
《「この人生で君は望みを果たせたのか?」「果たせたとも。」「君は何を望んだのだ?」「”愛された者”と呼ばれ、愛されていると感じることだ。」/レイモンド・カーヴァー》
本作はまるで、現代版あるいはショービジネス版『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』のようだ。
チャーリー・チャップリンが「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。」と言ったように、本作は登場人物たちがシリアスな表情で悲劇に陥れば陥るほど、客観的に観ている我々観客の目にはどんどん喜劇に映ってくる。
同時に本作は、「役者」という不安定な職業に就いた者が陥る「不安」や「葛藤」などの心理を鋭くえぐり、我々観客はプレッシャーに押しつぶされそうな役者特有の「心の闇」にまで放り込まれ、スランプに陥った役者の息苦しい程に八方塞がりな感覚を「体感」させられる。
まるでテーマパークのアトラクション「ブロードウェイ舞台裏ライド」に120分間乗っているかのように。
本作の劇中映画スーパーヒーロー「バードマン」とそれを演じた役者である主人公の関係性は、人間の「エゴ」の犠牲になりつつある現代社会、育児や教育で親のエゴを押し付けられている子供たち、ハリウッドの頂点にいるような人気俳優と無名の演技派舞台役者との対比、世界的な企業に徹底管理されたエンターテインメントの世界、などの状況を痛烈に皮肉っている。
今や落ち目のハリウッド俳優である主人公は、かつては『バードマン』という《マーベル製アメコミヒーロー作品、あるいはDCコミックヒーローの様な》ブロックバスター映画で主役のスーパーヒーローを3作演じ、数十億ドルの興行収入を稼ぐほどのスター俳優だった。
だが、それ以降は全くヒットに恵まれず20年以上が経過し、60代となった今は家庭でも「離婚」や「娘との確執」などで私生活でも崖っぷちに立たされている。
世間からは「かつてバードマンを演じた俳優」というレッテルだけで認識され、その過去の栄光とは対照的に、彼の「心」は惨めな心理状態のまま残り少ない役者人生を送っている。
単なる「一発屋の落ちぶれた俳優」ではなく「アーティスト=役者」としての自分にアイデンティティを見いだそうとしながら自暴自棄になっている主人公。
彼は、レイモンド・カーヴァーの短編小説『愛について語るときに我々の語ること』に自らの希望を託し、役者として誰もが憧れる「ブロードウェイ進出」という無知で無謀な決断をする。
終わりに近づいた人生が過酷な状況であっても、なんとか彼は「挑戦する勇気」だけは忘れていないのだ。
父として役者としての「アイデンティティ」を見失っている主人公は、彼の娘と同じく精神状態が不安定になっていて、幻覚・幻聴に悩まされ「狂気」スレスレの危うさながらも、「もう一つの人格」に鼓舞されて再び公私共に人生を切り開こうと奮闘する。
だが、そう簡単に「人生のオスカー像」は彼に微笑まない・・・。
本作でアカデミー賞作品賞ほか4部門制覇という偉業を成し遂げ、映画史に残るほど世界中の映画祭で数々の賞を獲得したアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督。
彼が今まで撮ってきた傑作たち『アモーレス・ペロス』『21グラム』『バベル』は、複数の男女の人間ドラマを、時間軸を交差させ構成している。
イニャリトゥ監督が今まで創造してきた「時空間の断片化」という「映画本来の文法」を押し進めた手法とは正反対の方向性である本作は、ヒッチコックの『ロープ』やブライアン・デ・パルマの『スネークアイズ』のオープニングの様に、「永遠に続く時間」をヒリヒリと感じさせる「全編1カット長回し風」という前代未聞の仕掛けがある。
そう、本作は約120分間『GTA』や『スカイリム』や『フォールアウト』に代表される「オープンワールドゲーム」の様に、ほぼ全編シームレスにカメラが切り替わらず、手持ちカメラが延々と登場人物たちを追い続ける。
まるで120分で撮影された記録映像の様に、ブロードウェイの舞台上や、舞台裏や、タイムズスクエアの通りや、BARの中までもを途切れなくカメラが動き続け、その全てを淡々と記録し続ける。
それは小説に置き換えると「コンマやピリオド」の無い「ノンフィクション」の様な文章で、物語に内在するリズムや調和、繋がりが全く途切れないという「ドキュメンタリー」並の生々しい極限のリアリズムを生んでいる。
しかも「間延びした場面」や「退屈な場面」は一切無く、緊張感が途切れる場面は一瞬もない。
そこで我々観客は、人生は壮大な「全編1カット長回し」なのだ、という事実にも気付かされる。
その壮大な「人生の切り取り」のためにイニャリトゥ監督は、リハーサルや撮影を何度も重ねてリアリティを形作り、リアルタイムで進行し交差する「人々の運命」のリアリティラインを見つける。
「全編1カット長回し」は『ゼロ・グラビティ』でアルフォンソ・キュアロン監督が計画していたが実現には至らなかった程の、映画としてはとても困難な手法なのだ。
撮影開始の時点では完全に物語の細部に至るまで「全編1カット長回し」で構築されていたため、本作は余計なシーンが一切撮影されていない。
それゆえに後から編集でシーンの入れ替えなどの修正もできないため、俳優の演技からカメラワークまであらかじめ徹底的に計算されている。
セットの寸法や形、カット割り、各俳優の立ち位置、動く方向に至るまで事前にこと細かく決め、何一つミスがないように撮影したそうだ。
スタッフはもちろん、特に俳優にとっては相当なプレッシャーである「長回し」と「長セリフ」という二重のハンデは、本作のストーリーと同様に役者たちを非常にナーバスにさせた。
「芸術家になれない者が批評家になり、兵士になれない者が密告者になる。」
本作のストーリーと同様に、過去の栄光を跳ね除け「役者としての底力」を世界中に見せつけた主役のマイケル・キートンですら、一つのミスで全てが無駄になり、大勢のスタッフにも迷惑をかけてしまう本作の長回し撮影の連続には、精神的な負担が大きかったため、クランクアップまで緊張が途切れなかったそうだ。
娘役のエマ・ストーンは「失敗してはいけない」という強迫観念のあまり目が痙攣してしまい、ナオミ・ワッツは「過去最高の難度だった」と告白し、エドワード・ノートンは「命綱なしの綱渡りのようだった」と撮影後に語っている。
「全編1カット長回し風」の撮影は、「たった1つの小さな間違い」がその先の展開に大きく影響してしまうので、後から編集で誤魔化す事も全くできないのだが、絵コンテや脚本の段階で作品の骨格から細部に至るまでが「完成されていなければならない」という点は、まるでアニメーション作品のようでもある。
このような理由で、複雑な役者の動き、セリフのタイミング、カメラアングル、小道具の位置や動き、刻一刻と変わるライティングなど、全編のフローチャート全てを数ヶ月かけて計画し、タイムを計りながら撮影の仕方まで総合的に「分刻み」で入念に何度もリハーサルし、その全てを頭に入れた上で「即興のジャズ演奏」の様に撮影したそうだ。
ちなみに「即興のジャズ演奏」の様な撮影スタイルは、ジャズの大ファンであったピーター・セラーズとスタンリー・キューブリック監督が「ジャズのリフ奏法・アドリブ奏法」を演出・演技に取り入れて撮った『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』を(タイトルも含めて)彷彿とさせる。
このように、一つでも上手くいかないシーンがあれば全てが駄目になるという、一瞬一瞬の気が抜けない、まるで「舞台」と同じように「全スタッフ・全キャスト」が極限の緊張感に満ちた撮影現場だったのだ。
クランクアップ後、「編集」の余地は全く残されていないため、すでに出来上がっているフローチャート通りにフィルムを繋げるだけで、逆にその作業はたった2週間で終えたそうだ。
そのために、もちろん本作のBlu-ray&DVDには、特典映像として「未公開シーン」が存在していない。
イニャリトゥ監督は、本作でシリアス路線から一転「笑い」の要素にも挑戦し、見事オスカー受賞に輝いた。
前年の『ゼロ・グラビティ』のアルフォンソ・キュアロン監督と、2年連続でメキシコ人監督が世界の映画祭で数々の賞を総なめにした事になる。
そのアルフォンソ・キュアロン監督の『トゥモロー・ワールド』と『ゼロ・グラビティ』で「長回し撮影」に革命を起こし、本作の撮影も担当した「エマニュエル・ルベツキ」によると、本作が1回の長回しで撮影されたものだと観客に思わせるために、カメラワークと編集には非常に高度な技術を要したそうだ。
主役のマイケル・キートンは、1989年に世界的大ヒットで社会現象にまでなったティム・バートン監督版『バットマン』で「時の人」となった。
だがその後25年間は役者として伸び悩み、一時は俳優を引退する事を考えた事もあったそうだが、2014年に本作『バードマン』で全身全霊の役者魂を披露し、ハリウッドの第一線に再び返り咲き、さらに演技に磨きのかかった役者として大きく飛躍することとなる。
その25年の間、マイケル・キートンは同じく役者の道を選んだ息子に対し「準備しとかないと俺みたいになる。役者としての人生は険しく、脇道にそれる事もあれば、人気が落ちる事もある。逆に“時の人”になる事もある。役者とはそういう道のりだ。自分で選んだのだから、それで良いんだ。」と何度も言い聞かせていたそうだ。
まさに、その言葉どうりの人生を父親として自らが体現したのだ。
そして本作は、エゴと苦闘する役者の物語でもある。
人が何かを創造している時、「俺は天才だ、無敵だ」というポジティブさと、「俺は才能がない、駄目だ」というネガティブな感情が交互に襲ってくる。
それを本作で表現したとイニャリトゥ監督は語っている。
「鈍感力」という言葉がある様に、実は「頭が良い人」ほど、「考え過ぎ」「真面目過ぎ」「自分に厳し過ぎ」「人の目を気にし過ぎ」「固定観念に囚われ過ぎ」「失敗を恐れ過ぎ」・・・などの負のスパイラルに陥りやすい。
心理学的に見ても、人は多少は「無知」なほうが「心」にとってはとても良いのだ。
何事も「考え過ぎない」ほうが失敗を恐れず前進できて事態が好転する事は多々あるし、それ故に「無知がもたらす予期せぬ奇跡」が起こる事もある。
だが時に人生は、先を見据えて準備していないと八方塞がりになる場合もあるし、険しい道を歩む事も、脇道にそれる事も、一人ぼっちになる事も、どん底に落ちることも、もてはやされる事もある。
人生とはそういう道のりで、自分で選んだ道なのだから、それで良いのだと諦めがつくかもしれないし、悔やむかもしれない。
人生は、心に潜む自らの「エゴ」と、どう戦い、どう折り合いをつけるか、そしてどう「共存」するか、それで大きく変わる。
そして『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』という作品で脚色賞を受賞したグレアム・ムーアのスピーチには世界中が心を打たれた。
それは《16歳の時、僕は自殺しようとしました。自分は変わっている、変なヤツで居場所がないと感じたからです。でも僕は今ここにいます。だからこの機会に言いたい。自分は変わり者で居場所がないと思っている子供たちへ。その通りです。君たちは変わってる。でも、そのまま変わり者のままでいてほしい。そしていつか君が輝く番が来て、ここに立ったら、同じメッセージを次の子供たちへと伝えてほしい。》という力強いメッセージだった。
この大きな勇気をもらえるムーアの言葉は、偶然にも本作のテーマとリンクしていて、とても印象深い。
自分は、他人と同じでなくても良いのだ。
人は、心から「ありのままの自分」を愛することができて、そこで初めて心から「誰か」を愛することができる様になる。
そして『アモーレス・ペロス』で長編映画監督デビューした当時のイニャリトゥ監督の言葉も、ふと思い出される。
デビュー作でカンヌ国際映画祭の批評家週間部門、そして東京国際映画祭でグランプリを受賞したイニャリトゥ監督は、その作品を「亡くなった息子のために作った」と述べた。
「人は失ったもので形成される。人生は失うことの連続だ。失うことでなりたかった自分になるのではなく、本当の自分になれるのだ。」と・・・。
人生とは、クローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇だ。
悲劇と思ってネガティブになるか、喜劇と思ってポジティブに突き進むかは自分次第。
本作をきっかけに、自分の心の中に潜む「もう一人の自分」の、昨日までは不本意に思えていた「助言」に改めて耳を傾けるのも悪くないだろう。
悲喜交々の長い人生の終わりを迎えるとき、「”愛された者”と呼ばれ、愛されていると感じること」ができるのならば・・・。
《Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)》
「お前はヒーローだ。お前は飛べる。」