今週の木曜会は山蔭仁嘉先生をお迎えいたしました。
山蔭神道79世の山蔭基央先生がお亡くなりになって6年。日本人が受け継いでいくべき貴重な教えは、81世となったご子息である山蔭仁嘉氏に引き継がれました。木曜会は初登場です。
田村は生前の山蔭基央先生を師と仰ぎ、神道のみならず、多方面の教えをいただき導いていただきました。今から20年程前のことですが、
「おまえさん、そろそろ神様に自分で向かっていくことをしないといかんやな」と言われ、神棚を作って頂きました。その時に不思議なことが起こりました。神様を神棚にお迎えして頂いているその最中に、西から真っ黒な雲が来るのが見えたそうです。そして雨を降らせ、瞬く間に消え去ったと言います。(東向きに設けた神棚に向かうと、左横の窓の先は、西方になります。)
山蔭先生が
「来た!来た!!黒雲は、竜神様の印。龍神が来てくださった!」と仰って、田村の神棚開きが行われたそうです。
「山蔭先生は本当にここ(木曜会)を愛してくださり、良く来て頂きました。今回はようやく息子さんを呼ぶことが出来ました。でも山蔭先生の息子だから呼んだんではなく、この青年にむちゃくちゃ感心していることがあるからです。事あるごとに頂く、手紙の返信の内容が通り一遍の内容ではない。必ず、自らの心(想い)を必ず書き加えている。月並みな文章は書けても、自分の気持ちを何気なく加えられる人は少ない。その人間力に感心して、お呼びしました。山蔭先生も上で喜んでいらっしゃると思います。今は立派に後を継いでいます。人間的に素晴らしいです。それを今日は感じて頂きたいと思います」と田村。
初登場となる今回は『人々はどのように神々に祈りを献げてきたか』についてお話し頂きました。
仏教の教えの中に、人間には四つの苦しみがあると言われています。
・生 生まれる。老 老いる。病 病になる。死 死ぬ。生老病死。
我々はそれらのことからどのように逃れようか、和らげようかと昔から悩んでいました。『徒然草』の吉田兼好の時代では、若かろうが、弱かろうが、強かろうが(位が高かろうが)常にやって来るのは死であり、死から免れるのは困難であると書かれています。このようにかつての日本人は死というものを身近に感じて、死に対する恐怖心は想像を絶するものがありました。
何故病気になるのか? 何故死は訪れるのか? 古来より多くの人が模索してきました。現在では近代医学が進歩して、病気は薬を飲めば治る、病院へ行けば治ると思われています。男性の平均寿命は84歳、女性は89歳までは生きると言われている時代です。ところが『万葉集』の時代では次のようなことで病気になると考えられていました。
・飲食の招くもの(美味しい物や冷たい物を沢山食べたからお腹を壊した。珍味を食べたから吐いたなど)
・口より入るもの(風邪などが口から入ると知っていたのではないか?)
・過去に造れる罪(過去に何か悪いことをしたのではないのか? あの時嘘をついたからなど自覚症状があることを思う)
・現前に犯せる過ちによる(ここまでくるとノイローゼに近い症状)
その位病気が怖く、後は神仏に祈ることしかなくなった。時が過ぎさらには
・四大違変の難(身体のバランスが崩れたから病気になったのではないか?)
・五労七傷の優(同じ行為を繰り返すことによる疲労、七種の感情『仏教では喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲』の過度な変動による体調不良ではないか?)
・宗廟会稷の祟り(先祖を祀る御霊屋、土地の神・五穀の神を祀る社の祟りではないか? 御霊屋や社に知らないうちに悪いことをしたのではないか?)
・悪鬼怨霊の咎(魔物などをさわってしまったのではないか?)
・厭魅呪詛の然らしむもの(誰かが私を呪っているのではないか?)
・年忌・時気の致すところのもの(季節、例えば暑くなったからなどの不可抗力によるもの)
病気が身近なものとしてすぐ隣りにあり、いつ病気になるのかと怖れていたというのは、ほんの一昔前の日本人の姿だったのかもしれません。
その後の時代でも神の祟りや鬼神や生霊によるものなど様々な病気の原因として伝えられています。そこで益々病いに対する恐れが増幅していく背景がありました。後は神仏に祈るしかないということで、病因への対応として、経典読誦や加持祈祷、お祭りなどを行っていったのです。
『日本書紀』の中に崇神天皇の時代に疫病の流行に関する記載があります。
天皇の夢枕に大物主神と名乗る貴人が出現し、「私を祀れば、疫病は治まるであろう」と告げたそうです。現在大物主神をお祀り申し上げた大神神社が三重県にあります。そこは酒造りの神様もお祀りしています。そもそもお酒は神々に捧げて薬として頂くものであったそうです。
欽明天皇十三年(552年)の時代に百済から仏像が入ってきます。百済からの使者が天皇に仏教の功徳を説いたそうです。欽明天皇は“これを敬うや否や”と臣下に問い、賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏、中臣氏は対立することになります。ところが、蘇我氏の当主、蘇我馬子が天然痘を発症。その後も疫病は収まらず、全国の寺院が壊され、仏像が破棄された。このことにより国は二分されてしまいます。
「私は仏教をそんなに悪い宗教だと思っていません。しかし、いくら自分たちが信じている宗教が正しいからといって、相手の宗教を問答無用で壊したら対立しか残りません」と先生。
天然痘で敏達天皇が崩御、また次に即位した弟の用明天皇も崩御されます。益々内乱は激しくなり、645年の大化改新で中臣鎌足が蘇我氏を滅亡。鎌足の息子の藤原不比等の四人の息子まで天然痘で死亡することになります。結局疫病の原因は荒ぶる神や疫神の仕業などが原因と考えられた結果、加持、祈祷による邪気祓いをすることになります。また陰陽の乱れを制御する鍼灸、漢方薬による治療もその頃から今に引き継がれているのです。
その後、国をあげて何かしなくてはいけないのではないかと6月と12月に全国各地の神社で大祓祭という神道儀式を行っていくことになり、現代では“夏越の大祓祭”が一般的に知られるようになりました。
こうして先人達は、物心両面で病いと対峙してきました。多くの祭礼や民間行事はその現れです。しかし今日、そうした病いへの怖れを思うよりも娯楽を優先した生き方が強くなっています。
「かつて我々の祖先たちが命がけで、そして国の行事として行ってきたその意味や意義、そこに込められた願いというものを我々は忘れ過ぎているのではないでしょうか。いにしえの人々の苦労や工夫というものの一端を、我々自身が今一度思い出し、何故そういう事々が今日までも残っているのかということに思いを馳せ、そして生かされていること、生きることの意味を真摯に受け止めることが出来るのであれば、人生100年、田村社長は120年の永きに渡って、生きる意味がそして意義を新たにすることが出来るのではないのかなと私は思います」と先生はお話し下さいました。
お話が一時間を超えた頃、終了となりそうな気配。慌てて田村が登場。後半は急遽二人会となりました。
田村「初めて聞く話を随分されました。さすがに山蔭先生の息子だなと思いました。お医者さんだったんだよね。僕が知っているのは山蔭先生が、あいつが継いでくれるかどうか分からないんだよと言っていた時代だったんだよね。先生が急に亡くなられて、あなたが後を継ぐといつ決心したの?」
先生「医師免許を取りましたから、それを捨てるということはなかなか勇気がいることでしょ…」
田村「でも山蔭神道の系統を継ぐということは、もっと凄いことでしょ」
先生「その間で人並みに悩みました」
「神道を継がれての意気込みを教えてください」というお客様からのご質問に、
「先代が良く言っていたんですけど“神道言挙げせず”、あまり我も我もと言うのは得策ではないだろう。昔からの神道の教えは大切にしていくべきです。日本人がこれから生きていく上で、色々と参考にしていくところがあるんじゃないかなと思います。同時にあまりそれを全面に押し出すと、無用の争いを生むことになります。とかく宗教というものは、このようなリスクを生むものです。今日少しだけ皆様の前にご提示したとおり、今から1400年、1500年前に神道と仏教が醜い争いをしている訳です。その結果何を生んだかというと、混乱しか生んでないんです。お互いの良い所、知識を認め合っていく。その上で、若干でも神道がお役に立つことがあるかなと信じています。“いずれ近い将来、神道の歴史や教えというものを学びたいという人が沢山でてくるのではないのか。我々はそれを待ちましょう”と先代の山蔭が良く言っていました。今の時代だからこそ、その謙虚な気持ちを持つことを忘れてはいけないんじゃないのかなと思っています」
「日本人というものは日頃の流れの中で、人を非難しないで神を信じて創りあげていったのが神道ですから、山蔭先生のお蔭で僕も随分人間としての教育をされました。自然のままに自分の道として、今でもしっかり朝晩の祝詞をあげています」と田村が締めて閉会いたしました。
亡き山蔭先生と田村との二人会(霊界漫談)が懐かしく思い出される二人のやりとりでした。
今回先生は初登場でしたし、皆様にぜひ知って頂きたいことが多かったため、ブログが長文になりましたが、次回からは短めのブログになります(笑)
是非木曜会に足をお運びください。沢山の貴重なお話が聞けると思います。
山蔭仁嘉(ひとよし)先生、お客様、ありがとうございました。
(平成31年3月16日 古谷 記)
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