きみはいい子 | 愛すべき映画たちのメソッド☆

愛すべき映画たちのメソッド☆

映画感想家・心理カウンセラー・芸術家のNatsukiです☆

『映画にどんなに素晴らしいメッセージが含まれていようと
「娯楽性」がなければ作品としては失敗だ』/レオナルド・ディカプリオ



「僕が悪いんだよ。お父さんも僕のこと悪い子だって言うし。僕が悪い子だから、うちにはサンタさんが来ないんだ。どうしたらいい子になれるのかな・・・。」



新聞やニュースでは連日のように、親が子供を虐待死させる事件が報じられている・・・。

「しつけ」という理由で親が子供を、叩く、怒鳴る、否定する、無視する、育児放棄する、子供の言動に無関心、子供の「ありのまま」を認めない・・・など「児童虐待」は日本で社会問題となっている。

こういうケースが世界的に見ても特に日本は極めて多い国であり、その根本の理由も、未然に防ぐ防止策も、既に明らかにはなっているが、なかなか日本の家庭にまでは浸透していないのが現状だ。

そうやって厳しい環境で育てられた子供は十代くらいで「爆発」し、消極的・引きこもり・無気力で学校を中退したり、暴力・いじめ・非行・犯罪などの問題行動を起こしたり、大人になり結婚して子供を授かった時、同じように我が子を虐待する傾向にあり、親子代々「負の連鎖」が止まらなくなる。

生まれた家庭によって子供の人生が大きく違ってしまう不幸、それが今の日本の「見えにくい場所」で実際に起こっている。

毎日笑って暮らせている親子もいれば、毎日怒鳴ったり泣いたりしている親子もいる。

本当は、子供も、大人も、誰もが「認められたい」「褒められたい」「愛されたい」と切に願っているだけなのに・・・。

誰かが発する小さな小さな優しいひと言、ほんの少しの思いやりが、絶望の淵にいる子供と大人を照らす「希望」という光を生む。

人は、誰かによって傷つけられ、誰かによって救われる。



「あ、でももう学校の桜の木、切られちゃうのよね。花びらが散るとゴミが増えるって、近所の人に言われてんの。桜ヶ丘小学校なのにね。桜の花、ゴミだと思う?」



小説家で絵本や児童文学も手がける「中脇初枝」による坪田譲治文学賞受賞の同名連作短編集を、『そこのみにて光輝く』で世界の映画賞を総なめにした呉美保監督が映画化し、モスクワ国際映画祭コンペティション部門最優秀アジア映画賞を受賞した文部科学省特別選定作品。

育児放棄や虐待を「される側」だけでなく「する側」の心の問題にもスポットを当てた原作は、2010年の「大阪2幼児置き去り死事件」をきっかけに執筆された。

夕方5時までは帰ってくるなと言われ、雨の日も校庭にたたずむ生徒と新任教師との心の触れ合いを描く「サンタさんの来ない家」。

それぞれが内心「優劣」をつけ合い見下し合っている様な、気の抜けない「ママ友」たちが集まる公園で波風を立てないように過ごしながら、家では3歳の娘に虐待を重ねてしまう上に「ママ友たちも自分と同じように家では虐待をしているに違いない」と想像し虐待を自己肯定する反面、娘を真っ直ぐに愛せないことで自己嫌悪に陥っている母親を描く「べっぴんさん」。

通学路に面した家で過去の記憶と認知症の兆しにおびえながら暮らしている独居老女が、いつも丁寧に挨拶してくれる自閉症の男の子と交流し癒されていく「こんにちは、さようなら」。

この3編を原作から選択し、それらのエピソードを同時進行で描くという「映画的な構成」に再構築されている。

同じ街に住む「悩める他人たち」のオムニバスを『マグノリア』や『ショートカッツ』の様に長回しと固定ショットで編み上げた呉美保監督は、前作と同様に「生半可な気持ちでは描かない」という覚悟を持って本作に臨んだ。



「こんなに褒められるの初めてで・・・どこ行っても、謝ってばっかりで・・・ずっと二人だけでいると、自分の子供なのに・・・可愛いと思えない時もあって・・・すみません。」



学級崩壊にまでは至っていないが、まだ上手にクラスをまとめきれず、クレームばかり言うモンスターペアレントたちからの電話が絶えない新任の小学校教師を演じる『フィッシュストーリー』の高良健吾。

我が子との接し方や愛情表現が判らず「世間体」や「しつけ」などの強迫観念に囚われ、悩みながらも娘を日々虐待してしまう母を演じる『そして父になる』の尾野真千子。

明るい性格で笑顔が絶えず「子供目線」の育児を心掛けている優しいママ友を演じる『そこのみにて光輝く』の池脇千鶴。

まずは『そこのみにて光輝く』でも強烈な火花と熱演を見せた池脇千鶴と高橋和也が、本作では180度「別人」としか思えない豹変ぶりで、しかも裏設定では夫婦というサプライズがある。

本作の役作りの為に限界まで体重を増やしたという池脇千鶴の「デ・ニーロ・アプローチ」にも圧倒される。

『そして父になる』とは180度違う「母親」を映画的な立ち位置としての「悪役」的にサスペンス、スリラー映画の緊張感を軽く超える恐ろしさで演じた尾野真千子にも同じくとても驚かされる。

他にも、不安を抱えながら子育てする親のもろさを体現した富田靖子、過去の「記憶」に苦しめられながらも柔らかな声で温もりに包んでくれる喜多道枝、自閉症という難役を『レインマン』のダスティン・ホフマンに匹敵する演技力と言っても大げさじゃないくらいの高いレベルで披露する子役の加部亜門、みな究極のリアルさで言葉が見つからない。

本作は「いったいどうやって演出したのか」想像もつかないほど奇跡のような「現実感」「実在感」に溢れ、それ故に子を持つ親には観るのが辛い「ドキュメンタリー」級の真に迫った虐待場面や、子供たちの生き生きした描写が多々ある。

これら全ての要素が完璧に融合して素晴らしい化学反応を起こしているから余計に涙が止まらない。



「それと、さっき『小野くん』って言ってたけど、気をつけて、男女の差別なく、男子も女子も『さん』付け徹底すること、いい?」



親と子と教師のトライアングルには、数々の問題が山積みになっている。

子供の強さ、大人の弱さ。

愛情表現よりも「しつけ」を優先する親、モンスターペアレントとモンスターチルドレンの親子、まるで小学生版『桐島、部活やめるってよ』の様に水面下の「スクールカースト」で子供同士が階層化、「虐待」や「ネグレクト」の連鎖、それにより「傷ついた子供たち」が「いじめ」「不登校」「無気力」「嘘」など数々の問題行動を起こす仕組み、現代の日本の教育社会が抱える深刻で普遍的な問題、そして「救済」までもを、親、子供、教師、老女などの目線で「群像劇」として描いている。

監督の前作『そこのみにて光輝く』と同じく「傷ついた心」が救われるクライマックスで、主人公に温かい「陽の光」が初めて注がれるビジュアルも美しい。

そして、虐げられている子供たちの輝ける未来への突破口を開くために、自分の無力さを思い知らされながら背を向けた「あの日」と「同じ場所」で、大いなる決意を胸に鋭い目つきで「扉」の前に立ち、大きく深呼吸するラストショット。

暗転してエンドロールが始まる瞬間に「その後」を想像する余地が与えられ、あらゆる可能性を考えれば考えるほど心が揺さぶられ鳥肌が立つ。

一つの生命を育てるという「育児」。

生命の重みを感じながら「育児」を行うときに、ノープランでは絶対に無理なのだ。

最低でも「児童心理」の知識は必須である。

その「児童心理」を踏まえた場合、親は子供に「愛情表現」を欠かさず「自己肯定感」をできるだけたくさん持たせてあげなければいけない。

もしも、親から冷たくされ愛情をあまり感じれずにいたとしても、近所のおばあちゃんから「べっぴんさん、お帰り。」と言われただけで子供は幸せな気持ちになり、自己肯定感を持てるようになり、傷ついた心が癒される。

ちなみにこの「べっぴんさん、お帰り。」のエピソードは原作者の実体験が元になっている。



「しあわせ・・・。しあわせは、ばんごはんを食べて、おふろに入って、おふとんに入って、お母さんにおやすみを言ってもらう時のきもちです。」



日々虐待を受け続けている子供でも、決して親を嫌いにはならず、逆に「自分」を責めるようになる。

子供は、親無しには生きていけないと本能的に感じているし、親は「かけがえのない存在」に変わりはないから何をされてもずっと大好きなのだ。

だから「自己否定感」を持ってしまい自分を責めるようになる。

だが親は、子供を生んだから人格的に立派になるわけでも偉くなるわけでもない。

児童心理を紐解くと、親が子供の幼少期に「愛情」や「幸せ」や「笑顔」をどれほどあげれたか、それで子供の人格と性格と「生き方」が大きく変わるとされている。

そしてシンプルに、親が子を「抱きしめる」ことの大切さ。

本作には「大人が大人に抱きしめられる」という重要な場面がある。

それは「自分より下に見ていた人に、図らずも救われる」という、登場人物も観客もハッと硬直してしまうほど驚くべき瞬間。

それは『インファナル・アフェア』や『新しき世界』でマフィア組織に自分以外の潜入捜査官がもう一人いた事を知る場面の衝撃にも匹敵するくらいに目が覚める瞬間だ。

習慣も無く照れもあって「抱きしめる」という行為をほぼ行わない我々日本人が思っている以上に「ハグ」には素晴らしい「癒し」の効果がある。

「認められている」「受け入れられている」「褒められている」「愛されている」を言葉なしで一瞬で感じる事も伝える事もできる。

相手の「生命の温もり」を感じる事もできる。

新聞やニュースでは連日のように、親が子供を虐待死させる事件が報じられている・・・。

誰も口にしないが本当は、子供も、大人も、誰もが「認められたい」「受け入れられたい」「褒められたい」「愛されたい」と常に願っている。

そして、子供だって、大人だって、言われたいのだ。

「きみはいい子」と・・・。



「私があの子に優しくすれば、あの子も他人に優しくしてくれんの。だから、子供を可愛がれば、世界が平和になるわけ。ねえ母親って、すっごい仕事でしょ?」