今年は戦後70年、”戦前生まれ”、”戦後生まれ”という言葉も使われなくなりました。
1945年5月7日午前8時頃、約60機のB29が九州各地の飛行場を襲いました。
私の伯父は、屠龍(とりゅう)という二人乗りの戦闘機で交戦してましたが被弾し戦死しました。
24歳という若さでした。
もう少し早く日本が降伏していれば、いや、戦争さえなければ、たくさんの尊い命を失ったり奪う事も無かったはずです。
さて、今から40年位前だったと思います。私が、小学4年生の頃に伯父が所属していた陸軍航空部隊の戦友会(現在の山口県下関市の小月海上自衛隊)の方より、伯父が乗っていた戦闘機が大分県宇佐市院内の山中で見つかったとの連絡があり、そこの集落の方が慰霊碑を建立してくださいました。しかし、父が建立の際に慰霊祭に出席しただけで、その後は遠方ということもあり身内で誰も行った事がありませんでした。唯一場所を知っている父も他界して何年も経ち、母も詳しいことはほとんど覚えていない状況でした。
そんな時に、昨年『永遠のゼロ』を読み、慰霊碑がどこにあり、どうなっているのか、せめて手を合わせたいと思い、色々探してみました。
まずは、インターネットで色々検索したところ、戦没者慰霊平和祈念協会という所から出ている機関紙『特攻』に伯父の名前を見つけ、戦闘機は零戦だと勝手に思っていましたが、二人乗りの屠龍という戦闘機であったことや上官と二人で乗っていた事などがわかりました。
また、別府大学の資料に私の戦争体験ということで、10歳の時の事を書かれている作文を見つけました。大分県の国東(くにさき)半島沖にB29が墜落した事があり、若い軍人さんが何日間か引き揚げに来られていて、食べ物などろくに無い頃ですが、家に招き夕食を食べてもらうと、軍人さんは帰り際にお礼として現在でいうと1万円位でしょうかお金を差し出され、どうせ私はお金を持っていても意味がないので、鉛筆や学用品を買って勉学を頑張りなさいと言って帰って行かれたとのことです。
ただ、慰霊碑の場所まではわからないため、院内支所に電話で相談したところ、わざわざ探して頂き、地域の区長さんの連絡先や慰霊碑の場所が書かれた地図を作成頂き、片道車で30分はかかる所なのに慰霊碑の写真を撮ってメールで送って下さり大変ありがたく感謝の気持ちでいっぱいでした。
(とても一人では探せなかったと思います)
さて、ここからやっと現地に行く話しをさせていただきます。
その日は、金曜日で博多の出張を利用して、レンタカーを借りて、2時過ぎに博多を出発し、休みになる前に取りあえずは、院内支所の方にお会いしてお礼を言いたかったので、院内支所に向かい、窓口が終わる5時にギリギリ間に合う事が出来ました。
その日は、別府で一泊し、作文に書かれていた軍人さんの常宿へ電話しました。既に廃業されていましたが、戦後生まれのその方は、B29の話は聞かれたことがあるとの事で、作文を書かれただろう何件かのお宅の電話番号を教えていただきました。
3軒目におかけした方が、それならこの人だろうという事で電話番号を教えてもらい電話したところご健在で、事情を説明し、玄関先で良ければという事でお話を聞かせてもらえる事になりました。
二日目、まず国東半島のフェリー乗り場に行き、この沖合で墜落したB29を捜す軍人さんを想像し、波止で釣りをされているのを見ながら作文の作者のご自宅へ。
見ず知らずの者を、玄関先でなくあげていただき小一時間戦争の時のお話などお聞きしました。
当時は、陸軍と海軍に分かれていて、空軍はなく、陸軍と海軍それぞれに航空部隊があり、B29を引き揚げに来ていたのは海軍だったとの事でした。残念ながら伯父は陸軍だったので軍人さんは伯父ではありませんでしたが、はっきりして良かったです。
次に宇佐市の平和資料館に行き、零戦の実物が展示されているのを見ました。
それから慰霊碑を探しに院内へ。
まず、区長さんのご自宅を訪問しました。区長さんのお宅へは何度か電話していましたが、ご不在ばかりで一度もお話は出来ていませんでした。その日も残念ながらお留守で百歳位のお婆さんがいらっしゃったので、少しお話をお聞きしたところ、村で年2回(盆と正月)慰霊碑を掃除していただいたり雑草や枝を刈ったりしていただいているようです。建立していただいて40年も経つのにありがたいことです。
さて、区長さんのお宅から慰霊碑までは車で10分位ですが、車1台がやっと通れるような道で、コンクリートを打っていただいてますが、所々亀裂があったり、落ち葉や枯れ枝が落ちていたり、こぶし大の石がゴロゴロしているような道でした。
慰霊碑の周りには何もなくここへ来るためだけに道をつけていただいたみたいで、今にも熊が出てきそうな山の中でした。
慰霊碑には、『この碑は第二次世界大戦において敵機と交戦し、この地で壮烈な戦死を遂げた陸軍両勇士の霊を慰める為に建立する』と刻まれてました。
慰霊碑に花を供え、手を合わせて、写真を撮って京都までの帰路につきました。
冒頭に書きましたが、伯父は5月7日に戦死しました。それから十数年後の5月8日に私は生まれました。
伯父は私に平和のバトンを託したような気がします。
戦後70ねん