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私が小学校6年生の頃の話だが友達の一人が空手を習っているのを聞き、当時強い男に大変興味を持っていた私はすぐにその友達の通う空手に通い始めた。

当時、八王子市民体育館が富士森に出来たばかりの頃だったが、週に2回位のペースで夕方6時くらいから8時過ぎまで市民体育館の昼間は卓球場になっている部屋が夜卓球台を片付けたところを道場とし、そこで私は空手を教わっていた。

大人の人は7時くらいから9時過ぎまで稽古をしていた。

元々、強くなりたいという動機から通い始めたがすぐに同級生8人くらいの仲間を誘い入会させ、学校が終ると市民体育舘に4時位にまで行って市民体育館を全部使った泥棒と警官をしたり、柔道室に忍び込み、室内野球をしたりして遊んだりをして空手通いは段々と夜外に出る口実となった。

私が当時通っていた空手道場は松涛館流『練成会』と云い、会長は澤本則男さんという私たちにとってはとても恐い師範であった。もちろん悪いことをしなければ怒られることをもないが段々と空手の帰り道に寄り道をして遊んだり、空手に行った事にして夜遊んだりとしていると必ず沢本会長に知られて後日ぶっ飛ばされたりした。

今思えば私の経験する初めての筋の通った体罰だったかもしれない。

もちろん愛情ある教えだったので反発心等もなく色々な事を一から教わった。

大人や先輩に対する挨拶に始まる礼儀作法や仲間同士の喧嘩の禁止等小学校では教わらない様々な事を教わった。沢本会長の弟子で横田基地の米兵もいて横田基地のフェスティバルに連れて行ってもらったりした。初めて行った横田基地はとても印象に残る出来事であった。今、横田基地のお仕事をさせていただいていることも当時の良い印象のお陰様かもしれない。

また、もちろん技術も違うのだが澤本会長の空手胴衣が私たちの着ている物と違い分厚く、型などをして蹴りや突きをする時に
『ビシッ! ビシッ!』
とカッコイイ音がして、いつかあんな音が出せたらいいな~っといつも憧れていた。

そんな空手通いだが、中学に入ってすぐに同じ歳だが私と違う小学校から空手を習いに来ていた私より空手では先輩にあたる人間とトラブルを起こして澤本会長に呼ばれ、それを機会に私は空手を辞めることになった。

 つづく