我輩の散歩はライフワークである。

 

万歩計を見ながら「今日は**歩も歩いた」とかいう下らぬことはしない。ただ周りの景色を見て、虫たちの様子や、草木の変化を噛み締めながら歩く。それだけじゃ。

 

目の前の散歩を楽しむのじゃワイ!!

 

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 まだまだ猛暑ですが、一時よりは和らいだ気がします。今日は、ずっとやめていた昼間の散歩をしてみました。これまでは日差しが緩い、朝早くとか、夕方に少しだけ散歩をしていましたが、今日は曇りがちで気温も30℃程度なので、意を決して家を飛び出して歩いてみました。

 

 すると、いつもすれ違う人々が変わります。ジョギングとかウォーキングの服装で元気よく歩く人たちがいなくなって、ゴルフ道具を持つ方、買い物かごを持つ方、スーツケースをゴロゴロと転がす方が増えます。部活の学生たちも少なめです。春先までは子供や家族連れが多かった公園には、猛暑時の昼間はほとんど誰もいません。せいぜい朝に自主体操をする筋肉マンがいる程度です。

 

 昼間の玉川上水のベンチに座って見ていても、自転車で通り過ぎる方が多くなっていますし、道路工事の関係者も増えています。ただ乳児を乗せた自転車や乳母車、保育園のグループはいません。

 

 歩いてみると、虫の声や蝉の声は何も変わっていません。草木の様子もいつも通りに花を咲かせたり、青い葉を眩しく光らせています。

 

 そして、あの人とすれ違いました。

いつも、決まった時間に決まった場所に現れる、手拭いで頭巾をしたお爺さんです。結構早く歩かれていて、周りの景色も見ずに、やや下を向いて、ただただ歩き続けるお爺さんです。昔はチョコと散歩していて「何千回も同じ場所ですれ違っていた」のですが、言葉を交わすどころか、視線もあったことがない方です。

 

 その人は杖をついて歩いていました。そして私はチョコを連れずに一人で歩いていました。すると、初めてその方と視線が合いました。5〜6年はずっと一瞬ですれ違っていたので、初めてのことです。

 そして、軽く目で挨拶をして言葉も交わさずに通り過ぎました。ただそれだけです。

 

 でも、私は、その方が杖をついているのを見て「すごく頑張っていらしたのに、とうとう老いが来ましたね」と心で声をかけていて、その方は、私を見て「あれだけ可愛がっていたのに、とうとう犬がいなくなったね」と囁いてくれた気がしたのです。

 

 時間はこのようにして、流れていくのですね。

 

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 芭蕉は「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」と「奥の細道」の序文に書きました。約300年前に隅田川のほとりの芭蕉庵を引き払い、2年2400kmの旅に出て、岐阜の大垣で「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」と出発して、二見ヶ浦で「奥の細道」を終わってます。(野ざらし紀行で伊勢神宮を訪問した記載があるので、伊勢神宮に参拝できたようです)

 

奥の細道の序文を、口語で書くと、こうなるようです。

 

 月日は永遠の旅人のようなものであり、過ぎては来る年もまた旅人のようなものである。

船頭や馬子は、日々が旅であり、旅そのものを住まいとしている。

昔の詩人(西行、李白、杜甫、宗祗)も旅の中で亡くなった人が多くいる。、、、。

 

 諸行無常かな?