映画:モンスター あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり
シャーリーズ・セロンが13キロ太って役作りをし、実在のシリアル・キラー、アイリーン・ウォーノスを演じた。シャーリーズ・セロンはこの体当たりの演技が評価され、2003年アカデミー賞主演女優賞を受賞。アイリーンの恋人セルビーにはクリスティーナ・リッチ。
アイリーンは流しの娼婦だった。毎晩、路肩に立っては男の車に乗り込み、体を売るのが彼女の仕事。彼女は現在の生活に絶望し、すさんだ毎日を送っていた。そこにセルビーという女性が現われる。セルビーはドナという女性の家に居候していた。ドナは親切だが、セルビーに何かと口を出すため、セルビーはドナの家での生活に居心地の悪さを感じていた。
ある日、アイリーンは客の男にひどい暴行を受け、身を守ろうとして拳銃を取り出したアイリーンは男を撃ち殺してしまう。アイリーンは彼の車を奪い、セルビーを誘って町から逃げ出すことにする。セルビーとアイリーンはビールを飲み、肩を組んで歩き、酒場へ行って騒いで楽しい時間を過ごした。アイリーンはセルビーとなら、新しい人生を歩めるかもしれないと思い始める。
【映画データ】
モンスター
2003年(日本公開2004年)、アメリカ・ドイツ
監督 パティ・ジェンキンス
出演 シャーリーズ・セロン,クリスティーナ・リッチ,ブルース・ダーン,リー・ターゲセン,プルイット・テイラー・ヴィンス
↑アイリーン・ウォーノス。1989年11月30日から90年11月19日までの約1年間に7人を殺した。2002年10月9日死刑執行、46歳だった。フロリダ州矯正省提供。
映画:モンスター 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
★依存しあう2人
アイリーンとセルビーは相互に依存していました。アイリーンは生きる目的を全てセルビーに求め、セルビーは生きる糧を全てアイリーンに頼ります。2人は何を相手に依存するかが違っていました。アイリーンの場合は精神的にセルビーに依存していましたが、セルビーは金銭的にアイリーンに依存していました。だから、裏切るときも、セルビーはあっさり裏切ってしまいます。
セルビーの場合は、アイリーンとの関係について損得勘定ができました。アイリーンとの関係が自分の得になるときには彼女との関係を保ちますが、損になると考えたときには手を切ることができます。
しかし、アイリーンは違いました。アイリーンはこの世界に絶望して自殺したいと考えても、手元に残った5ドルを捨てることになるのが惜しくて、自殺を思いとどまったと言っていました。彼女は仕事や金銭に関しては損得勘定ができます。
しかし、ことセルビーに関しては損得勘定ができません。セルビーに対しては犠牲を払っても、彼女に尽くそうとしました。セルビーの気楽な生活を維持するためにアイリーンは体を売り、彼女に金を渡す。最後には罪を全て被り、セルビーのために命まで犠牲にすることを決意しました。
もちろん、殺人は殺人。アイリーンがしたことは連続殺人以外のなにものでもありません。しかし、それを知って黙認し、アイリーンの稼いだ金で家を借り、酒を飲み、友人と遊ぶ生活に興じていたセルビーの責任はまったくないとは言えないでしょう。
セルビーは現実と夢の境が見えていません。「海沿いの家や本当の人生…、約束したのはあなたよ ! 」と言ってセルビーはアイリーンに怒鳴ります。売春や殺人で稼ぐお金でそんな夢のような生活が手に入るわけがない。なのに、セルビーは冗談交じりのアイリーンの言葉を本気にしていました。彼女は自分で苦労せず、夢を実現させることをただただ夢見ていました。彼女は「夢見る人」でした。
一方、アイリーンは現実が見えていました。毎日、見知らぬ男の車に乗り、毎日体を売る。10代のころからこの仕事を続けてきたアイリーンは、この世が天使のような人間ばかりでないことは百も承知です。だから、彼女はこの世に疲れ切り、夢を見ることもやめていました。子供のころに見た大スターになるという夢。あのころは自分の夢がかなうものと信じ切っていた、という。アイリーンは自分の夢をあきらめました。
しかし、セルビーに最後の希望をかけていました。彼女はあまりに純粋な人でした。セルビーはあまりに純粋にアイリーンの言葉を信じ、本気で夢を見ていたのです。アイリーンはセルビーに言います。「人は優しくて親切な者だって思ってきたろ ? それでいい、そうであってほしい」。アイリーンは自分の夢をあきらめる代わりに、セルビーに夢を見てもらいたかったのです。
★裏切った観覧車
アイリーンは観覧車のことを「モンスター」と呼びます。幼いアイリーンにとっては観覧車は最高の物に思え、それに乗るのが楽しみだったといいます。ところが、いざ、観覧車に乗ってみた幼いアイリーンは怖くてたまらず、吐いてしまうほどでした。
アイリーンにとって最高の物に思えた観覧車は、実はモンスターでした。あんなに素晴らしい物に思えたのに、きっと今までにない幸せな体験をさせてくれるものに思えた観覧車はモンスターでした。暗闇にそびえる観覧車は大きくて恐ろしいものに見え始めます。心の中に抱いていた強い憧れは一瞬のうちに恐怖にとって変わりました。
憧れの気持ちがあったからこそ、その分、余計に高いところから突き落とされる気分なのです。あらかじめ、怖いものだと分かっていれば、心構えができるでしょう。しかし、それが「最高のもの」と思っているときには、裏切られた衝撃を受け止める心構えもできていないし、身構える体勢にもないのに、急に恐怖のどん底に突き落とされてしまいます。だから、余計に怖い。
観覧車に裏切られたアイリーンは再びこの恐怖を経験をすることになります。観覧車の後は男でした。彼女はきっと、「私を認めてくれる人が現われるはず」と男性と恋人関係になるたびに破綻してしまいます。アイリーンは恋人ができるたびに、観覧車に憧れを抱いたように、恋人関係に夢を見ました。そして、いざ観覧車に乗ってみたら恐怖のどん底に突き落とされたように、恋人関係も破綻し、恋人と別れてしまうことになります。
アイリーンはこの繰り返しに疲れ果てていました。もう、男性そのものに憧れを持てなくなっていたアイリーンにとって、新しい恋人で友人、そして女性のセルビーは新鮮で、新しい希望をくれる存在に思えたのです。結局は彼女もやはり、観覧車と同じく、裏切るのですが。
アイリーンは観覧車に裏切られ、男性に裏切られ、セルビーにも裏切られました。しかし、その状況になっても、アイリーンはセルビーに「あんたが好きだから、あんたを絶対裏切ったりはしない」と言います。彼女にとってセルビーは最後まで純粋な存在でした。もしくは、そう思い込もうとしていました。セルビーを観覧車と同じ存在にはしたくない。セルビーを今までの男たちと同じ存在にはしたくない。
セルビーはこの絶望的な世界に生きたアイリーンが最後に見つけた夢だから失いたくありませんでした。裏切ったセルビーに対する愛がアイリーンの思い込みに過ぎなかったとしても、どのみち死刑判決を免れないアイリーンにとっては、この先セルビー以外の夢を見つけることは不可能です。アイリーンのしてきたこと、殺人や売春、強盗まがいの犯罪は全てセルビーのためでした。セルビーの愛を感じられる生活を続けるためでした。
セルビーの愛がまがいものだったとするなら、アイリーンのしてきたことはまったく無意味だったことになってしまいます。アイリーンは最低な人生を送っていたのに、セルビーに出会ってからは本当の自分の人生を生きている気分だった。セルビーとの楽しい生活という夢が破れたとしても、せめて、セルビーの愛を信じていたい。アイリーンはセルビーをかばうため、という以上に、自らの「本当の人生」を守るため、全ての罪を背負う決意をしたのです。
★世間の意見 -ドナの場合-
セルビーを居候させていたドナ。彼女は敬虔なキリスト教徒であり、良き夫を持つ、模範的なアメリカ中流家庭の女性です。彼女の言葉は刺激的ですが、口にこそ出さないにしろ、多かれ少なかれ、世の中では一般的に持たれうる考えでしょう。映画「モンスター」のなかでは3種類の人間が出てきます。セルビーは世間を知らない、無知な存在、アイリーンは世の中の汚れを一手に引き受ける世間から外れた存在、そして、ドナという女性はその2人の中間、世間を代表する人物としての存在。
ドナの言葉には黒人差別的な発言が出てきます。しかし、ドナは決して特別な人間ではありません。人種差別が世間の人々の意識から全くなくなったと考えるのなら、それは大きな間違いです。人々の心の奥底には、潜在的な人種差別観念が残っています。普段、絶対口には出さないし、もしかしたら無意識かもしれませんが、確実に差別意識は残っています。ドナはそれを言葉に出しただけ。しかも、彼女の言葉で注目すべきところは、差別発言ではありません。彼女の言葉からはもっと広い意味の人々に対する差別意識の存在が窺われます。
彼女の言葉を整理して説明するとこうです。まず、世の中には「社会の落ちこぼれ」がいます。そして、その「社会の落ちこぼれ」には2種類の人間がいます。1つは「生まれつき」落ちこぼれる者、その例が黒人。そして2つ目は「選択を間違え」た者、その例はホームレスや同性愛者、そしてアイリーン。そして、彼らが道を誤った理由は「安易な生き方」を選択したからだ、と言います。
アイリーンに売春から足を洗うという選択肢を要求することは簡単です。ドナはまさにその考え方の持ち主でした。売春という誤った生き方から抜けられないのはアイリーンが誤った選択をしたから。どんな仕事であれ、アイリーンは普通の仕事につけばよかったのだ。ドナにとって、アイリーンは売春という簡単にカネを稼げる手段に頼る生き方をしている、社会の落ちこぼれなのです。
★立ちはだかる現実
ドナに反駁することは可能ですが、一方で、これは世の中で広く通用している論理です。まともに働こうとしないから、ホームレスになる、一生懸命に働こうとせず、簡単に稼ごうとするから娼婦になる。彼らは生まれつき肌が黒く、野蛮に生まれついた黒人と違い、選択の余地があった。にもかかわらず、自らその道へ堕ちていったのだから、「選択を間違え」た者たちなのだ。
この論理は働こうとする者に平等にチャンスが与えられ、働いた分に比例して報酬が出るというように、労働の機会・意欲と報酬が完璧に比例し、連動して機能する社会においては通用するでしょう。しかし、実際にはそうではありません。まず、就職自体が難しい。特にアイリーンのように、30歳前後の女性がキャリアもなしに、突然、オフィスワークに就職することはできません。しかも、アイリーンは前職が売春婦。
職業安定所に行ったアイリーンが工場の作業員くらいの職しかないよ、と言われ、結局はその作業員の職すら得られなかったというシーンがありました。アイリーンは工場の仕事なんて、とバカにしていましたが、現状に照らせば、たとえ工場の仕事が嫌であっても、アイリーンは働くべきでした。
しかし、工場で働く気がアイリーンにあったとしても、そもそもアイリーンは工場の仕事にすら、就くことはできなかったでしょう。アイリーンは初等レベルの教育すら、受けておらず、対人関係の築き方にも問題があります。荒んだ生活をしてきたアイリーンには協調性が欠けていました。彼女の場合、生活態度の基本から変えていく必要があります。そうでなければ、たとえ、工場の作業員として就職できても長く働き続けることは難しいでしょう。
★地獄の連鎖
つまり、アイリーンの場合、まず就職すること自体が難しく、仮に就職できても働き続けることが難しい。現実的には簡易なアルバイト程度の職に就くしかありません。その仕事では生活を維持できるだけの賃金を稼ぐことはできません。売春をしていれば、1人の客を取るだけで3000~4000円のカネが手に入りました。一晩で取る客は複数になるでしょうから、一晩で1万前後は稼ぐことができるでしょう。一般的なアルバイトなら、1日10時間以上働いてようやく稼げる額です。
結局、アイリーンは地獄の連鎖から逃れることはできません。この生き方をドナのように「安易な生き方」と非難することは簡単です。もちろん、一度にまとまったカネを稼げる売春から足を洗いきれなかったアイリーン個人に責任があることは否定できません。
しかし、この"安易な"生き方に10代の少女だったアイリーンを追い込み、そこからの出口を塞いでしまっているのは、アイリーンのような選択を誤った人々を冷笑的に見ている社会の責任でもあります。そもそも、アイリーンが娼婦になったのは13歳で子供を産んでからでした。彼女は8歳のころから近親相姦もされていたといいます。親から虐待され、13歳で家を追い出されたアイリーンを助ける者は誰もいませんでした。
10代の少女に一体、どうしろというのでしょうか。アイリーンは生きるため、文字通り、生きていくためにお金を必要としていました。13歳のアイリーンにとって、ドナのいう「安易な生き方」以外の生き方はなく、アイリーンは売春の道を選ぶしかありませんでした。ドナの言う「安易な生き方」とは、アイリーンがこの社会で生きるための「唯一の生き方」と同義なのです。
そして、その売春の仕事でカネを稼げるために、アイリーンが売春以外の仕事に就かなかったことを非難されねばならないのでしょうか。
例え、売春であれ、いったん、カネの稼げる仕事を知ったアイリーンにその仕事を捨て、アパートの賃料を支払ったら生活費すら残らないような仕事に就けというのは相当の覚悟を要求するものです。
しかも、アイリーンが売春を覚えたのは、親に虐待され、10代のうちから道路に立つことを余儀なくされたからでした。親の愛を受け、学校に行って、友達と遊び、恋愛をして、仕事に就くことができていたなら。性的虐待を受けたアイリーンは、自らの体に蔑みの感情を抱き、自分自身を大切にすることができませんでした。そして、アイリーンは何より愛情に飢えていました。
アイリーンが売春に走ったのは、カネが稼げるから、そして、何より自分を貶めたセックスという行為を自らの意思で行うことで、自分に対するコントロール権を得られるからです。親から性的虐待を受け、自分自身を翻弄されてきたアイリーンにとって、誰かに強制されるのではなく、自らの意思でセックスをするということは、虐待をしていた親と同じ立場にアイリーンが立てるということ。アイリーン自らが自分の体をコントロールし、セックスの相手を支配できる。
アイリーンの心の傷がセックスを求め、生きるためのカネの必要性が売春を後押ししていました。社会から「落ちこぼれ」ていくアイリーンを助けてくれる者はおらず、アイリーンのような居場所を失った子供たちを助けるセーフティネットも存在しませんでした。
親に捨てられた子供を無一文で放り出し、売春という選択肢だけを10代の少女に与えてしまった社会には十分に負うべき責任があるのです。すべての責任をアイリーン個人に押し付け、社会には何も責任はない、と言い切るのは、悲劇的な家庭環境になく、体を売る職業に就く必要のなかったドナのような社会の大勢の人間のエゴでしかありません。
虐待を受けた10代のアイリーンを救う制度的枠組みがあり、アイリーンに売春以外に生きる道が用意されていて、それでもアイリーンが売春という道を選んだなら、そのときには、社会は彼女に対して何も責任はない、と初めて言えるのではないでしょうか。
★セルビーの愛、アイリーンの愛
「この世で大事なのは愛だけじゃない」とドナはセルビーを諭します。「そのうち、まともな暮らしがしたくなるわよ、例え、男の人と寝なきゃいけなかったとしてもね」。つまり、同性愛者のセルビーでも、金銭的な安定を手に入れるため、男性と結婚しても落ち着いた生活をしたくなるわ、とドナはセルビーに助言しているのです。
セルビーはドナの言葉に怒り心頭です。ところが、こと、「カネ」に関してはセルビーは言われるまでもありません。セルビーの言う「愛」には金銭的な意味も含まれていました。セルビーは同性愛者だから、男性と生活するよりは、女性と生活したい。セルビーはアイリーンに「夫役」を求めました。アイリーンに稼がせ、自分を養うようにと求めたのです。セルビーはアイリーンとの関係が、純粋に金銭的な関係だとは思っていません。セルビーにとっては、これも「愛」。愛しているなら、生活に困らないようにすることなど当たり前、というわけです。
セルビーにとって、愛とは"カネに困らないように自分を世話すること"を含んでいました。セルビー自身は自分がアイリーンに求めているものがカネではないと思っていました。しかし、アイリーンが純粋な存在だと信じたセルビーの愛にはカネが大きな役割を果たしていることは否定できません。セルビーの愛はいわゆる"純粋な愛"ではありません。純粋なのはむしろ、アイリーンの方。常に純粋な愛を追い求め、そのたびに絶望を味わってきたアイリーンは、無垢な愛をセルビーに捧げていました。
★「モンスター」
アイリーンは何人もの人間を殺した恐ろしい人間。連続殺人者です。しかし、近親相姦され、13歳で子供を生み、家を追い出されてホームレスとなり、娼婦として生計をたてるしかなかった彼女だけが「モンスター」なのでしょうか。
本当のモンスターはアイリーンを連続殺人に走らせた"何か"ではないのか。
それはセルビーその人であり、ドナであり、このアイリーンが暮らす社会です。愛情とカネを混同し、アイリーンに"愛情"という幻を見せたあげく裏切ったセルビーは、アイリーンの抱いたはかない憧れを裏切った観覧車のよう。そして、アイリーンのような人々を蔑むドナのような人々、「社会の落ちこぼれ」に出口を与えず、放置する社会。
愛情を装いつつ、セルビーはアイリーンを裏切り、人々や社会は最下層を生きるアイリーンのような人々を軽蔑し、黙殺します。そして、アイリーンがシリアルキラーとして逮捕されたときに、彼女の存在は「モンスター」としてクローズアップされる。アイリーンがどれだけ残酷に、どれだけ沢山の人を殺したか。アイリーンの苦しみは知られることなく、「モンスター」は死刑となり、この世とのつながりが断たれます。そして再び、彼女のような、逃げられない痛みを味わっている社会の最下層がいることも忘れられる。
アイリーンのような社会の枠からはみ出た人間たちはこの世に存在しないも同然の存在です。人間ですらなく、彼らは「モンスター」。モンスターが問題を起こしたなら、そのモンスターは社会から抹殺すればいい、アイリーンのように。確かに、連続殺人者・シリアルキラーはモンスターの名にふさわしいでしょう。しかし、そのような「モンスター」を生み出す社会が本当の「モンスター」であることには、社会はまだ、気がついていないのです。
※レビュー部分はネタバレあり
シャーリーズ・セロンが13キロ太って役作りをし、実在のシリアル・キラー、アイリーン・ウォーノスを演じた。シャーリーズ・セロンはこの体当たりの演技が評価され、2003年アカデミー賞主演女優賞を受賞。アイリーンの恋人セルビーにはクリスティーナ・リッチ。
アイリーンは流しの娼婦だった。毎晩、路肩に立っては男の車に乗り込み、体を売るのが彼女の仕事。彼女は現在の生活に絶望し、すさんだ毎日を送っていた。そこにセルビーという女性が現われる。セルビーはドナという女性の家に居候していた。ドナは親切だが、セルビーに何かと口を出すため、セルビーはドナの家での生活に居心地の悪さを感じていた。
ある日、アイリーンは客の男にひどい暴行を受け、身を守ろうとして拳銃を取り出したアイリーンは男を撃ち殺してしまう。アイリーンは彼の車を奪い、セルビーを誘って町から逃げ出すことにする。セルビーとアイリーンはビールを飲み、肩を組んで歩き、酒場へ行って騒いで楽しい時間を過ごした。アイリーンはセルビーとなら、新しい人生を歩めるかもしれないと思い始める。
【映画データ】
モンスター
2003年(日本公開2004年)、アメリカ・ドイツ
監督 パティ・ジェンキンス
出演 シャーリーズ・セロン,クリスティーナ・リッチ,ブルース・ダーン,リー・ターゲセン,プルイット・テイラー・ヴィンス
↑アイリーン・ウォーノス。1989年11月30日から90年11月19日までの約1年間に7人を殺した。2002年10月9日死刑執行、46歳だった。フロリダ州矯正省提供。
映画:モンスター 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
★依存しあう2人
アイリーンとセルビーは相互に依存していました。アイリーンは生きる目的を全てセルビーに求め、セルビーは生きる糧を全てアイリーンに頼ります。2人は何を相手に依存するかが違っていました。アイリーンの場合は精神的にセルビーに依存していましたが、セルビーは金銭的にアイリーンに依存していました。だから、裏切るときも、セルビーはあっさり裏切ってしまいます。
セルビーの場合は、アイリーンとの関係について損得勘定ができました。アイリーンとの関係が自分の得になるときには彼女との関係を保ちますが、損になると考えたときには手を切ることができます。
しかし、アイリーンは違いました。アイリーンはこの世界に絶望して自殺したいと考えても、手元に残った5ドルを捨てることになるのが惜しくて、自殺を思いとどまったと言っていました。彼女は仕事や金銭に関しては損得勘定ができます。
しかし、ことセルビーに関しては損得勘定ができません。セルビーに対しては犠牲を払っても、彼女に尽くそうとしました。セルビーの気楽な生活を維持するためにアイリーンは体を売り、彼女に金を渡す。最後には罪を全て被り、セルビーのために命まで犠牲にすることを決意しました。
もちろん、殺人は殺人。アイリーンがしたことは連続殺人以外のなにものでもありません。しかし、それを知って黙認し、アイリーンの稼いだ金で家を借り、酒を飲み、友人と遊ぶ生活に興じていたセルビーの責任はまったくないとは言えないでしょう。
セルビーは現実と夢の境が見えていません。「海沿いの家や本当の人生…、約束したのはあなたよ ! 」と言ってセルビーはアイリーンに怒鳴ります。売春や殺人で稼ぐお金でそんな夢のような生活が手に入るわけがない。なのに、セルビーは冗談交じりのアイリーンの言葉を本気にしていました。彼女は自分で苦労せず、夢を実現させることをただただ夢見ていました。彼女は「夢見る人」でした。
一方、アイリーンは現実が見えていました。毎日、見知らぬ男の車に乗り、毎日体を売る。10代のころからこの仕事を続けてきたアイリーンは、この世が天使のような人間ばかりでないことは百も承知です。だから、彼女はこの世に疲れ切り、夢を見ることもやめていました。子供のころに見た大スターになるという夢。あのころは自分の夢がかなうものと信じ切っていた、という。アイリーンは自分の夢をあきらめました。
しかし、セルビーに最後の希望をかけていました。彼女はあまりに純粋な人でした。セルビーはあまりに純粋にアイリーンの言葉を信じ、本気で夢を見ていたのです。アイリーンはセルビーに言います。「人は優しくて親切な者だって思ってきたろ ? それでいい、そうであってほしい」。アイリーンは自分の夢をあきらめる代わりに、セルビーに夢を見てもらいたかったのです。
★裏切った観覧車
アイリーンは観覧車のことを「モンスター」と呼びます。幼いアイリーンにとっては観覧車は最高の物に思え、それに乗るのが楽しみだったといいます。ところが、いざ、観覧車に乗ってみた幼いアイリーンは怖くてたまらず、吐いてしまうほどでした。
アイリーンにとって最高の物に思えた観覧車は、実はモンスターでした。あんなに素晴らしい物に思えたのに、きっと今までにない幸せな体験をさせてくれるものに思えた観覧車はモンスターでした。暗闇にそびえる観覧車は大きくて恐ろしいものに見え始めます。心の中に抱いていた強い憧れは一瞬のうちに恐怖にとって変わりました。
憧れの気持ちがあったからこそ、その分、余計に高いところから突き落とされる気分なのです。あらかじめ、怖いものだと分かっていれば、心構えができるでしょう。しかし、それが「最高のもの」と思っているときには、裏切られた衝撃を受け止める心構えもできていないし、身構える体勢にもないのに、急に恐怖のどん底に突き落とされてしまいます。だから、余計に怖い。
観覧車に裏切られたアイリーンは再びこの恐怖を経験をすることになります。観覧車の後は男でした。彼女はきっと、「私を認めてくれる人が現われるはず」と男性と恋人関係になるたびに破綻してしまいます。アイリーンは恋人ができるたびに、観覧車に憧れを抱いたように、恋人関係に夢を見ました。そして、いざ観覧車に乗ってみたら恐怖のどん底に突き落とされたように、恋人関係も破綻し、恋人と別れてしまうことになります。
アイリーンはこの繰り返しに疲れ果てていました。もう、男性そのものに憧れを持てなくなっていたアイリーンにとって、新しい恋人で友人、そして女性のセルビーは新鮮で、新しい希望をくれる存在に思えたのです。結局は彼女もやはり、観覧車と同じく、裏切るのですが。
アイリーンは観覧車に裏切られ、男性に裏切られ、セルビーにも裏切られました。しかし、その状況になっても、アイリーンはセルビーに「あんたが好きだから、あんたを絶対裏切ったりはしない」と言います。彼女にとってセルビーは最後まで純粋な存在でした。もしくは、そう思い込もうとしていました。セルビーを観覧車と同じ存在にはしたくない。セルビーを今までの男たちと同じ存在にはしたくない。
セルビーはこの絶望的な世界に生きたアイリーンが最後に見つけた夢だから失いたくありませんでした。裏切ったセルビーに対する愛がアイリーンの思い込みに過ぎなかったとしても、どのみち死刑判決を免れないアイリーンにとっては、この先セルビー以外の夢を見つけることは不可能です。アイリーンのしてきたこと、殺人や売春、強盗まがいの犯罪は全てセルビーのためでした。セルビーの愛を感じられる生活を続けるためでした。
セルビーの愛がまがいものだったとするなら、アイリーンのしてきたことはまったく無意味だったことになってしまいます。アイリーンは最低な人生を送っていたのに、セルビーに出会ってからは本当の自分の人生を生きている気分だった。セルビーとの楽しい生活という夢が破れたとしても、せめて、セルビーの愛を信じていたい。アイリーンはセルビーをかばうため、という以上に、自らの「本当の人生」を守るため、全ての罪を背負う決意をしたのです。
★世間の意見 -ドナの場合-
セルビーを居候させていたドナ。彼女は敬虔なキリスト教徒であり、良き夫を持つ、模範的なアメリカ中流家庭の女性です。彼女の言葉は刺激的ですが、口にこそ出さないにしろ、多かれ少なかれ、世の中では一般的に持たれうる考えでしょう。映画「モンスター」のなかでは3種類の人間が出てきます。セルビーは世間を知らない、無知な存在、アイリーンは世の中の汚れを一手に引き受ける世間から外れた存在、そして、ドナという女性はその2人の中間、世間を代表する人物としての存在。
ドナの言葉には黒人差別的な発言が出てきます。しかし、ドナは決して特別な人間ではありません。人種差別が世間の人々の意識から全くなくなったと考えるのなら、それは大きな間違いです。人々の心の奥底には、潜在的な人種差別観念が残っています。普段、絶対口には出さないし、もしかしたら無意識かもしれませんが、確実に差別意識は残っています。ドナはそれを言葉に出しただけ。しかも、彼女の言葉で注目すべきところは、差別発言ではありません。彼女の言葉からはもっと広い意味の人々に対する差別意識の存在が窺われます。
彼女の言葉を整理して説明するとこうです。まず、世の中には「社会の落ちこぼれ」がいます。そして、その「社会の落ちこぼれ」には2種類の人間がいます。1つは「生まれつき」落ちこぼれる者、その例が黒人。そして2つ目は「選択を間違え」た者、その例はホームレスや同性愛者、そしてアイリーン。そして、彼らが道を誤った理由は「安易な生き方」を選択したからだ、と言います。
アイリーンに売春から足を洗うという選択肢を要求することは簡単です。ドナはまさにその考え方の持ち主でした。売春という誤った生き方から抜けられないのはアイリーンが誤った選択をしたから。どんな仕事であれ、アイリーンは普通の仕事につけばよかったのだ。ドナにとって、アイリーンは売春という簡単にカネを稼げる手段に頼る生き方をしている、社会の落ちこぼれなのです。
★立ちはだかる現実
ドナに反駁することは可能ですが、一方で、これは世の中で広く通用している論理です。まともに働こうとしないから、ホームレスになる、一生懸命に働こうとせず、簡単に稼ごうとするから娼婦になる。彼らは生まれつき肌が黒く、野蛮に生まれついた黒人と違い、選択の余地があった。にもかかわらず、自らその道へ堕ちていったのだから、「選択を間違え」た者たちなのだ。
この論理は働こうとする者に平等にチャンスが与えられ、働いた分に比例して報酬が出るというように、労働の機会・意欲と報酬が完璧に比例し、連動して機能する社会においては通用するでしょう。しかし、実際にはそうではありません。まず、就職自体が難しい。特にアイリーンのように、30歳前後の女性がキャリアもなしに、突然、オフィスワークに就職することはできません。しかも、アイリーンは前職が売春婦。
職業安定所に行ったアイリーンが工場の作業員くらいの職しかないよ、と言われ、結局はその作業員の職すら得られなかったというシーンがありました。アイリーンは工場の仕事なんて、とバカにしていましたが、現状に照らせば、たとえ工場の仕事が嫌であっても、アイリーンは働くべきでした。
しかし、工場で働く気がアイリーンにあったとしても、そもそもアイリーンは工場の仕事にすら、就くことはできなかったでしょう。アイリーンは初等レベルの教育すら、受けておらず、対人関係の築き方にも問題があります。荒んだ生活をしてきたアイリーンには協調性が欠けていました。彼女の場合、生活態度の基本から変えていく必要があります。そうでなければ、たとえ、工場の作業員として就職できても長く働き続けることは難しいでしょう。
★地獄の連鎖
つまり、アイリーンの場合、まず就職すること自体が難しく、仮に就職できても働き続けることが難しい。現実的には簡易なアルバイト程度の職に就くしかありません。その仕事では生活を維持できるだけの賃金を稼ぐことはできません。売春をしていれば、1人の客を取るだけで3000~4000円のカネが手に入りました。一晩で取る客は複数になるでしょうから、一晩で1万前後は稼ぐことができるでしょう。一般的なアルバイトなら、1日10時間以上働いてようやく稼げる額です。
結局、アイリーンは地獄の連鎖から逃れることはできません。この生き方をドナのように「安易な生き方」と非難することは簡単です。もちろん、一度にまとまったカネを稼げる売春から足を洗いきれなかったアイリーン個人に責任があることは否定できません。
しかし、この"安易な"生き方に10代の少女だったアイリーンを追い込み、そこからの出口を塞いでしまっているのは、アイリーンのような選択を誤った人々を冷笑的に見ている社会の責任でもあります。そもそも、アイリーンが娼婦になったのは13歳で子供を産んでからでした。彼女は8歳のころから近親相姦もされていたといいます。親から虐待され、13歳で家を追い出されたアイリーンを助ける者は誰もいませんでした。
10代の少女に一体、どうしろというのでしょうか。アイリーンは生きるため、文字通り、生きていくためにお金を必要としていました。13歳のアイリーンにとって、ドナのいう「安易な生き方」以外の生き方はなく、アイリーンは売春の道を選ぶしかありませんでした。ドナの言う「安易な生き方」とは、アイリーンがこの社会で生きるための「唯一の生き方」と同義なのです。
そして、その売春の仕事でカネを稼げるために、アイリーンが売春以外の仕事に就かなかったことを非難されねばならないのでしょうか。
例え、売春であれ、いったん、カネの稼げる仕事を知ったアイリーンにその仕事を捨て、アパートの賃料を支払ったら生活費すら残らないような仕事に就けというのは相当の覚悟を要求するものです。
しかも、アイリーンが売春を覚えたのは、親に虐待され、10代のうちから道路に立つことを余儀なくされたからでした。親の愛を受け、学校に行って、友達と遊び、恋愛をして、仕事に就くことができていたなら。性的虐待を受けたアイリーンは、自らの体に蔑みの感情を抱き、自分自身を大切にすることができませんでした。そして、アイリーンは何より愛情に飢えていました。
アイリーンが売春に走ったのは、カネが稼げるから、そして、何より自分を貶めたセックスという行為を自らの意思で行うことで、自分に対するコントロール権を得られるからです。親から性的虐待を受け、自分自身を翻弄されてきたアイリーンにとって、誰かに強制されるのではなく、自らの意思でセックスをするということは、虐待をしていた親と同じ立場にアイリーンが立てるということ。アイリーン自らが自分の体をコントロールし、セックスの相手を支配できる。
アイリーンの心の傷がセックスを求め、生きるためのカネの必要性が売春を後押ししていました。社会から「落ちこぼれ」ていくアイリーンを助けてくれる者はおらず、アイリーンのような居場所を失った子供たちを助けるセーフティネットも存在しませんでした。
親に捨てられた子供を無一文で放り出し、売春という選択肢だけを10代の少女に与えてしまった社会には十分に負うべき責任があるのです。すべての責任をアイリーン個人に押し付け、社会には何も責任はない、と言い切るのは、悲劇的な家庭環境になく、体を売る職業に就く必要のなかったドナのような社会の大勢の人間のエゴでしかありません。
虐待を受けた10代のアイリーンを救う制度的枠組みがあり、アイリーンに売春以外に生きる道が用意されていて、それでもアイリーンが売春という道を選んだなら、そのときには、社会は彼女に対して何も責任はない、と初めて言えるのではないでしょうか。
★セルビーの愛、アイリーンの愛
「この世で大事なのは愛だけじゃない」とドナはセルビーを諭します。「そのうち、まともな暮らしがしたくなるわよ、例え、男の人と寝なきゃいけなかったとしてもね」。つまり、同性愛者のセルビーでも、金銭的な安定を手に入れるため、男性と結婚しても落ち着いた生活をしたくなるわ、とドナはセルビーに助言しているのです。
セルビーはドナの言葉に怒り心頭です。ところが、こと、「カネ」に関してはセルビーは言われるまでもありません。セルビーの言う「愛」には金銭的な意味も含まれていました。セルビーは同性愛者だから、男性と生活するよりは、女性と生活したい。セルビーはアイリーンに「夫役」を求めました。アイリーンに稼がせ、自分を養うようにと求めたのです。セルビーはアイリーンとの関係が、純粋に金銭的な関係だとは思っていません。セルビーにとっては、これも「愛」。愛しているなら、生活に困らないようにすることなど当たり前、というわけです。
セルビーにとって、愛とは"カネに困らないように自分を世話すること"を含んでいました。セルビー自身は自分がアイリーンに求めているものがカネではないと思っていました。しかし、アイリーンが純粋な存在だと信じたセルビーの愛にはカネが大きな役割を果たしていることは否定できません。セルビーの愛はいわゆる"純粋な愛"ではありません。純粋なのはむしろ、アイリーンの方。常に純粋な愛を追い求め、そのたびに絶望を味わってきたアイリーンは、無垢な愛をセルビーに捧げていました。
★「モンスター」
アイリーンは何人もの人間を殺した恐ろしい人間。連続殺人者です。しかし、近親相姦され、13歳で子供を生み、家を追い出されてホームレスとなり、娼婦として生計をたてるしかなかった彼女だけが「モンスター」なのでしょうか。
本当のモンスターはアイリーンを連続殺人に走らせた"何か"ではないのか。
それはセルビーその人であり、ドナであり、このアイリーンが暮らす社会です。愛情とカネを混同し、アイリーンに"愛情"という幻を見せたあげく裏切ったセルビーは、アイリーンの抱いたはかない憧れを裏切った観覧車のよう。そして、アイリーンのような人々を蔑むドナのような人々、「社会の落ちこぼれ」に出口を与えず、放置する社会。
愛情を装いつつ、セルビーはアイリーンを裏切り、人々や社会は最下層を生きるアイリーンのような人々を軽蔑し、黙殺します。そして、アイリーンがシリアルキラーとして逮捕されたときに、彼女の存在は「モンスター」としてクローズアップされる。アイリーンがどれだけ残酷に、どれだけ沢山の人を殺したか。アイリーンの苦しみは知られることなく、「モンスター」は死刑となり、この世とのつながりが断たれます。そして再び、彼女のような、逃げられない痛みを味わっている社会の最下層がいることも忘れられる。
アイリーンのような社会の枠からはみ出た人間たちはこの世に存在しないも同然の存在です。人間ですらなく、彼らは「モンスター」。モンスターが問題を起こしたなら、そのモンスターは社会から抹殺すればいい、アイリーンのように。確かに、連続殺人者・シリアルキラーはモンスターの名にふさわしいでしょう。しかし、そのような「モンスター」を生み出す社会が本当の「モンスター」であることには、社会はまだ、気がついていないのです。
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