び心の中に力をみなぎらせる事が出来た。スティンガーを一気に飲み干すと、東山は話題を今日一番聞きたかった事に変える。美羽に聞きたかったのは、詩織の雄司に対する言葉についてだった。
 
彼は自分が知る限りの雄司と詩織のこれまでの事。昨日の焼肉店外の事。そして、つい一時間ほど前に詩織自身の口から聞いた言葉……。興奮を抑えつつも熱く語る。友人の事ながら体温が上昇するのがわかるくらいであった。東山は冷却用にとジン・トニックをチーフに注文すると、彼女に見解を急かす様続ける。
 
「っで、美羽的にはどう思う?」
 
恋愛話にするどく耳を傾けていた明日香を奥へと追いやり、彼は返答を待っていた。美羽が自分の考えをまとめているのが電話越しにもよくわかる。うなり声とともに三十秒ほど時間が過ぎた頃、やっと彼女が口を開いた。
 
「まず思うのは……。雄司さんって噂以上に子供っぽい人だよね。カズ兄と同級生でしょ?」
 
「子供っぽいって言うよりガキだね」
 
「詩織さんもよく相手しているって思う」
 
意外なほどに冷たい言葉が返ってきた。ジン・トニックを待つまでもなく、彼の熱く燃え盛っていた感情が一気にその温度を下げていく。
 
「……それって脈なしって事?」
 
「はいはい。結論が早いよ。カズ兄にはこの間私の昔話をしたよね?」
 
「……昔の男のこと?」
 
少し躊躇いながらも答える東山に、無言ではあったがたしかに美羽が頷く姿が見えた気がした。以前聞いた彼女の切ないラブストーリー。その話をここで持ってくるとは思わなかったのだが……。
 
「ねえカズ兄? 女の子ってどんな男に惹かれると思う?」
 
「そりゃあ……。頼りがいがあって、ぐいぐいと引っ張ってくれる人かな?」
 
「そう。やっぱりそんな男性を求める。でもね? 反対もあるの。女性は母親になるべく遺伝子があるからそういう感情も生まれるんだろうね」
 
神妙な口調で語る美羽の声に、東山は口を挿むことなくただ静かに聞いていた。
 
「なんだか子供っぽい……、頼り無い部分を見ていると、母性本能が働くって言うか……。これって勘違いなのかな?」
 
「そういやお前もそうだったね……」
 
「それが幸せな結果になるかどうかは相手しだいだけど、駄目な男になぜか夢中になる。私の周りには結構そういう子が多いよ。もちろん優しさがなきゃそういう事にもならないけどね」
 
「雄司の奴……。そんな駄目男でも……。いや、俺に言わせりゃ大人になれていない駄目な奴かも」
 
「雄司さんの場合、頼りない子供っぽい部分と、逆に強引な部分を併せ持つから怖い存在かな?私は直接二人を見ていないからこれ以上言えないけど、なんとなくその詩織さんが言った言葉と状況。営業では無い気もするよ」
 
あくまで美羽の見解ではあるのだが、惹かれ方はともあれ脈がありそうな雰囲気は益々確実なものになってきた。東山は空いていた手の拳を思わずグッと握り締める。その時だった。ワトソンのドアがベルを心地よく鳴らしながら開く。マスターが入ってきた人物に挨拶をする中、チーフがさりげなく目で東山に合図を送った。その意図をすぐに悟った彼は、小さな声で美羽に言う。
 
「悪い。また連絡するよ。今日はこれで切るね」
 
「ちょ……。ちょっとカズ兄? もう、勝手なんだから。最後に言っておくけど、こういう恋が上手くいくかどうかは男の成長次第だからね……」
 
彼女の声がスピーカーから響くまま、東山は大慌てで携帯を閉じバッグにしまう。そしてさり気無く姿勢をただすと、自分の隣の席に腰をおろした男に声をかけた。
 
「随分と会っていなかった気がするけど、やっと主人公の登場だ」
 
「は? 二週間振りくらいだろ? それより主人公って何だよ?」
 
「片町で咲いた一輪の恋物語……。チーフ。レコードかけてもらってもいい?チーフも好きなあの曲を」
 
ニコリと頷き、チーフはまるで用意してあったかのように立てかけられていた一枚のレコードをプレーヤーに置く。針の擦り切れる音と優しいメロディー。一瞬店にいた全員がその音楽に耳を傾けた。
 
「いい曲じゃん。これはなんて曲?」
 
「メモリーズ・オブ・ユー。何度かここで聞かせただろ?」
 
東山は今日の詩織の一言を自分の胸にしまったままにしておく事にする。物語はまだ続いているのだから……。
 
 
 
〔営業SMILE 第二章~終了   第3章へと続く・・・〕
その持ち主の気持ちを知ることもなく、携帯は静かに電波の受信を待っている。
 
「まったく女ってやつはどうして準備にこれだけ時間がかかるんだ?」
 
なかなか連絡をよこさない詩織に痺れを切らしそうになった雄司が、自分から電話をしようと携帯を手に取るがすぐに元の場所へと戻す。再びテレビに身体を向けるのだが、その画面に映る映像は全く頭には入ってこなかった。彼の頭の中で思い描かれていたのはこの間フェンディーに行っていた時。日をさかのぼる事先週の土曜日である。あの日雄司は東山が金沢に来なかった事もあり、一人詩織に逢う為フェンディーのドアを開けた。指名が被っていたのだろうか? ソファーに腰をかけてから二十分。ようやくやって来た詩織に早速切り出す。
 
「なあ詩織。この間の約束だけど……」
 
「ご飯だよね……」
 
「そう。来週くらいどうかな?」
 
一瞬何かを考え込んだ詩織は俯き言葉を詰まらせる。だが雄司が再度声をかける前に顔をあげると、ニコリとわらって答える。
 
「うん、大丈夫。金曜日の祝日なら丁度昼の仕事も休みだから……いいよ」
 
その返事を信じて疑わなかった雄司であったのだが、本人の口から実際にその言葉を受け取ったからだろうか?自分でも不思議なくらいに気持ちが高揚する。
 
「マジ? 何処に食べに行く?」
 
「夜はバイトがあるから……。お昼ご飯に雄司さんの家の近くにある焼肉屋なんてどう?」
 
「はっ? あそこでいいの? もっといい所を探しても……」
 
「でも、近くのほうがゆっくり食事出来るよ」
 
初めての詩織と食べに行く食事。雄司といえども一応は男。女性を誘ったのだからそれなりにいい所に連れて行こうと考えていただけに、詩織の提案に高ぶった気持ちも少し低下しかけていた。だが、ゆっくり出来るという詩織の発言にすぐ先ほどの笑顔が戻る。
「それもそうか。よし。そこにしよう」
 
「うん」
 
携帯をテーブルに戻してからほんの数十秒。雄司が記憶を辿っていたその時、彼を現実世界に引き戻すように携帯がメールの着信を知らせた。すぐにそれを手に取りディスプレイに目をやる。
 
 
《お待たせしました♪今から家出るから四十分くらいにお店で待ち合わせでもいい?》
 
 
「遅いよ……何時まで待たせるんだっての」
 
そう言いながらも雄司の顔には嬉しそうに零れ落ちる笑顔が満ちていた。
 
 
 
 四月三十日土曜日。この日午前中だけ店を開けていた東山は、業務が落ち着き閉店準備をする前の十三時過ぎに事務室で携帯メールを打ち込んでいた。部下の子にレジ閉めをお願いすると、適当な理由を言って場所を移動したようである。返事はすぐには来ないだろう……。そう思って部屋を出ようとしたその時、ロッカーからメールの着信音が聞こえた。すぐに受信メールを開く東山。送信者は期待通り愛華からであった。
 
 
《お仕事お疲れ様です。今日先輩と初めての食事ですね♪ 七時くらいに十億年ビルの前で待ち合わせなんていかがでしょう? ちょうど道路を挟んだところにある焼き鳥屋が美味しいって話を聞いていたので行ってみたいのです》
 
 
考えてみたら愛華の好みも何もしらない東山。同伴で行く店の予定も何も考えていなかっただけに、その提案にホッと胸をなでおろしすぐに了解の旨を返信した。これでこの日一日の前半は終了。後は夕方の待ち合わせに遅れないよう金沢まで向かうだけなのだが……。
 
「……先生?」
 
いつから見られていたのか? 携帯を再びロッカーに片付け鼻歌でも歌いそうなノリだったその時、部下の子も気まずくなったのか声をかける。
 
「あっ……麻美ちゃん。どうした?」
 
「先生最近変です。なんて言うか、浮ついていないですか?」
 
「そっ……そんな事ないよ。何を突然」
 
「昔の先生は……」
 
「何?」
 
「な……、何でもないです。それよりもうお店閉めますよ。早く」
 
彼女は東山の後ろ側に回りこむと、彼の背中をその小さな両手で必死に押した。
 
「お……、おい。押すなよ」
 
「さっさと帰りますよ」
 
麻美に急かされ一階へと降り閉店の確認をする。そして店の戸締りを済ませた東山は、彼女に挨拶をするとさっさとアパートへと向かった。それから時間は過ぎ場面は金沢へと移る。香林坊から片町へと続く道路は時間がらかなり渋滞しており、その中の一台の車に愛華の姿があった。運転を一人の女性に任せて助手席で携帯を片手に何かを話している。
 
「えっ? 結局店外したんですか? 前例を作っちゃったらこれからが大変ですよ。大体初めての食事だし」
 
電話の相手はどうやら詩織のようである。目の怪我が完治して、今日から久しぶりに仕事に復帰する愛華。ちょうど詩織に電話をした時、初めて昨日の事を知ったようだ。初めての食事における店外を止めようとしていた彼女は、すでに終わってしまった事にも文句を言っていた。
 
「“でも”も“糞”もないですよ。詩織さんもっとしっかりしなきゃ。あっ、ごめんなさい。もう片町に着くからまたお店で話しましょう? うん。今日は同伴です。えっ? 誰でしょうね? 後のお楽しみです。それじゃあ」
 
車は渋滞を避けて竪町横の裏道を通り抜ける。愛華は携帯を閉じるのだが、そのディスプレイに一件のメール着信の表示が残っていた。東山からである。
 
《ちょっと早いけど着きました。待っていますね》
 
待ち合わせの時間まで後五分。なんとかギリギリ間に合う距離まで来ていた。
 
「ごめん恋。急いで」
 
「急いでいるって。お姉ちゃんが寝過ごしたのが悪いんでしょ?」
 
「少しでも昼間寝ておかないと夜遅くまで働けないんだもん。はい、早く」
 
恋はブツブツと言いながらも愛華の要求どおり車の速度を上げる。そしてビルの隙間に入り込むように一つの曲がり角を右折した。道の先には犀川大通りが見える。
 
「お姉ちゃん着いたよ。ところで今日はどんな客と何を食べに行くの?」
 
「大学の先輩と焼き鳥」
 
「いいなぁ……焼き鳥」
 
恋は指をくわえる動作を見せながら、愛華におねだりをする子犬のような表情を見せる。だが愛華は真面目な顔をしたまま冷たく言い放つ。
 
「今日は先輩と初めての同伴だからね。遊びじゃないしお土産はないよ」
 
手鏡を取り出しメイクのノリを再度確認する。その様子を見た恋が言葉を続けた。
 
「何をそんなに意気込んでいるの?」
 
自分の姉が同伴に行く姿は何度か見たことがある恋であったが、初めてみるその真剣な顔を不思議そうに見つめる。
 
「いくらお客様が店で良い人ぶっていても、同伴とかになると急に変貌することがあるの。今日が先輩と初めての同伴。油断せずにその人の本質を見抜く。これが大切……。わかる?」
 
「わからないっす」
 
「まああんたは夜の仕事はしない方がいいよ。わからなくてOK。それじゃあ行ってくるね。サンキュー」
 
恋が車を止めると、愛華は勢いよく助手席の扉を開ける。時計を見ると三分ほどの遅刻。5m先の大通りにでると東山との待ち合わせの十億年ビルである。彼女は駆け足でその場所へと向かった。
 
「先輩ごめん。お待たせ」
 
息を切ってやってきた後輩の姿を確認した東山は、思わず吸っていた煙草を携帯灰皿に詰め込む。許容量を超えた吸殻が詰め込まれたその灰皿は、強引に蓋を閉じられるとそのまま東山のポケットに押し込まれた。
 
「おはよう。そしたら愛華さんとの初めての同伴……。行きますか?」
 
「はい」
 
二人は信号が青に変わるのを待って、十億年ビルのちょうど反対側にある創作焼き鳥屋の暖簾をくぐった。いわゆる焼き鳥屋の雰囲気とは違う、今時の洒落た店内。BGMにはジャズが流れている。まだ時間が早かったのか店内は二人の貸切状態。愛華が個室のようになっているテーブル席を指差したのだが、東山は料理が作られるところから楽しもうと提案してカウンターに並んで座る事になった。
 
「このお店は初めてなの?」
 
「はい。店のみんなが美味しいって言っていたので、一度来てみたかったんです。一人では行けないから、先輩に甘えてみました」
 
ペロリと舌を出す素振りをしながら、恐縮したように愛華が笑う。その姿に気持ちが高ぶる東山は、その勢いを借りて精一杯の気取った台詞を口にする。
 
「俺でよければ何時でも言って。俺も美味しいお店には素敵な女性と行きたいから」
 
だが精一杯の爽やかな笑顔をみせる彼の目を見ながら、彼女はクスクスと楽しそうに笑い、そして次に意地の悪い顔を作って東山に答えた。
 
「またまた。先輩上手いですね? いつもそんな事言っているんですか?」
 
「まさか。今も結構勇気だして言ってみたんだから」
 
心の中で愕然と膝を付く彼の様子を読み取ったのか? 愛華は再び優しそうな笑顔にもどると静かに言った。
 
「ありがとうございます。先輩の言う事だから信じていますよ。それじゃあ乾杯しましょう」
 
お酒に弱い愛華はウーロン茶をオーダー。東山は定番の“とりあえずのビール”をオーダーする。二人はグラスを合わせると先ずは一呼吸整えるようにグラスを半分くらい空けた。
 
緊張していたのは東山だけではなく、愛華も同じだったようである。ほぼ同時にグラスを置いた二人は、喉の奥に詰まっていたものを吐き出すように気持ちよく息を吐き出す。ようやくフェンディーで話す時のようにいつものペースを取り戻し、次々と出てくる料理を堪能しながら楽しい一時が始まった。店では話題にした事のなかったような事を互いに話し、聞き、楽しい時間はどんどん過ぎていく。そんな中、思い出したように東山は愛華に一つの話題を切り出した。
 
「そういえばちょっと聞いてみたかった事があるんだけど……」
 
「何ですか? 急に改まって」
 
先ほどまでの流れを止める東山の雰囲気を感じとったのか? 箸を置いた愛華は姿勢を整えると神妙な面持ちで彼の顔を見つめる。
 
「雄司の事なんだけど」
 
ちょうどここへと向かう途中に詩織と電話をしていた彼女は一瞬その動きが止まる。恐らく彼が聞きたい事というのは……。すぐに正気を取り戻すと、愛華は東山が言葉を続ける前に口を開く。
 
「雄司さん? そういえば今日は来ないんですか?」
 
「もちろんフェンディーで落ち合う予定だよ」
 
「“もちろん”なんですね。この後も楽しそうです」
 
「だろ? だけどその前にこっそり聞いてみたかったんだよ」
 
東山にしてみれば、愛華が何を考えているかなど知る由もなかった。ただ楽しそうに話を続けてくる。彼がなんの話をしようとしているのかをもはや確信してしまった彼女は、流れに身を委ねることを決意したようであった。
 
「秘密の話しですね? 楽しそう……」
 
いつも通り屈託の無い笑顔を向けてきた愛華に、東山は逆に苦笑いを見せ、そして意を決したように問いかける。
 
「楽しいかどうかはなんとも言えないけど……。詩織さんって雄司の事どう思っているのかな……って。何か聞いている?」

声をかけてきたのは、接客のストレスも見せずにニコニコと笑いかける愛華だった。彼女は詩織の横に座ると、すぐに煙草を一本取り出し火をつける。一呼吸ついたところで詩織の手に握られた携帯に気付き、そしてさほど興味が沸くわけでもなく軽く問いかける。
 
「営業ですか? 平日だから大変ですよね」
 
「うん。まあ呼べば来そうな奴が一人いるんだけど……」
 
誰の事を言っているのか直ぐに理解できた愛華であったが、少し俯いて話すその様子に気付き、とりあえず話題を変えてみる事にした。
 
「そうだ。今日先輩と同伴の約束をゲットしましたよ」
 
「もう?」
 
同伴というこの世界では大して珍しくもない言葉に詩織が食いつく。愛華が客と同伴する姿は今まで何度も見てきたはずなのだが、この時の詩織はいつもと違う反応を示す。そして愛華はそんな彼女が妙に気になった。
 
「詩織……さん? 何かありました?」
 
しばらく無言の詩織であったが、溜息を合図に語りだす。
 
「雄司さんがね? 雄司さんが珍しく……っていうか、初めて食事に誘ってくれたんだ」
 
「あらら、良かったじゃないですか。でも……まだ同伴していなかったんですね。あれだけ仲良しだからてっきり……」
 
「私昼も働いているじゃない? 雄司さんに限らず同伴ってなかなか出来ないのよ。まあ……あまりしたいとも思わないけど」
 
ふたたび深い溜息をついた詩織に、愛華は苦笑いで言葉を続けた。
 
「確かに。ポイントもバックも付くし、美味しいご飯も食べられるかもしれないけど……相手次第ですよね」
 
「でも愛華ちゃんは割り切ってよく頑張っているよ」
 
詩織は嫌味で言ったわけではない。彼女にしても愛華にしても、生活の為にこの仕事を選んだのだ。仕事をする以上それを頑張るのは当然である。だが同伴ともなると、業務時間以外にも拘束されることになる。これも成績につなげる為と考えれば頑張らなければいけないのだが……。そういう意味で彼女は愛華の努力を普段から良く見ており、ただ素直に褒めてあげたくなったのだ。
 
「こういう仕事ですからね。けど、今までも楽しかった事はたくさんありましたよ」
 
「そうなんだ……。あっ、そうそう。それでね、雄司さんなら同伴してもいいかなって思ったんだよ」
 
「そう思えたのならいいじゃないですか。雄司さんは私が見てもいい人だと思いますよ」
 
少しだけ笑顔が戻った詩織の様子を見て、愛華は言葉を選びながら背中を押す。その言葉で雄司との食事を前向きに考え始めたのかと思えたのだが、詩織は携帯を手の中で遊ばせながら再び下を向く。
 
「けど……。同伴はしたくないって言うの」
 
「っということは?」
 
「よくある話だけど、店外で行こうって。すごく乗り気だし」
 
「初めての食事で店外は絶対に止めたほうがいいです」
 
愛華の表情が一瞬で曇ったものになる。躊躇なく飛び出た発言は、詩織に比べこの世界に長くいる彼女の経験から来た言葉。それだけに説得力があった。
 
「やっぱりそうだよね……」
 
「そうです。お客さん……というより男相手に油断したら駄目です」
 
「そういえば先輩。東山さんはどうやって同伴にもって行ったの?」
 
作ったような険しい表情で煙草を銜えていた愛華だったが、詩織の質問を受けすぐにニッコリと笑って質問に答える。
 
「何もしてないですよ。先輩から同伴しようって言ってくれたんです。いいお客様だ」
 
「本当。いいお客捕まえたわね」
   
そう言い残して、詩織はドレスに着替える為自分のロッカーへと向かった。
 
 
 
 四月二十三日。東山は朝から部屋の掃除をした後、部屋でJazzのCDを聴きながらコーヒーブレイクを楽しんでいる。この日の土曜日は、珍しく仕事も無くのんびりとした自分の時間を楽しんでいたのだが、逆に言えば特に予定も無く暇を持て余しているという事にもなる。
 
「さてさて。今日はどうしようかな……」
 
台所の換気扇下まで移動した彼は煙草に火をつける。暫くニコチンが身体に吸収されていく感覚に心地よく浸っていたのだが、すぐに何かを思いついたのかリビングに戻り携帯を手に取った。
 
 
《おはよう。今日は出勤するの? 天気もいいし金沢までドライブがてら……今夜片町に出ようかと》
 
 
凄まじいスピードでメールを打ち込むと、東山は窓辺のチェアーに腰を下ろして残っていたコーヒーを飲み干す。外を見渡すと青い空に海。その先には能登半島が見える。四年間見慣れた景色。気持ちの良い風が部屋へと吹き込んで来るのだが……。
 
「あれから三週間。これだけ空ければ多少飲みに行ってもいいだろ。もう田舎の景色は見飽きたよ……」
 
自分で片町……、しいては愛華に逢いに行く為の口実を言い聞かせる東山だった。メールの返事が来るのを心待ちにしていたのだが、このままじっとしているだけというのも空しいと感じたのか。愛用のノートパソコンを窓際のテーブルに持ってきてネットに繋ぐ。最近楽しく読んでいたキャバクラに嵌った男のサイトを見る為お気に入りをクリックするのだが、表示されたコンテンツの中に一つ心引かれる部分があった。
 
“キャバ嬢とのメールをする際の心得”
 
そう書かれていた一文。ちょうど今の境遇にピッタリとばかりにその部分を読むのだが……。
 
「何々……。心得その一。午前中のメールは避ける……。何ですと?」
 
続きを読むとその内容に納得がいく。キャストは深夜遅くまで働いており、その後家に帰ってからやっと眠れるのが早朝だからというのだ。だから午前中にメールが来るとかなり鬱陶しがられるというのである。
 
「ああ……、やっちまった」
 
こんな事で頭を抱えるこの時の東山の姿は、ハードボイルドという言葉からは到底かけ離れた物である。だがメールを送ってしまった事実は変わらない。諦めて経過を見ようと開き直る為に深呼吸をしたその時、そんな不安を消し去るように携帯が光る。メールの着信。大急ぎでその内容を確認すると、待っていた愛華からの返信であった。
 
  
《先輩おはよう(σ^‐’)b 今日金沢来る日だったんですか? なんだかすれ違いだよ。私は目を怪我してずっと仕事出ていなかったんです。だから極貧生活です》
 
 
この瞬間東山は金沢行きを取りやめる。以前までの金沢へ帰る理由や意味は完全にどこかへ行ってしまったようだ。気持ちは今夜愛華に会えるという部分で固まっていただけに、彼はがっくりと肩を落としたままメールの返事を書き込む。これにもすぐに返事がやって来た。こんなメールのやり取りが、力の抜けた東山の気持ちを徐々に高めていく。完全にキャバクラ嬢の営業に嵌っているかの様ではあったが……。
 
 
《映画見に行くんですか? 逢えなかったのは残念だけど、楽しんできてくださいね♪ 私もそのダンス映画見る予定です★ 目は愛兎のツミレちゃんに引っかかれたの。来週はお店に出れるはずだし、良かったら先輩が約束してくれた美味しいご飯を食べにいきませんか? それではまた連絡をくださいo(^-^)o》
 

「行くしかないでしょ? 来週の初同伴」
 
二階の部屋、窓辺の一室とはいえ誰も見ているはずが無い。なのに彼は一瞬周りを見渡してから、大きくガッツポーズを作った。
 
「さてと。そうしたら今日はおとなしく映画でも見に行きますか。シャルウィーダンス? ええ、いくらでも踊ります……なんて」
 
くるりと部屋の中で一回転。鼻歌を歌いながら彼は着替えの為クローゼットへと向かった。不意に携帯が鳴り響いたのはそんな時である。
 
「もしもし? どうした仕事中に……」
 
子供の頃から人気のロボットアニメの着歌が流れる。雄司専用の着信音だ。
 
「おまえ今日暇か?」
 
礼儀も糞もない口調。親友でなければ文句の一つも言ってやりたいところだがすっかりと慣れてしまった。
 
「暇やから今から映画観に行くところ。どうした?」
 
「いや……。今日は金沢に来ないのかなって思って。フェンディー行くか?」
 
「残念でした。今愛華ちゃんはお休み中らしいので行きません」
 
「……すっかり嵌っているな。フリーでいいじゃん。どうせ指名変えの帝王なんだし」
 
「人聞き悪い事言うな。おれはキャバクラに行きたいのではなく、愛華ちゃんに逢いに行っているんだよ。そういえば聞いてくれる?」
 
「なんだよ。改まって……」
 
東山は電話越しにも聞こえるくらいの咳払いをすると、その嬉々とした感情がばれないようにと落ち着いた様子を作りながら語りだす。
 
「ついさっき愛華ちゃんとメールしていたんだけど、初同伴の日が決定したんだ」
 
今度は逆に雄司の溜息が電話越しに聞こえてくる。彼の東山を馬鹿にした様子はなんの誤魔化しもなく素直に伝わってくる。
 
「同伴? アホやなあ。なんで金払ってまで一緒に飯食べに行くんよ? まあ精々楽しんでくれたまえ。俺は今度詩織と店外で飯行ってくるし」
 
「まじ? 良かったぜ。俺も安心だよ」
 
「えっ? あ……ありがとう。気味悪いな……。嫌味返しでもされると思ったのに」
 
いつもの感じだと絶対に貶されると思っていた雄司だっただけに、この時の東山の言葉に思わずたじろいでしまう。やはり愛華に出会ってしまってから東山はどこか変わった……と言うか壊れているのかもしれない。そう思っていたところ、彼はさらにその変貌を証明するような発言をする。以前から皮肉では言っていたが、この時はすごく素の意見としてのようだった。
 
「だってお前と詩織さんお似合いだし、親友としては上手くいってほしいから」
 
固まる雄司。照れとかそういうものではないのだが一瞬言葉に詰まる。
 
「はっ? 詩織はそんな相手じゃねえよ。キャバ嬢だぜ? 次の結婚相手も同業と決めているから」
 
「だれもそこまで聞いていないけど同業ねえ……。俺は絶対同業の女は嫌だけど。まあ今日は一人で楽しんできてくれ。また来週よろしく」
 
「俺の家をホテルか何かと勘違いしているだろ? まあいいけど。じゃあな」
 
そういって雄司は電話を切った。東山が後になって思ったのだが、午前中……しかも仕事中に飲みに行く誘いをしてくるなんてことは以前までは無かったことである。
 
 
 
 四月二十九日金曜日。“みどりの日”と名付けられた祝日。さすがに雄司も休みを取っていた。休日はいつも三時くらいまで寝ている彼なのだが、この日は珍しく十二時に着替えを済ませ居間でテレビを見ている。傍らのテーブルに置かれた携帯電話。そのメモリーには一件のメールが記録されていた。
 
《おはようございます。今起きました。準備が終わったらまた連絡するね》
 
着信時刻午前十一時……From詩織。

初めてこの男の口から食事の誘いを受けた詩織は突然の発言に動きが止まる。だが、直ぐにその発言を認識した彼女は笑顔で話し出した。
 
「いいの? 連れて行ってくれるの?」
 
煙草を灰皿に押し付けた詩織は、雄司との距離を近づけると嬉しそうな表情を見せた。そんな詩織に雄司は今まで感じた事のない感覚に陥ったのだが、鼓動がいつもより早くなっている事に本人は気付いていたのだろうか? 出会った頃引き込まれた笑顔……。それを思い出させる詩織の姿。雄司は何時に無く積極的に計画を練ろうと持ちかける。
 
「飯くらいいつでもいいよ。何時にしよう。早速今度の休みにする?」
 
「今度っていうことは、日曜日だよね?」
 
詩織は昼間携帯ショップで働いている事もあり、土曜日や日曜日は基本的に出勤する事が多い。よって休みというのは雄司の休みの日を指しているのだと思ったようである。
 
「ん? 詩織日曜日休みあるの?」
 
「私は大概仕事があるけど……。でも大丈夫。予定入れておけば早めに上がれるし、お店に来る前に夕飯行けるよ」
 
「そんなバタバタとしなくても、フェンディーが休みの日に食いにいけばいいじゃん」
 
「フェンディーが休みの日? 平日だよ?」
 
「平日だと俺の仕事が二十時くらいにおわるから、そのままどこかで待ち合わせにしよう」
 
詩織の暗に言った言葉の意味が理解できていないのか、それとも分かっていて話をそらしているのか? 彼女は同伴のポイントを積極的に取ろうとはしないタイプである。下手に客の負担を増やすよりも、逢いに来る回数を増やしてほしい……どちらかといえばそういうキャスト。だが、今の彼女は沙織ではなく詩織であった。純粋にキャストとしての仕事を優先しただけなのであろう。
 
「えっと……ごめん。休みの日は妹と約束があるんだ……」
 
「妹? いつだって相手出来るだろ? 毎週じゃあるまいし」
 
雄司のいう事にも一理ある。この先の事を考えれば、平日の休日なんてどれだけでもあるはずなのだ。そんな中、一日くらい彼女自身の為に時間をとっても罰はあたらない。この時の雄司の発言は、素直に詩織の事を思いやっての言葉だった。だが詩織はそんな雄司の気持ちを理解していなかったのか? 首を縦に振ることなく話を続ける。
 
「でも……、二人暮しなのにすれ違いの生活だからね。日曜日だと駄目? 雄司さんも仕事が休みだし丁度いいんじゃない?」
 
「夕飯の後お前に仕事があるんだったらゆっくり出来ないじゃん。それでもいいの?」
 
これも雄司の素直な詩織への思いやりだった。だが、この後詩織から発せられた提案がこの日良い感じであった二人の間の空気を重くさせていく。
 
「そのままご飯の後、お店でゆっくり楽しくお酒飲めばいいんじゃない?」
 
詩織は雄司に対してどのような気持ちでこう言ったのだろう。沙織ならばどう言っていたのだろう……。彼女にしてみても、フェンディー以外の空間で雄司に会うなんて事は初めてである。店の中でいくら親しくなり、互いに気心も知れてきたとはいえ、ここですぐに気を許すと馬鹿をみるのが夜の世界での一般常識。詩織にしてみたら、先ずは……最初は……という気持ちだったのかもしれない。けれども男にはそんな理屈など判るはずも無かった。
 
「それって……、同伴したいって事?」
 
「べっ、別に雄司さんがお店来たくないなら夕飯だけでも……」
 
一瞬険しくなる雄司の表情に言葉がつまる詩織。あわてて同伴を否定するように言葉を付け足すのだが、雄司は大人気なく少し拗ねた素振りをみせ煙草を取り出す。火を付けようとライターを取り出す彼女を制止すると、雄司は自分の考えを話し出した。
 
「のんびりご飯も食べられないならいいよ。それから……、俺は同伴なんてしないぜ? どうして一緒に飯を食うだけなのに余計な金を払わないかんねん」
 
「……」
 
雄司は胸のポケットからライターを取り出し自ら火を付ける。詩織はライターをもったままうつむき言葉も出ない。暫くの間周りの笑い声だけが響き渡る。そんな沈黙に耐えられずに最初声をかけたのは男の側。
 
「別にすぐ食事へ行かなくてもいいよ。また仕事が休みの時にゆっくり食べに行こう?」
 
少し言い過ぎたと思ったのか? 雄司は少し引きつり気味ではあるが、今出来る精一杯の優しい顔を見せてそう言う。それを見た彼女は多少ではあるが緊張が解けたようであった。顔を上げた詩織は軽く微笑むと雄司の提案に返事をする。
 
「そうだね。また予定見ておくよ」
 
「その時は焼肉でも食べに行こうさ」
 
「えっ? ハントン・ライスは?」
 
「せっかく食事に行くのにハントン・ライスなんて寂しいだろ?」
  
この日の雄司は珍しく焼酎のお湯割りではなく麦酒を飲んでいる。ジョッキに注がれたその泡だった液体を一気に喉に流し込むと、彼は何を納得したのか満足そうにソファーにもたれかかった。
 
 
 
 四月十二日、火曜日。十日前初めて愛華を指名したばかりの東山は、逸る気持ちを抑えて週末を大人しく富山で過ごしていた。フェンディーに行きたいという衝動に駆られたのだが、自分で自分に必死で抑制をかける。彼はこの頃からキャバクラ自体にも興味を持ち始め、ネットを使ってキャストやキャバクラにはまった男達のホームページを訪れるようになっていた。そんな中見つけたキャバクラでの失敗体験談を書き綴るサイトや、今も通い続け、騙され続け、気がつけば五百万が消えていく男のサイト。これらを読んでいるうちに自分が今足を踏み入れつつある世界が急に怖いものに感じてきたからだ。そういう理由で愛華にメールを送ったりする事も控えるようにしていたのだが……。
 
 
《先輩おはようございます♪ 今日はウサギを連れて軽く近所の公園まで行ってきましたよ☆ すごいうれしそうだったのでおすすめですっ(σ^‐’)b 》
 
 
昼の休憩室。彼の手に握られていた携帯電話のディスプレイにはそんなメールが表示されていた。
 
「愛華ちゃんはサイトに出てくるようなキャストとは……違うよな。これだって営業メールってやつとは違うっぽいし」
 
人間心の中である種の葛藤がある時には、自分でも気づかないうちに大きな声で独り言を言うものだ。東山もこの時自分を肯定するように頭の中の回路を書き換えていたのだろう。彼女にメールの返信を送ると、携帯をロッカーに片付け業務の準備に取りかかる。歯を磨き調剤室へ戻ろうとした時、静かな事務室の中で聞きなれたメールの着信音が鳴る。
 
「愛華ちゃんかな?」
 
とても部下には見せられない姿。着替えたばかりの白衣が乱れる事も気にせず、彼はロッカーまで走り携帯を取り出した。
 
 
《サザちゃんもきっとお散歩喜ぶとおもいますよ☆ 先輩来週金沢に来るの?わたし丁度従兄弟の結婚式で東京に行くんですよ~o(;△;)o せっかく先輩に逢えるチャンス逃した(>_<) 今度ご飯連れて行ってくれるんですか? 行きたいです☆ 久々の外食楽しみにしていますね。また連絡まっています》
 
 
「よし。初同伴の約束ゲット」
 
キャバクラというシステムにはまだ慣れていない東山ではあったが、スナックに通っていた頃には普通に同伴・アフターや店外をしていたものである。その個々の行動の名称は最近になって知ったようだが……。彼は休憩時間が過ぎている事もお構いなしに、雄司に愛華との同伴約束を取り付けた旨をメールで送り終えてから仕事へと戻った。
 
そして時間が過ぎること約七時間。片町十億年ビルの上階では、クラブ・フェンディーの扉を開ける詩織の姿があった。昼の仕事が伸びた為に一時間ほど遅刻した彼女は大慌てで更衣室兼控え室に駆け込むのだが、さすがに平日という事もあり店は暇だったのだろう。すでに出勤していたキャスト達もお喋りに夢中のようである。詩織は皆に挨拶すると、着替える前の一服とばかりに煙草に火をつける。そして携帯を取り出しメールを一通打ち込もうとするのだが、何かを考えた末それを閉じた。煙草の火を消し、仕事の準備に取りかかろうとした時……。
 
「詩織さん。おはようございます」
 
声の方向に目をやると、既に一組のフリー客の相手を終えた青いドレスのキャストが部屋へと戻って来て笑っている。
 
「おはよう愛華ちゃん。今日も元気に頑張っているね」
「そ、そうね。楽しい一時……って、何か雄司に聞いたの?」
 
どうやら亜由美の話は聞こえていなかった様子である。ホッとしたのも束の間、意味深な詩織の言葉が引っかかる。
 
「今日は愛華いるんだよね」
 
「当然。ちゃんと愛華ちゃん来てるよ」
 
雄司と詩織はちらりと視線を合わせると、二人して東山に対してニヤリと笑う。何時の間に二人は連絡を取っていたのだろうか? 散々フェンディーに行くのを渋っていた雄司の行動は、全て今日の計画のうちだったのだ。この状況に、してやられたという感覚と恥ずかしいという感覚が入り混じってしまった東山は、自分では気付かぬだろうが顔を真っ赤にしていた。
 
「お願いだから本人に余計な事を言うなよ?」
 
まるで小学生のようにムキになる。そんな彼をまだまだ玩具にする二人は……。
 
「言うなよ? なんだか偉そうだなぁ。なあ詩織?」
 
「そうよねえ」
 
明らかに楽しんでいる二人を前にして、もはや彼は冷静に対応できなくなっていた。
 
「……すみません。お願いですから余計……いえ、おかしな事は言わないで下さい」
 
たじろぐ東山を見て二人は楽しそうに笑う。徹也が言うように、やはりこの二人はいい関係のように見えた。とてもキャバ嬢と客という関係には思えないくらいに互いを自然な相手に捉えている。
 
「まあまあ雄司さん。からかうのはこれくらいにして。今日は記念すべき愛華ちゃん初指名の日なんだから」
 
言葉とは裏腹に、詩織もまた必死で笑いをこらえている。
 
「詩織。お前のその言葉こそプレッシャーだぜ」
 
雄司はこらえる事もせず大笑いする。東山はただただ脱力感に覆われていった。その直後だった。東山の背中越しに、鮮明な記憶として残っていた声が聞こえる。決して狭くも無い店内に、不思議なくらい通る声。
 
「なに私が来る前から盛り上がっているんですか?」
 
この時詩織と雄司が何かを叫びながら盛り上がっていたのだが、その言葉はまったく東山の耳には入っていなかった。意識と身体は声のする方向へだけ向けられる。照明の絞られた店内で、ドレスの赤色だけが鮮明に映し出されていた。
 
「お久しぶりです先輩。今日は本当に有難うございます」
 
愛華は軽く会釈をすると、元気一杯の笑顔を東山に見せた。
 
「お……、おはよう」
 
東山がとっさに出せた唯一の挨拶。一瞬きょとんとした愛華だったが、すぐにコロコロと笑い出す。
 
「おはようございます……っていうか先輩。もう夜ですよ?」
 
この挨拶の意味を全て理解した上で、愛華は東山をからかっているのだろう。その表情や素振りからは決していやらしいものは感じず、むしろ緊張している東山の気持ちを少しでも楽にしてやろう……。そういった思いさえ見えるようであった。
 
「えっ? でも昔バーで働いていた時の挨拶は、夜でもおはよう……だったよ?」
 
東山がかつて働いていたバーは、とある劇団の事務所を兼ねて営業されていたお店。そこのマスター兼劇団の演出家だった一人の男。彼はかつて国の代表として東欧に留学もしたこともあるその筋では一流の人物であった。一般には無名であっても、そこに出入りしていた舞台俳優達もその業界では一流に足を踏み入れようとしている者達。ひょっとして……、芸能界の挨拶?思わず自分の発言に後悔をする。だが愛華はすぐに全てを肯定してくれる。
 
「あらら……。先輩もこっち側だったんですね?」
 
「こっち側?」
 
「そう。私達と同じ夜の住人。とは言っても、私もバイトですけどね」
 
夜の住人。決してそんな大それた男ではなかったが、確かに昔から憧れているところではあった。夜の場末のバーでサックスを吹く……。そして酒を楽しむ。そんな夢も持っていたものだ。けど現実は厳しいもの。バーで働いていたのも生活の為。サックスも最近ではバンドの解散とともにホコリを被り始めている。なぜかこの時思い出したかつての夢……。夜の世界で輝きたかったあの頃。けれどすぐに懐かしい感情は消えていく。
 
「俺もバイトしていただけだよ。当時病院の給料が安すぎて生活できなかったから……」
 
「そうなんだ……。一つ先輩の秘密を知っちゃいました」
 
「秘密って程もないけどね」
 
皮肉にも昔の淡い夢が浮かんで消えたことで、東山はすっかりと自分のペースを取り戻す。とはいえ、まだ東山には余裕というほどの心のスペースは無かった。ソファーに座るタイミングを失い佇んだままの愛華に詩織が声をかける。
 
「ほらほら、愛華ちゃん。いつまで立っているの? はやく座りなよ」
 
「はい。それじゃあ先輩。横……、失礼してもいいですか?」
 
「あっ、ごめん。気付かなくて……」
 
再度ペコリと会釈すると、愛華は東山の横に腰を落ち着けた。
 
この日この時。本当の意味で二つの世界が始まったのかもしれない。一つは希望を追い求める終わり無き世界。一つは終点がある事なども考えず希望に満ち溢れた世界。全ての始まりだった……。
 
 
 
 あの日……、東山が初めて愛華を指名した日。フェンディーを出た雄司と東山は、いたって普通の行動のようにBar.Dr.ワトソンで語り合っていた。久しぶりにワトソンではしゃぐ東山を見たチーフが不思議な顔をしていたのを思い出す。
 
「メルアド交換したんだから、とりあえず一件。なんでもいいからメールを送っておきな……」
 
雄司のその言葉に東山は二十分くらいその内容に悩んだ末、一件のメールを愛華に送る。だがその返事は来なかった。そして週明けの月曜日、四月四日。いつものように部下を先に昼休憩へと上げた東山は、一人遅い昼食を摂る為事務室にいた。
 
「返事が来ないのにこっちからまたメールを送るのって……。なんだか鬱陶しい男みたいだよな」
 
カロリーメートを口に頬張りながら、東山はそんな事を真剣に考えている。途中一人の部下の女の子が事務室にやってきたのだが、全くその事にも気付かないくらいにだった。
 
「先生……。せ・ん・せ・い」
 
部下の呼びかけにやっとその存在に気付く。この子は入社当時から東山が妹のように可愛がっていた女の子だったのだが、それだけに東山のいつもと違う様子が気になったのだろう。
 
「あっ、ごめん。どうした?」
 
「もう。私が部屋に入ってきたのに上の空だったから……。何かありました?」
 
東山の向かいの席に座り込んだ彼女は、上目遣いに彼の顔を覗き込む。
 
「い……、いや。別に」
 
今自分の頭の中を占拠している事についてを見透かされるような気がした東山は、思わず視線を横にずらしてしまう。
 
「……ならいいですけど。それより久しぶりに今晩美味しい物でも食べに行きませんか? 先生最近誘ってくれないんだもん」
 
以前までの二人ならば、このまま何を食べに行くかで盛り上がっていた所なのだが……。一瞬考えを巡らせた後、東山はこう告げる。
 
「ごめん。今は乗り気じゃないから……」
 
言葉の言い回しを間違っていたのかも知れない。だが、適当な嘘をいい訳にもしたくはなかったのだろう。東山は思ったままを口走っただけだったのだ。彼女は俯いたまま、黙りこくってしまう。その沈黙を打ち破るかのように、東山の携帯にメールの着信を告げるメロディーが鳴り響いた。すばやくそれを手に取った東山は、携帯を開きメールを確認する。
 
 
《先輩おはよ~p(^-^)q充電器アパートにおいたまま実家に帰ってしまって携帯ずっと死んでました(^-^;) 先輩のよく行くウサギショップ。あたしが行った時は改装中だったのかな? また通ったら見てきますね★》
 
 
思わずメールの返信が来た事への安堵に覆われ微笑む。直ぐに折り返しメールを送ろうとし始めた東山の前で、無言のまま立ち上がった彼女が事務室を出ようと歩き出す。扉をあけて部屋の外に出ようとした時、ふと立ち止まった彼女が振り返り一言…・・・。
 
「またいつかご飯連れて行ってくれますよね?」
 
メールを打ち込む指を止めた東山が顔を上げると、扉は静かに閉まる。昼の側から夜の側へ……。東山が完全に変わってしまった瞬間である。
 
 
 
 
 四月七日、木曜日。さすがの歓楽街片町とはいえ、明日の週末を控えた今日の人通りは少なめであった。いつもに比べればスクランブルで客引きをする黒服の姿にも、どことなくヤル気のなさが目立つ。そんな中、雄司はいたって普通にフェンディーのソファーに座っていた。
 
「……でね? 今日はご飯を食べる暇もなくてお腹ペコペコだよ」
 
そう言って詩織はテーブルに置いてあるポッキーを口に運ぶ。
 
「大変やぜ? 俺は今日ハントン・ライス大盛りで食ってきたから満足だよ」
 
詩織はさり気無くフードの注文をおねだりしたのだが、雄司はそんな事に全く気付かない。そんな彼の様子にすぐさま今日の食事を諦めた詩織は皮肉口調に答える。
 
「ふうん……。ハントン・ライスいいねえ。金沢を代表する洋食だよねえ。お腹一杯になって良かったねえ」
 
本当にお腹がすいていたのだろう。肩を落とした詩織は空腹を誤魔化す為に煙草を銜える。滅多に喫煙しない彼女のその行動を見てもマイペースの雄司。
 
「おお。美味しかったぞ」
 
「はいはい、良かったね。私も食べたかったよ」
 
そっぽを向いた詩織の口から、細い煙が天井へと吹き上げられる。雄司はこの時どういう気持ちだったのだろうか? 彼女に対して過去に無かった発言をする。
 
「じゃあ……今度一緒に食べに行こうか?」
友人とは言え他人の家族の話に足を突っ込む事に少し躊躇してしまう……が、回答を待ってみた。だが雄司にしたら本当に大した問題ではなかったようだ。東山が聞きたかった答とは見当違いの言葉が返ってくる。
 
「会話がなくなった事が先か、ホステスに嵌ったのが先か……。卵か鶏、どちらが先かってやつだよ」
 
「ドライだね……。っていうか、今のお前もどんどん親父さんと同じ行動をしているんだぞ?」
 
「違うわ。俺は嫁に恵まれていなかっただけで、良い妻がいれば飲み歩かねえ」
 
「はいはい。久しぶりにその話を肴にシソ巻きを食べるよ」
 
「そんな肴いらねえよ」
 
自分の両親、自分の家族の事をここまで冷静に見る事が出来てしまう雄司に益々不安が広がる。彼の元妻である清美も大切な同級生。今はもう連絡を取る事も出来ないが、せめてこういった不幸を再び起こらないようにするのが友人の務めなのだろう。
 
「でも……ちょっと思ったけど、親父さんはそのホステスさんと一緒になりたいとか考えた事はなかったのかな?」
 
これは東山が思った個人的な興味。何気ない疑問に今回は雄司の返事など期待はしていなかったのだが、少し悲しくなる答が返ってきた。
 
「はっ? ありえんやろ。所詮夜は夜。遊びだからあの世界は楽しいんだって」
 
「えっ? けど数十年だろ?」
 
「あいつの考えている事まで知らんて」
 
「じゃあお前にとっての詩織さんや亜由美さんなんかもそうなの?」
 
自分の恋愛感を否定されたような気がした東山は、心の中でなにかが締め付けられるような思いになり言葉を吐き出す。
 
「大好きだよ。詩織なんてかなり癒されるし。けどそういう対象としては考えんやろ、普通……。早く同業の嫁さんを見つけないとな。店を手伝ってもらわなきゃ」
 
けらけらと笑いながら煙草を取り出す雄司。その表情を見る限り真意を語っている事がわかる。東山は益々締め付けられる思いが強くなっていった。
 
「……。最低とは言わんけどなんか寂しくないか?」
 
「所詮色恋ゴッコだよ。俺らもそれに乗らなきゃ面白くない」
 
そう言ってさっさと歩き出す雄司の背中に見つめながら、東山は小さく呟く。
 
「……俺もそうなるのかな……」
 
少し遅れてから東山も歩き出す。雄司に追いつくと、二人はスクランブルを渡って少しの所にある見慣れた街燈も薄暗い路地裏へと曲がっていった。
 
 
 東山が少し歩いては振り返り声をかける。
 
「ほら。もっと早く歩けよ」
 
関西人である東山は、いわゆるセカセカ歩きでありその歩みは速い。対して金沢人だからというわけではなく、とにかく何に対しても良く言えばマイペース。悪く言えば何に対してもダルそうにする雄司の歩みは遅い。焼き鳥屋《とり吉》で食事と討論を終えた東山は、当然のようにスクランブル交差点を目指す。なかなか距離的に来る事が出来ない北陸一の歓楽街の中にして、その心が逸ってしまうのは仕方がないのであろう。
 
「食いすぎて眠くなってきた……。今日は帰ろうか?」
 
東山の気持ちを知っていての意地の悪い言葉。その言葉に腹を立てる東山の様子を見て楽しむつもりなのだろうが、この時の彼の目の中にある本気の怒りを感じさせる炎にそれ以上の冗談は慎む事にしたようだ。
 
「おい。早く徹也くんを探せよ。ドリームⅡ……フェンディーに行くぞ」
 
引きつった笑顔でさりげなく凄みを利かせる東山の言葉を受け、雄司は素直にその歩みを速めた。
 
「……今日は居るといいね」
 
「居なかったらワトソンに行くだけだよ」
 
「この時間から? あれだったらローズに行っても……」
 
「二度と行かない。ほら、あれって徹也くんじゃないの?」
 
東山はかなり先を指差す。コンタクトをしている雄司にはその指先の方向にある人混みの中に徹也がいる事を把握できなかったのだが、東山の発言には力強いものがあった。
 
「本当にいた……」
 
人混みに接近すると確かにそこには徹也がいる。街行くサラリーマンに必死で声をかけており、こちらには全く気付いていなかった。東山は早く声をかけるよう雄司を急かすと、一歩退いて彼の後につくようなポジションを取った。
 
「自分で言えばいいのに……」
 
「いいから早く」
 
背中を小突かれた雄司は、やれやれとばかりに両の掌を上に向けるとそのまま徹也に近づく。
 
「徹也君。今日は空いている?」
 
不意を突かれた徹也が一瞬驚きの表情を見せるが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
 
「雄司さん。良かった。今日は本当に暇だったんですよ」
 
その言葉の真偽は彼の表情からすぐにとってわかった。それを読み取った雄司がすぐさま交渉を開始し始める。
 
「ポッキーセットに女の子ドリンク一杯無料。それに……」
  
「……に。ですか?」
 
「ワンセット70分。どう?」
 
慣れた口調で話を進める。もはや友人のような存在になっているはずの黒服徹也にさえも容赦なく厳しい提案する雄司の姿に、東山は先ほどまでとは違う頼もしさを見た。
 
「最初のセットだけですよ?」
 
「了解。詩織はもう来ている?」
 
「はい。それでは準備しますね。あっ……。お友達の方は……」
 
徹也も店長だけあり、二度しか来店していない東山のことでさえきちんと覚えており、そして把握していた。それゆえに今日の付回しに苦慮し、言葉を詰まらせたのだが……。
 
「理奈ちゃんはもう出ていないんだよね?」
 
東山は徹也の心を読んだわけではなかった。予め彼の中で予想し、そして計画していた対応であった。何事においても綿密な作戦を練り上げる彼らしい行動である。
 
「は、はい。そしたらフリーで……」
 
「えっと、今日は……」
 
東山が待ち焦がれていた瞬間。初めて出会ってからそれほどの時間は流れていなかっただろう。だが、ここにたどり着くまでに随分と遠回りしたような気がしていた。そんな感慨に耽ったその瞬間。
 
「こいつは愛華様指名だそうだ」
 
こういう時だけは行動が機敏である。雄司は東山の言葉を取り上げると、さっさとドリームⅡビルへと歩き出す。愛華を指名することがそれほど不思議だったのだろうか? 徹也は目を点にしたまま数秒東山の顔を見つめる。だがこの時の東山は彼のそんな様子に気付くことなく、口をぽっかり開いたまま暫く閉じる事が出来なかった。
 
 
 さすがにキャバクラというものに対しての緊張感は感じなくなっている。ここフェンディーに来るのもこの日で三回目。店の雰囲気も飲み方も理解しているはずの東山であったが、上昇するエレベーターの中で妙に目線が泳いでしまう。雄司はそんな友人を構う事も無く、詩織の事を色々と徹也に話していた。
 
「最近の詩織ってキャラクター変わったよね」
 
「そうですか? 昔から変わりないと思いますけど」
 
徹也と詩織は地元が近いこともあり、昔からの知り合いである。そもそも携帯ショップで働いている詩織を夜のバイトに誘ったのも彼であった。片町で働く夜の住人達。近郊の町や隣県から出てくる者がほとんどなのだが、不思議なくらいに横の繋がりが見られる。都会の歓楽街に比べればその規模が小さい事も理由の一つなのだろう。
 
「徹也くんの言う昔は知らないけれど、少なくとも俺が最初に来るようになった頃とは違う。あの頃はもっと……なんていうか……」
 
「なんていうか?」
 
「癒し系だったような気がする」
 
まるで大昔の話をするかのように遠くを見る素振りをする雄司。真剣にそのような事を話す彼を見ても、徹也は決して吹き出すようなことはせず微笑みかける。
 
「今でもそうじゃないですか。傍から見ていても雄司さんと詩織さん、良い感じですよ」
 
徹也の営業トークと言うわけではなく、確かに二人の雰囲気には良い物があった。この二人のやり取りが耳に入ってきた東山にある考えが浮かんでくる。今日も詩織や亜由美などキャバクラのキャスト達とまともに恋愛する気など無い。そう言っていた雄司だったのだが、詩織に対する行動の取り方だけは他の時とキャラクターも違う気がする。親友だと言うのにどれが本音なのかもわからなくなってきた東山だった。
 
「まあな。酒さえ飲み過ぎなければ大丈夫なんだけど、最近なんだか飲みまくるのさ」
 
「雄司さんに気を許している証拠です」
 
徹也が雄司の肩をかるく叩きながら片目を閉じた。そんな彼の言葉を何一つ疑うことなく聞き入れる雄司は……。
 
「そうか……。そうだよな。」
 
ニッコリと笑ってそう呟き、以前東山に詩織の事を話していた頃の表情を取り戻していた。
 
 
 エレベーターの到着を告げるベルの音が鳴り響く。ドアが静かに開くと、眼前に開いた扉の前で黒服の次元が深々と頭を下げていた。
 
「いらっしゃいませ」
 
次元は頭を上げるとなれない口調で挨拶をする。前回この男の勘違いのお陰で東山は悩む事となったのだが、今日という日を迎えてそんな過去の事などもはやどうでもよくなっていた。一方雄司は完全な馴染み客の風貌を見せる。
 
「次元くん、今日は俺の友達に嘘を付かないでくれよ」
 
ポンと次元の肩をすれ違いざまに叩いた。以前のことなどすっかり忘却の彼方にあるのだろう。次元は何の事を言われたのかも理解できぬまま、彼らの後を追って店の中へと戻っていった。
 
 
 
 雄司と東山は次元に案内された店の角にあるソファー席に腰を下ろす。この日は徹也くんが焦るだけあって、二人以外には二組の客しかいない様子である。
 
「なあ雄司。妙に今日は空いていないか?」
 
閑散とした店内の様子に少し不安になった東山が問いかけるのだが、雄司は淡々と話し出す。
 
「空いていていいじゃん。指名被りも無ければ、サービスも良いし。俺騒がしいのは嫌いなんだよね」
 
そう言い放ち煙草を吹かす。騒がしいのが嫌いと言った雄司に疑問を抱く東山。亜由美達の店はかなり騒がしい、よくブラウン管の中に登場するような典型的なキャバクラである。そんな空間ではしゃぐ雄司の姿はとても楽しそうなのだが……。
 
「そのわりには亜由美さん達と楽しそうに……」
 
突っ込みを入れようとした東山の言葉に目と手でストップをかける。一瞬だけこわばった雄司の表情はすぐにもとのにやけた顔に戻るのだが、その行動の意味はすぐに理解できた。
 
「雄司さんいらっしゃい。あっ。東山さんも来てくれたんだね」
 
「今日は早いな。よっぽど暇だったのか?」
 
「うん、まあね。今日はお客様の来店予定もないし。雄司さんだけだよ」
 
声の主は、前回とはまた違うドレスに身を包んだ詩織であった。もう少しで彼女にラヴィアン・ローズの話を聞かれたかもしれない焦りから、東山の挨拶はぎこちないものになる。
 
「あはは。東山さんまだこういうお店に慣れない? 今日は楽しい一時が過ごせそうですね」
 
そう言って軽くウィンクをする彼女には、おそらく雄司からなんらかの話が伝わっていたのであろう。
   第二章~4~
 
 
「……でね? 最近あいつの事が分からなくてさ。まあ、あんたにこんな事相談しても無駄か」
 
香林坊から片町へと続く商店街にある一軒の喫茶店。たまに東山が金沢に来ている事を言い訳に仕事をサボってコーヒーと煙草を楽しむこの店に、この日は珍しい組み合わせの二人がいた。いつも通り喫煙所で煙草をふかしていた雄司を煙草女が誘い出したのだ。何か苛立つ事があったのか、彼女は愚痴を言う相手に雄司を選んだようである。
 
「俺的にはその男の気持ちが良く分かるぞ。男は同時に複数の恋が出来るのだよ」
 
少し冷めたコーヒーのカップを口へと運び、またもや彼女の感情を逆撫でするような台詞を吐く。深く考えるでもなく、素直に口からでた言葉である。だからこそ雄司はたちが悪い。
 
「ちょっと。誰も恋だなんて言ってないでしょ? 友達よ、と・も・だ・ち。大体私はあいつの事なんてどうでもいいんだけども、気があるような素振りを見せていたのに、他の女にも同じような態度を取っていた事がむかつくっての」
 
興奮した口調でそう言う煙草女は、怒鳴りすぎてお腹がすいたのだろう。皿の上に残っていたベーグルサンドを口にほうばる。
 
「はいはい。気にしていないわりには凄くその男の事でムキになっていますけどね。あっ、俺そろそろ仕事に戻るわ。コーヒーご馳走様」
 
あらゆる意味軽く、雄司は敬礼するような素振りを見せるとさっさと席を立ってその場を去った。
 
「ちょっと鼓君? まだ言いたい事一杯あるっての。ちょっと? ねぇ……」
 
立ち止まることなく手を振ると、雄司はそのまま階段の奥へと消えていった。
 
 
 
 雄司と煙草女が喫茶店でお茶をしていたこの日より四日程前。富山県魚津市にある職場で帰り支度をしていた東山は、携帯電話に一件のメールが受信している事に気付く。着信の時間帯的にそのメールへの違和感があったのだが、今時おかしなメールが送られてくる事もまれな事。とりあえず開いてみる事にした。
 
《理奈です。この前は有難うございました。折角知り合えたのに残念だけど、今度の月曜日でフェンディー最後の出勤になります。もし良かったら最後に飲みに来てくださいね》
 
メールはこの間フェンディーで場内指名をしたキャストの理奈であった。あの日メールの交換をしてから、始めてきた営業メールが最後の営業メール。一瞬どういう事かが理解できなかった東山は、その場でメールの返事を送る。現在地が金沢からかなり遠い事と、仕事であることから月曜日にフェンディーには行けそうにない事。そして突然やめる事になった理由。そんな事を打ち込み送信した。ちょうど理奈も携帯をいじっていたのだろう。彼女からの返事はほんの数分後に着信した。
 
《前から考えていたのだけれども、東京で働いてみたかったんだ。月曜日までフェンディーに出勤して、その後は引越しの準備。次の週には東京です。残念だけどまた来れそうだったら来てくださいね。メール有難う》
 
以前よく行っていたスナックの、仲の良かったホステスが店を辞めた時。あの時と同じような感覚が東山を襲う。まだ二時間くらい話をしただけの間柄であったとはいえ、自分の周りから誰かがいなくなる事への切なさが込み上げてくる。意外に彼の心の中における理奈という存在の容積が大きくなっていたのかもしれない。その日の夜雄司に理奈の事をメールする東山。そんな彼に雄司はあっさりとした文面で述べた。
 
《良かったじゃん。これで堂々と愛華を指名できるぜ?》
 
夕方あれほど理奈の退店に寂しさを感じていた東山だったのだが、この雄司からのメールを読んでからは、完全に頭の中が愛華の事だけで一色となる。今度は何があっても愛華を指名する。その目標をしっかりと念頭に置いたまま、毎日が過ぎていった。
 
 
 平成十七年四月二日。雄司は煙草に火をつけることなくいつもの待ち合わせ場所で座り込んでいた。灰皿が付近にないのも理由だが、なによりここ中央公園前交番の目の前でポイ捨てをする度胸はなかったからだ。先日東山から飲みに行く誘いを受け、さらに数時間前にはここで二十時くらいに待っておくようにとメールまで来ていた。以前と違うのは、最初からフェンディー……、つまりはキャバクラに行こうという文面が折りませられていた事であろう。雄司にしても、同じ穴の狢となった友人の姿は嬉しいものである。以前は馬鹿にされていたのだから……。
 
「あの車かな……って。あの馬鹿また……」
 
視線の先にはまたしても大音量で音楽を鳴らしながら走ってくるオープン2シーターがあった。
 
「お待たせ雄司。何処行く? 先ずは腹ごしらえだよね。とり吉でまたお前の人生相談にでも乗ってやろうか?」
 
これほどテンションの高い東山を見るのは久しぶりである。いつもとは立場が逆となっている雄司は、少し彼の雰囲気に引き気味となりながらも助手席へと乗り込んだ。
 
「フェンディーに行くのも久しぶりだよね? 今日は愛華ちゃん出勤しているかな?」
 
四日程前の彼からのメールで、大体の内容はわかっていた雄司。あまりにはしゃぐ友人の姿をまずいと感じたのか、釘をさすように冷たく言い放つ。
 
「お前は俺のキャバクラ通いを止めに金沢まで来ていたんじゃないの?」
 
一瞬表情が固まった東山だったのだが、すぐに満面の笑顔に戻ると雄司に言う。
 
「止まらんだろ? 気持ちは今なら良く分かる。一緒に落ちて行ってやるよ。なぁ親友」
 
雄司がこの時吐き出した大きな溜息は、アクセルを踏み込んだ彼の愛車のエギゾートノートにいとも簡単に掻き消されていった。
 
 
 片町到着夜の二十一時。車は少し離れた場所にある雄司の父親所有の土地に駐車してある。歓楽街からほんの少し離れた一等地にある秘密の場所だ。車を降りてから数百メートルほど歩くのだが、そこで偶然雄司の父親とすれ違う。昔に比べるとすっかり老け込んでしまってはいたが、さすがはかつて東山が片町夜の帝王と呼んでいただけはある。この日もアールビルにある、高級クラブ・MUROMATIで軽く飲んだ帰りだったようだ。雄司の父親は二人にすれ違った瞬間、笑いながら一言声をかけてきた。
 
「雄司、またキャバクラか? 東山君もあんまり雄司の悪い遊びに付き合っちゃだめだよ」
 
心なし小さくなった背中を見せ、彼は決して遅くない時間だというのに家へと帰っていく。かつての帝王が見せる現在の姿であった。
 
「なあ雄司? 親父さん……なんだか小さくなったんじゃないか?」
 
店で何度か挨拶をする事はあったのだが、こうして片町を闊歩している姿を見るのは実に十年ぶりくらいであった。大学の頃、横に美しい片町の女性を連れて歩く姿を見て知っていただけに、その変貌ぶりに驚きを隠せないようであった。
 
「さすがにお前が初めて会った頃から、もう十数年の月日が経つからな」
 
何事も無い。ただ月日が彼の老いを進めてしまっただけ……。そうとでも言うように雄司は自分の父親を簡単に語る。
 
「ただそれだけではないような」
 
「変わってないって。今日も夕方から店にいないと思っていたけど、ホステスと飯でも食いに行っていたみたいだし」
 
「でもまだこんな時間だぜ?」
 
「昔ほど金を持たせていないからな。俺が経理をするようになってから、不透明な金は全てカットするようにした」
 
「かわいそうに。親父さんの楽しみ取ってやるなよ」
 
「大丈夫だよ。親父がいつも一緒にいるホステス。もう何十年の付き合いらしいからね。金がなくなっても縁は切れないよ」
 
「何十年? それって凄くない?」
 
「お陰で家庭内での夫婦の会話は昔からないさ。まあ俺には関係ない」
 
以前から感じてはいたが、雄司は自分の家の事に関して本当に関心を持っていない素振りがある。愛情に飢えた子供時代を過ごしたとも思えないような大らかな性格ではあったが、なんとなく他の同級生と比べるとどこか違う雰囲気はあった。妻に逃げられた原因もこういったところにあるのかも知れない。意外な展開ながら自分の親友の事が心配になってきた東山は、彼に問うてみる。
 
「会話のない十数年……。それって幸せだったのかな?」
アフターの意味をすぐには理解出来なかった東山ではあったが、さすがに亜由美の名前が出た事に不安を感じる。特定の原因はないのだが、あまりにもキャバクラという感じのするクラブ・ラヴィアンローを、彼は苦手に感じているようであった。
 
「……アフターってなに?」
 
恐る恐る尋ねる東山。
 
「ホステス達と店が終わってから遊びに行く事」
 
対照的にあっけらかんと答える雄司。その言葉を聞いて、東山は以前美羽に教えられたこの世界のシステムを思い出す。キャストは同伴をしたがり、客はアフターをしたがる。同伴というものは、キャスト達の成績に直接響くものであり、また収入にもつながる。客にしたら同伴料と呼ばれる料金が加算される上に、食事なんかを楽しんだ後さらにお店でお金を使わなければならない。となると、当然のように客達は加算料金の付かないアフターをしたがるというわけだ。それだけではなく、客達はお気に入りのキャスト達をなんとかしてやろう……そういう下心もあってアフターに誘いたがるのである。彼女達にしてみればいい迷惑でもあるが、客の指名を持続させる為のある種サービス残業。夜更けにキャストと客、互いの思惑が交錯する場。それがアフター……と、美羽が言っていた。だが、下心も無ければ、亜由美たちとこれから遊びにいこうという気力もない東山は、なんとか雄司を帰らせようと試みる。
 
「こんな夜更けに?」
 
「仕方ないじゃん。あいつらの店が終わるのがこんな時間なんだし」
 
「俺的には全然行きたいと思わないんだけど」
 
「何言ってるの。アフター行けるんだぞ? こんなチャンス頻繁にはないぞ?」
 
「亜由美さん達とそのアフターってやつに行くメリットが俺には全然ない」
 
「美雨ちゃんも来るって言っていたぜ? チャンスだよ?」
 
「俺は愛華さんにしか興味はない」
 
「無理だよ。指名変えのレッテル貼られるのが落ちだって。ほら、亜由美と約束したし行くぜ」
 
「たまにお前って最低な友達だよ」
 
「そんなこと言うなよ……。けどアフターなんて滅多にできないし。お前も経験しておけばいい事あるよ」
 
「……鍵貸して。先に寝ておく」
 
「駄目。亜由美に必ずお前も呼べって言われている」
 
「今日は漫画喫茶で寝ることにするよ。さよなら雄司くん」
 
「奢るから。ねっ? マスター、チェックお願いします」
 
 
 
 4月とはいえ、深夜はまだまだ肌寒さを感じるここ北陸。もっとも深夜というよりも早朝に近いこの時間に、人通りの少なくなった路地裏で待たされている心の寒さを感じているのかもしれない。結局雄司のアフターに付き合わされることとなった東山だったのだが、なぜか一人で待ち合わせ場所にたたずんでいた。雄司がカラオケ屋の部屋を取りにいったまま戻ってこなかったからである。
 
「眠い……。寒い……。あいつはいったいどこまで行ったんだよ」
 
時間だからとワトソンを出たのがちょうど三時頃。それからすでに三十分以上が過ぎ、もうすぐ朝の四時になるところである。東山は雄司に電話をしようと携帯を取り出しそれを開くのだが……。
 
「あれ? 気付かなかった」
 
開いた携帯のディスプレイには、一時間ほど前に着信したメールが一件。こんな時間にメールの着信。おそらく出会い系かなんかのイタズラメールであろう。そう思ってボタンを押したのだが……。
 
「忘れていた。メールを送っていたんだっけ」
 
それは東山が指名代えについての相談メールを送っていた、師匠と呼ばれる人物からであった。
 
受信メールのタイトルは……《カズ兄へ》。自分を兄と呼んでくれる血の繋がらない妹。名古屋は錦三丁目のクラブ・Deep Blueの美羽からであった。
 
「やっぱり薄情な友人よりも、頼れる者はやさしい家族……。って、妹ちゃうけど」
 
東山は一人寂しく自分のボケに突っ込みを入れる。クラブ・フェンディーにおける指名変えへの対策を練るために彼が相談を持ちかけたのは、同業である彼女であった。餅は餅屋ということわざがあるくらいなのだから、これほど頼もしい師匠はいないだろう。そう思ってメールの本文を開くのだが……。
 
《馬鹿だねぇ。指名変えは私でもむかつくもん。店のキャスト同士が仲いいんでしょ? そりゃあ最悪な展開だよ。とりあえず臨機応変に頑張ってね♪》
 
「……。なんの解決にもなってねえよ」
 
これがドラマや映画の中の一場面であったのならば、カメラは一気に後ろに下がり、冷たい風の中ポツンと佇む彼を画面の中央に小さく捉える構図になっていたに違いない。この後雄司がやってくるまでの間、東山は固まっているしかなかった。握り締められた携帯のバックライトが彼の顔を照らし、その空しい空間をいっそう引き立てていた。
 
 
 カラオケ屋のカウンターでは、雄司が部屋やコースを選ぶのに随分と迷っている。さっき予約に行くと言っていたのは何だったのだろうか? 疲れ果てていた東山には、三十分待たされていた事なども既にどうでもよかったのだが、この後の雄司の言葉に再び苛立たせられることとなった。
 
「食い物は後で亜由美達に選ばせるとして……飲み放題もつけておく? 時間は二時間でいいよね?」
 
何時もならこの時間。早く帰ろうだの眠たいだのと文句しか口にしない男が嬉々とした表情で話しかけてくる。普段遊んでいる時などに、このような自分の意見を言ってくれるのならば喜んで対応するのだが……。
 
「まだ食べるのか? まだ飲むのか? それよりも俺をあと二時間以上寝かせないつもりか?」
 
眠りかけている脳のシナプス間に精一杯の電流を流して文句をぶつける東山。その口から吐き出した言葉のトゲは、何一つ雄司には届いていなかった。
 
「ん?部屋で寝ていてもいいよ。けど割り勘だからもったいないぜ?」
 
「割り勘? 来たくもなかったアフターに俺も金を出せと?」
 
「だって女の子に金を出させるわけにいかないだろ?」
 
幻聴かと言い聞かせたくなる言葉が幾つか飛び交っていた。電波が飛び交うとはこういう事をいうのだろうか? 東山にとっての初めてのアフター体験。決して望んで体験したかったわけではないアフター。すでに彼の中ではそのイメージがどんどん悪いものとしてインプットされていった。
 
「ところで……、肝心のお姫様達は?」
 
「閉店間際にうっとおしい延長客がいたから遅れるって」
 
「……」
 
その後亜由美と美雨がやって来たのは、二人が無言のままカラオケルームで三十分ほど過ごしてからであった。仕事が終わった疲れと空腹もあるのだろうが、当然のように注文され運ばれてくる大量のフード。元気な時ならばなんとか楽しく盛り上げる事も出来たかもしれないその空間も、今はただ苦痛にしか感じられない東山。元気良く歌い続ける亜由美と、彼女への掛け声を欠かさない雄司。今日も飲みすぎたのか、完全にシートで寝息を立てている美雨。時間は無情にもゆっくりと流れていった。
 
 
 
 店を出た時空はすでに白くなっており、少し水分を含んだ空気は不思議なくらいすがすがしさを感じさせる。街には同じように朝まで飲んでいたであろうホステスと思しき女性が数名と、煙草の吸殻を掃除する清掃の人達。東山が初めて目にする片町の一面であった。先ほどまで寝息を立てていた美雨は、知り合いの店に少しだけ顔をだすからとどこかのビルに入って行く。亜由美が言うには、最近彼女はとあるボーイズバーの男に御執心なのだそうだ。一応美雨の客であるはずの東山の前でそういう事を喋ってしまう事もおかしいのだが、彼女も疲れているのであろう。雄司も普段なら家まで歩いて帰ろうと言うところなのだが、流石に当の本人も疲れが出てきたのであろう。タクシーで帰る事を提案してきた。彼はついでだからと亜由美も乗っていくよう誘うのだが、友人が迎えに来てくれるからと早々に挨拶をすませ二人から姿を隠すように交差点の向こうへと走っていく。雄司は亜由美の行動を疑う事なく暢気に手を振っていた。東山は一台のタクシーを呼び止めると、雄司の手を無理やり引っ張ってそれに乗り込みワンメーターだけである事を運転手に謝る。ドライバーは一瞬嫌な顔を見せたのだが無言のまま車を発進させた。嵐が去った後のような久しぶりの静かな朝だった。
     
     第二章3節 ~ 終 ~
 雄司の前に運ばれてきたジン・トニック。ここワトソンを代表する三大カクテルの一つである。乾杯用にと用意してもらった東山のキューバ・リバーのグラスと軽く合わせると、雄司はグラスを一気に半分くらいまで空ける。
 
「お前指名変えって知っている?」
 
突然の意味不明な言葉。アルコールの為か睡魔の為か。少し目が据わった状態の雄司から質問が飛んできた。
 
「指名……変え……。キャバクラ用語か? それよりお前もっとジン・トニック味わって飲めよ」
 
いつもの事ではあるのだが、雄司の感性では美味いか不味いかの選択しか頭の中に用意されていない。これは料理や酒だけの話ではなく、あらゆることに対しての選択がプラスかマイナスかなのである。この時は酒の飲み方についてしか考えていなかった東山であったが、この先色々な局面で雄司のこの考え方に悩まされる事になる。
 
「やっぱり分かっていなかったか。可哀想に……」
 
人の話を全く聞いていない男が、自分の話し出した議題についてだけを勝手に進めていく。
 
「ここのジン・トニックは特別の……。おい。可哀想ってどういう事よ?」
 
雄司から飛び出した予想だにしなかった言葉。人に哀れみの言葉を投げかけられる覚えなどない東山は、苛立ちや憤慨などとは異なる不気味な不安感で覆われていった。
 
「お前は最初俺に連れられてフェンディーに行った。そして何も知らずに理沙を指名したよな?」
 
体を東山の方に向けた雄司は神妙な顔で静かに語る。東山の不安感は益々膨れ上がり、ここワトソンに居る時の落ち着いた雰囲気は徐所に消えていく。
 
「今にして思えば場内指名だったね。その方が結果金もかからないってお前が言うから」
 
「確かに……。けど今日は二回目。愛華に逢いたくて再びフェンディーに入った」
 
「いや……まあ……その……。平たく言えばそうなのかな?」
 
「何を今更……。けど次元のボンクラのせいでフリーで入る羽目に。ここまではよくある事だ」
 
「あんな事がよくあるの? 駄目じゃん」
 
「まあそれは置いておくとして。お前はフリーで入っているのに、また場内をいれたんだよ」
 
「だって愛華さんが居ないっていうから。それに理奈ちゃんと話が盛り上がったしね。いい娘だったよ」
 
「なあ……。お前今度はどうするつもり?」
 
雄司は明日香にやり込められた鬱憤をぶつける為にわざと回りくどい言い方をしているのか? さすがの東山も彼の言いたい事がなんとなく予想出来てきた。キャバクラという特殊な環境のようでも、基本的にキャスト達から見た男の態度に対する考え方は、水を売っていない女性たちと何一つ変わらない。ただその後の捉え方は、金銭が絡む分少し違った物になってくる。八方美人。一瞬その言葉が脳裏に浮かぶ。耐え切れなくなった東山は、雄司が何を言いたいのか、自分の考えている通りであるのかを知る為彼に問いかける。
 
「もちろん愛華さんを指名したいからそのつもり……。ひょっとしてそれが?」
 
「そう。指名変えって奴だよ。今度で三回目。次回そんな事をしたら理奈や愛華はどう思うだろうね?」
 
「……」
 
「まあ自分で考えてくれ。君がフェンディーに行きたければ付き合うけど、その辺は知らないよ。なにせ詩織曰く俺は馬鹿な男だし」
 
黙り込んでしまう彼の横で、雄司は天井に向かって煙草の煙を遊ばせていた。今日の出来事に拗ねているにしても、問題を投げかけただけで友人へのフォローすらしないその姿に、東山は苛立ちを感じながらも助言を求める。
 
「どうして何も言ってくれなかったんだよ?」
 
「気付いたら理奈を指名していたじゃん。そこまで面倒見れないって」
  
「すみません……。無知な私が馬鹿でした。けど……」
 
「何?」
 
「理奈もいい娘だったし……」
 
「だったら次回からも理奈を指名すればすむことじゃん。考えたらまだ愛華を指名した事は無いんだし、それで一件落着だよ」
 
雄司の言葉で基本的な事を思い出す。考えてみるとフェンディーに二回行ったけれど、愛華は自分達の席に関わったというだけで一度も指名していたわけではなかったのだ。ひょっとすると最初フリーで入った東山が理沙を指名していなければ、ヘルプとして座った愛華に場内を入れていたかもしれない。けれど何をどう考えても所詮それは仮想話でしかない。過去の事実は変わらないのだ。しかし今の東山の心の内も変わらぬ事実。
 
「俺は愛華さんともう一度ゆっくり話したくてフェンディーに行きたかっただけであって……。なんかわからんけどあの娘の事がすごい気になるねんて」
 
過去は無理でも未来は変えられるはず。たかがキャバクラの指名について、彼は自分でも分かっていないくらいに真剣に悩み始めている。雄司に対して今いかに真剣な眼差しで語ってしまったかなどにも気付く事がなかった。
 
「愛華の何がよかったんだか……」
 
友人の眼差しに一気に酔いがさめてしまった雄司が呟く。先ほどまで、自分も詩織に対してここまでムキになっていたのだろうか……。そう冷静に考えると、一気に頭に上っていた血が下がっていった。首をぐるりと回すと、凝り固まっていた雄司の肩の筋肉が楽になる。
 
「なあ、今なんて言ったん? それより俺は次回どうしたらいい? 雄司ならどうする?」
 
大学で知り合って以来、ここまで取り乱す友人を初めて見てしまった雄司にできる事は、ただ笑って突き放すだけであった。
 
「もうお前には頼らん。師匠にメールして聞いてみる」
 
「師匠? 誰だ……ってか、何の師匠だよ?」
 
雄司の言葉が耳に届いているのかいないのか。東山は携帯を取り出すと、一心不乱にメールを打ち出し始めた。こいつは本当にあの東山なのだろうか。そんな事を一瞬考えるも、すぐに雄司らしく自分の頭の中の議題を切り替えた。何かを思い出したのかチラリと時計を見る。時刻は午前二時。いつもの彼なら眠いだの疲れただの言うはずの時間なのだが、この日はめずらしくチーフに追加のカクテルを注文した。
 
 
 取り乱してしまった事でかなりの気疲れを感じたのだろう。ワトソンのカウンターでは珍しく、東山が肘を付いたまま目を閉じスヤスヤと寝息を立てていた。閉店まであと十数分。先ほどまで賑わっていた店内も、自分達を除くと一組の常連客だけになっている。雄司は再度時計を確認すると、東山の肩を軽く揺すった。
 
「おい、東山起きろ。そろそろ行くぞ」
 
雄司の声に目を覚ました東山は、一瞬何処にいるのかを理解出来なかったのか周りを見渡す。すぐに自分が眠っていた事に気付くと、チェイサーを飲み干し雄司に聞く。
 
「俺、どれくらい寝ていた?」
 
遠く金沢までやってきて過ごす貴重な夜の時間。その表情は、まるで大切な物を失ってしまったかのような落胆の色で染まっていた。
 
「三十分くらいかな? そろそろ行くぞ」
 
何時もなら『そろそろ帰るぞ』と表現する雄司なのだが、この日はやたらと『そろそろ行くぞ』という表現を使っている。まだ頭がすっきりとしていない東山はその事に気付かずにいた。彼はこの時雄司の言葉を気にする事もなく、本能の赴くままカクテルを欲した。
 
「なかなか金沢まで来れないんだしもう一杯だけ。チーフ、寝酒に何か作ってもらってもいい?」
 
チーフはいつものように静かに頷くと、既に考えていたであろうカクテルを用意しようと並ぶ酒瓶の中の一本に手を伸ばす。そこへ雄司が口を挟んだ。
 
「チーフ。今日はこれからだから、寝酒じゃなくて元気のでるやつを用意してやって」
 
時計はそろそろ夜中の三時を指そうとしている。雄司の発した言葉は、朦朧としていた東山の意識を呼び起こすには十分過ぎるほどの理解不能なものだった。
 
「おい。今から帰って寝るだけだろ?」
 
時間的にも体力的にも当たり前の質問のはずであった。だが雄司は彼に対して怪訝な表情を見せると、あたかも当然のように言い放つ。
 
「だって今から亜由美とアフターやぜ?」