映画:イングロリアス・バスターズ あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

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 アメリカ軍のアルド・レイン中佐はユダヤ系アメリカ人ら8人を率いてドイツ軍占領下のパリに潜入し、ナチス=ドイツの中枢を破壊するという任務を遂行することになる。選りすぐりの荒くれ者を率いてパリに乗り込んだレインはゲッペルス国民啓蒙・宣伝相らナチス幹部が列席するというナチス=ドイツ国策映画のプレミアに目をつけ、これに乗り込む計画を立てるが…。


 ブラッド・ピットとQ・タランティーノ監督による「イングロリアス・バスターズ」。ナチス=ドイツ支配下のフランスに潜入し、破壊工作を行う破天荒なアメリカ軍中佐をブラッド・ピットが演じる。クエンティン・タランティーノ監督ならではの小話が積み重なって結末に至る展開は健在。近年のタランティーノ関連作品に見られたクレイジーなストーリー展開はちょっと抑え気味。

【映画データ】
イングロリアス・バスターズ
2009年・アメリカ,ドイツ
監督 クエンティン・タランティーノ
出演 ブラット・ピット,イーライ・ロス,クリストフ・ヴァルツ,ダニエル・ブリュー,アウグスト・ディール

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映画:イングロリアス・バスターズ 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★イングロリアス・バスターズの法則

 ちょっといい人、もしくはちょっと悪い人は死ぬ。とにかくあくどい、とんでもないヤツは生き残る。この法則が結末まで貫かれている映画。連合軍、ユダヤ人、そしてナチス=ドイツ側の人々。この中で一番最悪な「イングロリアス・バスター」は一体誰?

★エマニュエル・ミミュー(ショシャーナ・ドレフュス)

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↑エマニュエル・ミミュー(本名:ショシャーナ・ドレフュス)


 ユダヤ人家族の生き残り。家族はハンス・ランダ中佐率いる親衛隊に殺され、エマはただ一人、命からがら逃げ出すことに成功した。復讐に燃え、経営する映画館ごとナチス=ドイツ中枢部の人間を吹き飛ばす計画を立てる。しかし、彼女に想いを寄せるフレドリック・ゾラに一瞬同情したところを返り討ちにされ、死亡。

★フレドリック・ゾラ

 ナチス=ドイツ親衛隊隊員でゲッペルスのお気に入り。人好きのする性格。エマに惚れているが、彼女に背中から銃撃されて瀕死の重傷を負う。エマを殺害後、死亡。

★アルド・レイン中佐

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↑アルド・レイン中佐


 アメリカ軍所属、8人のユダヤ系アメリカ人からなる隊を率いてパリに潜入する任務を担う。部下に対し、「ドイツ野郎」を殺す際には、「頭の皮を剥げ」と命じる(レイン中佐は部下に1人当たり100人のドイツ軍兵士の頭の皮というノルマを課していた!)。生かしておく場合には、額に鉤十字をナイフでぐいぐいと刻むのが流儀。

とんでもない外道、殺人者の名がふさわしい男。非情で冷酷な性格で、容赦しない。味方のドイツ人スパイのハマーズマークにさえ、必要ならば、拷問まがいの手を使って情報の真偽を確かめることもある。

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↑ブリジット・フォン・ハマーズマーク


★ハンス・ランダ大佐

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↑ハンス・ランダ大佐


 ナチス親衛隊の有能な幹部、「ユダ・ハンター」の異名を取る。逃げ出すショシャーナを見逃してやる気まぐれな面を持つ一方、アルド・レイン中佐にスパイとなって情報を流したドイツ人女優ブリジット・ハマーズマークを絞殺するという非情な面も持つ。

 見逃したユダヤ人の少女ショシャーナがエマニュエル・ミミューであることを見破るが、彼女のテロ計画をあえて見逃し、テロを成功させてアルド・レイン中佐との降伏交渉を優位に進めようとする。

 最後はアルド・レイン中佐によって額に鉤十字を刻まれることに。

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↑アルド中佐の部下、ドニー・ドノヴィッツ。通称”ユダヤの熊”


★不幸な二人

 ちょっといいところのある人は生き残れず、少しでも敵に甘いところのある人は死ぬ。逆に、アルド・レイン中佐のように、とにかく冷酷、敵に対して容赦なし、という人間は生き残ることができる。これが「イングロリアス・バスターズ」の世界。

 そんな生き馬の目を抜くような世界でも人間の感情は死に耐えることはありません。映画館主のエマとナチス親衛隊(SS)に所属するフレドリックの場合もそうでした。彼らの関係は悲劇だったのか、あるいは喜劇か。

「勇士を称える、といって殺戮ばかりが強調されるんだ。耐えられないよ」と嘆くフレドリックはショシャーナの家族を無残に射殺したランダ率いるSS部隊とは違うようにも思えます。

 しかし、彼らは人間と人間である前に、ユダヤ人とSSでした。家族を殺されたエマがフレドリックを見る目にはフィルターがかかっていました。エマの目にはフレドリックは憎むべき敵、憎まなくてはならない敵と映ります。エマは終始、ゾラを遠ざけ、彼の心に気がつかないふりをしています。

 「君の顔を見たら生き返ったよ」というフレドリック。このときのエマは少し、無理をしているようにも見えます。人間としてフレドリックに向き合ってしまったなら、素直で率直な彼にもしかして、心が傾いてしまいそうな不安があったからです。

 もうすぐでテロを起こすという大事な時に、タイミング悪く映写室に入って来てしまったフレドリックをエマは追い返そうとしますが、エマのテロ計画のことなど露ほども知らないフレドリックは出て行こうとしません。

 計画の実行には、部屋にいるフレドリックが邪魔なことは明らかです。それに、どうせテロが実行されれば、フレドリックがどこにいても彼の命は保証の限りではありません。ならば、エマはフレドリックをさっさと射殺してしまってもよいはずなのですが、エマはフレドリックを殺すことを躊躇していました。フレドリックがエマの起こした爆発に巻き込まれて死ぬのと、憎むべき敵とはいえ、彼の目の前で自ら引き金を引くのとは、天と地の差があります。

 フレドリックがなんとしても出ていかないと分かった彼女はようやく、射殺することを決意します。

 そして、背後から銃撃。エマは真正面から撃ち殺すことはできませんでした。それは、反撃されないため、という理由もあったでしょう。しかし、何より、エマは自分を愛してくれたフレドリックを殺害するという自分の行為を正視できませんでした。

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★結末へ…

 しかし、結局、フレドリックは即死しませんでした。フレドリックに息のあることに気が付いたエマは止めを刺すかわりに、床に膝をついてフレドリックの顔を覗き込みます。エマは一体、何をしようと思ったのでしょう。

 即、フレドリックを殺そうと思ったのではないことは確かです。もし、そうならば、フレドリックに息があることに気が付いた時点で彼に近づかず、引き金をもう一度引けば良かったのだから。

 しかし、エマは躊躇しました。瀕死のフレドリックを助けることはいずれにしろ、できなかったでしょう。どのみち、殺すしかないのに、エマがそうしなかったのは、人間として揺れ動く一瞬の同情の現れでした。

 一方、フレドリックは最後の力を振り絞ってエマを射殺しました。エマがフレドリックを憎しみの対象として見ていたとき、フレドリックはエマを愛情の対象として見ていました。最後、エマがフレドリックに一瞬の情を傾けたときには、フレドリックはエマに対して憎悪の感情を抱いていました。

 2人は見事にすれ違ってしまったのです。愛と憎しみ、この似て非なる感情は鮮やかなコントラストを見せました。時代と状況が違えば、2人は人好きのする者同士、気があったかもしれません。

 しかし、現実は違いました。エマとフレドリックは戦争と互いの社会的立場に邪魔され、かみ合わない感情の葛藤に揉まれました。皮肉にも、相手への愛情あるいは憎しみはエマとフレドリックに交代で訪れたのです。彼らはその末、愛と憎しみの狭間に落ちていきました。

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★イングロリアス・バスターズ"名誉なき野郎"

 ランダSS大佐は自身の頭脳に自信がありました。有能で、先見の明もある彼は、状況を的確に把握して、最後は自己に有利な展開を引き寄せることができるはずでした。

 しかし、詰めが甘かった。レイン中佐との降伏交渉、最後の最後になって、「今夜中に戦争を終わらせることができるなら」と条件を後付けされ、殺されてしまいます(ヒトラーが映画館で爆死したという事実はなく、戦争は今夜中には終わらない)。

 ランダは巧妙に振舞う男でした。彼が人助けをするときは、それが自分の利益になるときです。エマのテロ計画に勘付きつつも見逃したのは、エマの計画が降伏交渉に有利に働くと見込んでのことでした。ランダは冷酷な男です。しかし、ランダはレイン中佐とは根本的に違いました。

 アルド・レイン中佐は非情で冷酷、野蛮な振舞いを好みます。彼は正義のために戦うというより、「殺し」そのものに快楽を感じているようです。敵の苦痛や恐怖、そして死はアルド・レインにこの上ない満足感を与えてくれるのです。彼の目下の課題はいかにうまく「鉤十字」を敵の額に刻むことができるか。こんな男なので、彼の場合は「こうしておけばよかったのに」という場面がありません。

 アルド・レインはどの立場に立っても、常に「殺人者」であり続けました。彼はまさに我が道を行く男なのです。一方、ランダはレインのようなタイプの殺人者ではありません。ランダは殺しを後悔もしませんし、躊躇もしませんが、レインのように享楽的に、実に楽しげに殺す男ではありません。

 第2章「イングロリアス・バスターズ」で初めてアルド・レイン中佐が登場します。イングロリアス・バスターズとは「腐ったヤツら」「恥ずべきヤツら」、という意味です。名誉など、何もない男たち。

 この映画にはたくさんのイングロリアス・バスターズが登場しますが、この中の一番はランダ大佐らSSのことではありません。ランダの冷酷さをはるかにしのぐアルド・レインたちのことです。

 確かに、アルド・レインらが殺しまくっているのは悪名高き独裁者ヒトラーの率いるナチス=ドイツの兵士やSSであり、(しかも、ユダヤ人大量虐殺をおこなった!)レインたちがどれだけ残酷な方法で「ドイツ野郎」を殺していても(殴り殺して頭の皮を剥いでいても!)、それほど観客の正義感は逆なでされないかもしれません。

 しかし、ナチスだの、SSだのという属性を取り去れば、レインらの行為は戦争中とはいえ、どう見てもやり過ぎ、残虐極まりない殺人です。レインが「ドイツ野郎」を殺しているのはそれが楽しいから。戦争は人間の本性と、醜悪さを最大限に引き出す場です。レインという名誉なき男の魅力は戦争という場においてのみ、輝くことができるのです。

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★ハッピーエンドではない、アンハッピーエンドでもない…

 結末、レインとランダの対決はレインが勝利。しかも、エマのテロ計画も成功し、映画館は木端微塵に爆破されました。

 が、爽快感は微塵も感じる余地はありません。映画館を爆破する直前にスクリーンに大写しになるエマの巨大な顔、そしてエマの高笑い。まるで、悪魔に憑かれた女の狂気の高笑いのように聞こえてきます。

 ひどい笑い声です。迫害されたユダヤ人であり、家族を皆殺しにされ、自身も命を落としたエマは同情されてしかるべき人物のはずです。観客も、美人で頭もよく、復讐心に燃えるこの女性に感情移入していたでしょうし、彼女がまさか、あんな恐怖感を抱かせるような笑い方をするとは思っていなかったでしょう。そして、まさか死ぬとも思っていなかったでしょう。

 「鉤十字を刻むこと」や「ドイツ野郎」を殺すことに異様な執念を見せるレインと同様、エマもまた、「復讐」の執念に取りつかれた殺人者だったのでしょうか。

 第2次世界大戦を背景に、連合国軍、ナチス=ドイツ、ユダヤ人とくれば、だいたい役割は決まってきます。連合軍は正義、ドイツは悪、ドイツ人は加害者でユダヤ人は被害者という具合に、お決まりの役割分担があります。これまでの映画の世界において、この役割に互換性はないのが暗黙の了解でしたし、ドイツが犯した戦争犯罪を考えるとあってはならないはずでした。

 しかし、「イングロリアス・バスターズ」はこのデリケートな問題に一石を投じました。連合軍の中佐という殺人鬼、そして、復讐の鬼になったユダヤ人。従来、正義の側、被害者の側だった役割の人間に、"醜悪さ"という人間らしさを与えたのです。

 一見、従来からの役割分担は変わっていないように見えるし、変えていないように表面的に装ってはいます。しかし、その内実は違うということが、「イングロリアス・バスターズ」を見ているうちに分かってきます。

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★タブーに触れる

 「イングロリアス・バスターズ」にはゲッペルスの映画政策の説明というかたちを借りて、映画製作の現状を批判する言辞が出てきます。「ゲッペルスはユダヤ系映画会社を排斥した」。それは「ハリウッドの二の舞いを恐れた」からだというのです。

 裏を返せば、ハリウッド映画はユダヤ系に強く影響されているということになります。だから、ユダヤ人はいつまでも被害者でなければならないし、ドイツ人はいつでも加害者、連合軍は正義。なるほど、と思うむきもあります。

 しかし、これはユダヤ批判とみるべきではありません。むしろ、ドイツは残酷な加害者で、ユダヤ人は純真無垢な被害者、そして連合軍は正義というような、規定の範囲内でのみでしか性格づけをすることが許されない固定観念的な映画製作を揶揄したものとみるべきでしょう。

 人間の醜さというものは、いずれの人間にも、存在しているものですが、その醜さは国や人種といったその人間の属性によって濃淡がつけられるのではありません。各人の生き方や人柄からそれは判断されるべきです。ドイツ側だからといって無条件に醜悪な人間ではないし、ユダヤ人だからといって誰もが天使のように純真無垢な人間でもありません。それは迫害された経験を持つ美しい女性だって同様でした。

 「イングロリアス・バスターズ」は第2次世界大戦下という、登場人物の人間性が社会的な属性で判断されがちな時代をあえて選びました。そして、固定観念に反する登場人物を随所に配置して、観客が想像するストーリー展開をあえて裏切って見せたのです。

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★最高傑作!

 「イングロリアス・バスターズ」には、だれも、いわゆる"正義"を体現する登場人物はいません。この映画に出てくるアメリカ人もユダヤ人もドイツ人も、それぞれに観客の正義感を逆なでし、残酷で、何か、人間として醜い部分を持っています。「イングロリアス・バスターズ」で一番ましなのは誰か、という比較はできるかもしれませんが、この人が正しい、という人物は存在しません。

 多くの映画には善人が必ず1人はいるものです。その人に助けられて、映画の後味は良くなる。ところが、その頼るべきヒーローが「イングロリアス・バスターズ」には存在しません。だから、すっきりしない気分が残るのです。いわずもがな、ハッピーエンドはあり得ない映画です。

 結末、「俺たちの最高傑作だぜ!」と得意げなレイン中佐。一体、何が「最高傑作」なのでしょう。レインがランダの額に刻んだ鉤十字のことでしょうか、それともこの映画のことでしょうか。

 いずれにしても、最後の最後まで鉤十字を刻むレインの残酷な振舞いを見せられ、ランダの悲鳴を聞かされて結末を迎えた観客の気持ちは「最高!」とは言い難い気分。

 エンディングに呟かれるブラッド・ピットのこの一言は、全くもって皮肉なこと、このうえありません。ちょっと人を小馬鹿にしたような結末、さすが、タランティーノ映画、といったところでしょうか。

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All pictures in this article belong to Universal studios.