3月にチョコが天国に召されて、これまでチョコのために我慢(ペットホテルで一人で過ごすには老犬過ぎた)していた海外旅行をすることにした。ペットロスの気分転換の意味もある。コロナ禍もウィズコロナで鎮静化してもいる。どこがいいかと考えると、やはりパリやニューヨークでのんびり1ヶ月滞在なのだが、パリはデモや暴動騒ぎがあって今は無理なようだ。ニューヨークはブローウェイ自体がコロナで元気がなく、まだ昔のニューヨークではないようだ。そこで南フランスに行くことにした。カタログを見ても「のんびり何も考えずに行けそう」なので期待が膨らんだ。久しぶりにリラックスできそうだ!

 

 南フランスなら暴動騒ぎもなく、コロナも田舎なのでパリほどでないと予想した。フランス語圏で英語は通じないので個人旅行はこの年では無謀(健康の不安もある)だとしてパック旅行を探した。そこでいろんなツアーを探してみると驚いた。昔は紙のカタログ情報が溢れていて分厚いカタログの束を少しずつ整理する楽しみがあったが、今はコロナ禍のせいで詳しい説明者が少なくなっていた。しかもテレワークやら電子データやらの効率化をしており、顧客へのサービスは”格段に低下”していた。しかも私は、南仏でラベンダー畑を見る予定にするので、日本のゴルフの合間の予約だったこともあり1ヶ月前の滑り込み予約となってしまった。その結果、数ヶ月前ならある程度は近所の旅行代理店でああだこうだと面着して楽しく話し合えるのだが、それができずに福岡とメールと電話だけのコミュニケーションとなってしまった。

 

 燃料サーチャージも支払い、私にしてはかなりの高額な旅行だが、サービスはひどいもので、海外の旅行社かと思うくらい素っ気ない対応ばかりで落胆した。やはり予約するなら数ヶ月前に予約すべきだと大いに反省した。しかもメールの対応もチャットGPTみたいに文章はとても丁寧なのだが、具体的に寄り添う回答は殆どなくて、役に立たなかった。要するにコロナ禍で現地の事情に明るい日本の人材が枯渇していたのだ。後でわかったのだが、某大手旅行社もコロナ後の初めての三年ぶりのパックツアーなので、ほぼ”ぶっつけ本番”状態だったのだ。

とにかくパスポートを持って羽田空港に行く。最初は荷物は軽いので電車とモノレールで行った。空港で事前予約していたwifiルーターも借りて、集合時間に集まり(19人の団体)eチケットをもらいマイレージも登録して荷物をマルセイユまで送る手続きをした。日本出国は簡単に通過。しかし免税店で買い物をしていると、ゆっくりスカイラウンジで休む時間は取れなかった。小銭も1万円で60ユーロに換金し手持ちのユーロと合わせて200ユーロ。他はドルと円で少々持ってはいたが、使う機会はなかった。一人なら100ユーロの現金とクレジットカードで1週間程度のツアー旅行なら対応可能だ。

 

 国際線はルフトハンザ航空で北極回りで羽田-フランクフルトで15時間かかる(ウクライナ侵攻でロシア上空は飛べない:モスクワ周りなら12時間程度)。それから1時間強で入国審査を済ませて乗り継ぎで、だだっ広いフランクフルト空港では走り回った。最初の乗り継ぎ時間設定がタイト過ぎたのだ。個人旅行なら絶対にこんな時間設定にしないが、大手旅行社の都合があったのだろうか?

 

 なんとかマルセイユ空港に深夜に着く。空港からホテルまでのバスの中で「マルセイユはスリが多いので注意してください。またiPhoneはすぐ盗まれるので人前で見せないようにしてください。」とか言われる。事前に知ってはいたが、改めて言われると緊張する。パスポートは首から吊り下げてポロシャツの下に隠して、財布とスマホは腰の前に巻く小さなBagに入れるスタイルだ(不恰好だが、私はずっとこのスタイルでやってきて無事故だ)。さらに小銭は紙幣3枚程度とコイン数個をポケットに入れる(財布を出さないで、盲牌で小銭を支払う米国テクニック)。確かに夜のマルセイユは雰囲気が良くない場所も垣間見えた、こういう直感は、いつも正しい。

 

【第1日目】マルセイユ、プロバンス

 朝食はヨットハーバーの見える素晴らしい場所でフルーツも多く美味しかった。10ユーロ紙幣を1ユーロコインにホテルで換金してもらった。(添乗員に頼むと19人もいるのでまずやってくれないので、一人で内緒で換金した。他の人はその後ハガキとか小物を買って小銭を集めていた)

 

 さあマルセイユ観光だ。旧港を歩くと巨大な鏡の天井(ロンブリエール)があり上を見ると自分の画像が見える。来年のパリ五輪の聖火が着く場所が旧港街で、その横の通路に嵌め込まれた碑文には「紀元前600年にギリシャ航海士がマルセイユに来た」と刻まれており歴史の古さを象徴している。近くで魚市場もやっていた。反対側は表参道通りみたいで広々としている。(この数日後にパリで起きた暴動に連鎖して、ここでもデモ暴動が起きていた。そして確かに一人で歩く時はスリに注意したほうが良さそうな雰囲気だ。)

 バスで移動してノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院に移動。ローマ・ビザンチン風の建物の上から聖母が150万人のマルセイユ市民を見守っている。中にはローマ教会を意識した黄金色の聖堂がある。聖堂の周りには山頂テラスになっていて絶景だ。まず今年のラグビーワールドカップのスタジアム(普通はサッカースタジアム)が見え日本チームが準決勝まで勝ち進むとここでプレーできる。さらに小さな島(3つ並ぶ真ん中の一番小さな島)はイフ島であの巌窟王(モンテクリスト伯:19世紀のフランスの壮大な復讐小説:アレクサンドル・デュマ作)の舞台である。

昼食はマルセイユ名物の魚のスープだったが、今ひとつかな?具としてチーズとかパンを入れて食べる。むしろデザートの時にコミュニケーション不足でアイスキャンデーが出てきたのは笑ってしまった。元々デザートは硬いチョコレートケーキの上に店の自信味の風味の小さなアイスクリームが乗っかっているものだったが、アイスクリームだけでいいと言うと、それでは申し訳ないと、もっとアイスの量の多いアイスキャンデーを店人が持ってきてしまったのだ。

 バスでプロバンスの美しい村ルシオンとゴルドを散策する。仏政府は「小さな村」起こしみたいな事をやっていて、1000人以下、特徴のある村と村長が主張すれば政府が審査の上、観光地としての「小さな村」として登録してくれるのだそうだ。観光客は増えて村の経済は活性化するが村人の生活は昔よりは騒々しくなるので、大型観光バスの駐車場は遠く、公衆トイレも清潔ではなく、お土産店もありきたりだが、まあそれがフランスの田舎風村の特色である。

 ルシアンは顔料の原材料となる黄土の産地で崖からも露出して異観を漂わせている。路地を歩くとパステル調の色合いの建物が多く異彩を放っている。また鷲ノ巣城とも言われるゴルドは流石にキツくて登れなかったが、麓からの眺めも景観である。

アビニョンホテルに着く。ビジネスホテル風で、コロナ禍の影響を受けて人手が少なく、レストランは定休日だったので急遽大部屋での夕食となった。エアコンもつかず、飲み物は別場所のBarで頼んで自分で持ち帰る方式。今日は坂道を登る歩きが多くて12000歩だったので白ワイン飲んだら、良く眠れた。

さあ明日は、アビニョン市街とポン・デュガールとアルル観光だ。

 

【第2日目】アビニョン、ポン・デュガール、アルル

 

 朝はのんびり起きて朝食を取り、時差ぼけ対策も兼ねて近所の散歩。トラムが通り、城壁の中の市街を歩き今晩の夕食予定のレストラン、美味しそうなパン屋さんを通り過ぎてスーパーマーケットまで歩いて引き返す。スリの心配はマルセイユほどは無さそうな雰囲気(20年前のパリの下町の雰囲気)で少し安心する。

 バスで法王庁、アビニョンの橋(サン・ベネゼ橋)に移動。生憎の雨となってしまった。アビニョン橋は「橋の上で踊ろう!」という歌で有名な橋だが傷みがひどくて歩かせてくれないので遠景の眺めのみ。また歩くとアビニョンにも「だまし絵」の建屋があり歌劇の様子を描いている。NHKフランス語会話TV番組でリヨンの「だまし絵」を知っていたがアビニョンにもあったのは知らなかった。

 14世紀にアビニョン全盛を極めた教皇たちがコンクラーヴェ(次期教皇の決定場所)を行っていた法王庁内を歩く。工事中と雨で足場が悪いが転けないように注意深く歩く。中にはフレスコ壁画とか彫像、タペストリーが安置されている。

 そして世界遺産ポン・デュガールに移動。古代ローマ人が急激な人口増加に対応すべく50km離れた街の湧き水を引くことを考えた。ポンプのない時代なので1kmあたり25cmという傾斜で水道を引き600年の間この街の人々に飲料水を提供し続けた。西暦50年頃にポン・デュガールはそのうちガルドン川にかかる長さ275m高さ49mの橋(水道橋)として建造されて、2000年経ても尚今も残っている稀有な建造物である。雨が降って中の螺旋階段が滑って危険なので登れなかったが、最上階(3階)まで上がれるという。 流石に世界遺産で、隣にどのようにローマ人が建造したかを示す博物館があり、お土産店、トイレもホテル並みに綺麗で素晴らしい。私は全く知らなかったが、一見すべき価値のある珠玉観光スポットだ。夏休みシーズンなのであちこちのフランス小学生の団体が来ており、「コンニチワ!」と何度も可愛らしく話しかけられるのには参った。昼食もポンディガールのレストランで美味しく食べられた。流石に南仏を満喫できた。おまけに訪問証明書までもらえたのは嬉しい。

アルルの円形闘技場はローマ時代はあちこちにあった。ローマのコロッセウムが最大で。アルルは大きさでは10番目にも入らない中規模闘技場だ。今も闘牛、コンサートに使われているそうだが、中には入らず。

 アルルで、大画家ゴッホに関わる場所を訪問。アルル周辺は古くから極上のリゾート地で、当時の印象派の画家達も自然な画像を求めて多く居住している。ゴッホはゴーギャンを呼び、セザンヌもいた。有名な「跳ね橋」(この橋は実物とは違うが当時の面影を残す橋だそうだ)。狂気となって耳を切り裂いて入院した病院(ゴッホはこれで周辺住民から追い出される状況にあった)。夜のカフェは「カフェ ヴァン ゴッホ」と名前が付けられている。どれも実物のイメージは残すが、ゴッホ流の感性というか感じたままを描いており、圧倒的な迫力を感じてしまう。

 

 そしてまたアビニョンのホテルに戻り、スーパーマーケットで買い物をしたり、夕食を取った。気温は28℃程度だったが乾燥して喉が渇くので、炭酸水(ガスで通じた)ばかり飲んでいた。今日は18,800歩も歩いた。この旅行でのんびりするはずだったのだが、結構な強行軍で驚かされた。この日は生ビールで熟睡した。

 

【第3日目】ラベンダー畑とロザリオ礼拝堂

 

 朝食を取って7:30に出発。早起きは三文の得というか良い天気になって良かった!

バスでプロバンスの待望のラベンダー街道を目指してまっしぐらだ。

道すがらで、セザンヌが生涯で80以上の絵に描いたサント・ヴィクトワール山(特徴のある山で頂上には女神像があるという)が見えた。さあそろそろプロバンス地方最大の見せ場のラベンダー街道に近づく!

そして待望のラベンダー畑に到着。 すごく大きい! なんでも北海道の比ではないくらい大きいそうだ。快晴でラベンダーの香りが立ち込めて素晴らしい気分を味わえた。ラベンダーは、この時期しかないとこのツアーに参加したのだが、本当に幸運だった。お土産店もあり、場所によってはチェアもあってフォトスポットがある。この旅行の醍醐味を大いに満喫できた瞬間だ。一生の記念になるのかもしれない。

 プロバンスで美味しいランチを食べて、ヴァンスに向かう。

マチスが71歳を過ぎて自らの集大成として設計を無償で引き受けたロザリオ礼拝堂に着く。中はあいにく写真撮影禁止、しかも屋根も改修中で良い写真は撮れなかったが。日本語ガイド本を買って代用することにした。今でも上野の東京美術館でマチス展をやっており、4K画像でロザリオ礼拝堂を説明しているようだが、実物はすごい。フォービズム(感じたままを描く手法)なので、祭壇の前では、見た目は子供の落書きのようなキリストの一生の14の場面が迷いのない一筆書きのようなデッサンで壁面に描かれている。そして斜め向かいには「命の木」と題されるステンドグラスが美しく光を通している。ウチワサボテンをモチーフにしているのだ。マティスは礼拝堂の設計にあたり、空、植物、光という3つのテーマを選び、 それぞれを示す色として青、緑、黄色を使っており、そのステンドグラスは簡素なのだが、優しさに満ちた存在感が美しい。何度も何度も試行錯誤して、最後に残した色と単純デザインの調和が彼の集大成のようである。

そしてバス移動で、待望のニースに着く。流石に都会で私は都会が好きなのでほっとする。ホテルで食事をして美味しかったものの、なんとまあ3時間もかかってしまい、疲れてしまった。寝酒も飲まずにトニックウォーターで眠気を覚まして食べていた。今日も坂道は少なかったが、12,000歩も歩いていた。団体ツアーは健脚でないとついて行けないようだ。

 ただ、ホテルでは電子キーなので入力間違いで他人に部屋に入ったり、シャワーの排水不良、ドライヤー故障などお馴染みの小トラブルはあり、添乗員さんにその都度対応してもらって、ホテル側から、お詫びのドリンクまでいただいたのだが、トラブルは無いに越したことはない。

 

【第4日目】ニース、モナコ、エズ

 

 今日はこの旅行で、一番の強行軍だそうだ。本来の予定はルノアールの家は昨日だったのだが、予約が取れなくて今日にずれ込んだためとの事。

  まずは、ホテル8階プールサイドのレストランで朝食。それから歩いてニースのマルシェをサレア広場で見物。そのすぐ裏の海岸道路沿いでは、奇妙なゴリラのオブジェとか海岸で泳ぐ人もちらほら。ニースの海岸線も長く続き、風景は一見ダイアモンドヘッド風ではある。こんな場所に一生住めたら幸せだとも、つい思ってしまう。まあ海岸は小石ばかりで歩きにくく、すぐに深くなる海岸なのでハワイのオアフ海岸とは少し違うようだ。

 それから、なんと開場前のシャガール美術館を訪問。入場者は私たち19人のツアー客だけで写真撮影OKということで、前日のマチスの礼拝堂とは大きく異なる姿勢に驚く。シャガールは自分の作品に価値を求めるよりも人々に感動を与えることを優先して、よりオープンであろうとする考えのようだ。ステンドグラスはマチスよりも開放的で躍動感がある。絵画はキリストは描かない(シャガールはユダヤ教)で手だけを描いている。しかしマチス同様にそのモーゼの物語を場面ごとに描き、それぞれで青、赤、黄色が基調になったりしている。本当に素晴らしい美術館だと堪能できた。

 バスで移動して、カーニュ・シュル・メルのルノアールの晩年過ごした家に行く。ゴッホは最後まで貧乏だったが、ルノアールは絵で成功して、この広い邸宅にアトリエを持って家族と使用人、お手伝いさんと共に住んで、優雅な晩年の創作活動をしていた。可愛い女の子は実はルノアールの息子をモデルにしていた(絵画も彫像も)。そのアトリエは北側にあり晩年リウマチを病んでいたルノアールは車椅子で絵筆を手に縛りつけて描いている様子が、当時の映像写真で流されている。暖かい優しい画風に反して、性格はかなりの厳格者だったようだ。

 そして待望のモナコにバスで移動。途中でニースのサッカー場が見える。ここでこの9月にラグビーワールカップで日本チームが戦うようだ。崖の上のモナコの街並みが見える。ニューヨークのマンハッタンのような地下道路を潜り抜けるとモナコ公国に入る。バスを駐車場に停めて、モナコでランチ。

 世界で2番目に小さな国(1番はバチカン市国)で東京ディズニーランド&シーの2倍程度の大きさの場所に約4万人が生活しており人口密度は世界最大だ。また6人に一人が警官ということもあり。非常にセキュリティが高い国でもある。惜しくもモンテカルロのカジノは見れなかったが、元ハリウッド女優のグレース・ケリー妃が華麗な結婚式を挙げ、永眠したモナコ大聖堂とFIモナコグランプリレースのコースを展望台から見下ろしたり、少しバスで走ったりした。

 モナコ大聖堂の中に入ると、厳粛な祭壇があり、歴代モナコ王の墓と共に、その左の方にグレース・ケリーの眠る墓があった。入り口天井のパイプオルガンも見事である。外にはグレース王妃の彫像もある。近所でお土産を買って、眺望の見事(ヨットハーバーとクルーズ船だらけで、観光客はクルーズ船の団体が多い)なモナコを去る。

 帰路でまたもや小さな村、鷲ノ巣村エズに行く。私はさすがに足が辛いので途中まででやめて、のんびりとお土産店やスーパーマーケット、香料店を冷房を求めてぶらついた。

 ニースに戻ってホテル近くのレストランで夕食。メニューが写真付きなので助かった。しかし一応はGoogle画像翻訳でメニューの文言内容は日本語に変換して注文した。旧市街は活気があって庶民的なレストランが多いのだが、衛生面で、どうも入り辛いので、少し高級な通りのレストランを選択した。また一応はニースに2つある内の1つのカジノを覗いてみたら、場末のパチンコ屋みたいな雰囲気だったので、すぐに遊びもせずに退散した。

 明日は旅行の最後の日で、丸1日がフリーデーである。予定は午前中は人力自転車に2人を乗せてもらって高台まで行って、ニースの街を見下ろし、サレア広場で骨董市(月曜日のみ)を見て、適当にランチして、NiceVille駅からTERでカンヌ駅に行ってカンヌ映画祭の会場を見て、海岸沿いのブランド街を散策する予定だ。

 

【第5日目】ニース

 突然深夜に体調を崩してしまった。熱もなく下痢ではないので、どうやら食あたりか蓄積疲労のようだ。しかも朝のニュースでパリでデモ、暴動騒ぎがあり、マルセイユでも暴動が起きていた。日本外務省も安全危険通達が出ていて、カンヌに行くとTER(フランス国鉄の普通列車)が動かなくなる恐れがあると旅行社に言われたので、大事を取ってカンヌ行きは断念した。また朝から自転車で揺られるのも辛いので、これもキャンセルした。

 結局この日はホテルで大人しくして、ポカリスエットを温めて飲んで、バナナを食べて凌いだだけとなってしまった。つまり、あっけないが南仏旅行は終わってしまった。

 あとは荷造りをして、お土産を買って、ルフトハンザ航空でニースからフランクフルト経由で帰った。フランクフルト空港での乗り継ぎはまたもやあちこち移動させられて、ゆったりと免税店を見る時間はなかった。

 機内の有料ネットサービスはあるが使わなかった。映画で「アバターwow」「TopGunマーベリック」「Mr.Bean カンヌで大騒ぎ」(これは私と同じ状況で笑えた)を見て過ごす。帰りはこれもロシア上空は飛べないので、地中海、カザフスタン、中国上空を通って、偏西風が順風なので14時間足らずで帰れた(モスクワ周りなら12時間以下なのに)。

 

 3年前はコロナ禍前のラスベガスへの個人旅行だったので優雅だったが、10年ぶりの団体パック旅行は大変だった。現地の事情を知る日本在住の人間は皆無で、添乗員ですらコロナ禍前の3年前の情報しか知らなくて、店は潰れたり、サービスは低下していたりでハプニングの連続だった。本当に信頼できる情報は現地ガイドの情報だけだった。

 

 南仏旅行でのんびりするつもりだったが、私は持病で歩くのが遅いので、意外にも結構疲れてしまった。しかし心配していたコロナには感染せずに済んだ。6回目のワクチン接種を1ヶ月前に済ませて、マスク無しで快適に旅行できたのは、非常に強運だったのかもしれない。まあ 終わり良ければ全て良しである。

 

 

 了