未央奈が口づけた珈琲の味は、想いよりも余って苦かった。
突き抜ける青に、雲は一つも掛かっていない。
自然と腕に掛けたトレンチコート。見上げた桜の木は点々と薄桃を着けていた。
(ちょっと休もう)
できれば客の少ない静かなカフェで冷たい飲み物を──
そう思って見回した十字路。
"いかにも"といった古びた看板と靄(もや)がかかったショーケース。
宙ぶらりんのフォークから垂れるナポリタンや、原色カラーを着けたパフェたちが並べられていた。
店への入口には、下る階段と踊り場が薄暗いシャンデリアで照らされていた。
(お誂(あつら)え向きだ…)
踊り場から折り返し更に下ると、オレンジ色の照明が漏れるステンドガラスの扉が現れた。
未央奈は山吹色が所々剥げ落ちたレバーハンドルを回す。
そこで未央奈は裏切りに会った。
うるさいと迄は言わないが賑やかな店内。
傘付きのスタンドライトの灯りが落ちるレジカウンターに、店員の姿はない。
10程の小ぶりなテーブル席の中を男の店員が一人、愛想なくいそいそと"業務"をしている。席はもちろん満席だ。
お客の様子を伺っていると、漸く未央奈に気がついた店員がやって来た。
「すいませんお客さん今満席なんですよ」
すいませんが"すいません"ではない物の言い方に、未央奈の眉がピクリとした。
今はそれどころではないと言わんばかりの男に、未央奈が店の出口に向き直ろうとした時だった。
「おにーさんお金、丁度置いとくわ」
店内に通る声で、ピンクオレンジのショートカットを緩く波うたせた女性が、パステルピンクのコートに袖を通しながら店員の男を呼び止めた。
派手な出で立ちの女性だが、少なくとも60は回っていると未央奈は思った。
「お先に。どうぞごゆっくりね…」
未央奈とすれ違う手前、頭を右に傾け微笑んだ女は、ステンドガラスのドアの向こうでヒールを鳴らして階段を上がっていった。
女が去ったテーブルの上が片づけられ未央奈が席に着いたのは、それから8分を過ぎた頃だった。
天井の巨大なシャンデリアが深いオレンジを乱反射するホール。
壁のステンドガラスの窓から照らす明かりが、白いテーブルの上を映していた。
スローで流れる洋楽は、薄すらと暗いヴェールの天井と壁に染み込んでいるようだった。
高いヒールで造られ固くなった腿の裏と、ピンと張り伸ばしていた背中を、年季の入った皮張りソファのクッションが絶妙に押し返していた。
ホールの中央では、4人掛け席2つに詰め込まれた老年の男女が話に華を咲かせていた。年齢は先程の女よりも上だろう。
只、周りの客に構うことなく馬鹿笑いを続ける"合コン"が酷く下品に感じた。未央奈が騒々しく感じた原因である。
その席から低い壁を挟んだ向こう側に、サラリーマン風の男が一人と、年配のご夫婦が座っていて、何だか不憫に思えた。
店の入り口に一番近い席に座った未央奈の向かいに女性が二人座り、壁際に若いカップル、その奥には女の子と母親、中央の席から向こう側の壁には大学生風の男が一人、一番奥に女子高生と中年の男が座っていた。
老若男女。未央奈の席からは全てのテーブルの人間模様が見て取れるようだった。
席に座る際に注文した飲み物が届き、一息ついた時だ。
未央奈の視界を、背の高い大ぶりのグラスにデコレートされたパフェが銀色のトレイに乗り過ぎていく。
未央奈は何の気なく、そのチョコレートパフェの行き先を追いかけた。
「うわぁ、やったー!!」
女の子がソファの上でぴょんぴょんと飛び上がり、母親がそれを諌めている──
私も食べたことがあった。
ショーケースでキラキラと輝く特大のフルーツパフェ。忘れもしない小学2年生の時だ。
それまで母や姉と分けて食べていたパフェを、丸ごと平らげた。
生クリームに乗ったさくらんぼを摘まんで食べてから、思い通りにクリームを崩す。それからフルーツを選びながら食べて、グラスの底へ底へと細長いスプーンで掘り進めていく。
芸術的造形物。
それが創造された意味を噛み締めながら、自分で崩していくことに私は喜びを感じていた。
ズルズルと音を立てて大盛りのナポリタンを"すする"パーカーの男の席を挟んで、セーラー服の女子高校生と座る中年の男性が咳払いをした。
あの年頃の女の子がわざわざ父親と二人、喫茶店に来る理由はなんだ。仲良し親子?それならばどんな会話をするのだろう。
正直、私は大学を出るまで父と二人切りで話し込むようなことをした覚えがない。
そういえば父親にしては少々出で立ちが若い。ではどういう関係だ?私は益々そのテーブルの様子が気になった。
私は全寮制の女子高で、成績が及ばず目指していた大学の受験を直前で諦めると決意した。
それを電話で母に伝えた次日、初めてあった父からの連絡は直接私に話を聞くといった内容で、わざわざ学校のある市内まで父が出て来たことがあった。
学校から近い喫茶店に二人で入り、そこで大学の難易度を落として県外にある学校を受験することを父に話した。
自分が悩み抜いて決心したことや、将来についてちゃんと考えていることを分かってもらおうと、私は必死に思いを伝えた。
その時の父の反応は呆気ないもので、顔が少し寂しそうに見えたのを覚えている。
その時飲んだコーヒーフロートは特に苦い味がした。
パフェを頬張る女の子の手前の席には、カップルが座っている。
ステンドガラスの明かりのせいだろうか、彼の背中越しに笑う彼女の顔が輝いて見えた。
私には付き合って7年になる彼がいる。
大学のサークルで知り合った彼。毎日LINEが来るし時々電話もする、そして週に1回は一緒に過ごす。
だけど、キラキラと純粋に笑っている彼女を羨ましく思うのはナゼだろう。
今が幸せではないのかと聞かれればそうではない。彼に不満があるのかと言えばそうではない。私にどこか欠陥があるのだ。
いつかは私も結婚して家庭を築く…正直、今は想像もつかない。
カップルと私の間の席には、女性が二人座っていた。年は二人とも30代半ばと言ったところだろう。
こちらの話の内容は気にならなかった。所謂(いわゆる)、どこにでもあって、とりとめの無い話だ。
子育てをして、奇跡的な合間を見つけ、ママ友や友達とランチ?
"結婚は想像がつかない"と言っておきながら、それには興味があった。
普段はできない食べたいメニューを注文し、お腹いっぱい食べて好きなだけ喋る。なんて爽快なんだろう。
ホールの真ん中の席では、変わらずお喋りが続いていた。
人ひとりが通れる狭い通路を挟んで聞こえる昔話は、否(いや)が応にも耳に入った。だがそれも時間が経つに連れて気にならなくなっていった。
低い壁に途切れ途切れに立った半透明のガラスボードの間から、白髭を蓄え、眼鏡を掛けたロマンスグレーの総髪の男性と薄紫のスカーフを巻いた女性の老夫婦が見えた。
子どもが巣立ったら、また自分の時間がやって来るのだろう。
長い時間を繋がり続けて、あんな風に馬鹿笑いができる友人が何人できるだろうか。
残された時間は人生の"戦友"と過ごそうじゃないか。これまでの疲れを共に語り、労い会おう。
それできっと、それまで耐えてきたモヤモヤや苛立ちがゆっくり和らいでいくのだろう──
コーヒーフロートを飲み終える頃、ホールの中央で二度目の春を謳歌していた男女らが席を立った。
「そろそろ出ようか」
「そうね、長居してはお店もご迷惑でしょうし…」
と話す声が聞こえてから40分が過ぎた頃だった。
それからお客の誰もが小声で話始めた。
私は急に居心地が悪くなり、グラスの底に残ったコーヒーフロートを飲み干し、細長いストローに薄すらと着いた口紅を紙ナプキンに拭き取った。
席を立つと男の店員が早歩きにレジカウンターへやって来た。
おつりを両手で渡した男は、頷く程度に頭を下げて言った。
「本日はお待たせを致しました。またいらして下さい」
(なんだ…いいヤツじゃないか)
"ありがと"私は頭を少し傾けて微笑み、オレンジの粒を反射するステンドガラスの扉を開ける。
階段の踊り場に響かせるヒールの音が、妙に心地が良い。
上り階段の向こうから降って来る光線に目を凝らす。
突き抜ける青色に、明々と照らされる街や人の波。
それを映した時に私は、
どこかがっかりするのだった。
トカシタユキダマ/fin