2泊3日の肥前国・城攻め紀行~原城・前編~ | 傷だらけのひろ太郎のブログ

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車に荷物を置いて、いざ出陣!と原城へ向かおうとしたら、旅館の入口の真ん前に↓の立派な案内板がありました。 

 

 

 

原城、原城と連発していますが、興味ない人のために簡単に説明を。

 

原城とは・・・こちらをクリックしてくださいw

 

横着しすぎなので、少しだけ島原の乱について。

 

島原城建築や幕府に見栄を張るため、時の城主松倉重政と息子の勝家は重税を課し、その政策に異を唱えるため一揆が勃発し、島原の乱となる。一揆軍は当初、島原城築城のために廃城となった日野江城に集結するが、約37000人にまで増えたため、支城の原城に籠城する。その原城で天草四郎時貞を総大将としてポルトガルの援軍を待つが来る気配すらなく、2ヶ月以上も籠城するものの内通者が出たため落城。

幕府は天草四郎の顔風貌を知らなかったために四郎と同世代の子供を皆打ち首にした。四郎の母は既に捕らえられており、打ち取った子供の首を全部母に見せた。天草四郎の首が母の前に持ち込まれた時、母は泣き崩れたために天草四郎の首と判明。


(Wikiより一部抜粋)

 

何とも悲しいお話ですね(´;Д;`)


 

旅館から歩いて2分くらいで

 

 

 

旅館辺りもお城の一部なんじゃないかと思いました。

 

 

 

早くも原城の観光を終えたっぽい人とすれ違いました。まだ9時前なのに。

 

 

曲輪跡(くるわあと)がハッキリと分かりますね。

ちょっと行ってくるわw

 

 

 

↑2枚が二の丸ですね(^.^)

 

 

 

 

いよいよ中心部がみえてきましたー( ≧∀≦)ノ

 

 

空堀

後世に手を加えたんですかね。それほど深くないし、登れる角度でもあるし。

 

 

 

この辺りでVRアプリを起動して楽しもうとしたら、スマホのボリュームがマックスになってたので、近くにいた人から白い目で見られました(^^;

 

 

 

 

 

当時の技術で石垣を破壊って凄いですね。

で、この島原の乱でとばっちりを受けたのが、肥前名護屋城。

また一揆が起こり広大な城に籠城されたらたまったものじゃないと判断され、同じように石垣を一部破壊されたみたいです。

 

 

 

なんか、普通の田畑も腰曲輪(こしくるわ)に見えてきた。

曲輪でクルワッサン(クロワッサン)食べてみたいなぁ( ´∀`)

 

 

 

 

 

石垣が少し残っているってことは幕府も諦めたってことですねw

 

 

 

 

 

 

天草四郎像。

 『戦国のコニタン』こと、小西行長の家臣のご子息ということしかハッキリとは分かってないみたいですね。


 

この辺りに供養塔が何体かあったので、丁重にお祈りしました。

無視して素通りなんかしたら、祟られて事故るかもと思ったりしたので。

 

まだまだ続きまーす。