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大好きなひと・・
そう、岩倉具視です(-^□^-)![]()
なんで大好きなのかといぅと。。
小学校1,2年生のときに遡ります
幼稚園の頃から、なんとなーく
「ともみ・ともみ・いたくらともみ」
って口ずさんでて![]()
しばらくしたあるとき、坂道を下りながら
「いたくらともみ・・あ、わたしこのヒトとけっこんするんだ」
と、確信したんです![]()
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この瞬間のことをはっきりと覚えています
でまたしばらくして、中学生になり、塾で社会をやってるとき。
先生が
「…ここで“岩倉具視”という人がぁ─」
って発言して![]()
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私は思わず
「ぬぁぁぁぁぁあぁぁあぁ!!!!」
と叫んでしまいました。。。![]()
なんと、一文字違いの人物が!
珍しい名前なので、きっと結婚するまで会うはずないと思ってたのに!
理由を真剣に言ったので、先生は怒ることもなく呆れたように笑ってくれましたが
あれはびっくりしましたねっっ
かつての私は彼と![]()
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と、ドキドキしながら授業受けてました・・・。笑
だから、特に彼のココが好き
っていぅのはないのですが
知れば知るほど
「キライなとこがない!!!」
と気付いて![]()
やっぱり運命だったのかなぁとか思っちゃってます
とりあえずムダに有名でムダに知られてなぃ彼の業績を書き連ねてみます(>ω<)![]()
まぁ、wikiのコピペになっちゃいますけど…
生年月日
1825年10月26日・・・旧暦9月15日(お兄ちゃんといっしょ!)
出生地
京都
没年月日
1883年7月20日(満57歳没)
死没地
京都
実は、具視サン岩倉家の養子なんですよね。
もともとは堀河周丸(かねまる)という名前でした![]()
父・堀河康親は仁孝天皇と孝明天皇に仕え、中納言まで上りつめた立派な方です。
しかし、やんちゃな具視は公家らしからぬ容姿・言動で、周丸ならぬ『岩丸』と呼ばれていたそうです
そして岩丸は、朝廷儒学者の伏原宣明(ふせはらのぶはる)に入門します。
そこで伏原は岩丸を「大器の人物」と見抜き![]()
岩倉家への養子縁組を推薦したそうです。。
といっても岩倉家は下級の公家であり、決して裕福ではありませんでした
岩丸は、伏原によって『具視』と名付けられました
それは義父が岩倉具慶(ともやす)という名前だったからでしょう。
≪八十八卿列参事件≫
岩倉具視、はじめての政治運動![]()
安政5年(1858年)1月。
老中・堀田正睦 (ほったまさよし)が日米修好通商条約 の勅許を得るため、上京しました。
これに関白九条尚忠
(くじょうひさただ)は勅許を与えるべきと主張しましたが、多くの公卿・公家…もちろん具視も大反対
大原重徳 (おおはらしげとみ)とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日、公卿88人で参内して抗議しました。
九条関白は病と称して参内を辞退、しかし岩倉は九条邸を訪問し面会を申し込みます。
同家の家臣たちは病を理由に拒否しますが、岩倉は面会を求め、座り込みを続けるのです。
…なんと午後10時過ぎまでも
!
そんな岩倉に対し、関白は明日返答する旨を岩倉に伝えました。
「廷臣八十八卿列参事件 」ですっ。
2日後の3月14日、彼等は政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出しました。
・日米和親条約に反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった)
・条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策
・相手国の形成風習産物を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する。
・米国は将来的には同盟国になる可能性がある。
・国内一致防御が必要だから徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべき。
つまり、条約に反対しつつも単純攘夷は否定![]()
伊達や島津などの外様雄藩と組んで、幕府と対決する事態になってもならないとしています!
この時点では薩摩藩への期待がほとんど見られなかったというわけです。。
3月20日、堀田は小御所に呼ばれて孝明天皇 に拝謁し、そのとき天皇は口頭で
「後患が測りがたいと群臣(岩倉ら反対派公卿)が主張しているので、三家・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」
と伝えます
…つまり、岩倉らの反対によって勅許は与えられませんでした

≪安政の大獄≫
安政5年(1858年)6月19日。
6月27日、老中奉書でこれを知った孝明天皇は激怒。
しかし、井伊は続いてオランダ、ロシア、イギリスと次々と不平等条約を締結しました
さらに
7月5日、井伊は抗議した前水戸藩主・徳川斉昭
(とくがわなりあき)や、福井藩主・松平慶永
(まつだいらよしなが…号は春嶽)らを謹慎処分に処したのです。。。
8月8日、孝明天皇は水戸藩に対して井伊を糾弾するよう勅令を下しました(戊午の密勅 )。
このため、幕府は10月18日に水戸藩士・鵜飼吉左衛門
(うがいきちざえもん)、最後に吉田松陰
(私の最も尊敬する人物
)を打首にするなど、尊攘派や一橋派に対する大弾圧安政の大獄
を発動しました
岩倉は、大獄が皇室や公家にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧していました。
そのため、幕府側の京都所司代 ・酒井忠義 (さかいただあき)や伏見奉行 ・内藤正縄 (ないとうまさつな)などと会談。
彼らに天皇の考えを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過である旨を説きました
この後、岩倉と酒井は意気投合して親しくなり、岩倉自身は幕府寄りの姿勢をとっています。
≪和宮降嫁≫
安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変 で井伊直弼が暗殺された後、
安政の大獄は収束し、公武合体 派が幕府内で盛り返しました。
4月12日、幕府は四老中連署で、皇妹・和宮 の将軍・徳川家茂 への降嫁を希望する書簡を、京都所司代より九条に提出します。
孝明天皇はすでに有栖川宮熾仁親王 に輿入れが決定済みだと拒否し、和宮自身も条約破棄を暗に求めました。
岩倉はここで、孝明天皇に意見書『和宮御降嫁に関する上申書』を提出します。
内容は、
・今回の降嫁を幕府が持ち掛けてきたのは、幕府は権威が地に落ちて人心が離れていることに認識しており、朝廷の威光によって権威を粉飾する狙いがある、と分析。
・皇国の危機を救うためには、朝廷の下で人心を取り戻し、世論公論に基づいた政治を行わねばならないが、この収復は急いではならない。急げば内乱となる。今は「公武一和」を天下に示すべき
・政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきである。
・朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。今回の縁組は、幕府がそれを実行するならば特別に許すべきと結論した。
6月20日、孝明天皇は条約破棄と攘夷を条件に和宮降嫁を認める旨を、京都所司代に伝えます。
幕府としてはもはや和宮降嫁ぐらいしか打開策が無い手詰まり状態だったため、無茶だとは思いつつも7月4日、四老中連署にて
「7年から10年以内に外交交渉・場合によっては武力をもって破約攘夷を決行する」
と確約するにいたったのです。
文久元年(1861年)10月20日、和宮が桂御所を出て江戸へ下向。
岩倉は、千種有文(ちぐさありぶみ)と共に、随行することになりました。
出発前、孝明天皇は2人を小座敷に呼び出して勅書を与え、老中にこの書状の中のことを問いただすよう命じました。
すなわち・・岩倉は単なる随行員ではなく勅使として江戸へ下向することになりました。
これは、下級公家の岩倉が軽んじられず、老中と対等に議論できるようにとの天皇の配慮であります
11月26日、岩倉は江戸城で老中と面会。
孝明天皇の勅書の質問、そしてそれとは別に、“幕府が和宮を利用して廃帝を企んでいる”という江戸市中の噂の真偽を問いました。
老中らは、下々のねつ造ではあるが、そのような噂が市中で立ったこと自体が不徳として陳謝、老中連署の書状で二度とないことを誓うと言います。
しかし岩倉は、誓書を出すなら将軍家茂の直筆にせよ
と命じました。
これは勿論言いがかりではなく、朝廷権力の高揚のためです。
家康以来、将軍が誓書を書かされるなどということは無かったので、さすがに老中たちはその場での即答を避けます。
が、結局12月13日、家茂直筆の誓書は提出されました。
翌日の14日、岩倉は意気揚々と江戸をたち、24日には京都へと戻りました。
しかし11日に実母・末子が死去していたため、喪に服して参内を遠慮、将軍誓書はかわりに千種有文が12月25日に孝明天皇に提出します。
孝明天皇はこれに大変喜び、岩倉復帰後の2月11日、「勲功の段感悦す」とまでいってその功労をねぎらいました
≪失脚≫
岩倉から始まった、といっても過言ではない尊王攘夷運動。
しかしそれが各地で高まると…
一貫して朝廷権威の高揚に努めていた岩倉が、なんと佐幕派
とみなされてしまいます![]()
結果的には和宮降嫁に賛成したこと、そして京都所司代の酒井と親しいことなどから、尊王攘夷 派の志士の怒りを買ったようです。
そして尊攘派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけます・・。
公卿・正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)は、岩倉にまず孝明天皇の近習をやめるよう勧告し、岩倉はこれに従って7月24日に近習職を辞します。
しかし岩倉排斥の動きはもはや止まらず、8月16日には三条実美 (さんじょうさねとみ)ら13名の公卿が連名で、岩倉具視・久我建通 (こがたけみち)・千種有文ら6人を、幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を、関白・近衛忠煕 (このえただひろ) に提出。
いよいよ孝明天皇にまで親幕派と疑われ、8月20日に蟄居(ちっきょ)処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまうのです…
岩倉は逆らわず辞官して出家。朝廷を去りました
しかし、それでも岩倉は、京都から退去しなければ首を四条河原に晒す、といった天誅の予告文まで受けます。
そのため邸で蟄居するわけにもいかなくなり、まず西賀茂の霊源寺 に僧体になって身を隠すことに・・
逃げ込んだ9月13日の日記には「無念切歯に絶えず」と記されています。
翌日の日記にも、悔しさをつづり続けました。
9月15日、父・具慶の甥が住職をしている洛西の西芳寺
に移り住むと、近衛忠煕は岩倉らが洛中に住んではならぬとの追放令を発令
岩倉が移住先に困っていたところ、10月4日に長男・具綱 が洛北の岩倉村に住居を用意してくれたので、そこへ移りました。
以降、この地で5年間も蟄居生活を送るのです……
このようにして、具視はみごとに失脚してしまいます(>_<)
しかし![]()
これで終わる人だったら、私の運命の人にはなれないですよー笑笑
こののち。
彼はどうなったのか
なにをしたのか![]()
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続きは次回

舞台の九条邸跡(捨翠亭)
