最近東京に初雪が降ったようじゃ。

 

 夕方に雷鳴とともに雪が降ったようじゃが、家人は部屋にいたので気づかずに、テレビのニュースで気づいたという。我輩の人生もそういうことなのかもしれぬ。何をしたわけでもないが、家族とともに全うしただけなのじゃが、生きていて良かった。

 

このブログも残っているのじゃワイ!!

 

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 このブログのタイトル・背景ももうじき変えると思います(URLは同じです)新たな家人(名前はまだ未定)を迎えるので、ある意味、輪廻転生なのかもしれません。チョコの写真掲載もこれが最後となりそうです。

 

 

「人間の覚悟」五木寛之 著 新潮新書 発刊

を読みました。

 

 ニヒリズムでもなく、親鸞でもなく独特の奥深い人生観を感じます。人間は「死」という病気のキャリアでいつかはたった一人で死ななければならない。「どう生きたなんて無意味で、ただ生きただけで価値があるのだ」この本の最後の表現(下記)が全てです。

 

 「それでも、どんなに雑事に追われ、何もなしえず死んでいくのだとしても、大河の一滴だとしても、人が生きることには壮大な営みがある。そのことは、上り坂の時代でも下り坂の時代でも変わりません。この先が「地獄」であっても、極楽であっても、です。生きることの大変さと儚さを胸に、この一日一日を感謝して生きていくしかない。そう覚悟しているのです。」

 

 現代の日本は鬱的時代のようです。自分自身を軽んじて命を粗末にするので、他人の命まで軽んじてしまう時代。自分が何かしてあげたので、相手に何がしかの見返りを期待する餓鬼のような些末な心の氾濫。五木さんの原点は「ただ生きているだけで感謝」なのです。自分が他人に何か与えたとしても所詮自分の気まぐれに過ぎないので、一切見返りを期待しないことが原点のようです。それは悲しい幼児体験(阿修羅のような終戦体験)に基づいており揺るぎのない確信のようです。

 

 それでも五木さんは何度も鬱病に悩まされ、その度に「歓びノート」(毎日うれしかったことを日記に書く)、「悲しみノート」(毎日かなしかったことを日記に書く)、「あんがとノート」(毎日ありがたいなあと感じたことを日記に1行書く)ことで乗り越えてこられたそうです。どんな人間にも鬱期はあります。興味深いのは、それを治療してもらうのではなく、自分でなんとか自浄作用で治していくのが五木流のようです。基本的に五木さんは科学は変化するので疑っていらして、自分自身の治癒力(自浄作用:自分の体の声に従う)にこだわっているようです。

 そして、それは自力ではなく他力(見えない力、運命、阿弥陀様、、)で癒えるのです。

 

 人生は山登りのようなものです。登っただけではダメで下山もしなければならないのです。(やや発展解釈をしますと)中国の四季を表す言葉で言うと、人生は「玄冬(誕生〜幼児)・青春(幼児〜25歳頃)・朱夏(25歳頃〜60歳頃)・白秋(60歳頃〜75歳)・玄冬(75歳以降)」の順となります。私も白秋から玄冬に近づき死生観(死への意識・老いへの意識)を考える時期に入ってしまいました。玄冬の「玄」とは暗くて黒い中にかすかな赤みがさしていて、そこからまた新しいものが始まる、いわばブラックホールみたいなものだそうです。幽玄、玄妙と言いますが、荒涼たる真っ暗闇とはちがう、深く艶やかな黒です。この玄なる世界に入った人間は、青春や朱夏の人たちとは論理も発想も行動も、当然ちがうのです。

 

 認知症老人も非効率な人間として現代は排除していますが、沖縄などの限られた地域では老人の熟成として崇められるのです。老いていく中で、どんなふうに見事にぼけていくか。身体的、頭脳的にもぼけが進行し、あるがごとき、なきがごときに過去と現在の記憶が入り混じって周囲との関係が保てない状態になっていくとしても、その人間はだめになったのではなく、人間の始原のふるさとへ帰りつつあるのだと、五木さんは思っています。

 

 仏教には「無財の七施(しちせ)」というものがあります。「和源施」笑顔でにっこり笑うこと

「眼施」じっと見つめて言葉にならない声を受け止める

「言施」言葉を尽くして相手を慰め大丈夫だよという

「牀座施」老人に席を譲る

「身施」自分の体を使って人に奉仕する

「心施」他人を思いやる

「房舎施」寝場所を与える

自分の存在自体に何か世のため人のためになることがあるのを忘れてはいけないのです。

 

 人の付き合いは「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし」(方丈記)。「君子の交わりは淡きこと水の如し」(荘子)。で油のような濃密な付き合いは長く続かないものです。

 

 一日生きるだけでものすごいことをしている。人は生きているだけで偉大なことだと思います。その人が貧しくて無名で、生き甲斐がないように思えても、一日、一ヶ月、一年、もし三十年も生きたとすれば、それだけでものすごい重みがあるのです。

 

 五木さんは毎日寝る前に足を洗いながら「今日一日、とにかくこうして終わった。きょう一日を生きられたことはよかった。ありがたい。明日はもう目が覚めるかどうかわからないのだ」と考えます。そして翌朝また起きられたら、顔を洗いながら「ああ、目が覚めた。ありがたい。きょう一日なんとかして生き延びよう」そうやってつぶやいてみるのです。それを積み重ねていくしかないし、人生はそうやってすぎていくののではないでしょうか。と言われます。

 

 

 久しぶりの清涼感を感じた書です。かなり共感できました。全てを理解した訳でもないのですが、その情感は十分に感じ取れたと満足しています。

 

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 株は新NISAと日本株期待の外資流入でバブリーです。春頃にはまた元に戻りそうですが、それまでに小銭を儲けたいものですね。煩悩はまだまだ続きます!?