
🔖夢見羽は絵空に焦がされ《拾》
繰り返し押し寄せていた破裂音は何時(いつ)しか止み、無機質の荒野はまた空調機器の音を流し出す――
未央奈の意識は息を吐く度に薄められていく。焼け付く喉が刺すように痛んだ。
酷く音を立てた心臓に、周りの音が阻害される。
頬を伝って滴(したた)り落ちた汗。その後を追って、未央奈の両膝が地面を突いた。
両脚の感覚は既に無い。急所へのダメージを避ける為、動かし続けた四肢に限界が来ていた。
地面に向かった体を手を突き支えた。頼りなく震える両腕。砂埃(すなぼこり)の上に、また滴りが垂れた。
この三日間で、今までの自分を遥かに凌駕(りょうが)した力を得たはず。
美彩や深川、そして日芽香との特訓のお陰で、自分にも戦える力が備わると思っていた。
(それでも…それでも、敵わない。…届かない)
手を伸ばせば届く距離にいた背中たちは、未央奈の直前で陽炎の如く消えていった。
闇から迫る足音が、ぼやけた未央奈の聴覚にカウントダウンを落としていく。
影に覆われた地面から、視線を上げた未央奈が見たもの。事も無く終焉を宣告する瞳は、無情な紅唇を開く。
「終わりにしよう…紫火(しび)に焦がされた徒人(ただびと)よ」
鈍い光が反射した銃口に、未央奈の視界は白く眩んでいく――
――四片(しへん)の花弁をひらく有機体。
血液のように息吹き、禁色(きんじき)よりも色濃く、墜ちる陽が焼いた空のように儚い。
白い霧の先が古ぼけた白い壁と木枠の窓、それに挟まれた板張りの廊下を映した。
天井で短い蛍光灯が感覚を遠くに置いて連なっている。未央奈は窓を覗く。外は陽が射しているのに、ここは薄暗く少し気味が悪い。老朽した廊下は、踏み出した足裏を迎えて、『ギギ…』と音を立てた。
長く続く廊下の終わりに、青白く輝いた四角い窓が小さく見える。その途中、少し向かった先からは風が流れて来るのを感じた。
(この先を右に曲がったら玄関だ…)
ふと、そんなことを思う。
平たく広い庭の砂の匂いと、玄関先で両脇に植えられたカモミールの香りに誘われ、未央奈は風をたどる。
廊下を曲がる手前、左の部屋から飛び出してきた幼い男の子と女の子が、笑い声と共に玄関へ駆けていった。その後ろ姿を視線が追いかけ、未央奈の足は止められる。
日向に駆け出して遠くなっていく声に、瞼を緩め耳を澄ませた。吹き込む風が、建物の脇に揺れるシマトリネコの葉の音を運んできた。
さっきの様子を見ていたのだろう。背中から、くすくすと笑い声が聞こえた。振りかえる未央奈の瞳が映したのは、幼い頃からの思い人。
面倒見がよくて、体の小さな子や弱い子の味方。賢くて、大人とも話が出来る人。大きな夢に真っ直ぐで、私の先を歩いている人…
兄のように慕っていた。未央奈だけでは無い。ここの子どもたちにとって柊は、優しく頼りになる存在であった。
緩んだ口元に置く手を退けて、柊が名前を呼ぶ。
「未央奈…」
玄関から吹き入れた強い風が、建てつけの悪い木製の窓をガタガタと揺らし、柊の声を遮った。
『もう一度…』口を開こうとした未央奈に、笑顔の柊が白く薄く遠退いていく。
真白になった地面へと瞳を下ろす未央奈。
ある日、あの時に抱いていた思いが甦るのだった。
弱い人でも、強くなれるんだと証明したい
未央奈は、自分が乃木坂に来た本当の理由を見つける。
それは幼い頃に生まれた気持ち。優しい背中が教えてくれた思いだった――
――胸元に止まった赤い翅に、引き摺られた右腕が上がる。
地面に突いた右手の隣で転がっていた拳銃を、知らぬ間に掌は掴んでいた。橙黄
(とうこう)の暗闇で見た時と同じ感覚。
深紅の翅が息吹きを上げる。胸の中央に四枚の花弁を挿す相手の姿が良く見えた。全ての感覚が、降り立った蝶に向けられている。
乱れた呼吸はどこへ行ってしまったか。四肢を突かねば崩れる体は。ぼやけていた視覚や聴覚は…
真朱(まそほ)の蝶へのものとは別に、もう一つに割れた思考は、冷静の中に居る自分を見せた。
鉄の引鉄の重さが人差し指に伝わる。
赤い蝶を撃ち抜く為に造り直された感覚。世外の美しさで未央奈を縛り惹きつける蝶と、その高潔な時間を終わらせる瞬間、得も言われぬ感覚が全身を走り脳へと押し寄せた。
深藍色の背景に深紅の花弁は弾け、散っていくのだった――
――乃木坂学園高校中央棟一階保健室。
丸椅子に腰掛け、細い肩紐のインナーを両手でたくし上げた日芽香。描出(びょうしゅつ)された胸元の先には、白衣を纏う深川が顔を寄せる。強くなる指先に日芽香は眉を寄せ、声を抑える。波を打った柔らかい身体に、深川が上目遣いに顔を上げた。
「大丈夫。至近距離だったけど、ボディアーマーを着てたんだし…打撲ね。骨折はしてないわ」
物遠く言葉を返す深川に、潤んだ日芽香の瞳が訴える。
「…大丈夫だから、本当に。脂肪だってあるんだから骨は守られてるわ」
重ねた薄い情の後、背を向けた深川はノートパソコンに映した報告書に打ち込みを始める。白い背中に向けて、口を尖らせる日芽香。
「聖母の癖に優しくない…僻(ひが)みですか…」
両腕をハイネックのニットセーターに通しながら呟いた言葉は、聖母の細い指を止め、液晶に反射する瞳を鋭くさせた。
不穏な気配を察知した日芽香は、努めた低い声で話を切り出す。
「あの子の能力…組織の大きな力になるわ。フロントにも匹敵する…でも今は、不安定であることの方に懸念が大きい」
セーターに通した黒髪を手で梳(と)きながら日芽香が続ける。
「万が一、暴走すれば狂想曲と同じように『神堕ち』する。強大な力ほど制御するのは困難だよ…」
振り向く深川を、真剣な瞳が突き刺した。部屋に掛かる丸時計の分針が、カチリと音を立てていた。
鞘を瞼に変えて一旦瞳を落とした日芽香が、丸時計に目をやる。時間は17時30分を回ったところ。針の位置に驚いた日芽香はバッグを取ると、保健室の引き戸を開ける。
「先に花奈たちと行ってるよ!報告終えたら、まいまいも直ぐに来てね!」
アームレスト付きのミドルバックチェアに背中を預ける深川が、口元を上げて二回頷いて見せる。日芽香は頬に小さなへこみを作ると、掌を小さく振って保健室を出て行った。
日芽香の言葉に、一年前の事件が過(よ)ぎった。当時は乃木坂組が組織されて間も無い頃。乃木坂で他の教員と同様、指揮を執っていた深川は組織間の隔たりにいた。
事件の連絡が入ってきたのは、みなみや飛鳥たちが都内の病院にそれぞれ搬送される時だった。医師免許を持ち、乃木坂総合病院に籍を置く深川は、近くの研究所から病院へと走った。
脳神経を専攻する深川は、頭部に外傷を負ったみなみのオペに立ち会う。急かされながら手術着に着替えて向かう途中、ストレッチャーで運ばれて来る生駒に出くわした。
血と泥で赤黒く汚れた姿。艶やかだった髪や肌は焼け焦げ、皮膚が裂けた指からは血液が滴っていた。
彼女の名前を何度もぶつけた生駒の顔は、頬に溢したであろう雫の跡が赤色を薄く落としていた。
あの日の生駒の姿は深川に、もう一人の女性の姿を呼び起こさせるのだった――
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eidaman
