象牙のドレスシャツに朽葉色のベストを纏うその人は、背丈が飛び抜け寂れたビルの屋上から、うねり立つ街を眺めていた。
そして、虚しく溜め息が流れていく。
「まったく、本当にこの世は地獄かもしれないな…」
水色の裾が緋に染まった世界。
それを映す瞳には、人に憑き、物に憑き、土地に憑く、悪魔たちが蠢(うご)めくのだった。
『一年前、駅前の交差点で起きた…』
リビングで暫く朝のニュースを流していた液晶が、黒く塗り潰された。
リモコンを小さな丸テーブルに置き、玄関でブーツを履く彼女は、肩に掛かった胡桃色の髪を鏡に映す。
20cm程の間口が上下に並んだ棚板の上からキーケースを取り出すと、そそくさと玄関を出ていった。
灼々(しゃくしゃく)とした窓外がカーテンの影を床に落とし、ガチャリと噛み合う金属音が薄暗く静まるワンルームに響くのだった。
高層マンションを出て、暫く歩くと屋根付きのバス亭がある。待合に木製のベンチが用意されているのだが、所々ペンキが剥がれそれに腰を掛ける人は少ない。キャメルのコートに身を包む美波も停車看板の真横に立ち、一人片膝を揺らしていた。
二つ向こうの信号機。
それが立った交差点と手元のスマートフォンに視線を交互に移す。液晶に浮かぶ数字は到着予定の時刻から二分を過ぎていた。
朝の通勤ラッシュに巻き込まれるこの便は、時々"こう言うこと"が起こる。朝一の講義ギリギリに大学の正門に到着するバスは、度々、美波を苛立たせていた。
液晶画面から再び交差点へ視線を移した時だ。
視界の右端に、ハンチングキャップからショートヘアーを覗かせるマネキン人形の横顔が飛び込んだ。
グリーンジャスパーが輝く瞳、線を引いた鼻筋、艶やかな唇。端整に造られているそれは、美波の瞳を縛りつける。
二車線の道路に投げられていた碧(あお)い視線が、瞬きした後、こちらを向いた。
バチッと言う衝撃が美波の中に走り、間の抜けた声が漏れる。行き先を失う視線がふらふら宙を泳いで、手元のスマートフォンに何とか掴まった。
胸を打ち、呼吸を早めた焦燥を収める間もなく、目前から声が降りかかる。
「あのぉ…」
反射した体が肩を竦(すく)めた。
「…ここ最近、つかれたりしていませんか?気づいたら肩が重いことはありませんか?」
「はっ!?」
思わず声が出た。面食らう美波に向かって、調子を変えない問い掛けは続く。
「妙なものを見たりだとか、聞いたりだとか…」
(今が正にそれです)
再び漏れ出そうとする声を唇の先で止めた。お陰で少し落着きを取り戻す。
美波は鼻から息を吸うと、妙竹林(みょうちくりん)な質問を突っぱねて返した。
「宗教の勧誘か何かですか?そう言うの間に合ってるんで!」
先程からの苛立ちも伴い思いの外、語気が強まった。
だが、こちらに向いた碧の瞳が怯(ひる)む様子は無い。
「…同じ悪夢を繰り返し見たり、金縛りに合ったりすることは…」
「だから!何なんですか!!これ以上付きまとうなら警察、呼びますよ!?」
愈々(いよいよ)と荒ぶった美波を、傾(かし)げた首に碧の眼が二度瞼を下ろす。間も無く眉を上げ瞳を大きくすると、ズボンのポケットの中を探りだした。
奇怪な人物の横で、ガラガラと鳴るエンジンと甲高い金属音を上げて大型バスが動きを止めた。
「えぇっと、僕はこう言う者です…」
二つ折りの歪(いびつ)に潰れた財布から名刺が取り出される。
『つかれ・わかれ・のろわれ 何でもききます!橋本相談事務所 ―』
四つ角がささくれ立つ上質紙は、猫背になる差出人の60cm程手前を泳ぎ受取り先を探すのだった。
バスステップを上った美波は、後方に空いていた二人掛けの椅子に腰を下ろした。程なくして自動扉が閉じる。
薄雲る窓に過ぎていく歩道を、美波は横目を流して見下ろす。
名刺を持ったまま呆然と立つ間抜け表情(かお)に良い気味がした。
だがそれは、一瞬の心地となる。
妙竹林なマネキン人形の左隣、つまりは、"それ"と美波が居た場所との間に、濡れ羽色のワンピースに黒髪を揺らした幼い少女が立っていた。
どこか遠くを視ているようで、こちらを向いているような少女の眼(まなこ)に、美波の背中は冷たくなぞられていくのだった。
かかとの穴と三日月/つづく