映画:ファニーゲーム・ファニーゲームUSA あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

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↑「ファニーゲーム」の英語圏用ビデオジャケット。


 ナオミ・ワッツ主演、ミヒャエル・ハネケ監督作品。善良な家族の日常がむきだしの暴力にさらされ、崩壊していく様子を描く。どうしようもなく、不快指数の高い映画ですが、そこはミヒャエル・ハネケ監督の作品ならでは。

 「ファニーゲームUSA」はかつて撮った「ファニーゲーム」とほぼ同じ。ただ、キャストをナオミ・ワッツとティム・ロスに入れ替えただけ。ハネケ監督がなぜ、まったく同じ内容でハリウッド・リメイクをしたのか。

 それを考えつつ、『解説とレビュー』では「ファニーゲームUSA」を詳細に分析していきます。(このレビューは「ファニーゲーム」「ファニーゲームUSA」両方のレビューを兼ねています。以下ではリメイク版の登場人物名を使って表記していきます。)

 パーマー夫妻は息子を連れて別荘にやってきた。閑静な高級住宅街にある別荘で休暇を過ごすのだ。別荘に着くと早速、夫ジョージと息子はヨット遊びの準備へ。妻のアンは台所で夕食の準備をしていた。そこに、白い服を着た若い男が訪ねてくる。

 彼はポールと名乗り、近所のトンプソン夫人の使いで来たという。卵を分けてほしいというのだ。アンは卵を渡すが、彼はそれを落として割ってしまう。そうこうするうちに、ピーターというポールの知り合いの男がやってきた。そして、夫と息子が家に戻ってくる。これが「ファニーゲーム」の始まりだった。

【映画データ】
ファニーゲーム
1997年(日本公開2001年)・オーストリア
監督 ミヒャエル・ハネケ
出演 スザンヌ・ロタール,ウルリッヒ・ミューエ

ファニーゲームUSA
2008年・アメリカ,フランス,イギリス,オーストリア,ドイツ
監督 ミヒャエル・ハネケ
出演 ナオミ・ワッツ,ティム・ロス,マイケル・ピット,ブラディ・コーベット,デヴォン・ギアハート

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映画:ファニーゲームUSA 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★不快指数100% !?

 非道極まりない暴力と、それにさらされるがままの善き人間たち。吹きすさぶ暴力の嵐にさらされたあとに善意などはかけらも見当たらない。

 なぜ、この映画を見るとこうも不快に感じるのでしょうか。

 思えば、人がどんどん殺されていく映画は別に珍しいものではありません。「羊たちの沈黙」や「ハンニバル」などではかなりえげつない殺し方が出てくるけれど、「ファニーゲーム」では射殺もしくは、水中に投げ込まれるというもの。「ホステル」や「ソウ」・シリーズのように、真っ赤な鮮血が流れるわけでもないし、視覚的に痛みを感じるような、目をそむけたくなるようなシーンもありません。

 むしろ、人が死ぬ直接的な場面は出てこないと言っていいでしょう。「ホステル」や「屋敷女」などの流血をともなう映画を見るときに、その恐怖感を思い出してもう一度見ることをためらうということはあるけれども、「ファニーゲーム」を見るときに感じるような不快感、再び見るのをやめようと思わせる、この不思議な感覚は味わうことはありません。

 なぜでしょう。「ファニーゲーム」にしかない、この不快な気持ちの謎はどこにあるのでしょうか。それは、映画中で人が殺され続けるという理由だけではないはずです。

 「ファニーゲーム」は一言で言ってしまえば、2人組の青年たちに別荘地に住む無抵抗の家族が皆殺しにされていくお話です。身も蓋もない言い方をすると、皆殺しの物語なのです。赤裸々に語られる暴力。むき出しの暴力を前にして、人はここまで無抵抗なのか。

 そう、ここに、問題があるのです。「ファニーゲーム」を見る人に不快感を与える原因は、この凶悪な2人組の男ではありません。あまりに無抵抗で、情けないほど怯えきっているこの被害者家族の方に原因があるのです。

 彼らはなぜ、抵抗しないのか。なぜ、逃げないのか。なぜもっと合理的な行動を取れないのか。オリジナルの「ファニーゲーム」を見て、もう一度リメイク版の「ファニーゲームU.S.A.」を見ると結末が分かっているだけにさらにイライラが募ります。ここで逃げられたじゃないか、ここで助けを呼べたじゃないか。

 仮にこのように考えながら悶々として映画を見たとしたなら、それはきっと監督のもくろみ通り。この映画はイライラし、悶々としながら映画のスクリーンと格闘する映画なのだから。

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★イライラの原因はなに ?

 さて、映画の総評的な感想はここまでにして、さらに、「ファニーゲームUSA」を分析して行きましょう。なぜ、私たちはスクリーンと取っ組みあいたくなるようなイライラ感を「ファニーゲーム」に感じてしまうのか。

 端的に言いましょう。「ファニーゲーム」という映画が今までの映画と"違う"というところにイライラの原因があります。

 では、どう"違う"のでしょうか。

 映画には暴力はつきものです。暴力がなければ映画は成立しないといっていい。映画はその暴力を絶妙なパッケージに包んで売り出します。戦争映画、ヒーロー映画、ホラー映画、ミステリー映画…。何でもいい。テレビのニュースだって同じといっていいでしょう。現実に起きた殺人事件を面白おかしく報道する。今度の事件がいかに凶悪で、いかにサディスティックで…。

 そして、それを世の人々は消費する。喜んで迎え入れる。そして、映画の提供する暴力の恐怖感に酔いしれる。リビングでテレビを見て「ひどい事件だね」と言いながら、また日常生活に戻っていく。

 このような暴力の商品化には絶対に欠かせないポイントがあります。それは、映画の中の暴力性には必ず、何らかの形で"落とし前"がつけられるということ。悪人は罪を償うため、死ぬか、制裁を加えられるか、それとも逮捕されるか。あるいは、悪人に同情すべき事情が提示される。彼の生い立ちや家族がいかに哀しいものなのか、今までの生活がいかに苦しいものなのか。そして今はこんなに悔悛している。だから許してやってもいいですよね ? という具合に。

 つまり、観客には悪人が正義によって蹴散らされるか、もしくは悪を正当化する事情が提示され、悪が完全に野放しとなることはない。それが典型的な映画の展開です。暴力に何らかの砂糖の衣をまとわせて、それを「戦争」「ヒーロー」「ホラー」として売り出す。

 しかし、ミヒャエル・ハネケ監督はそれに疑義を唱えます。それらに何と言うタイトルがつけられていたとしても、その中身は皆同じ、「暴力」じゃないか。観客は派手に飾られた外見に惑わされているようだが、映画の中にある本質は「暴力」という共通項であることに気がついていない。それならば、ひとつ気がつかせてやろう、観客に中身の部分だけを味わわせてやろうじゃないか。

 そこで生まれたのが「ファニーゲーム」「ファニーゲームUSA」でした。

 こんなにも不快で、どうしようもなくむかつきを覚えるのが「暴力」というもの。この映画は、人が殺される、人が死ぬということはこんなにやるせないものなのか、その"むかつき"を観客に体験させてやろうというハネケ監督の「ゲーム」なのです。それでは、「ファニーゲームUSA」の内容に踏み込んでみましょう。

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★暴力と非暴力の対面

 ポールはパーマー夫妻に今から12時間後に君らは死んでるかどうか賭けをしようと持ちかけます。ところが、パーマー夫妻がどちらか選択する前に、ポールはパーマー夫妻が死ぬ方に賭けるとすでに宣言しています。「僕らは死んでる方に賭け、君らは生きてる方に賭ける。」そこで、相棒のピーターは「これは賭けにならない。」と口を挟みます。

 ピーターの言うとおり。これは賭けになっていません。なぜでしょうか。それはポールは「力」を所持する者だからです。ポールはパーマー夫妻に暴力を振るう力を持っている。そのポールがパーマー夫妻の死に賭けたということはポールは彼らを殺す気だということです。つまり、暴力を有するものが結果を左右できる「賭け」をしようといっても、その賭けは成立することはありません。

 暴力の前では何もかもが絶対的暴力にひざまずかざるを得ないのです。冒頭、別荘に向かう車内でランダムにオペラをかけて、オペラ歌手と曲名を当てるゲームをしていた車内のパーマー夫妻。そして、ヨットの整備をしていたパーマー親子。アンだけが家を抜け出して逃げようとするときに交わされる夫婦の愛。教養も、親子の愛も、夫婦の愛も。

 皆、暴力の前では役に立つものではない。

 ポールはピーターと一時、家を出て、パーマー夫妻に逃げる時間を与えます。そして、結局捕まえられたアンは家に連れ戻されるのですが、そのときにポールが言うには、時間を与えたのはゲームには「リスクがあってこそ楽しい」もので、「あんたらにもチャンスがなきゃつまらない」からだとか。

 このチャンスとかリスクというものもナンセンス。圧倒的なパワーを持つ者が公平、チャンスと言ったところで、結果は「力」を持つ者に決定されます。仮にチャンスがあるかに見えても、それは見せかけのチャンスがあるだけ。

 同じことは「権利」にもいえるでしょう。連れ戻されたアンがポールに突きつけられたのは、夫とアンがどちらが先に死ぬのか。ポールは、アンには「死ぬ順番を決める権利」と「何で死ぬかを決める権利」があるといいます。これは果たして「権利」といえるのか。

 ここでの関心事は夫とアンの死という現実です。死という結末は変えられないのに、その前段階の選択権をアンに与えて、そこで「権利」があるといえるのでしょうか。ポールのように「力」のある者は「権利」にもならない権利を弱者に与えて、チャンスを与えたり、公平を図ってやった気になっている。

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★手遅れ !

 また、アンは息子のジョージーが家の外に逃げ出したのち、夫妻の見張りに残ったピーターに「あなたたちには未来があるわ、誰にも言わないから逃がして」と涙ながらに頼みこみます。しかし、このときはすでにその段階は過ぎているでしょう。この青年たちが親子3人を皆殺しにするつもりなのは火を見るより明らかです。

 なんて、無力なのでしょう。この家族は最初は家に閉じ込められてさえいませんでした。最初は庭を歩きまわり、犬の死体を発見し、手足さえ縛られておらず、命令されるがまま、部屋を行き来することもできた。それが次第に、一部屋に閉じ込められ、アンは服を脱がされ、足を縛られ、最後には両手も縛られる。気がつけば、完全な監禁状態に置かれてしまった。

 じわじわと暴力がエスカレートし、彼らの自由を浸食していく。この家族はなされるがまま。抵抗すべさえ知らないかのように、ポールたちのなすがままです。やがて、彼ら家族はポールたちと交渉し始めます。「家を出てってくれ」、「こんなことをしてどうなると思ってるのか」、「友人がもうすぐ来るんだから ! 」。

 暴力を振るう力を持つ者と、その力を持たない者たちの差は埋めがたいものがあります。力を持つ者がその力をかざしながら非暴力と交渉するということは実際には交渉にすらなりません。それは交渉ではなく、恐怖の支配でしかない。暴力が本来、このように圧倒的な力を持っているにもかかわらず、映画の中の暴力は意図的に操作され、大逆転が起きたり、正当化されたりします。

 観客はそれが「暴力の偽りの姿」であることに気がつかないばかりか、それが現実だと考えているのです。だから、パーマー夫妻や息子のジョージーの情けない姿にイライラする。

 ここには虚構の暴力と現実の暴力を混同している人々の姿があります。虚構を現実と混同してしまっている観客は実はポールと同じ思考法に陥っているのです。

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★虚構も現実 ?

 ラスト近く、ポールは「虚構と現実」について延々と語るピーターに、「虚構も現実だ」と言い放ちます。彼によれば、「ウソが現実のように見えれば現実」なのだとか。観客は映画で現実であるかのように描かれるウソの暴力を現実のように考えています。そして、その既成の枠から外れる暴力の形にはイライラしてしまう。

 結末、ピーターは「人は予測するのはパニックを避けるため」だと述べています。映画を見る人々はまさにそれ。パニックを起こしたくないから、彼らは定型的な暴力、定型的な結末を求め、決まり切った暴力と恐怖に安心して酔いしれたくて映画を見るのです。

 ピーターは「現実と非現実は鏡を見ているようなもの」で、「いかに虚構の世界から現実の世界に戻るのか、そしていかに2つの世界を結びつけるか」が問題だと語ります。そして、その2つの世界は「コミュニケーションが不可能なんだ」とも。

 つまり、虚構の世界である映画の世界と現実に人々が暮らしている社会は本来全く別物ですし、分けて考えなければいけないものです。それを皆、分かっているつもりなのに、実は分かっていない。

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 この世の中に、純粋な暴力なんてないし、純粋な正義だってない。映画の中で出てくるようなものは現実には存在しないのに、無意識に人々は映画の思考を現実に持ち込んで、混同してしまっている。つまり、虚構の世界から現実の世界に戻れておらず、虚構の世界と現実の世界を一緒にして同時存在させてしまっています。

 本来"コミュニケーション不可能"な虚構と現実、この2つの世界を混同して一つにしてしまっているのだから、2つを結びつけなければならないという必要性も人は感じません。いつしか、虚構の世界に浸食され、虚構の世界に身を置いていることすら気がつかなくなります。虚構の世界から抜け出せなくなってしまうのです。

 虚構の世界に囚われていることすら気がつかない彼らは現実の世界に戻ろうとも思いません。むしろ、虚構の世界こそ、現実の世界だと思い込みます。そうすると、逆転現象が起きてしまいます。虚構の世界に住む人々からすると、現実世界は虚構の世界に見えてしまうのです。

 「現実と非現実は鏡を見ているようなもの」というピーターの言葉がここで効いてくるのが分かります。鏡の表と裏がくるくる回り、本来どちらが表でどちらが裏だったのか、分からなくなってしまったのです。

 ピーターの話の中に「ケルヴィン」という男が出てきます。ケルヴィンはこの世に2つの世界があり、片方が現実で片方が虚構であることを知ったといいます。そして、ケルヴィンは今、虚構の世界におり、彼の家族は現実の世界にいるとか。

 ケルヴィンは現実と虚構の区別がついてしまったがゆえに、家族のいる世界とは別の世界に行ってしまったのです。ケルヴィンは今まで現実だと思っていた世界が虚構の世界であることを知りました。しかし、彼の妻子は区別に目覚めていないから、いまだ虚構の世界に囚われたままです。ところが、妻子は今いる世界が現実だと思い込んでいるから、ケルヴィンのいる世界は虚構の世界に見えてしまうのです。

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★巻き戻せば生き返る…

 「大学で経営学を…」と話し出すピーター。そして、ポールはこちらを見て、つまり、観客に話しかけてきます。「皆さんはどう思います ? 」「もし皆さんだったらどっちに賭けます ? 」

 ピーターやポールには他の人生があるのか、彼らは凶悪な殺人者という役回りを演じている役者にしか過ぎないのか。

 「皆さんはどう思います ? このままあっけなく終わったんじゃ満足できませんよね ? 」彼らは観客の望む役回りを演じようとしています。彼らはこちらの欲求を満たそうと努力しつつ、「巻き戻し」をしたりする。そしてアンに反撃されて殺されたはずのピーターは生き返る。

 これは観客の期待を裏切りますが、彼らはこのときは観客の希望を聞いてはくれない。彼らは、彼らの力の及ぶ範囲でのみ、彼らの望む範囲でのみ、観客の要求に沿おうとするのです。

 彼らは虚構と現実が混じり合うこの混沌の世界の象徴的存在です。彼らは「ファニーゲーム」という虚構世界を演じる役者であり、現実に生きる者でもあります。虚構が現実が区別されない世界では彼らのような存在があったとしても、おかしくないのではないか ?

 ラスト、これ見よがしにこちらを見るポールはその虚実入り混じる世界を見せつけるかのようです。

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★"世界のアメリカ"の地で

 映画といえば、アメリカ・ハリウッドです。世界に輸出されるハリウッド映画は暴力の商品化を手掛ける王者。そして、虚構の世界と現実の世界を混同させる映画を売りだしています。そのハリウッドで、暴力の現実をあからさまに映し出す「ファニーゲームUSA」という映画を売りだしてみたらどうなるか。

 また、アメリカはその国力で世界を席巻する超大国です。その強大なパワーを使うということが世界の国々にどのような作用を及ぼすのか。白服のポールやピーターはアメリカと同じように絶対的な力を持って、哀れな家族の上に君臨します。哀れな家族には選択肢があるようで、実はない。どんな交渉をしても、一瞬チャンスがあるように見えても、それは見せかけにすぎず、パワーを持つ者だけが家族を殺すも生かすも自由自在に決定することができる。

 なんて馬鹿らしい(funny)な世界なんだ ! 映画業界を支配するハリウッドと、世界の王者アメリカ。そこで、むきだしの暴力を見せつける映画を作る。「ファニーゲームUSA」はミヒャエル・ハネケ監督の実験的試みであり、かつアメリカへの皮肉な思いがこめられた映画なのです。

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