ボクは「侍」を見たことがありません。

 

チョンマゲで、刀を2本もさして歩く姿は300年前は、普通に見られたようです。

 

でも、武士の精神は、今でも残ってはいるようデス!?

 

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「武士道」新渡戸稲造のことば 新渡戸稲造 著 岬龍一郎 訳

  PHP研究者発刊 をまたまた流し読みました。

 

 どうして、こんな本を読む気になったか覚えてませんが、たぶん武士道とは何かを知りたくなったようです。「葉隠」を読んでも明快な答えを得られず、日本人の心の奥深くに刻まれている考えの割には、「武士道」をうまく定義されたものはないようです。この本は元来英語版で1899年に米国で出版されています(Bushido:The soul of Japan)。岡倉天心の「茶の本」も1906年に英語で出されており、当時は欧米に日本をもっと知ってもらおうと、こんな英語版を出すこともあったのです。

 

 新渡戸さんは旧五千円札で有名な東京女子大学初代学長で、米国、ドイツに留学された教育者、思想家(キリスト教徒でもある)です。「武士道」で国際的に高名となって国際連盟事務次長も務められています。

 

以下は私の心に残った文章です。

 

「武士道とは何か」

 ・武士道は、日本の象徴である桜花と同じように、日本の国土に咲く固有の華である。

 ・武士道は、武士の守るべき掟として求められ、あるいは教育された道徳的原理である。

 ・武士道は、勇猛果敢なフェアプレーの精神。

 

「武士道の源はどこにあるか」

 ・仏教が武士道にあたえられなかったものは、神道が十分に補った。サムライの傲慢な性質に忍耐心や謙虚心が植えつけられたのである。

 ・武士道は知識を重んじるものではない。重んじるものは行動である。したがって知識はそれ自体が目的とはならず、あくまで智恵を得るための手段でなければならなかった。

 

「義」

 ・義は人の道なり(人として正しい道)。義は武士の掟の中で、もっとも厳格な徳目である。

 

「勇」

 ・義を見てせざるは勇なきなり。勇気は、義のために行われるものでなければ、徳の中に数えられる価値はない。

 

「仁」

 ・仁は人(人の良心)なり。愛、寛容、他者への情愛、哀れみの心は常に至高の徳として、人間の魂がもつあらゆる性質の中で、もっとも気高きものとして認められていた。

 ・「武士の情け」とは力ある者の慈悲。仁は優しく柔和で母のような掟である。高潔な義と厳しい正義が男性的であるとするなら、仁における慈悲は女性的な優しさと説得力を持つ。

 

「礼」

・日本人の美しき礼儀の良さは、外国人旅行者の誰もが認めるところである。だが、もし礼が「品性の良さ」を損なう恐れがあるがために行われるのであれば、それは貧弱な徳といわねばならない。なぜなら、礼は他を思いやる心が外へ表れたものでなければならないからだ。

・茶の湯は精神修養の実践方式

・礼儀は常に同情となって表れる。すなわちそれは、泣いている人とともに泣き、喜ぶ人とともに喜ぶ、ということである。

 

「誠」

・武士道の約束に証文はいらない。

・嘘をつくことは罪として咎められていない。むしろ心の弱さとして蔑まれ、不名誉なこととされた。

 

「名誉」

・名誉という感覚には人格の尊厳と明白なる価値の自覚が含まれている。名誉は武士階級の義務や特権を重んじるように、幼児の頃から教え込まれ、武士の特質をなすものの一つであった。

・人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。(西郷隆盛)

 

「忠義」

・武士道は個人よりも公を重んじる。

・君主と臣下が意見の分かれるとき、家来の取るべき忠義は、あらゆる可能な手段を尽くして、主君の過ちを正すことである。もし、その事がうまくいかないときは、武士は自分の血をもって己の言葉の誠実を示し、主君の叡智と良心に最後の訴えをするのだった。

 

「武士はどのように教育されたのか」

・武士道の枠組みを支える三つの柱は「智」「仁」「勇」とされ、それはすなわち、「知恵」「仁愛」「勇気」を意味した。

 

「克己」

・サムライにとって、すぐに感情を顔に出すのは男らしくないとされた。日本人にとって落ち着いた行動、静かなる心は、いかなる情熱によっても乱されることはあってはならなかった。(大人物は喜怒を色に表さない)

・克己の理想は心を平静に保つこと。

 

「切腹と敵討ち」

・魂は腹に宿るという思想

・サムライの切腹は法制度としての一つの儀式だった。武士がみずからの罪を償い、過ちを詫び、不名誉を免れ、朋友を救い、己の誠を証明するための方法だったのである。

・復讐が正当化されるのは、目上の人や恩義のある人のために行われる場合のみであった。自分自身や妻子に加えられた害は、個人的なこととしてひたすら耐え忍び、許されなければならなかった。

 

「刀」

・腰にさした刀は、心中に抱く忠義と名誉の象徴であった。刀に対するいかなる無礼もその持ち主に対する侮辱とみなされ、床に置かれた刀をうっかり跨いだだけでも、責められた。

 

「武士道はいかにして「大和魂」になったか」

・過去の日本はまごうことなく、武士が造ったものであった。彼らは日本民族の花であり、かつ根源でもあった。

 

「武士道はなお生き続けるか」

・仮に武士道が物理的な力にすぎなかったとしても、過去七百年の間に営々と築き上げてきた勢いを、いとも簡単に停止することなど、ありえないであろう。

・かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂。(吉田松陰)

 

「武士道が日本人に遺したもの」

・人間の闘争本能というものは普遍的で自然なものである。そこに、高尚なる感性や男らしい徳目があったとしても、それが人間性のすべてではない。それ以上にもっと神聖なる本能が潜んでいる。すなわち愛という本能である。

・武士道は確固たる教義もなく、守るべき公式もないので、一陣の風であえなく散っていく桜の花びらのように、その姿を消してしまうであろう。だが、その運命はけっして絶滅するわけでない。

 

 

 ひとことで言えば「武士道とは勇猛果敢なフェアプレーの精神」のようです。

 

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 パリオリンピックでは誤審・番狂せが多いとSNSで騒がれます。選手までもがSNSに振り回されているようです。勇猛果敢なフェアプレーの精神で克己心を維持し続けていただきたいものです。

 株は乱高下してまだ収束してないようで、9月までは何もしません。優良株ならいつか回復するし配当金も得られます、含み損は売らなければ、損は確定しないのですから。これまた克己心が必要ですね。