阪神大震災が起こったのが1月17日で20日の夜に香港から私は日本に帰ってきた。

阪神大震災の被害がどんな状況かはオムツを運んでくれた菊地や田島から聞いたが自分でも確認をしたく震災が起こってからの1週間後の24日に大阪に夜行バスで向かった。

朝方に大阪に着いてその足で神戸に向かった。

電車で向かったがその時は確か芦屋までしか電車が走っていなくて仕方なく芦屋駅で降りた。

駅を降りた瞬間から正直ここが日本で現実なのか!とショックを受けた。

駅の改札もコンクリートが割れて段差やひびがいたる処にあり、足元をようく注意しながら歩かないと危なくてしようがない状況であった。

駅のトイレも使用禁止となっており、ほとんどのトイレが使えず、結局トイレもやっと探した芦屋の警察署の裏に出来ていた仮設のトイレで済ました事を記憶している。

いわゆるライフラインが寸断されている状況がこんなにも便利な生活をしている我々にはどんなに過酷な状況であるかが現地に入ってみてやっとわかった。

住宅街に向かってみるとほとんどの家が崩壊をしていて家の前に家族に宛てた張り紙がいたるところにあり、
『○○死亡。他の家族は●●のところにいます。連絡ください。』
『全員無事連絡待つ』
と連絡が取れていない家族に向けたメッセージに涙が出た。

テレビで見ている映像と大きな違いが一つだけあった。

それは『臭い』だった。

沢山の方が亡くなった火事の後の臭いや様々な臭いがしていた。

当然に被災者の方々もまだお風呂まで入れる状況でなく、小学校に避難をされている方々も相当つらい状況の頃だった。

興味本位にとても写真など撮る気持ちになれず、1時間くらい芦屋の町を歩いたが気持ちが重くなり大阪に戻った。

実際に被害に遭われた方々に冥福を祈る気持ちで八王子に戻ってきた事等思い出した。

17日の阪神大震災から15年目の様々なニュースを見て当時を思い出したので書かせていただきました。

昨日載せた写真で当時の私を知らずこれより太った現在の私しか知らない人3人の方からどれが白柳か判らないとご指摘を受けたので他にも判らない方がいるかもしれないので念のためお知らせをしておきますが、1番前の真ん中で座ってネクタイをしているのが私です!(笑)。あと皆がいろんな方を見ているのはカメラ3台ぐらいでとっていたのでこんな感じでした。