映画:ターミネーター3 あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり
『ターミネーター2』でのT-1000との死闘から10年後。母サラは既に他界し、ジョン・コナーは何をするでもなく、平和だが、生きる目的を見失ったかのような生活をしていた。
そこに送り込まれてきたのはT-X。スカイネットが送りこんできた、最新最強と言われるターミネーターであった。T-Xはジョン・コナーの未来の副官たちを抹殺し始める。
一方で、ジョンを守るために送られてきたのはT-850型ターミネーター。『ターミネーター2』のT-800の改良型である。以前の闘いで審判の日は回避できたはず、と驚くジョンにT-850は、「審判の日は回避不可能で、ただその日の到来を延ばすことができただけだ」と告げる。
T-Xの襲撃をT-850の助けによってどうにか回避し、幼なじみのケイトがジョンの副官であることを知ったジョンはケイトとT-850と共に逃避行をすることに。
ターミネーターシリーズ3作目。キャッチコピーは、「恐れるな、未来は変えられる」。
映画:ターミネーター3 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
★アクションシーンの大迫力
アクションシーンのすごい迫力。クレーン車にヘリコプター、車はいくつスクラップにしたのでしょうか、圧倒的な物量とすさまじい爆発力で画面に迫って来ます。
ただ、あまり、どきどきしませんでした。なぜかな、と思って考えてみたところ、T-Xにその理由がありました。T-XはT-1000と違って、人の形にしか変化しないので、どこから現れるんだろうとか、知らず知らずのうちにもう近くにいるのではないだろうか、とか、いわゆる恐怖感がないのです。
なので、スリル感という意味では2作目に負けますが、アクションの破壊力や迫力は3作目に軍配が上がりますね。
シュワルツネッガーのアクションはこうでなくては、という爽快感を求めるなら、ターミネーター3は合格点でしょう。
★キャッチコピー「恐れるな、未来は変えられる」はウソ!?
「未来は変えられる」というキャッチコピーはウソでしょうか?
なぜなら、審判の日は回避不可能と説明され、実際に、『ターミネーター3』の結末では審判の日が訪れてしまうからです。
へ理屈を言うようですが、必ずしも矛盾ではないでしょう。自堕落な生活をしていたジョン・コナーの未来は変わったのかもしれません。
前作で、あれだけの経験をし、精神的成長を見せたはずのジョン・コナーが、すっかり自分を見失ってしまっているのにはあきれずにはいられませんが。
『ターミネーター』,『ターミネーター2』は未来の人類の指導者であるジョン・コナーを守り、審判の日を遅らせるための戦いだったのでしょうか。
『ターミネーター3』は前2作と違って、「審判の日」という未来は変えられないという前提のようですので、それに従ってレビューを書きます。
★ジョン・コナーの再生
この映画は、ジョン・コナーの再生の物語、ということでいいのでしょうか。結局、T-Xは倒したものの、審判の日は回避できませんでした。
ターミネーター3の始まりと終わりで変化したことは、
1, 人類全体としては審判の日を迎えたこと、
2, 無気力な生活をしていたジョン・コナーが抵抗軍のリーダーとしての素地を取り戻したこと、でしょう。
T2とT3の決定的な違いはここにあります。サラは自分の息子を守るため、ひいては人類の未来を守ろうとターミネーターと闘いました。
ターミネーター3でジョンが闘ったのは自分自身。それは未来で抵抗軍のリーダーであるはずの自分を、今の行き場を見失っている自分が受け止めるための闘いでした。
『ターミネーター』ではサラとカイルの男女の愛、そして『ターミネーター2』ではサラと息子ジョンの親子愛を描き、『ターミネーター3』ではジョンの自身との闘いを経た成長を描いたと理解すればいいのでしょう。
★ジョンの成長とは?
結末で抵抗軍のリーダーとして目覚めることを思わせるジョン・コナーですが、その精神的な成長とは具体的に何でしょうか。
最初、これはジョンの抵抗軍のリーダーとしての「覚醒」を描くドラマなのだと思いました。しかし、結果的には誤りでした。
彼は審判の日が回避できなかったこと、そして自らが抵抗軍のリーダーになることや、ケイトが未来の妻であることを「受け入れ」ます。
なぜなら、それは未来からきたT-850がジョンに告げたから。すなわち「運命」だからです。
ここで、ふと気が付くのです。
これは、ジョンの「覚醒」を描く映画ではなくて、ジョンの運命の「受容」を描く映画なのだと。
そして、ここにターミネーター3の致命傷になりかねないポイントがあるのです。
彼は終始受身です。自己の運命を変えようと闘う者ではない。
むしろ、未来の自分を知らされ、現在の自分との落差に葛藤しながらも未来のあるべき自分の姿を受け入れようと、今の自分と闘っているのです。
従って、ターミネーター3の世界観では、ジョンが精神的に成長し、T-Xを倒し、何よりも大切なことですが、ジョン自身に打ち勝っても、人類の未来が変わることはありません。
ジョンが現在の自堕落な生活を捨てて、指導者として成長し、人類の希望の星になろうが、それともジョンが現在の自堕落な生活を続けようが、人類に審判の日は訪れることに間違いはありません。
★アクション映画のドラマ性、そしてT3
アクション映画に何を求めるかはひとそれぞれ。
とにかくド派手なアクションで、すっきり爽快感を求めるもよし、ですが、私はアクション映画にはそのアクションシーンを支えるドラマがしっかり描かれていることが大事だと思います。
人間ドラマがない映画は観たことすら忘れてしまう印象の薄い作品になってしまいます。
なぜ、人は戦うのでしょうか。
そこには信念なり、守るべきものなりがあるからでしょう。命をかけて闘うからには何らかの理由があるはず。そこに観客が共感するからこそ、感動が生まれ、闘う者に対するエールが贈られるわけです。
ではターミネーター3にそのドラマ性があったか。
基本的に、ジョンの成長を描くという方向性は間違っていなかったと思います。
審判の日は避けられず、いずれ訪れるという運命の不可変論を前提に、ジョンの精神的な成長を描くという方針はいいでしょう。
自分の行くべき道を見出せず、葛藤する時期は誰にでもあるはず。悩んで、もがいてようやく自分の道を見出していくものです。
その意味では、興味深いドラマを造り出すことは可能だったでしょう。
しかし、結論から言ってしまうと、T3はドラマ性の面では失敗しています。
審判の日という運命が不可変である以上、人類の希望となるべく、ジョンはジョン自身と闘ってなんとか現在の自分を脱皮しなくてはならないのです。
しかしながら、前述のようにこれはジョンの運命「受容」のドラマなので、ジョンはT-850に言われた未来の自分をさしたる疑問も持たずに次々に受け入れていきます。
でもそんなことって、あるでしょうか。
将来の抵抗軍の指導者たる自分と妻はケイトという未来をT-850に言われただけで受け入れるなどということが。
T-850に告げられた未来に驚き、T-850と多少言い争う程度で既成事実としてさっさと受け入れてしまう主人公には共感が持てません。
ほとんどの人間が死ぬ審判の日にジョンは生き残り、、ケイトと結婚し、人類抵抗軍のリーダーになる、という未来にはジョンにとって悲観すべき要素はほとんどありません。
しかし、その未来と引換えにジョンは人類の未来に対する大きな責任を背負うことになります。
そこで、製作者が丁寧に描くべきは、ジョンが精神的成長を遂げ、人類の未来を任される重圧に耐える精神力と責任感を身につける過程でした。
ところが、それがほとんど描写されていないので、ターミネーター3の結末においてジョンが抵抗軍の指導者として精神的に成長したということを観客に説得できませんでした。
ターミネーター3の冒頭で荒れた生活ぶりをしていたジョンが、映画の最後には指導者の器にまで成長した、と観客を納得させることに失敗しています。
★ラストシーン
最後のシーンでジョンは、核シェルターで各地から寄せられる通信に躊躇しながら応じています。それでジョンがスカイネットと人間との戦闘の指揮を取り始めるのだな、ということが分かるシーンです。
ここでも、ジョンがそこにいるから通信が来たわけではなく、国の建設した核シェルターだから通信が来たわけです。
しかも、なぜ、ジョンがそのシェルターにいるかというと、ケイトの父に騙されて行かされたから。
最後の最後まで受け身の姿勢で、たまたまそこにいたという偶然に助けられる主人公。これも、定められた運命のなせる業、ということでしょうか?
ジョンが審判の日を生き延びた者からの通信に迷いながら応答するシーンは特に残念としかいいようがありません。この後に及んで、まだ覚悟ができていなかったのでしょうか。
せめて、最初に入ってきた通信に確たる意思を持った返答をするか、もっといえば、騙されてシェルターに行くのではなく、生き残った者たちの指揮を執るために、核シェルターに自ら望んで向かう、くらいの気概と意思を見せる流れであるべきでしょう。
そうでなければ、ジョンが抵抗軍の指導者たる資格を持つにふさわしい者に成長したのだというメッセージがいまいち伝わって来ません。
最初に述べたように、ターミネーター3ではどうあがいても、最後の審判の日は来ます。多くの市民が死亡する一大惨事が起きるという終末を迎えるわけです。
悲惨なラストである中での、唯一の希望はジョンが抵抗軍の指導者として立ち上がること。そのジョンの精神的成長を十分に描かずして、一体何を見ろというのでしょうか。
この部分の描写が不十分なために、ターミネーター3ではその結末の重さだけが伝わってきてしまいます。アンハッピーエンドは嫌いではないですが、ターミネーター3が伝えたいのは審判の日が訪れた人類の悲劇というメッセージではなかったはずでしょう。
★最後に
ターミネーター2の最後においてT-800の死に涙を見せた少年は確かに成長を遂げていました。
しかし、ターミネーター3ではすっかり落ちこぼれ、生活に破綻をきたしたジョンとして登場します。
なぜ、ジョンがそれでも抵抗軍のリーダーであらねばならないのか。他の人で代替が効かない理由は何故なのでしょう?運命だからでしょうか。
運命という答えは全てではありません。ジョンがこれまで未来から来たターミネーターたちと共に闘い、または敵として倒してきた経験やその闘いから得た精神的強さに裏打ちされた運命なのです。
それは、ジョンにしかないカリスマ性や精神力の強さにつながっていきます。
その大役がジョンにしか任せられないわけを説得的に見せるために、やはり、ターミネーター3の結末にはもっとジョンの成長を感じられるものが欲しかったと思います。
【映画データ】
ターミネーター3
監督 ジョナサン・モストウ
出演 アーノルド・シュワルツネッガー,クリスタナ・ローケン,ニック・スタール,クレア・デーンズ
※レビュー部分はネタバレあり
『ターミネーター2』でのT-1000との死闘から10年後。母サラは既に他界し、ジョン・コナーは何をするでもなく、平和だが、生きる目的を見失ったかのような生活をしていた。
そこに送り込まれてきたのはT-X。スカイネットが送りこんできた、最新最強と言われるターミネーターであった。T-Xはジョン・コナーの未来の副官たちを抹殺し始める。
一方で、ジョンを守るために送られてきたのはT-850型ターミネーター。『ターミネーター2』のT-800の改良型である。以前の闘いで審判の日は回避できたはず、と驚くジョンにT-850は、「審判の日は回避不可能で、ただその日の到来を延ばすことができただけだ」と告げる。
T-Xの襲撃をT-850の助けによってどうにか回避し、幼なじみのケイトがジョンの副官であることを知ったジョンはケイトとT-850と共に逃避行をすることに。
ターミネーターシリーズ3作目。キャッチコピーは、「恐れるな、未来は変えられる」。
映画:ターミネーター3 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり
★アクションシーンの大迫力
アクションシーンのすごい迫力。クレーン車にヘリコプター、車はいくつスクラップにしたのでしょうか、圧倒的な物量とすさまじい爆発力で画面に迫って来ます。
ただ、あまり、どきどきしませんでした。なぜかな、と思って考えてみたところ、T-Xにその理由がありました。T-XはT-1000と違って、人の形にしか変化しないので、どこから現れるんだろうとか、知らず知らずのうちにもう近くにいるのではないだろうか、とか、いわゆる恐怖感がないのです。
なので、スリル感という意味では2作目に負けますが、アクションの破壊力や迫力は3作目に軍配が上がりますね。
シュワルツネッガーのアクションはこうでなくては、という爽快感を求めるなら、ターミネーター3は合格点でしょう。
★キャッチコピー「恐れるな、未来は変えられる」はウソ!?
「未来は変えられる」というキャッチコピーはウソでしょうか?
なぜなら、審判の日は回避不可能と説明され、実際に、『ターミネーター3』の結末では審判の日が訪れてしまうからです。
へ理屈を言うようですが、必ずしも矛盾ではないでしょう。自堕落な生活をしていたジョン・コナーの未来は変わったのかもしれません。
前作で、あれだけの経験をし、精神的成長を見せたはずのジョン・コナーが、すっかり自分を見失ってしまっているのにはあきれずにはいられませんが。
『ターミネーター』,『ターミネーター2』は未来の人類の指導者であるジョン・コナーを守り、審判の日を遅らせるための戦いだったのでしょうか。
『ターミネーター3』は前2作と違って、「審判の日」という未来は変えられないという前提のようですので、それに従ってレビューを書きます。
★ジョン・コナーの再生
この映画は、ジョン・コナーの再生の物語、ということでいいのでしょうか。結局、T-Xは倒したものの、審判の日は回避できませんでした。
ターミネーター3の始まりと終わりで変化したことは、
1, 人類全体としては審判の日を迎えたこと、
2, 無気力な生活をしていたジョン・コナーが抵抗軍のリーダーとしての素地を取り戻したこと、でしょう。
T2とT3の決定的な違いはここにあります。サラは自分の息子を守るため、ひいては人類の未来を守ろうとターミネーターと闘いました。
ターミネーター3でジョンが闘ったのは自分自身。それは未来で抵抗軍のリーダーであるはずの自分を、今の行き場を見失っている自分が受け止めるための闘いでした。
『ターミネーター』ではサラとカイルの男女の愛、そして『ターミネーター2』ではサラと息子ジョンの親子愛を描き、『ターミネーター3』ではジョンの自身との闘いを経た成長を描いたと理解すればいいのでしょう。
★ジョンの成長とは?
結末で抵抗軍のリーダーとして目覚めることを思わせるジョン・コナーですが、その精神的な成長とは具体的に何でしょうか。
最初、これはジョンの抵抗軍のリーダーとしての「覚醒」を描くドラマなのだと思いました。しかし、結果的には誤りでした。
彼は審判の日が回避できなかったこと、そして自らが抵抗軍のリーダーになることや、ケイトが未来の妻であることを「受け入れ」ます。
なぜなら、それは未来からきたT-850がジョンに告げたから。すなわち「運命」だからです。
ここで、ふと気が付くのです。
これは、ジョンの「覚醒」を描く映画ではなくて、ジョンの運命の「受容」を描く映画なのだと。
そして、ここにターミネーター3の致命傷になりかねないポイントがあるのです。
彼は終始受身です。自己の運命を変えようと闘う者ではない。
むしろ、未来の自分を知らされ、現在の自分との落差に葛藤しながらも未来のあるべき自分の姿を受け入れようと、今の自分と闘っているのです。
従って、ターミネーター3の世界観では、ジョンが精神的に成長し、T-Xを倒し、何よりも大切なことですが、ジョン自身に打ち勝っても、人類の未来が変わることはありません。
ジョンが現在の自堕落な生活を捨てて、指導者として成長し、人類の希望の星になろうが、それともジョンが現在の自堕落な生活を続けようが、人類に審判の日は訪れることに間違いはありません。
★アクション映画のドラマ性、そしてT3
アクション映画に何を求めるかはひとそれぞれ。
とにかくド派手なアクションで、すっきり爽快感を求めるもよし、ですが、私はアクション映画にはそのアクションシーンを支えるドラマがしっかり描かれていることが大事だと思います。
人間ドラマがない映画は観たことすら忘れてしまう印象の薄い作品になってしまいます。
なぜ、人は戦うのでしょうか。
そこには信念なり、守るべきものなりがあるからでしょう。命をかけて闘うからには何らかの理由があるはず。そこに観客が共感するからこそ、感動が生まれ、闘う者に対するエールが贈られるわけです。
ではターミネーター3にそのドラマ性があったか。
基本的に、ジョンの成長を描くという方向性は間違っていなかったと思います。
審判の日は避けられず、いずれ訪れるという運命の不可変論を前提に、ジョンの精神的な成長を描くという方針はいいでしょう。
自分の行くべき道を見出せず、葛藤する時期は誰にでもあるはず。悩んで、もがいてようやく自分の道を見出していくものです。
その意味では、興味深いドラマを造り出すことは可能だったでしょう。
しかし、結論から言ってしまうと、T3はドラマ性の面では失敗しています。
審判の日という運命が不可変である以上、人類の希望となるべく、ジョンはジョン自身と闘ってなんとか現在の自分を脱皮しなくてはならないのです。
しかしながら、前述のようにこれはジョンの運命「受容」のドラマなので、ジョンはT-850に言われた未来の自分をさしたる疑問も持たずに次々に受け入れていきます。
でもそんなことって、あるでしょうか。
将来の抵抗軍の指導者たる自分と妻はケイトという未来をT-850に言われただけで受け入れるなどということが。
T-850に告げられた未来に驚き、T-850と多少言い争う程度で既成事実としてさっさと受け入れてしまう主人公には共感が持てません。
ほとんどの人間が死ぬ審判の日にジョンは生き残り、、ケイトと結婚し、人類抵抗軍のリーダーになる、という未来にはジョンにとって悲観すべき要素はほとんどありません。
しかし、その未来と引換えにジョンは人類の未来に対する大きな責任を背負うことになります。
そこで、製作者が丁寧に描くべきは、ジョンが精神的成長を遂げ、人類の未来を任される重圧に耐える精神力と責任感を身につける過程でした。
ところが、それがほとんど描写されていないので、ターミネーター3の結末においてジョンが抵抗軍の指導者として精神的に成長したということを観客に説得できませんでした。
ターミネーター3の冒頭で荒れた生活ぶりをしていたジョンが、映画の最後には指導者の器にまで成長した、と観客を納得させることに失敗しています。
★ラストシーン
最後のシーンでジョンは、核シェルターで各地から寄せられる通信に躊躇しながら応じています。それでジョンがスカイネットと人間との戦闘の指揮を取り始めるのだな、ということが分かるシーンです。
ここでも、ジョンがそこにいるから通信が来たわけではなく、国の建設した核シェルターだから通信が来たわけです。
しかも、なぜ、ジョンがそのシェルターにいるかというと、ケイトの父に騙されて行かされたから。
最後の最後まで受け身の姿勢で、たまたまそこにいたという偶然に助けられる主人公。これも、定められた運命のなせる業、ということでしょうか?
ジョンが審判の日を生き延びた者からの通信に迷いながら応答するシーンは特に残念としかいいようがありません。この後に及んで、まだ覚悟ができていなかったのでしょうか。
せめて、最初に入ってきた通信に確たる意思を持った返答をするか、もっといえば、騙されてシェルターに行くのではなく、生き残った者たちの指揮を執るために、核シェルターに自ら望んで向かう、くらいの気概と意思を見せる流れであるべきでしょう。
そうでなければ、ジョンが抵抗軍の指導者たる資格を持つにふさわしい者に成長したのだというメッセージがいまいち伝わって来ません。
最初に述べたように、ターミネーター3ではどうあがいても、最後の審判の日は来ます。多くの市民が死亡する一大惨事が起きるという終末を迎えるわけです。
悲惨なラストである中での、唯一の希望はジョンが抵抗軍の指導者として立ち上がること。そのジョンの精神的成長を十分に描かずして、一体何を見ろというのでしょうか。
この部分の描写が不十分なために、ターミネーター3ではその結末の重さだけが伝わってきてしまいます。アンハッピーエンドは嫌いではないですが、ターミネーター3が伝えたいのは審判の日が訪れた人類の悲劇というメッセージではなかったはずでしょう。
★最後に
ターミネーター2の最後においてT-800の死に涙を見せた少年は確かに成長を遂げていました。
しかし、ターミネーター3ではすっかり落ちこぼれ、生活に破綻をきたしたジョンとして登場します。
なぜ、ジョンがそれでも抵抗軍のリーダーであらねばならないのか。他の人で代替が効かない理由は何故なのでしょう?運命だからでしょうか。
運命という答えは全てではありません。ジョンがこれまで未来から来たターミネーターたちと共に闘い、または敵として倒してきた経験やその闘いから得た精神的強さに裏打ちされた運命なのです。
それは、ジョンにしかないカリスマ性や精神力の強さにつながっていきます。
その大役がジョンにしか任せられないわけを説得的に見せるために、やはり、ターミネーター3の結末にはもっとジョンの成長を感じられるものが欲しかったと思います。
【映画データ】
ターミネーター3
監督 ジョナサン・モストウ
出演 アーノルド・シュワルツネッガー,クリスタナ・ローケン,ニック・スタール,クレア・デーンズ