どうも…ショーエイです。
世界がお互いに不信感を漂わせ、
どんどんと可笑しな方向に進みつつあります。
人は何か、または誰かを信じるか否かで、
選択肢を考えつつあります。
でも、信じるか信じないかなんてものは
実は何の意味も意味がない事を
人は理解していません。
「あなたは神を信じますか?」
神を信じようが、信じまいが
世界の理は変化しませんよね。
寧ろ「神に裏切られた」とか考える方が
世界の理に反した話に成ってきます。
これは人に対しても同じです。
特定の政治家を信じるとか、
期待するとかと言うのも意味が無いのです。
大事な事は「尊重の姿勢」なのです。
この「尊重の姿勢」が無いと、
信じない相手を自然と侮蔑して見ます。
侮蔑して見ていると、
その相手の言葉の真意も疑念だけで理解します。
いわばその相手が「嘘を付いている」という疑念です。
でも本音か嘘かは結果でしか判断できない訳です。
また本音であっても、
いわば期待はずれな結果となれば
その結果としては「嘘」になるし、
「嘘」と信じても結果次第では
いい意味で裏切られたという事にも成ります。
いわば信じる信じないは所詮は運命の予測でしかない訳です。
人を尊重して見ると、
嘘か本音はどうでも良く成ります。
いわばその人が何を言っているか、
何を目指そうとしているのかを見極めるだけなのです。
そして選挙で誰かを選ぶ際に、
誰の話が一番自分の考えに近いかで選ぶのです。
当然、多くの有権者はこうした見方で考えていると思います。
ところが…それ以前に見るべき、
その人が人を尊重して考える人間か否かは
全く考慮してません。
アメリカの選挙戦では当たり前ですが、
誰かをディスる事は尊重の無い行為です。
それは関係の悪い国家に対しても同じです。
勿論有権者に解かりやすく伝える為の意図も有りますが、
平和的な政治を望むなら、
こうした言葉は効果を生みません。
トランプの米国は平和を
強引な米国の権威で推し進めようとしているだけで、
相手を尊重しないから
権威の届かない相手には全く通用しなくなる。
当ブログではトランプに期待を寄せる感じで記してきましたが、
彼をを信じる信じないは殆ど関係ないわけで、
彼が他人を尊重する姿勢で挑めるなら
彼の望む平和的な世界は叶うという事を伝えてたまでです。
しかし彼の人を尊重する姿勢が徐々に欠落し始めた事で、
現状の結果に成っているという事です。
ただ、信じるとか信じないの話では無く、
人は日々変わるし成長するという概念で、
トランプが何かを悟れれば、
また別な結果を生み出す可能性は否定しません。
ここに期待も信用も不要なのは、
トランプが現状アメリカ大統領である事は不変の状態で、
そこに変化を与えるのは2026年の中間選挙で
米国民が選択するという流れなだけだからです。
では日本人有権者としてどう見るべきか…
トランプに変化を与えられるだけの
言葉を持つか否かだけなのですが、
それほどの人材は見当たらないという事実だけが、
現状の話と成ります。
あえて伝えるなら令和天皇が心がけておられるような姿勢で、
政治に向き合える人材が居るならという事で、
あそこまで丁寧な姿勢で無くとも、
偏見無く尊重を示す姿勢があればという事で、
実は最近では明石家さんまさんの様な考え方は
とても好感持てる印象を抱いていると言えるだけです。
実は信じる信じないより大事な事は、
相手を常に尊重する事です。
内心相手を信じて無くても、
その相手を人として尊重することで、
お互いに適切な会話が生まれてきます。
これが平和的な外交の糸口であり、
寧ろ日本の一般社会でも
ビジネスの基本として浸透している部分でもあるのです。
本来言わずとも理解されるべきところですが、
いち政治的な話に成ると、
多くが本心むき出しでパワーゲームに走ってしまうのです。
パワーゲーム感になると、
ビジネスの感覚とは異なり、
どうしても信用できるか否かが先行してしまいます。
戦争に成るか否かの話の前に、
相手が攻めてくるか否かの安全性を
考慮してしまう所も有るわけです。
信用できないから攻めてくるだろうという警戒も、
結果としては戦争になる前提の話な訳です。
逆に相手も同じと考えて尊重して考えれば、
お互いに共有できる利の部分が見えてくるはずなのに…
ビジネス的な思考で考えればと思うのですが、
力の弱い立場で見るビジネスと、
パワーゲームも可能な力の強いビジネスとでは、
また異なる所で
人はどうしても強さを求めて、
思考まで力の強い立場に進んでしまうのです。
お互いが弱い立場の姿勢で交渉に挑むと、
双方で尊重の姿勢が生まれて
そこに共有できる利を模索する対話が生まれます。
逆に強い立場の姿勢同士だと
威厳や権威的な競い合いが生じて、
どうしてもパワーゲーム化してしまうのです。
これはどちらかが強い立場でも同じで、
結果として弱い側が屈服を示さねば交渉の成立はしません。
外交上でパワーゲームのエスカレートは、
戦争を引き起こす流れに成るわけです。
お互いが対等である場合、
尊重の無い姿勢の相手とは交渉すらしません。
これは信用するしないの話ではなく、
尊重の無い相手にはこちらの意図が通じないからという事です。
逆にビジネスでも経験した方々も多いと思いますが、
尊重の有る姿勢の相手だと、
こちら側の意図を汲み取った上で、
相手側の意図を伝えてきて、
双方の会話は円滑に進みます。
最終的にはお互いが
妥協できるか否かの瀬戸際での交渉に成り、
妥協点が成立しない場合は不成立に成ります。
しかし、円滑な対話の中で
双方の関係性の悪化は避けられるのです。
実は信用するかしないかでは相手の本音を探る事は難しく、
お互いが腹の探り合いをするだけの、
タヌキの馬鹿しあいに成ります。
尊重ある会話か否かで判断すると、
所詮はタヌキと言う動物の態度は手に取るように解かります。
寧ろ尊重の無い相手は会話すら通じない相手として見なせます。
尊重のある相手だと交渉上の言葉のやり取りの中や、
妥協点を探る中で自然と本音が見えてくるのです。
ある意味、お互いが尊重し合う会話故に、
下手な馬鹿しあいは通じない事も
双方で理解されるのです。
タヌキの馬鹿しあい状態になる話は、
ロシアとウクライナと言うより、
ロシアとヨーロッパの関係でも言える話で、
ヨーロッパはロシアを信用していないから、
あからさまにロシアへの尊重の念が欠けてきます。
逆にトランプはロシアのプーチン氏を
友人として信用していたかもしれないが、
寧ろその友人を尊重していないから、
友人の怒りを理解できていない。
誰でも誰かが侮蔑を示せば気付くわけで、
その侮蔑の中では決してその怒りは拭えません。
この面白い話がウクライナ紛争発生直後に
米国議会でCIAがプーチン氏の精神鑑定をj報告した内容にあり、
米国の主だった人々は戦争に走ったプーチン氏を、
狂っていると想定していたが、
CIAの報告はただ単純に、
「プーチンはとても怒っている」
とだけ報告したのです。
この報告を聞いてCIAの分析が如何に正確であるか、
理解できた人は殆ど居なかったのも事実な話で、
まして「何に怒っているか?」という
質問すら発送できない有様だったわけです。
いわばたた「短気に走った」と理解したのでしょう。
CIA位に分析技術のある組織なら、
政治家や民衆の理解力を想定していたとも考えれる分、
それ以上の説明は現状無意味とも考えたかも知れません。
傍から見ると、「信用しない姿勢」と
「不遜な相手と交渉しない」は、
同じ態度に見えてしまいますが、
そう見えてしまうのは
自身の分析力の欠如だと理解した方が良いです。
適切な分析力は勿論、
すべてを尊重する姿勢から生まれるもので、
その中で尊厳ある態度と不遜な態度の分別から、
心的作用が絡み合う部分を見極めて
判断して行かなければ成らないのです。
まあ、不遜な態度に怒りを示せば、
普通の人にはそれは不遜な態度に見えてしまうのですが、
「怒ったら負け」みたいな平和ボケした哲学で考えると、
戦争をひきおこしてしまうという話です。
まあ、色々な話でネット理論みたいな感じが、、
社会で蔓延してるけど…
例えば商売の基本である
「お客様は神様」という言葉…
客が自分は神様だと主張するのは
明らかに不遜な態度です。
言葉の真意を考えずに、
言葉尻だけを捉えて理解する発想そのものが、
尊重の無い思考なのです。
「お客様は神様の様に接しろ」
この真意は接客の際の姿勢を示しただけの言葉で、
「お客様を神様と思え」
なんて意味で人間の権利を
奴隷化する表現で伝える訳が無いのです。
いわば
「お客様を神棚を扱うように丁寧に扱うように」
という意味なだけで、
接客態度に腹を立てた客が、
「お客様は神様だろ!!」
とクレームを付けるのは
逆に人間の権利を無視した不遜な言葉に成るのです。
最近ではこういう言葉は廃れつつ有り、
寧ろ「客は神様じゃない」
という感じが接客の中で蔓延し始めている。
いわば今度は接客する側のクレームに対する態度が、
寧ろ不遜な形に成って来ている訳です。
またキリスト教の教えで、
「右の頬を打たれたら左の頬をだせ」
殴った側がこれを要求する話になると、
本当に意味不明ですよね。
ほぼ言ってることはパワハラです。
まあ、左の頬を出して後で損害賠償請求しちゃえば、
逆に儲けものなんですが・・・
とにかく尊重のない思考が横行すると、
折角の名言も宙に浮くように軽く成っちゃうんです。
1974年のサッカーワールドカップに優勝した
ドイツの主将フランツ・ベッケンバウアー氏の言葉です。
「強い者が勝つのではない、勝った方が強いのだ」
その決勝の相手は当時最高の選手と評された、
ヨハン・クライフ率いるオランダでした。
ベッケンバウアー氏に尊重を示さずに
この言葉を理解すると、
「自分が勝ったから強いのだ」
なんて意味に感じます。
何だかただ勝利に浮かれているだけの人の言葉に感じます。
でも、ベッケンバウアー氏を
人間として尊重した上でこの言葉を理解すれば、、
「相手は本当に強かった、しかし今回の自分たちはそれ以上に強かったから勝てた」
という言葉で、相手に敬意をしめした言葉に捉えられます。
まあ、真意はどちらかは知らないとしても、
ベッケンバウアーという偉大な選手に敬意を示し、
彼の名言として伝えるなら、
後者の方で理解する方が
尊厳と重みが伝わる言葉に成るのではと思うのです。
まあ、一般的に伝わる解釈で
「強いから勝つのではない」
という事なら、寧ろこの言葉より、
「勝敗は時の運」と語る方が意味が伝わるわけで、
何の鍛錬もせずに強い相手に挑んで、
チートや反則かなんかで勝った挙句に
言える言葉にしないで訪しいですよね。
せめて哲学的な言葉で残すなら、
「強者を前にしても、それに挑む強さが勝るほうが勝利する」
という形で解釈したいものです。
実は人を信じるか信じないかというのは、
スポーツの予測と同じで、
当時のオランダが勝つか、
ドイツが勝つかを信じていたようなものなのです。
結果が出るまで解からない。
歴史的に見ても偉人たちが
信じてた人に裏切られたなんて話は
当たり前の様に起ってきた訳で、
カエサルはブルータスに、
信長たまなんて、浅井長政に荒木村重、
まあ、色々と裏切られたもので、
タイミング悪く本能寺の様な形に成ると、
さすがに死にますわな…
人間どれだけ相手を尊重しても、
相手の都合までコントロールすることは適わない訳で、
相手の都合が悪ければ、
意図せぬ事態を招いてしまう。
これは人間の嵯峨なのかな・・・
こうしてキリストの話を思い浮かべると・・・
キリストが十字架を背負う姿を教えとして残した意味は、
キリスト教徒たちにこういう人間の嵯峨として
常に十字架を背負って生きる定めを伝えたのかもしれない。
その上でキリスト教徒の人々は、
人を尊重する規範をしめしたキリストは、
偉大な教えを広めることで、
後世にも残る偉人として伝わっているのだと理解して欲しい。
まあ、今問題の欧米の人々に伝えるなら、
こういう言葉の方が説得力を持つのかなと…
尊重を以て接することで、
人の真意を感じる力は養える。
されど人の都合は其々で、
尊重を示しても覆せぬことも多々起こりうる。
都合というのは本人の意思のみならず、
生活や家族、友人関係など様々な要因で構成されるため、
個々の決断において容易では無いものである。
一方の尊重が多を示すものでは無く、
それは他人にとっては多の一部にみたいないものだと、
自然の摂理を尊重しなければ成らない。
日本人にも伝わるように、
森羅万象的な表現だとこんな感じです。
人を信じるとか信じないと言うのは、
神様を信じるか信じないかと同じ事。
結局は何の意味も無いのです。
神様を崇めてその教えを尊重する様に、
人を尊重し自然の摂理を尊重することで、
探求を極めて見識を広めるに役立つということです。
勿論、その見識をどう活かすか殺すかは、
その人次第という事です。
ただし、浅い見識では深い迷宮に心は迷い込んだままで、
自らの支離滅裂な思考を
他に晒している事すら気付かず、
尊厳の無いみすぼらしい生き様を
歩みつづけるだけなのです。
仮にそれで運よく力を得ても、
それは歴史という舞台で恥ずべき者としての宿命を
得ただけにすぎない存在になる。
それでも酒池肉林、
その生を謳歌したいだけの人生も、
それはその者の都合である

