映画:ハンバーガー・ヒル あらすじ
※レビュー部分はネタバレあり

ハンバーガー・ヒル↑交戦終了日の翌日に撮影した写真。937高地の頂上で休むアメリカ軍兵士たち。1969年5月21日。AP通信撮影。.jpgハンバーガー・ヒル↑日本版映画ポスター.jpg

ハンバーガー・ヒル.jpgスクリーミング・イーグル(叫ぶ鷲)。第101空挺師団の通称名。.png

ハンバーガー・ヒル↑英語版VHSジャケット。.jpgハンバーガー・ヒル↑↑攻撃開始9日目。急斜面を滑り.jpg


 挽き肉にされてしまうほどの激しい戦闘。アメリカ軍第101空挺師団は937高地、"ハンバーガー・ヒル"を奪取しようと激烈な戦いを繰り広げた。時は1969年5月10日。南ベトナムのエイショウ・バレーで10日間に及ぶ途絶な戦闘が行われた。

 第101空挺師団といえば、第2次世界大戦のノルマンディー上陸作戦、バルジの戦いなど、華々しい戦歴で知られるアメリカ陸軍の精鋭部隊だ。ベトナム戦争でも、全部隊が派遣され、各地で任務に就いた。

 その中でも熾烈を極めた悲惨な戦闘といわれるのが、「ハンバーガー・ヒルの戦い」。第101空挺師団は最終的に目標を攻略し、勝利したものの、10日間の戦闘で死者70人以上を出すという甚大な損害を被り、この戦闘はベトナム戦争の方向性を決定づけた。

 「ハンバーガー・ヒルの戦い」を境に、アメリカ国民には一層、厭戦感情が高まり、有力政治家からも、ハンバーガー・ヒルの戦いを非難する声明が発表され、ベトナム戦争での作戦規模の縮小を要求する声も出るようになっていく。

 これを受け、アメリカ軍は大規模な攻撃作戦により慎重な態度をとるようになり、結局、「ハンバーガー・ヒルの戦い」はベトナム戦争最後の激戦と言われるようになった。

 第101空挺師団に所属する兵士たちはよく戦ったのだ。何のために ? それはハンバーガー・ヒルを奪取するために。ハンバーガー・ヒルを奪取するのは何のため ? それは、ベトナム戦争に勝利するために。

 では、ベトナム戦争に勝利するのは何のため ?

 目的を見失った戦争を戦うことほど、辛いことはない。雨あられと降りそそぐ銃弾の前に次々と仲間が倒れていく中で、彼らは一体何を見たのか。

 第101空挺師団187連隊B中隊の一小隊に焦点を当て、生死の境を生きた10日間を描く。

【タイトル下部の写真の説明】
(左上)
左:交戦終了日翌日、頂上で休憩する第101空挺師団の兵士たち。
右:日本版映画ポスター。
(中央)
左:アメリカ国旗
右:第101空挺師団の師団章であり、通称でもあるスクリーミング・イーグル(叫ぶ鷲)。
(右下)
左:英語版VHSジャケット。
右:攻撃開始9日目、937高地の急斜面を滑り降りてくる兵士。このあたりから頂上付近を攻めあぐねる膠着状態が続くことになる。 

【映画データ】
ハンバーガー・ヒル
1987年・アメリカ
監督 ジョン・アーヴィン
出演 ディラン・マクダーモット,ドン・チードル,マイケル・ドーラン,アンソニー・バリル,ドン・ジェームズ

ハンバーガー・ヒル↑交戦終了当日の写真。樹.jpg

↑交戦終了当日の写真。樹木が見事に燃え尽きているのが分かる。これは937高地の頂上付近。1969年5月20日。攻撃に参加していたアメリカ軍兵士が撮影。

【ベトナム戦争ってなに?】
(以下の説明は「プラトーン」で使ったものの改訂版です)

 現在のベトナムは「ベトナム社会主義共和国」という1つの国です。しかし、1976年までは南と北の2つに分かれて戦争をしていました。それがベトナム戦争です。

 当時は冷戦の真っただ中で、資本主義VS.共産主義の対立が激しかったことも頭に入れておいてください。つまり、アメリカVS.ソ連の対立です。

 ホー・チ・ミンが建国した社会主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)。これを認めないアメリカを始めとした資本主義国がベトナム南部にベトナム共和国(南ベトナム)を作りました。

 そして、南ベトナム政府をアメリカを中心とした資本主義陣営が支援し、北ベトナムをソ連・中国を中心とする共産主義陣営が支援しました。結果、1960年前後から1975年に南ベトナムの首都サイゴンが陥落するまで戦争が続きました。

ハンバーガー・ヒル12.bmp

↑ベトナム戦争交戦国の概念図


 アメリカ軍は1956年ごろから小規模に関与。1961年に当時のケネディ大統領が軍事顧問団を派遣。1962年までには本格的な増派がされました。「ハンバーガー・ヒル」の戦いは1969年5月10日から10日間。そして、1973年に撤兵が完了。約11年、戦争に本格的に参加していたわけです。

 その後も、1975年のサイゴン陥落・敗戦まで軍事顧問団を派遣して南ベトナム政府に関与しました。アメリカは結局、5万8000名の戦死者を出しました。これは派兵された数の約1割強の人数です。ベトナム側は南北を合わせて100万から300万人の人が死亡したといわれています。正確な人数は分かっていません。

ハンバーガー・ヒル↑見通しが効かないほどの激しい暴風雨の中、負.jpg

↑見通しが効かないほどの激しい暴風雨の中、負傷した第101空挺師団の兵士を支えて後退させる2人の衛生兵たち。1969年5月。(AP通信)

映画:ハンバーガー・ヒル 解説とレビュー
※以下、ネタバレあり

★「ハンバーガー・ヒル」あらすじ - 10日間の激戦 -

 第101空挺師団第3旅団187連隊第3大隊のB(ブラボー)中隊は新兵を迎えていた。戦死や負傷で失った人員を埋めるため、アメリカから送られてきた実戦経験のない新兵を新しい仲間として受け入れるのだ。

 その一方、第101空挺師団は激戦が予想されるエイショウ・バレーへの配属が決定していた。新兵のミスはときに命取りとなり、隊全体を危険にさらす。「生きて帰りたければ先輩の言うことを聞け!」と祖国の家族に書く手紙の書き方や歯の磨き方からジャングルでの野戦の心得まで新兵指導が行われるのだった。

 ベテランの兵士たちはエイショウ・バレーの悲惨さを知っているから、内心、あの場所には戻りたくない。皆の士気はあがらず、低調なままだったが、ついに1965年5月10日を迎える。この日から地獄の10日間が始まった。

 B中隊はヘリでエイショウ・バレーまで運ばれ、到着した途端に容赦ない銃撃戦が始まる。彼らは航空支援を受け、ジャングルの中を進んでいった。激しい空爆で、ジャングルに巨大な火柱が次々と上がり、まるで火の壁が出現したように見えるほどだ。北ベトナム側のゲリラ軍兵士との銃撃戦にとどまらず、取っ組み合い、ナイフをかざしての接近戦になることもあった。

ハンバーガー・ヒル↑攻撃開始1日目。進撃する第101空挺師団の兵士たち。1969年5月10日。.jpg

↑攻撃開始初日。進撃する第101空挺師団の兵士たち。1969年5月10日。


ハンバーガー・ヒル↑攻撃開始初日。進撃する第101空挺師団の兵士たち。1969年5月10日。2.jpg

↑攻撃開始初日。進撃する第101空挺師団の兵士たち。1969年5月10日。


ハンバーガー・ヒル↑攻撃開始2日目。ジャングルの中を進軍する第101空挺師団の兵士たち。1969年5月11日。.jpg

↑攻撃開始2日目。ジャングルの中を進軍する第101空挺師団の兵士たち。1969年5月11日。


ハンバーガー・ヒル↑攻撃開始2日目。中央の兵士は手りゅう弾を投げようとしている。1969年5月11日。.jpg

↑攻撃開始2日目。中央の兵士は手りゅう弾を投げようとしている。1969年5月11日。


ハンバーガー・ヒル↑攻撃開始3日目。あちらこちらで負傷者の応急手当てがされている。1969年5月12日。.jpg

↑攻撃開始3日目。あちらこちらで負傷者の応急手当てがされている。1969年5月12日。


 攻撃が始まって4日もすると、見るからに隊の人数が激減。B中隊には補充兵がよこされることになった。5日目、補充兵を迎えた隊は再び、ジャングルを進軍していった。北ベトナム軍との激しい銃撃戦が一段落したころ、ヘリの音が聞こえてくる。次の瞬間、ヘリから激しい機銃掃射が始まった。次々に仲間が倒れていく。敵兵と誤認されたのだった。

ハンバーガー・ヒル↑攻撃開始4日目。沼地をほふく前進で進撃する第101空挺師団の兵士たち。1969年5月13日。.jpg

↑攻撃開始4日目。沼地をほふく前進で進撃する第101空挺師団の兵士たち。1969年5月13日。


ハンバーガー・ヒル,攻撃開始5日目。上部からの攻撃をまともに受け、前進が苦しい。1969年5月14日。.jpg

↑攻撃開始5日目。上部からの攻撃をまともに受け、前進が苦しい。1969年5月14日。


 攻撃を始めて8日目。この日からは、937高地頂上部の攻略だ。敵は台地の上にいて、下にいるアメリカ軍を見おろす位置から銃撃してくる。しかも、むき出しの台地には木がほとんどなく、隠れる場所がない。前進することができず、次々に仲間が死傷していった。しびれを切らした司令部からは「攻撃が手ぬるい、なぜ手こずる !? 」と無線が入ってくる。

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↑937高地頂上部付近のアメリカ軍・北ベトナム軍配置図


 しかし、アメリカ軍は下から敵を見上げるようにして戦うことになるため、形勢が不利だった。少し登っても、撃たれてずり落ち、胸まで泥のぬかるみに浸かる。ジャングルと泥、そして銃撃。全てが兵士の敵だった。

 この日、B中隊の衛生兵が死んだ。長く小隊に属し、共に闘ってきた古参兵だった。ついに、この日、937高地の攻略をすることはできず、攻撃は失敗し、アメリカ軍は一時後退を余儀なくされた。

ハンバーガー・ヒル↑攻撃開始9日目。937高地の頂上を目.bmp

↑攻撃開始9日目。937高地の頂上を目指して攻撃する第101空挺師団の兵士たち。この日の攻撃は失敗する。1969年5月18日。(AP通信)

ハンバーガー・ヒル↑攻撃開始9日目。937高地の頂上を目指して攻撃する第10.jpg

↑攻撃開始9日目。937高地の頂上を目指して攻撃する第101空挺師団の兵士たち。横の兵士が負傷もしくは死亡している。この日の攻撃は失敗する。1969年5月18日。

ハンバーガー・ヒル

↑攻撃開始10日目。937高地の頂上を目指して攻撃する第101空挺師団の兵士たち。手前の兵士の軍服にスクリーミング・イーグルの袖章が見える。この日の攻撃は失敗する。1969年5月19日。

 そのまま膠着状態。そして11日目の5月20日。

 総攻撃がかけられ、激しい銃撃戦のなか、アメリカ軍兵士が一気に台地の上に向かって突撃した。援護射撃は同士討ちもいとわず行われる激しいものになった。銃弾が雨あられと飛び交う中で、兵士たちは頂上を目指して泥で滑る台地を必死に登っていった。

 腕を吹き飛ばされ、意識がもうろうとしながら同じ内容を繰り返し無線に話し続けている者、目をやられ、空をかくようにして手を振り回す者。文字通りの地獄絵図だった。

 そんな中、血だらけになり、傷だらけになって隊の仲間のところに帰ってきた仲間がばったり倒れて絶命した。彼らが一緒にいたはずのもう1人の兵士を探しに行くと、深いたて穴の中で尖った竹に突き刺さって絶命している。敵の仕掛けた罠にかかったのだった。

 ハンバーガー・ヒルを制圧したのはアメリカ軍だった。補給路を断たれ、台地の上に孤立していた北ベトナム側の兵士は最終的にアメリカ軍に屈したのだ。しかし、アメリカ軍の犠牲はあまりにも大きかった。結局、行動を共にした第101空挺師団B中隊の仲間の兵士14名のうち、3名しか生還することはできなかったのだった。誰かが1枚の紙に"HAMBURGER HILL"と書いて木に打ち付けた。

ハンバーガー・ヒル↑攻撃最終日。右の兵士が手をつ.jpg

↑攻撃最終日。右の兵士が手をついて上っていることからも937高地が急斜面であることが分かる。1969年5月20日。

ハンバーガー・ヒル

↑攻撃最終日。交戦終了直後の937高地の頂上。10日間の激戦を戦い終えた後の第101空挺師団の兵士たち。1969年5月20日。(AP通信)

★たどり着いた頂上

 やっとの思いでたどり着いたハンバーガー・ヒルの頂上。木に打ち付けられた"HAMBURGER HILL"の貼り紙に、さらに、誰かがこう、書き加えます。"Was it worth it ? "この戦いに何の価値があったのか ?

 この戦いでは誰もが一度は死にかけました。937高地に、ここまでの犠牲を払う価値が本当にあったのか。果たして、仲間の死や負傷に価値はあったのか。

 誰も何も分からないまま戦い、B中隊の所属する連隊は60%を越える兵士を失ってしまいました。これは、攻撃に参加したアメリカ軍の中で、最高の損失率でした。

 映画には描かれていませんでしたが、937高地の頂上を目指した再度の攻撃に参加することを拒否した兵士もいたと当時のB中隊の兵士が証言しています。「士気が低かったんだ…それまでなかったくらいにね。それくらい皆、このハンバーガーヒルに本当に価値があるのか、まったく意味なんてないじゃないかって思っていた」。

 ある部隊では、937高地の頂上から降りそそぐ手りゅう弾の嵐に部下の兵士たちがすっかり怯えきってしまい、進撃が滞りました。そのとき、その隊の指揮官は部下に、「俺たちは兵士なんだ、だから仕事をしよう」と言って、進撃させたと言います。(原文 :"we are soldiers, and we have to do our job.")彼は作戦終了後、こう語っています。「俺も怖かったし、皆も怖がっていた。でも戦闘に戻るしかなかったんだ」。

 統制のとれない指揮、北ベトナム軍の戦力を読み誤り、無謀とも言える戦いを強いた司令部。当初、937高地の威力偵察程度に考えていた司令部には具体的な作戦などないも同然でした。

 北ベトナム側の予想外の激しい抵抗を受けた結果、指揮系統は混乱し、現場の小隊指揮官が独自に判断して攻撃。各隊の連携が取れず、それぞれに攻撃と撤退を繰り返し、犠牲は増加していきます。また、現場の判断でそれぞれに航空支援を繰り返し要請したため、近くにいた別のアメリカ軍部隊を誤爆してしまうという悲劇が頻発。

 さらに、狭い地域で、あまりに頻繁に航空支援要請を繰り返したために、余計に誤爆のリスクが増してしまいました。激しい空爆は937高地をハゲ山にしてしまったほどです。結局、ハンバーガーヒルの戦いでは、アメリカ軍は10日間で72人の死者と372人の負傷者を出しました。

 映画中に、攻めよどむアメリカ軍をなじる無線が司令部から入る場面がありました。実際にも、なかなか攻めきることのできない配下の兵士に上層部は苛立っていました。攻撃が長引き、兵士の損失が増大にするにつれて、アメリカ国内ではハンバーガー・ヒルの戦いを非難する世論が高まっていたからです。

ハンバーガー・ヒル↑交戦終了日の1日前、アメリカ軍が937高地の頂上付近まで来.jpg

↑交戦終了日の1日前、アメリカ軍が937高地の頂上付近まで来ていることを一面で報じる新聞。見出しでは、937高地をハンバーガー・ヒルではなく、ブラッディ・ヒル(血まみれの丘)と呼んでいる。1969年5月19日。コロンブス・イブニング・ディスパッチ紙。

ハンバーガー・ヒル↑アメリカ軍第101空挺師団が937高地の奪取に失敗したことを一面で報じる新聞。1969年5月20日付コロンブス・イブニング・ディスパッチ紙。.jpg

↑アメリカ軍第101空挺師団が937高地の奪取に失敗したことを一面で報じる新聞。1969年5月20日付コロンブス・イブニング・ディスパッチ紙。

ハンバーガー・ヒル↑交戦終了日の翌日、ハンバーガー・.jpg

↑交戦終了日の翌日、ハンバーガー・ヒルでの勝利を一面で伝えるオハイオ州のコロンブス・イブニング・ディスパッチ新聞。写真はAP通信のものを使っている。1969年5月21日。

 ジョゼフ・コンミー大佐はこの映画の軍事コンサルタントとして迎えられていますが、彼は第101空挺師団第3旅団長として、ハンバーガー・ヒルの戦いの指揮を執った人物の一人です。確たる作戦もなく、本格的な戦闘に突入し、兵士に多大な犠牲を強いた司令部には大きな責任があるといっても間違いではないでしょう。

 攻撃終了直後に、第101空挺師団の師団長メルヴィン・ザイス少将は、「なぜ、937高地の攻略をしたのか」、とたずねられて、「エイショウ・バレー全体の北ベトナム軍掃討作戦を第101空挺師団が任されていたから、937高地を攻略したまでだ」、と答えています。実際のところ、937高地は北ベトナム軍が陣取っているという以外には攻略価値の薄い場所であり、空爆でも足りたのではないかと一般には評価されています。

 なお、ハンバーガー・ヒルと書いた紙が木の幹に貼り付けられたのは事実です。タイム誌の当時のベトナム特派員はアメリカ軍のヘルメットが転がり、血に染まったアメリカ軍兵士の上着が散乱する交戦終了直後の937高地を訪れ、この貼り紙を見ています。

 彼の報告によると、一本の木の幹に、1枚のカードボードが第101空挺師団の黒いネッカチーフとともに、アーミーナイフで留められていました。一人の兵士が"HAMBURGER HILL"と書き、後で他の兵士が"Was it worth it ? "と書き加えたようです。この"HAMBURGER HILL"のボードは1枚ではなく、複数枚あったようで、写真も複数のパターンを映したものが残っています。

ハンバーガー・ヒル↑937高地の頂上にアーミーナイフで打ち付けられたHAMBURGER HILLの貼り紙。黒い布は第101空挺師団のネッカチーフ。.jpg

↑937高地の木にアーミーナイフで打ち付けられた"HAMBURGER HILL"の貼り紙。黒い布は第101空挺師団のネッカチーフ。


★貧困と人種差別と徴兵逃れと反戦運動

 ハンバーガー・ヒルに軍事戦略的価値があったのか、払った犠牲に比しても、攻略すべき場所だったのか。その答えが得られない無謀な戦いを強いられたアメリカ軍兵士たち、そして、無能な司令部。

 しかし、この映画が提起する問題はそれだけではありません。貧困、人種、反戦運動。そして、メディアの報道。兵士たちが戦いに意味を見いだせず、ハンバーガー・ヒルの苦しい戦いに苦悩するのは、この作戦が無謀だからというだけではありません。ベトナム戦争そのものに対して疑問を抱かざるを得ないからです。

 目の前の戦いのみならず、戦争そのものに対して、祖国アメリカで強烈な反発が起きているという現実は命をかけて戦っている兵士たちに迷いと強い疑いの念を生んでいました。最初期の反戦運動を支えたのは、徴兵を控えた若者たちです。そして、反戦運動と人種、貧困には強い関連がありました。

 経済的に豊かな者は大学へ進学して徴兵を逃れます。卒業まで徴兵が猶予される学生は、反戦運動の主役の1人でもありました。そして、経済的に豊かな者には白人が多かったのです。なお、ベトナム行きを逃れる方法には、非常勤の州兵となるか、本土勤務の兵士として徴兵されるという方法がありました。

 一方、お金のない人や黒人には経済的に苦しい人が多く、多額の学費を払うことができないので大学には進学できません。そうなれば、徴兵され、ベトナムに送られることになります。本土勤務を希望するにしても、当時本土勤務は数年待ちの人気ぶり。希望を出してもはねられ、ベトナムに送られました。

 今に続く、白人と黒人の経済格差。その差は現在も縮まってまいません。貧困率を見てみましょう。貧困率が高ければ高いほど、その人種には貧しい人が多いということです。それによると、白人は8%、黒人は24%ヒスパニック系20%アジア系10%となっています。黒人の貧困層は白人の3倍もの人数がいることが分かります(2006年アメリカ国勢調査局統計)。

 もうひとつ、統計を出しましょう。ホームレスの人数です。これによると、2005年、アメリカには75万4000人のホームレスがおり、うち、45%のホームレスが黒人です(アメリカ住宅都市開発省発表)。

 ホームレスになるということは基本的な生活手段すら失うほど、経済的に行き詰っているということ。ほぼ半数が黒人ということは、それだけ、黒人には貧しい人が多いということの証明にもなっています。

ハンバーガー・ヒル↑ベトナム戦争でマシンガンを撃つ黒人兵士。アメリカ軍撮影。イギリス・ダーウィッド戦争博物館所蔵。.jpg

↑マシンガンを撃つ黒人兵士。ベトナム戦争時の写真。アメリカ軍撮影。イギリス・ダーウィッド戦争博物館所蔵。

 1964年にようやく公民権法が制定されたばかり。ハンバーガー・ヒルの戦いは1969年のことです。このころは、まだまだ有色人種への風当たりは強かったのです。映画の冒頭で、エイショウ・バレーへの進撃を知らされた黒人兵士が司令部への転属を願い出ようとしますが、司令部には黒人は入れないと同僚に言われてあきらめる場面があります。

 これは全くのフィクションではありません。当時、黒人は士官にすら、なかなかなることができませんでした。そもそも、第2次世界大戦では白人との混成部隊すらなく、黒人のみの部隊でしか戦えなかったほどの扱いだったのです。

 また、「俺たちは黒人で学がないからベトナムに来た」と仲間に言う場面があります。これは黒人が大学に進学できない者が白人に比べて多くおり、結果、徴兵されてしまうという現実を自嘲気味に語っているのです。

 さらに、黒人兵士が死亡し、彼の親友だった黒人兵士がパニックになったとき、「つまらんことだ、忘れよう、つまらんことだ、忘れよう」と声を合わせて勇気づける場面がありました。しかし、この場面でも集まって勇気づけ、肩を組んで声を合わせているのは黒人兵士だけ。白人の兵士たちは遠巻きに彼らの様子を眺めています。このときの、どこか冷笑的な雰囲気は当時の人種感覚をよく表現しています。

ハンバーガー・ヒル↑攻撃開始10日目。苦痛に顔をゆがめる第101空挺師団の.bmp

↑攻撃開始10日目。苦痛に顔をゆがめる第101空挺師団の兵士。後方へ移送するヘリを待っている。1969年5月19日。(AP通信)


★メディアの功罪

 「ハンバーガー・ヒル」では、メディアのぶしつけな質問に苛立ちを見せる兵士たちの場面がありました。これだけ見ていると、メディアとはただネタを掴みたくてしかたがないハゲタカのような者たちで、ベトナム戦争の悲惨さを取り上げるばかり、反戦運動を煽った張本人というようにも見えます。

 しかし、メディアの取材によって、この途絶なハンバーガー・ヒルの戦いが本国アメリカに知らされたことも事実です。メディアの取材と報道、そしてそれに対するアメリカ国民の反応を恐れた司令部は、無計画な進撃から始まったこの戦いに本腰を入れ始めました。

 作戦を立て直し、苦戦する部隊の増援をし、バラバラに攻撃していた部隊間の連携強化に取りかかったのです。これを考えれば、単にメディアの報道が兵士の気持ちを考えない報道をして反戦気分を煽っているとんでもない報道であるとは言えないでしょう。

 また、ベトナム戦争の過酷な実態をメディアに知らされた国民が、毎日のようにテレビで流されるアメリカ軍兵士の流血騒ぎにいい加減嫌気が差してしまい、結果的に反戦の機運が盛り上がったことも間違いではありません。

 しかしながら、そんなメディアの報道が一方的に悪い、といえるでしょうか。

 確かに、戦場で戦う兵士たちにとって、激化するメディアの戦争報道は決して面白いものではなかったでしょう。しかし、その兵士の感情と、戦争報道そのものの価値はイコールで考えることはできません。

 「ハンバーガー・ヒル」で描かれたような無遠慮な記者の取材手法は確かに問題があるかもしれません。しかし、戦争報道の手法の問題と、戦争報道をすることそのものの価値は分けて考えるべきです。

 ベトナム戦争以降、メディアの力に恐れをなしたアメリカ政府はこれ以降の戦争、例えば湾岸戦争での自由取材を一切拒否するようになります。これにより、アメリカ兵の死体が堂々とテレビに登場することはなくなり、メディアは国防総省発表の垂れ流し状態になりました。

 取材制限をされたメディアにとって国防総省の記者会見は数少ない取材の場となったのです。このあたりの事情は「スリー・キングス」という湾岸戦争を扱った秀作にちらりと描かれています。

 ベトナム戦争のときのメディアについて、その報道手法は批判されるべきかもしれませんが、政府の発表に現れない事実を報道しようとしたメディアの姿勢は総体として評価されるべきです。

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↑937高地の最後の攻撃で負傷し、ヘリで後送されてきた第101空挺師団の兵士。衛生兵に両脇から支えられている中央の兵士が負傷者。1969年5月20日。(AP通信)

★「アメリカ人の戦争」と「アメリカ兵の戦争」、そのかい離

 本国で高まる反戦運動の波。アメリカ人からの支持を失ったベトナム戦争を戦う兵士たちは、北ベトナム軍と戦うのみならず、精神的にも激しい葛藤を強いられました。

 アメリカの戦争には2種類あります。「アメリカ人の戦争」と「アメリカ軍兵士の戦争」です。「アメリカ軍兵士の戦争」は兵士たちが命じられた戦争を遂行し、アメリカに勝利をもたらすべく戦う戦争。この定義はいつの時代も変わりません。

 一方、「アメリカ人の戦争」。これはアメリカ人の支持を受ける戦争のこと。これは「アメリカ軍兵士の戦争」と違い、時の流れによって内容が変化することがあります。ベトナム戦争はその良い例。

 開戦時70%以上の戦争支持率を誇ったベトナム戦争でしたが、1968年3月には50%近くがベトナム戦争は間違いだったと回答しています。ベトナム戦争は当初、「アメリカ人の戦争」でした。しかし、あっという間に国民からの支持を失い、「アメリカ人の戦争」の定義から外れる戦争へと変質していきます。

 ベトナム戦争は「アメリカ人の戦争」と「アメリカ軍兵士の戦争」、この2つの戦争が見事にかい離してしまった戦争でした。参戦当初は、ベトナム戦争は確かに「アメリカ人の戦争」でした。しかし、時間の流れはアメリカ人の意識を変え、ベトナム戦争は「アメリカ人の戦争」ではなくなってしまったのです。

 映画中、ガールフレンドから"戦争を支持したくないから手紙を書かない"という手紙を受け取った兵士がショックを受けている場面があります。また、アメリカ本国で盛りあがる反戦運動の熱気ととベトナム戦地で戦うアメリカ軍兵士の差を強く感じ、「俺たちはのけ者さ」と語る兵士たち。そして、一時帰国した兵士は、帰国したときの話を仲間に語ります。

 彼は、久々に会った家族の平和な空気になじめず、すぐに行きつけの酒場に行ってしまったことを話し、そして酒場の主人の息子がベトナムで戦死したことを知ったといいます。さらに、彼は、その息子の戦死を反戦運動をしている学生たちが聞きつけ、「ベトナムで殺されていい気味だ」とバーに電話してくるんだと語っていました。

 祖国ではベトナム戦争にアメリカが参戦していること自体に非難が集まるのみならず、そのような"間違った戦争"を戦っているアメリカ軍兵士にも、一部の人の冷たい視線が向けられていました。

 一方、兵士たちは兵士としての任務でベトナムに来ている以上、上官の命令に従い、アメリカのためにベトナムのジャングルで日夜はいずり回り、生きるか死ぬかの戦いをし続けるしかありません。

ハンバーガー・ヒル↑衛生兵に応急手当てをされている第101空挺.bmp

↑衛生兵に応急手当てをされている第101空挺師団の兵士。903高地の頂上を目指して攻撃した際に、手りゅう弾を浴び、顔面を負傷した。(AP通信)

★正しい戦争

 「アメリカ人の戦争」と「アメリカ軍兵士の戦争」の一体、どちらが正しいのか。アメリカ人の戦争では、最終的にベトナム戦争は間違いだったというように定義されました。となると、ベトナム戦争は意味のない、無益な戦争だったのでしょうか。

 「ハンバーガー・ヒル」の結末、「戦争が愚行であるといえるようになったとき、彼ら英雄を優しく抱きしめてやってほしい」(オドンネル少佐,1970年1月1日)というメッセージが出てきます。これはベトナム戦争を戦った兵士たち全員から、アメリカ国民に送るメッセージです。

 このメッセージは、ベトナム戦争が正しい戦争だったと主張しているわけではありません。「アメリカ人の戦争」から、ベトナム戦争が外れてしまったという事実は、それとして受け止め、それはそれでいいとしています。

 しかし、ベトナム戦争が「愚行」だったと評価されていることを認めたうえで、それでも、その戦争に命を賭けた若者たちがいたことを忘れないでほしい、ということ。「愚行」とされた戦争の中には、確かに「アメリカ軍兵士の戦争」があり、命をかけて戦ったたくさんの若い命があったのだということを忘れないでほしいというメッセージなのです。

 ベトナム戦争に行ったこともない学生が反戦運動をするのは生意気だとか、ベトナム戦争を必死に戦っている恋人がいるのに、それを見捨ててしまったガールフレンドは薄情すぎるとか、そういう問題ではありません。

 ハンバーガー・ヒルが提起するのはもっと本質的な問題です。

 どうしてベトナム戦争に突き進んでいったのか、どうして、この戦争が「愚行」と称されることになったのか、どうしてアメリカ人が当初想定した「アメリカ人の戦争」から外れていってしまったのか。

 ベトナム戦争は失敗だった。そして、勇敢に戦った兵士がいた。それだけで終わってしまっては第2、第3の"ベトナム戦争"を生み出すことになるでしょう。アメリカ人はそのときも、再び、「アメリカ人の戦争」の定義を変え、「アメリカ軍兵士の戦争」と分離させてしまうのでしょうか。

ハンバーガー・ヒル↑攻撃開始2日目。倒れた仲間の手当てをしようとする第101空挺師団の衛生兵。1969年5月11日。.jpg

↑攻撃開始2日目。倒れた兵士の手当てをしようとする第101空挺師団の衛生兵。1969年5月11日。


★「アメリカ人の戦争」はアメリカ人が決める

 兵士たちは当初の「アメリカ人の戦争」の定義にそってベトナム戦争を必死に戦いました。その後に「アメリカ人の戦争」の定義が変わり、ベトナム戦争がその枠外に振り落とされたとしても、戦争は一度始めてしまったら、止めることは困難です。

 アメリカは世界で一番、政治力があり、経済力を有する国です。アメリカは何かにつけて、世界を動かす大きな力を持っています。そのアメリカが国際問題を解決するため、武力を行使したならば、必然的に勝者は決まってしまいます。アメリカにその矛先を向けられたとき、圧倒的な物量を有するアメリカに対して軍事力で勝ることのできる国は存在しないと言っていい。

 2003年、イラク戦争開戦時、アメリカ国民はイラク戦争を70%超の高支持率を持って迎えました。しかし、2005年には55%のアメリカ国民がイラク戦争反対に回ってしまった。しかし、この支持率急落をもってアメリカ政府がイラクを放棄することはできません。また、それが戦争というものでもあります。

 戦争の意義を"破壊"にとどめず、その意義を"構築"にも求めるならば、やはりアメリカにはイラクに対する責任があります。世界を動かす「アメリカ人の戦争」はアメリカ人にしか、決めることはできません。アメリカの大統領が世界的な影響力を有するからといって、世界中の人がアメリカ大統領選挙に投票できるわけではないのです。世界はアメリカの戦争に翻弄されますが、世界に「アメリカ人の戦争」とは、を定義する権利はありません。

 そんな強大な力を持つアメリカにとっての問題は戦争に勝つか、負けるかということではありません。問題を軍事力で解決し、問題を引き起こすと思われた勢力を排除した後にアメリカは何ができるのか。戦争、そして"その後"についてまで、アメリカ人は「アメリカ人の戦争」として引き受ける用意はあるのか。ベトナム戦争、そして、イラク戦争にアフガニスタン。アメリカ人にはその覚悟が求められています。

ハンバーガー・ヒル ↑ハンバーガー・ヒルの頂上にあるバンカー。.jpg

↑ハンバーガー・ヒルの頂上に今も残る北ベトナム軍のバンカー。この平たいバンカーが空爆で破壊しきれなかったことも想定外だった。

参考資料:TIME誌「THE BATTLE FOR HAMBURGER HILL」1969年5月30日付