『英語職人』時吉秀弥の英文法 最終回答! -5ページ目

『英語職人』時吉秀弥の英文法 最終回答!

本当にわかる英語とは?!英語、英文法、その他の外国語の学習、言語学などについていろいろ語ります。

スポーツの大会などでトーナメント表にある「シード選手」。「タネ」を意味するseedから来てるんですけど、タネは「まく」ものであり、まいて「散らす」「分散させる」ことで強い選手同士が早い段階で潰し合いになることを避ける狙いがあったようです。1800年代の終わり頃から出た表現。

 

ソース:Online Etymology Dictionary



埼玉は飯能にあるムーミンのテーマパークを訪れて以来、自分の中でちょっとしたムーミンブームで、トーベ・ヤンソンの原作の英語版をずっと読んでいます。今はMoominpappa at Sea(邦題:「ムーミンパパ海へ行く」)を読んでいて、眠れない夜の良いお供になってくれています。読み始めてみると、アニメの「ムーミン」の印象とは随分違って、原作の小説では登場人物の心理描写に多くの筆が割かれています。1人の英語学習者として、私にはとても勉強になります。なぜなら心は、見ることも触ることもできない、とても抽象的な世界だからです。それを「ことば」という具体的な記号に置き換えることは、とても難しい作業です。言葉にしたところで、作者が感じた世界を読者は本当に受け取ることができるのかどうか、それはわからないでしょう。受け取ることができない読者もいれば、中には作者が感じた以上の色鮮やかな世界を受け取ることができる読者もいるかもしれません。いや、そもそも、作者が言葉にした世界は、本当に作者が感じた世界を再現できているのでしょうか。文筆家も画家も、その頂を目指して命を削っている人たちだと言えるでしょう。
同じ言葉でもビジネス文書や論文などと比べると、こうした児童文学作品などの心情描写というのは随分と違ったものになります。単語の選択だけでなく、構文の選択、文章の組み立て、起承転結、全てが異なると言って良いでしょう。絵画に例えれば、自然の風景を忠実にキャンバスに再現する写実主義の絵と、「画家の心には、この世界がどう映るのか」をキャンバスに浮かび上がらせる印象派の絵の違いです。
人は日々何かを思い、悩み、喜び、怒り、それを言葉にしようとします。その思いが言葉にならなければ、とても苦しい気持ちになります。形のない感情が、形のある言葉になる時に、やっと気持ちを「つかむ」ことができるからでしょう。言葉にできて、気持ちが整理されて、落ち着く、というのは、心を「形にする」作業なのだと言うことができます。そういうことを考えていくうちに、小さい頃の「読み聞かせ」の習慣や、児童文学作品に慣れ親しんでおくことがとても大事なのだと、はたと思い至ります。私は漫画も大好きですが、児童文学に比べると、漫画においては心情を直接言語化する量は限られています。漫画というのは絵画で言えば写実主義ではなく印象派の絵画です。なぜなら、心情を映像にする作業が多いからです。だからそれ自体はとても優れたことだと思います。しかし、文学作品や小説を通して心情を言語化する訓練をすることはもっと、人生の根幹に関わるくらい、大事な気がします。自分の気持ちを「形」にして理解し、他人にわかる「形」を作ることで、共感してもらえる。もしもそれができなければ心を病む確率も随分と高くなるでしょう。生きることにとって、言葉を操れるようにすることがとても大事だということがわかります。
英語学習に話を移しましょう。我々は英語で何を話したいのか、と考えた時に、心情を表す豊かな表現を知っているかどうかはとても大事になってきます。会議やプレゼン、商談などで、自身の意見を説得力を持って話す、あるいは論文で自身の研究内容を論理立てて客観的に話す、そういったことだけに英語を使うなら、心情表現のことなどあまり考えなくてよいでしょう。しかし、私的な場面で英語を通して人とつながりたい、あるいはビジネスなど公的な場面でも自身が信頼できる、魅力的な人間であることをわかってもらいたい、そういうことを考えるなら、英語で自分の心を「形」にすることはとても重要になってきます。
私はビジネスマンにスピーキングやライティングを指導することが多いのですが、入り口では「型」を通した論理的な英語を習得してもらいます。しかし、その先に、英語で「こころをことばにする」という訓練があるべきだと考えています(ただ、今の所、どう訓練すれば良いのか、うまくわかっていません)。翻訳機では作れない、心から出た言葉に魅了されて構築される人間関係、そういうものの礎として、外国語をうまく使えるようになる。当然そんなことができる人は、母語においても魅力的な話者になる。こんなことを考えながらMoominpappa at Seaを今読んでいます。

動画の中で「itなどの抽象化された軽い情報は・・」などと話したくだりに対して、視聴者の方から

「抽象的なものが果たして軽いと言えるのだろうか?」というご質問をいただきました。その返信が我ながらなかなか良いものだと思いましたので😅、ここにもシェアさせていただきます。

 

以下、「言語とはそれ自体が、情報の抽象化の産物だ」というお話です。

 

「言葉」とはそもそも情報を抽象化することで生まれる産物です。情報を言葉にして抽象化し、軽くすることで、他の動物に比べて、人は情報のやりとりを容易にしました。

例えば「キャベツ」という単語ひとつとってみても抽象的です。なぜなら、現実にはこの世に完全に同一なキャベツは存在しないからです。本来、あなたの見たキャベツを本当の意味で具体的に説明するなら、そのキャベツの色、シミの位置、重さ、どこで買ったのか、どれくらいの鮮度なのか、などなど全て説明しなければいけません。大変です。しかし、それを「キャベツと呼ばれる類のもの」とグループ化された単語、つまり「キャベツ」という言葉で表すことで、相手には「どんなキャベツか知らないけど、取りあえず、キャベツと呼ばれる野菜のうちの一つ」という意味が伝わります。これが「抽象化」の効果であり、「抽象化=情報を軽くする」ことの意味です。もうひとつ例をあげれば「昨日学校へ行った」と言うとき、どこの学校なのか、小学校なのか、中学校なのか、高校なのか、大学なのか専門学校なのか、校舎という建物に行ったのか、授業を受けに行ったのか、は話されていません。そんなことをいちいち話していたら面倒臭いですし、聞いている人も面倒くさがります。「面倒くさいから『学校』って言っておけば良いじゃん」という意味での「学校」という単語も、高度に抽象化された情報です。このように、我われは普段気づかないだけで、言葉を使うという行為自体が情報を抽象化し、情報を運んだり、伝えやすくしているわけです。それがさらに高度になった場合、文法の中で「より抽象的な表現=軽くて扱いやすい情報」として英語の語順などに影響を与えているのです。