最近は本当に暑い。テレビでは「危険な暑さ」とばかり連呼する。昔は40℃を超えると大騒ぎしていたが、今は45℃を超えたら大騒ぎである。

 

 近所のA君とは彼が5歳頃にクルミと散歩していた公園で会ったのが最初だ。クルミを見つけて何やら犬みたいな声を出して、クルミに話しかけてきたのだ。最初は不思議そうにしていたクルミだが、しだいにA君と戯れるように少し唸っていた。私が声をかけると、面倒くさそうに唇を尖らせて無言で逃げていった。

 

 A君とはそれ以来、クルミを介してしか会話をしたことがない。身なりはどちらかというと、あまりお金がなさそうな服装をしている。衣服のところどころに擦り切れそうな傷もあるし、髪の毛は、自宅で切られたのか雑なオカッパ頭のままだ。「名前はなんていうの?」と聞いても無視されて、いつもクルミと犬語で話すだけだ。そんな奇妙な日々も数ヶ月程度で、A君は公園に来なくなって、それっきりの付き合いで終わっていた。

 

 あれから20年はすぎたと思う。クルミはもういなくなり、私は一人で杖をつきながら、ゆっくりと公園を散歩していた。ふと見上げる空は青々としていて、私が5歳の頃に小学校の校長先生の朝礼の話の時に、ただ見上げていた空と何も変わらない。あっという間の人生だったと思いつつ、まあ人間とはそんなものだと達観?する気持ちも持てるようになっていた。

 

 ふと前を見ると、どこかで見たような5歳の子供が親と一緒に歩いてくる。「いやあ、暑いですね!」と防暑服(モーターで冷気を服の中を通して、首周りも冷やしている)と日射防止用の多層ホログラムで体全体を覆っている私が声をかけた。この親子は防暑服もホログラムも装備しないで、外気温45℃の公園を散歩していた。親子は「いやべつに」と怪訝そうな表情で通り過ぎようとする。思い出した。「あの犬語でクルミに話しかけていた子供だ」そこで、我ながらおかしいと思いつつ「ごめんね、もう犬はいなくなっちゃったんだ」と子供に声をかけた。すると親が「覚えてくれていましたか。実はあの変な子供が私です。この子は私の13番目の子供です」と答える。「私はつい最近まで隣の公園で散歩を続けていました。でも、ここのところ、近所の人が訝しがって私たちを変人のような目でみるのを感じて、またこの公園での散歩を始めたのです。」私はつい「散歩がお好きなんですね。お若いのに、あれから20年たっても、同じ場所の公園で散歩できるとは素晴らしいことですね」とお愛想を言った。

 

 それから、驚くような彼の話を聞いてしまった。

 

 彼はこの公園の近くにずっと住んでいて、親子で15人家族だったようだ。両親はITエンジニアでデジタル・ノマド・ワークで生計を立て、家で働き、周辺でジョギング、ジムトレーニングしかしていない。つまり旅行も外食もしていない。amazonで素材を買って家で料理して生活をしていた。そして、その両親も老衰し、同様のデジタル・ノマド生活を送る仲間と合流する老後ケアハウスに移動して終活をしているとのこと。そして今、彼は良き伴侶をITで見つけて、同じ場所でデジタル・ノマド生活をしているという。そして彼らは13人の子供を育てている。

 

 彼らと子供たちは学校に行っていない。明らかに義務教育違反だ。しかし戸籍もあるし、収入はあるし、税金はちゃんと納めているという。彼らは「登校拒否」をしたと嘘を言ってなんとか中学校卒業の資格を得ている。しかも3歳頃からはAIによる英才教育を受け、10歳程度で”ちまたの大卒レベル”の知識やリテラシーまで習得してしまっていた。彼らは権威(大学、官僚、マスメディア)を信じていない。選挙で世の中は変わらない、いまの民主主義では効率が悪すぎて進歩(技術、文化)のスピードに乗り遅れていると考えている。A君は15歳でIT企業に就職した。もちろん同期(大卒、院率、博士もいる)の中でTOPの成績で入社した。技術知識、教養、話術、共感力の全てをAIから習得していた。たぶん義務教育や普通教育(高校、大学、サークル活動他)では考えられないスピードでそれらの基礎能力をAIによって身につけていた。

 

 A君はその会社でのエリートコースのオファーを蹴って、デジタル・ノマドワークで会社をサポートしている。その会社のCEOはAIになってしまっていた。また仕事以外ではAR/VRの世界でニューヨーク、アフリカ、南米まで世界中の旅をしているし、世界中の言葉で会話している(もちろんAIを介して。その昔 A君がクルミと犬語で会話したように)。食事も自分で料理するのが飽きたらBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)のニューラリンクで、5つ星のフランス料理を味わうことができ、極上のワインで舌鼓をうつことができる。人が恋しくなったら「O君」(人型ロボット)たちを呼んでホームパーティーをしている。

 

 唖然としてA君の話を聞いていた私は、なんとなく心の中で「楽しくないな」とA君に同情してしまった。人間なら不可解なことには立ち向かったり、倒されたり、逃げたりのいろんな体験ができる。それが楽しみだ。A君の人生は、たしかに効率的である。でも、私にはA君は「常に、困難から逃げている」ようにしか見えなかった。せっかく人生を楽しめるチャンスを忌避していると。

 

 いや、しかし、と ふと思った。ひょっとしたら15人家族(親2人、子供13人)はとんでもなく楽しい生活かもしれないとも思えた。今の私には、核家族化した、頼ってはいけない家族(老いた私が、その家族を経済的にもプライバシー的にも崩壊させるかもしれない)しかいないとも思い「ひとりでしぬ」難しさを改めて思い起こしてしまった。

 

 なにげなく、チャールトン・ヘストンの「ソイレント・グリーン」、倍賞智恵子の「PLAN75」という映画のシーンが頭をよぎる。流れる音楽は「ベートーベンの田園」だ。もうスイスではなくて、銀座で同じサービスをやっているそうだ。最後のポイ活にはなりそうである。