【黒歴史】 絶望しかなかった英語が話せない根暗な私(前編) | 留学不要!レッスン不要!世界基準の英語力は家庭で作る

ノートで一生モノの夢を叶える
親子英語コーチ
二重作あき (ふたえさくあき)です!

いかがお過ごしですか?

毎週金曜の12時にインスタライブをしているので、

是非ご覧くださいね^^🎙️

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さて、今日は久しぶりの投稿で、

【黒歴史】
 絶望しかなかった英語が話せない根暗な私

をお話ししたいなと思います。

これを書こうと思ったのは、
最近言われた、現在中1の娘からの一言。


「お母ちゃん、ムロツヨシさんみたいに
 遅咲きだよね」

って。


ムムム?って思いましたが、
(ムロさんと比べてもらって申し訳にないです!)

「まだまだよ?! まだ咲いてないけど?! 
  と思うけど、娘には「咲いている」と
  感じてもらえているのかな?」


と思ったら、全く「閉じていた過去」
を掘り返してまとめたくなり、
今に至ります。

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では、

 【黒歴史】
 絶望しかなかった英語が話せない根暗な私

スタートです!
パチパチパチパチ!



【幼い私の英語との出会い】

私の英語との出会いは、
小学生入ってすぐの6歳の時👧🏻 
 

職場で時折英語が必要だったけど、
英語苦手な父が、


「我が子には!」と言う思いで、
半強制的にラジオ英会話を
私に聞かせたのが始まりでした😏
 

当時録音はカセットテープ
(時代が分かりますね😆昭和です!)
だったので、父は録音してくれて
私はカセットテープで聴くという、
聞かないと怒られるという😅
あまり楽しくない時期を過ごしてきました😏
 

もちろん誰かが学習サポート
してくれるわけではありません。


「父は、私と一緒にするわけでは
 ありませんでした。」


というわけで、
小学校1年生の時に
「ラジオ基礎英語」に
触れたとしても1年間完走する
ことができません。
 

来る年も来る年も、ついていけず
完走することさえできませんでした😭


周りに外国人はいないし、必要じゃないし、
お父さんは私と一緒にやらないし、
私は何のためにやっているのだろう?

と思い、つまらない思いのまま、
淡々と進めていました。


でも、年を追うごとに、
今年は夏まで継続できた!
その次の年は秋まで進めた!

など、ジリジリとかめさん状態でした🐢

でも、全く話せるような、
書けるような気配はありませんでした。

どうして、私は英語をしているのだろう?

唯一のお楽しみだったのは、
その頃、大好きだったハリウッド映画!
「スクリーン」、と「ロードショー」と
いう、映画の月刊誌を買って、
外国人の英語に憧れる日々でした。


いつか、映画の中にいるような
外国人さんと英語で話してみたいな。。。

そんな思いを描きながら、
中学生になります。


 
【テストの点は取れるけど?!話せない?!】

でも、中学校になると、
やっぱり重ねてきたかいがあり⁉️
 

テストの点はある程度の点が取れました。
 

「もしかしたら私、英語が得意なのかも?」
なんて思って、

「英語を使った仕事につきたいな!
 なんで夢見る時期でもありました😃
 

でも、、、、
話せない、、


話せない、、、


中学3年位の時点で9年くらい英語に
触れてはきたことにはなりますが、
一向に話せるようになる気配なく、
モヤモヤする日々、


大好きな洋画のセリフは
全く聞こえないし、
話せるようになる気配なし😱
 


【アメリカでは、1ヶ月引きこもり】

高校生の時に単なる憧れで
アメリカにホームステイに
いかせてもらいました。

でも......
出発前に話す練習をできなかった私は、
 

青い瞳、ブロンドのアメリカ人、
家族に会うのが怖くて、
リビングに出るのが怖くて、
1ヵ月ずっと部屋にこもる日々、、、


週末に家族同士が集まった時も、
現地の人の顔さえ見れずに、
うつむく日々….


「YOUは何しにアメリカに来たの?!?!」

って当時聞かれたら、
なんて答えたのでしょう。

現地の方とは一言も話すことなく、
「空白」の悔しい思い出となりました。
 

「英語に出会って何年も経つのに、
 一生話せないのだろうか⁉️
 どうして、こんなに外国人に会うことすら
 怖いのだろうか?!」

と、自己嫌悪に陥りながら、
高校生活を終えます😣
 


【対人恐怖症のワタシ】

また、ここぐらいまでの私は、
人とのコミニケーションが苦手
日本語でも話すのが苦手でした😣


自分には何も取り柄がない。
せめて得意かもと思った英語さえ
全く話せる気配もしない🥺


特に得意なものもなかったんですよ。
取り柄のない私。無知な私。
 

日本語でも、どちらかというと根暗の私でした。
スポーツも、勉強も、おしゃべりも、
音楽も何もパッとしない私........


引っ込み思案で、
学校の休み時間のために、
友達と話すであろう話題を
事前に考えて、メモを持参していました。


そうでないと、サッと楽しい話題提供も
「日本語でも」できない性格だったので、
自分のことが嫌いなまま小中高と過ごしました。


「自分のことが好きになれる時が来るのかな」


「私は将来どうやって生きていくのだろう?」
 なんて思った時期でもあります。
 

やっぱり、

高校時代も、
中高レベルの英語が読めても、
テストで点が取れても、
英検2級を取っても、
聞けない、話せない!😰
外国人には背を向ける
という高校時代の状態のままでしたが、
 

英語への憧れは諦めきれず、
大学の教養学部の国際学科へ進みました😩
 


【悔しく、暗黒の大学時代】

留学試験に受かると、
2年次に交換留学制度で留学できて、
4年で卒業できるという制度がありましたので、
選んだというのがあります。



学生時代、
問題集もたくさんしました!


音読発表も発音も河川敷の土手に行って、
夕日を見ながら何度も練習しました!
終電が終わり、
線路の脇を歩きながら練習したこともあります。
 

頑張ってはいたのですが、
2年生時に交換留学できる機会が
あったものの。。。
 

なんと!仲のいい友達の中で、
私だけ英語のテストに落ちて
留学ができなかったのです😰


「みんな行っちゃった.....
 私だけ、チャンスを掴めなかった.......」
 
両親からは、
「学校の交換留学の形態でいけなければ、
 それ以外はお金は出せない」

と言われていたので、


もう、この瞬間、
私の「英語が話せる自分になる」
夢は完全に閉された気がしました😰
お先真っ暗........



「どうすればいいの?!
 このまま一生話せないまま、終わるのかな。」
 
 

だって、大学時代に話せるように
なれなければ、
英語を使う仕事にもつけない、
    ⬇️
一生英語は話せない😱

 
という図式がありありと
浮かんだからです😥
 

それは、予想通りになりました。
 


【望まない職場へ、そして、大きな決断】

4年生の時点で英語が話せなかった
私は、英語には全く関係のない、
営業職、事務職で、
4年の月日を過ごします。
 

朝は、7時半には出勤、
自主残業は当たり前の、今振り返れば、
超ブラック企業だったあの世界......

このまま、英語が話せないまま
私の人生終わってしまうのだろうか......
 

しかも、自分を生かせている
内容の仕事ではない....😰
 

本当にその現状が悔しくて、
辛くて、
 

その傍ら、いつか......いつか.....
と夢を馳せながら、
英語の勉強を夜な夜な続けていました📗
 
 
その頃、
小学生の時に、ラジオ英語に出会ってから
20年の月日が経っていました😱
 

いつから変化が出るのでしょうか💦
いつからから話せるようになるのでしょうか?
 

 
この頃の辛い体験の悔しさが、
今、英語の事業を継続できている原動力に
なっています🔥
 


悔しくも、全く英語を使わない仕事
(しかも激務💦)に耐えながら英語を
猛勉強して4年が経ち、
 


「やっぱり、英語のある人生にしたい!」
と、思い切って退職し、ワーキングホリデービザを取り、
オーストラリアの語学留学
5ヶ月に旅立ちます✈️


その時、
小学校の時(6歳)に英語に出会ってから、
26歳の時でした。


この旅立ちの時に、
大きな決断をしたことがありました。


「当時の彼との別れ」です。


結婚を前提に思ってくれていたことは、
海外にいきたいことを切り出してから聞いたことですが、
私の気持ちは変わりませんでした。


私はそれまでの自分が、
大嫌いだったので、このままでは
インターネットもない時代、
海外に行って、彼と遠距離で続けることは、
その時の私には、想像はつきませんでした。


どちらにしても、これまでの自分は嫌い。


当時の彼のことは、大尊敬していました。


私がどう頑張ってもなれない、
友人からも慕われる、有能で、優しく、
大尊敬する彼だったのですが。


もう、人生を、今までの全ての過去を
大嫌いな自分自身をリセット!!!
したかったのです。


そんな思いで、
オーストラリアに旅立ちました。



【海外に行くも、やっぱりダメなのか?!】

しかしそこで、待っていたのは…。
やっぱり、聞こえない話せない私…😩
 

学校が手配してくれた、
シェアハウスの家族は、
家賃収入目的だったようで、
全く私にも日本にも関心が
あるわけではなく、
 

食事の時、
リビングでも話しかけられる
こともなく、
現地のお友達グループが
ぞろぞろ遊びにきた時にも、
会話に入ることすらできませんでした😩
 

話しかけても、通じずに?!
無視され続ける始末。


私は透明人間か?!
って思いましたよ、
一緒にテニスに行った時も、
順番に入れてもらえませんでした。


今、思えば通じなかったのではなく、
相手に受け入れる気持ちが
なかったのかもしれません🧐
 
2ヶ月くらい、辛い気持ちのまま、
最初のシェアハウスで過ごしましたが、

でも、そんな時に光✨が差し込むような
出会いがあったのです🌈
 

語学学校に出入りしている旅行業者が主催する、
グループツアーに参加した時、
オーストラリア人のドライバーさんのPeterに
(奥さんと赤ちゃんがいた方です)に、
現状を話したところ、
 

"You can stay with us!"と
「だったら、僕の家においでよ!」
誘ってくれたのです!
 

私はすぐに、Peterの家に引っ越しました😆
そのご家庭には、
主に、韓国、香港、台湾からの留学生が3人
ステイしていて、
本当に全体でファミリーのような
温かい空間でした🏠
 

彼らは、会話もままならない私を、
温かく受け入れてくれて、
彼らと過ごしていると徐々に
話せるようになっていったのです😆

 

更に、帰国するときに、
マレーシアも経由して、
1ヶ月ホームステイしました。


そこでも、同じように、
「簡単な会話でも、楽しく安心して
コミュニケーションできる」
環境がありました😌


そこでです!!!!
私の英語人生を急激に変える発見があったのは!!

それは、非ネイティブの外国人が、
英語をペラペラ話すコツの発見です!


その2大柱とは、

1)みんな4〜5ヶ国語を話す!!!

→人間って環境によって
 すごい語学習得能力があるんだ!

2)文法間違っても自信持って話してる!

→文法間違ってもいいなら、
 完璧を目指さないでいいのなら、
 私もできるかも!

ということです。
 

そして、じわじわとですが、
今までテキストで勉強していたことが、
ズルズルと引き出させる感覚を
感じていったのです。
 

なんて楽しいんだろう!
こんな自分になりたかった!
 

英語に出会ってから20年。
続けていて、よかった。
 
 
退職して、
「いっぽ」踏み出してよかった😌
 

ああ、ついに光が。。。✨
 

ここから、
英語人生が変わり始めます✈️

 

帰国後、すぐにご縁があったのは、
マレーシア・クアラルンプールに本社のある
船会社の東京支社。

マレーシア人のジェネラルマネージャーと
初めての英語面接を経て採用されました!

毎日、韓国、台湾、中国、マレーシア、
シンガポールの人たちとやりとりする機会を
えました。


やばい.....
楽しい!


その後、今の主人と縁あり、
結婚した後は、東京勤務は遠いので退職して、


つくば市の研究所で、
外国人研究員さんたちの
サポート業務を10年ちょっと担当😌
 

しかし!!!
ようやく英語と使う仕事の2つ目に
就いたものの.......


外国人サポートの事務局の部署にいた
スタッフの皆さんは、英検1級や、
帰国子女などの英語が話せる方ばかり💦
 

最初の数年は、
甘いものではありませんでした💦
 

1番大変だったのは、
外国人達の職場の規則に対しての
クレーム処理です🤣
 

研究所は国の機関なので、
出張清算、勤務形態など結構
規則が厳しかったので、
例外は受け付けられません😤
 

各国の研究者の皆さんは、
自分の主張を持ち、ガンガン言ってきます。


「規則はおかしいんじゃ?」
とか、
「出張費の◯◯費が出ないなんてナンセンスだ!」


私に言われても困るんですがっ💦💦
って、いつも思ってました💦
 

フランス人、マケドニア人、
エジプト人、中国人、インド人、、
他にもたっくさーん🤣
事務局にドカドカと乗り込んできて😅
 

そして、彼らの英語は、
各国の訛りがありつつも、
早い早い💦💦
 

聞き取れないし、
彼らに立ち向かって論破するのは、
最初できず、そんな時は、
涙目で先輩スタッフにヘルプを求める日々😅
 

彼らが夢にまで出てくる日々を
最初の数年過ごしました。
 

「私にはつとまらないかな🥺」
と、やめようと思った時期もあったんです。
 

でも、もともと学生時代も、
留学生の女子寮の管理人として
寮に住んでいた私。


人のお世話をして、
喜んでもらう事が好きな私なので、


食らいついて続けていたら、
徐々にですが、それらのことも
話すのが楽になってきたんです!(嬉!)

バロメーターは、
車を運転しながらの英語が楽になっていきました。
(彼らを、乗せて外出することがありました。)
 

その時の業務とは、


そして、本務の、
来日手配、査証書類送付、
採用事務、出張清算事務の他、
 

そのほかにも、頼まれて、
 

病院の診察室に付き添ったり、
不動産屋さんの契約に行ったり、
保育園からのお手紙を訳したり、
代理で病院に電話したり、
 

いやあ、これらの業務がだんだん慣れてきて、
楽しい楽しい!
 

この時期に、コロナがおさまったら
会いに行きたい✈️友達も
たくさんできました!


この2月には、中華系アメリカ人の家族が
日本に会いにきてくれましたよ🎵

 

英語ができることで、

こんなに世界が広がるんだ!
外国人のお役に立てるんだ🙌🏻🙌🏻🙌🏻🙌🏻
 

そんなふうにやっと感じれた時期は、
私が英語に出会ってから、
約25年位経っていました😕
 

そんな時、
娘の卒園入学を機に
大好きだった職場を
辞めざるを退職します。
(つくばまでは地元から遠いため🏠)
 

さて?
退職したものの、

何の仕事をしよう?

そんな時に出会ったのが、
「英語コーチング」の
お仕事だったのです⭕️
 

「英語コーチング」とは、
英語上達に長年苦しんだ私にとっては、
センセーショナル(笑)な手法です!


そこで、
「私みたいに、英語に出会って話せるようになるまで、
20年の月日を遠回りでなく、
もっと短期間で英語上達を
させてあげたい!」
 

という思いで、
英語コーチになるべく、
日本一の成果を出している師匠による、
英語コーチ養成講座の門を
叩いたのです🚪
 

厳しいトレーニングを経て、
コーチングを開始したものの、
またまた、
カンタンな道ではありませんでした😅

 

次の投稿に続きます!
 
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2024年春4月開始
「はじめのいっぽ5期」
説明会の受付は終了いたしました!

講座のお席を超える、お申し込みをいただき、
ありがとうございました!

https://note.com/akiccoach/n/n9435e87407e0

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家庭に幸せを運ぶ英語コーチ 二重作亜紀(あき)プロフィール

 

★英語発音検定1級、

 英検準1級、

 TOEIC880点

 

出  身:埼玉県所沢市
卒業学科:教養学部・国際学科
趣  味:映画鑑賞、国際交流、

     ホストファミリーとして学生を受入
好きな映画:When Harry Met Sally、 

      Ben-Hur(ベン・ハー)

 

★外資系船会社で4年、

 つくば市の研究所10年勤務の   

 「合計14年間」の多国籍の方々と英語で仕事をする。

★英語指導歴7年目

 (目標達成率93%の日本一の英語コーチ

  奥村美里先生に師事)

★小学生向けの英語イベントを主催 

★自宅で小学生向け英語教室を開講

★NLP(神経言語プログラミングを習得)

★「中学英語をひとつひとつわかりやすく」

  山田暢彦先生のNOBU English認定講師

★方眼ノートトレーナー

 

【はじめのいっぽ講座の様子】

 

 

 

【 小学生向けイベントの様子 】