雑記 | しあわせになりたかったのに

しあわせになりたかったのに

すみませんでした。

夏がはじまろうとする頃、妻が妊娠していることが分かった。
ちいさな命は、音波を使ったカメラに、豆粒のように写った。
驚きもしたし、嬉しくもあった。
つわりというのだろう、妻は食事をもどすようになった。
初めてのことばかりで、僕らは本を買い込んで読みふけった。

やがてつわりも落ち着き、妻の体は少しずつふくらみを増していく。
カメラには頭や足、背骨が映し出されるようになった。
モニターに写った心臓は、確かな拍動を繰り返す。
男か女かもわからないまま、僕らは名前を考え書き並べた。

「動いた」
秋には、妻が胎児の動きを感じるようになっていた。
「ごりごりしてる」。
妻のいう所に手をあてると、新しい命の動きが、僕の手にふれた。
足だろうか、と僕は想像する。
その腹部に、耳をあて、話しかけてみる。
「まさかずくん」
男の子でしょうと医師に言われ考えた名前を、呼びかけてみる。

新しい年を迎えた頃、妻は実家に帰っていった。
ますますお腹は大きくなる。
大切な荷物を、服の下にくるんで抱えているみたいに見えた。
妻は出産の準備を整え、その日のために、きちんと食べ、きちんと歩いた。

梅が咲き、暖かさが増していく。
朝から軽い痛みがあると話していた妻から、電話があった。
「陣痛かもしれない。今から病院に行ってくる」
父の運転する車に乗って、僕も病院に向かった。
暗い山道を走る車のデジタル時計は、二十二時を示した。
妻は今どうなっているだろうか、もう生まれたのだろうか、そんなことばかり考えていた。

分娩室では、妻が大きな呼吸をしていた。
よせては返す痛みが、ときおり彼女の声を大きくした。
僕は、妻の呼吸にあわせて、息をし、止めて、見守った。
やがて頭髪が現れ、そして、息子が声をあげた。
妻が生まれたばかりの我が子を抱き、ほほ笑む。

彼は、僕の手のひらに乗っかってしまうほど小さくて、僕はそれを両腕で抱えた。
生まれたばかりの生命は、穏やかな顔で、眠っていた。
とても、とても穏やかに、眠っていた。
安らいだ表情で眠る彼に、僕はなんだか安心した。

彼は、ときどき目をひらき、あたりを見る。
まだ「見る」という行為さえ初めての彼は、
瞳の中に入るすべての光に、ゆっくりと目を配っていた。
その瞳を、妻と、妻の母と、僕とが、交互に覗きこんだ。
誰もがその命を、嬉しそうに見つめていた。
その命を見つめるだけで、しあわせな気持になれた。

新しい命に、服を着せ、ミルクを与え、身体を拭く。
ちいさな手、ちいさな足、ちいさな体は、
けれどしっかりと僕らをつかみ、蹴り、声をあげて、僕らにその存在を訴えた。
僕らは、その小さな身体を、抱きしめる。
その命が生きることを、ただただ祝福する。