【第三十八話 自尊と直感】
桶狭間へのカウントダウン 残り12年
〔ドラフト版〕
人間の社会は自尊のぶつかり合いである。
よほど自信を失った人は別として、
誰もが最終的には自分が正しいと思うだろう。
自由と伝統の狭間では、
この衝突は避けられない。
伝統は伝統を重んじたルールによって自由を妨げるが、
その伝統で齎された秩序を重視する。
そして自由はその伝統を破壊する。
いわば伝統によって生じる不公平や理不尽な制度を破壊するのだ。
現代的に言えば保守と革新の衝突とも言えよう。
秩序というルールの中で生きる意味では、
伝統は重視される。
その分、伝統は変化を寧ろ嫌う。
自由は変化を齎すが、
伝統が縛り付けるルールを破壊して行く。
伝統と言う厳格なルールで守られてきた秩序も、
自由によって破壊されるというよりも、
実際はその改革によって混乱が生じる。
自由が混乱を齎すとは、
人間社会に禁止されていたものが
突如として開放される事で、
そこで生じる副作用に混乱が発生するという事である。
ある意味、多くの人にとっては突然、
未知の世界に放り込まれるような感覚になるため、
それに慣れるまでの抵抗感や不安感が自然と生じるからだ。
解かりやすく合法的な意味で伝えるなら
禁酒法のような法が撤廃されたとすると、
誰もが突如としてハメを外して飲酒による問題を発生させる。
酒乱が齎す事件の様なことも発生する。
自由な社会では、こうした問題も対処しつつ、
社会は自然とこうした問題も受け入れて考えるのだ。
欧米のマリファナの合法化などで考えると、
麻薬に抵抗感を持つ日本人には
何気に解かりやすいかもしれない。
またLGBTの問題も、
教育上であり生物学上の
問題として考えることもあるだろう。
自由とはこうした権利を
個人の選択の自由として開放するものであるが、
出生率低下の要因になると考えたり、
生物学上異質な恋愛が横行するのではと、
いわば人間社会の伝統を考える事も理解できるだろう。
そして何が正しいのか…
結局は試してみた結果でしか解らない事も多いのは事実だ。
そういう意味で誰もが持つ自尊心による決断の殆どが
直感でしかないのだ。
その直感が正解なのか否かは、
最終的には歴史の中で証明されて
初めて知ることも多いのだ。
信長の母親である土田御前が、
信長の廃嫡を直感で考えるには十分な材料が揃っていた。
伝統を無視して身分の低い者を
正妻に迎え入れようとした結果、
大きな問題を起こしたわけだ。
しかもその土田御前の実家を巻き込んでの話となれば、
誰もが直感的に信長の廃嫡を考えても可笑しくはない。
寧ろ自由社会に生きる現代人からすれば、
信長の自由恋愛の発想は、
当然の個人の権利として考えられると理解できるだろう。
いわば信長と吉乃の恋路を無理に妨害しなければ、
土田御前の実家を巻き込んだ事件すら
発生しなかったとも言えるのだ。
とは言うものの、
当の土田御前が実子として信長を溺愛していたのなら
話は別であっただろう。
寧ろ信長を溺愛していたのなら、
信長と吉乃の恋路に割って入らなかったとも考えられる。
しかし信長は土田御前の手元で育てられたわけでは無く、
逆に弟の勘十郎(後の信行とも信勝とも)は
彼女の手元で育てられた子供になる。
故に土田御前としては
信長より勘十郎の方を溺愛したのだ。
母性の心理からすれば、
信長は実子でも自分から離れた子供である。
それでも嫡男として成長した訳で、
むしろ嫡男として立派に成ってほしいと願うだろう。
故に伝統的な仕来りにも従って
家中を纏め上げられる人物に
成ってくれれば良いという考えになるのだ。
むしろ自分の手元で育てた勘十郎に対しては、
多少の我がままは聞いてあげたくなるのも母性の心理なのだ。
そうした中で信長は嫡男として大きな失態を演じたわけだ。
この時に土田御前が思いついた直感は…
信長を廃嫡して、勘十郎を嫡男にすることとなる。
いわば実家の消失で一時的には悲しむも、
最終的には自分が理想とする状況が
舞い込んできたと気づくのだ。
表面上では、林秀貞らに、
「信長は私の実家を滅ぼしたのです。決して許せません!!」
という怒りを露わにして見せるのだが、
内心では、
(信長は失態を演じてくれた…これで勘十郎が嫡男になれる)
と考え、
(勘十郎さえ嫡男に成れば、信長は後で許しても良いだろう)
とまで計算しているのだ。
計算という点で言うなれば、
母としての慈悲を示すことで、
家中の人心を取り込むことまで考えていると言っても良い。
いわば土田御前の直感は
自身が家中を掌握する機会を得たと感じたものなのだ。
これを権力欲に対する直感としておこう。
そのころ一方の信長は、
自己の失態の責任を意識してか、
祖父と従弟にあたる弥平次の弔い合戦を考えていた。
勿論、吉乃との恋路の邪魔だてになる弥平次は、
上手く始末することも考えていた訳だ。
そういう意味ではこの状況は誰が見ても信長の立場は悪く、
直感的にもその立場を覆すための思考が働く状況と見えるだろう。
ただし信長がその為だけの弔い合戦を演じる程度なら、
後に天下を目指すどころか
尾張一国すら手中に収められなかったと言っても良い。
人は見ていない様で見ているとはよく聞く話だが、
誰もが自尊の念を抱いて生きているのなら、
それは当然である。
信長という人物は短気で気性が荒いが、
実は情に流されやすいところもある。
それは浅井長政が裏切った時の驚きであり、
足利義昭と縁が切れる時の話であり、
更には家康との関係など、
歴史に残る記録から読み取れる部分である。
吉乃との恋路の障害という事で、
弥平次に対して短気を起こした信長であったが、
この野盗討伐に対して
弥平次の姿勢が協力的であった事を知って、
信長はその道中、弥平次側に当初の作戦を変更する旨を伝えたのだ。
当初は弥平次らを先陣で送り込み見殺しにする予定であったが、信長はその作戦を逆利用して上手く共闘する形を伝えた。
いわば弥平次らを先鋒で突っ込ませ直ぐに引き上げさせ、自軍が伏兵と成って敵の追撃を削っていく形で伝えた。
当初の見殺しにする作戦では、先鋒隊が突撃している内に、自軍は敵の手薄な所を探ってそこを攻めるという流れだった。
いわば先鋒隊の犠牲必須の作戦である。
それを信長は覆して弥平次らが生きる作戦に切り替えたのだ。
ある意味、弥平次が協力的でなく気に障る人物だったのなら、信長は一益に命じてこの直後に発生したような土田城襲撃を指示したのかも知れない。
魔王的な信長像で見るなら尾張土田氏の痕跡が歴史上に残らなかった事はむしろ信長の教唆であった可能性としても考えられる。
そういう意味で信長が襲わせたとするなら弟・信勝(勘十郎または信行)が反抗した際、母親の土田御前も同罪で殺した可能性も高いのだ。
いわばこの土田氏を意図的に抹消する意味は、反逆者となる母・土田御前に対しても一切の情がない事を意味するのだ。
しかし史実として残るのは、
信長は弟と同罪の母親を許していることである。
それ故にここでは信長が弥平次に対して情を抱いた心情を採用して話を進めることとした。
無論、その場に居なかった者たちは、結果として土田氏が滅亡した事実から、信長に対して様々な憶測の目で見るのだが、最低でもその場に居た信長の側近は、信長の心変わりに感銘を受けたと考えても良いだろう。
そして正義感が強く、信長の心境の変化に最も安心感を抱いた河尻秀隆は、
信長に、
「吉乃殿との婚姻の件は、私から弥平次殿から断りを入れてもらうように話してみます。彼の様な御仁ならきっと解かってもらえるとおもいます。」
と、伝えたのだった。
勿論、ここは小説として更なる着色という形にも成るのだろうが、当の弥平次もこの作戦に協力的で、信長の要請に対する返答は、
「兵は300人程度は揃えられ、武具も兵糧も用意してお待ち申し上げす。若の縁者として共に武功を立てれる時を楽しみにしております。」
という形であったと創作する。
こうした誠実な返答を受けたのなら、信長でなくとも誰しもが弥平次が好感の持てる人物で有る事を察せられるだろう。
これに対して御しやすい人物と見るかは人それぞれとも言える。
ここでの信長の直感は、弥平次は味方として絶対に死なせては成らない人物だと感じたことで、信長としても吉乃との因縁は関係なしに、一度会って話をしてみたいとも思ったことだ。
実はこの部分は単なる創作の美談という訳では無い。
寧ろ人が人を殺す心情と同じで、謀計に嵌めて誰かを殺すのも初めは躊躇うのが当然だ。勿論伊勢長嶋の戦いで信長は一向宗を謀計に嵌めて虐殺している。しかし、彼ら門徒は何度も約束を反故にしてきたから信長もその手段を決断したと言える。
実際に信長の心情としてはそういう手段は自分を許せない為、頭を過っても中々実行に移せるものでは無いのだ。
その矢先に野盗団は弥平次らの土田城を襲撃したのだ。
故にこの弔い合戦に対する信長の本気度は全く別物である。
前話で述べている様に、信長の手勢はせいぜい100人程度である。
一方の野盗勢は信長の襲撃に備えて兵隊を予め集めている。
その上で土田城を襲撃したのだ。
それ故に少なくとも倍の200人は予想でき、下手したら300から400人は居るとも考えられる。
予定していた土田方の招集兵が実際どれほど充てに成るかも
現地に到着するまで解らない状況であった。
それでも信長は弔い合戦に挑むのであった。
小説として出来すぎた話に見えてしまうだろうが、むしろ大うつけのレッテルを貼られた信長が、天下に名を知らしめるまでに昇り詰める上では、こうした武勇伝のエピソードは桶狭間以前にも存在せねば成らないのだ。
読み手の方々には、
この小説における創作部分は史実として残る記録に対して確実に辻褄が合うように推理と検証の下で考えたものであるという事を理解してもらいたい。
いわば創作部分の話無しでは、
史実として残った流れを上手く説明できなくなるという事だ。
では、ここまでの流れで史実に残る部分で整理してみよう。
これらを推理小説の事件簿として読み手も色々考えてみて欲しい。
①信長が大うつけとして扱われた点。
織田家以外の話と比較して考えた場合、単なる暗愚な嫡男を否定しただけの話ではないという点。
史実として信長に抵抗した勢力は、父・信秀の側近たちが主流。
筆頭家老の林秀貞に柴田勝家などはその代表格になる。
更に大きな違いは、信長と抵抗側の神輿の信勝は土田御前という同じ腹から生まれたことにある。
通常のお家騒動の起因は、家臣団のクーデターか女性の権力闘争が絡むケース、またはそれらが相互作用することで発生するが、実母が同じ兄弟の争いは比較的稀といってもよい。
この稀なケースの主はその母親自身が権力を握る為の画策になり、信長のお家騒動のケースもそれは否定できない。
更に現実的な問題としてここまで家臣団が反対し、その母親まで反対する程なら、父である信秀も信長の廃嫡に動いても可笑しくはないのだ。どれだけ父として長男である信長を愛していても家中分断の危機になる状況ならそれを放置するのは寧ろ不思議としか言いようがない。
しかし、廃嫡には至った経緯は資料に存在せず、結果として織田弾正忠家は信秀の死後、分裂に至った。
ここで史実の資料だけでは、
説明のつかない疑問が生じ点はご理解できたと思う。
この疑問を問題の主犯格となる信秀の立場で考えてみてほしい。
信長が普通に大うつけならと…
素行が悪い、勉強しない。
一般的に歴史家たちが推測した大うつけ信長像はこうなる。
これは信長公記にも記載があるからだが、寧ろこれが理由で家中分断に発展したのなら、家を守る家長として信長の廃嫡をかばい建てする理由がないことになる。
いわば仮にどれだけ武勇に長けていても、その家を纏めるだけの素養がない点を家臣団から糾弾されたら、家長としての素養は明らかに無いと判断するのが当然である。
親バカとして見ても、信秀の史実で残る功績を考慮すると、寧ろ親バカだけで家中分断を招くような決断はしないと言ってもよい。
ましてや信秀の周囲には敵ばかりという状況下であえて家中が纏まらない要因を放置することは自ら存命の指揮下で考えてもあり得ない話になる。
それでも廃嫡に至らなかったという事は、信長の中に家長として絶対に不可欠な素養を信秀が見出していたからという流れになる。
いわば素行が悪かった、勉強しなかったは大うつけの理由でないという事だ。
特に戦国の時代は近代、現代で主流と成っている学歴社会ではない。その分、子供の資質を勉学だけで計る時代ではないと言っても良い。
そういう意味でこの小説における信長幼少期のエピソードは、家臣団であり実母が反対しても廃嫡に至らなかった信秀の心情として絶対不可欠に存在しなければならない出来事で、信秀が親バカとして寧ろ信長の成長を見守った見識の中で揺るぎない素養として確信できるほどのインパクトを持たせなければ成らないのだ。
筆者は以前、筆者の父親とちょっとした昔話をしたことがある。
それは筆者がまだ学生だった時分に湾岸戦争のニュースを見ていたときの事で、米軍と連合軍がイラクを激しく空爆していたものだった。
その時、筆者はそれを見てこの空爆を想定するならイラクは地下シェルターを持っているという事を突き止めたという話だった。
それは恐らく自分がサダム・フセインならそういう準備はするという意味で伝えたのだ。
その後、地下シェルターの存在が明らかになった訳だが、どうやら父親は自分の息子がそれを予め突き止めたことを衝撃的な印象として覚えていたらしい。父親との話では筆者がそれを言ったのか弟の方が言ったのか定かに覚えてはいなかったが、「あれを言ったのはお前の方だったか?」と聞いてきたので、ある意味薄々は覚えていたのだろう。
実は弟の方が自衛官になりたがっていたり、軍事オタク気味の趣味があったため多少記憶が曖昧になるのも無理はないが、歴史小説が好きだった父の中で何か思う所があってそれを聞いてきたのだろう。
故に信秀と信長の親子の間に、何か特別なエピソードが存在しなければならないと推測したのである。
小説のエピソードはそこからの逆算で、後の信長の治世や戦術から、幼少期に体験しているだろう事を割り出し、信長の性格から書物や勉学で学ばないスタイルまでを考慮して、自然と成立しておかなければその才能を開花させるのに辻褄が合わなくなる部分で創作したものになる。
ある意味、身分社会としてその頂点の武家当主の子に生まれた信長が、どうした経緯で底辺に位置する農民を気遣う発想に行きつけたのか…そういう疑問を払拭する話が存在しなければ成らないという事に成る。
書物や教育で信長がその必要性を理解するという話は、寧ろ史実に残る信長像とは異なる。
反対に史実の記録を読み解くと、農民らとの関わりから「情」というものが芽生えたという流れが自然と成るのだ。
そうした中で秀吉の出世話として有名な「清須城普請」などを信長の見識深さとして検証すると、信長自身に秀吉の提案を理解できるだけの度量が無ければ成立しなくなるのだ。
突然の閃きは経験の中での成功や失敗に起因する部分が多く、それなしでは科学的に説明がつかないという事である。
前例のない提案への判断もその閃きと合致しなければ、決断には中々至らない。
いわば信長の奇想天外とされる発想の根源は、必ず基礎となる経験が存在する訳で、この小説のエピソードは全てそれを割り出して解析したものである事を読者には知っておいてもらいたい。
更には信長が吉法師時のこうしたエピソードは偶々結果が伴ったというものでなくては成らず、他の人間の役割が起因するように見せることで傍から見て信長の能力にケチをつけられる形でなければならない。
いわば林秀貞のように直接信長の行動に関わっていない人間が、その話だけを聞いて平手政秀か沢彦の入れ知恵だろうと思う程度のものでなければ、信長が大うつけとして扱われた史実に反してしまう。
吉法師時代の自由奔放な生活で神童であり天才という部分が強調されると、織田弾正忠家を2分する意味での廃嫡という点では現実的な流れとして説得力が掛けてくるのだ。
他の漫画や小説では、こうした天才要素を強調しすぎる物が多く、創作物としては問題無いが、科学的にはお家騒動に発展するまでの根拠としては乏しくなる。
かの大河ドラマのマッチョな信長は、誰が見ても「頼りがいのあるイケイケな当主」に映るのだから。
その為、信長の大うつけのレッテルは読み手も含めて誰が見ても「アウト!!」と感じるもので無くては成らないが、前にも記した様に記録として明確に存在しないため誰も知りえない部分であるのも致し方ない。
ただし、科学的な分析・・・
信頼できる一次、二次資料は、どういう視点で記されたかを分析し、逸話として扱われる資料はどういう経緯でその逸話が残ったかを解読するのだ。
更には有るべきはずの資料が存在しない点も考慮しなければ成らない。
②信長の母親である土田御前の出自が曖昧な点
これは有るべきはずの資料が存在しない点に成るのだが、天下統一目前まで為しえた織田信長の母親の出自が明確に無い所だ。
兄弟争いでありお家騒動の事件は史実としてほぼ明確に伝えられる中で、土田御前の存在も確認されている。
しかし、その母親の出自に関しては、美濃の土田(どた)氏なのか、尾張の土田(つちだ)氏なのか、それとも別なのかかなり曖昧な記録になる。
何度も伝えてきた話だが、美濃土田氏は美濃でも明智氏の下に位置する訳で、尾張でそこそこの地位にある織田弾正忠家の正室に迎えるには不可解すぎる家柄である。
吉乃の話で生駒家と美濃土田氏の話が登場する様に、明らかに商家の身分であった生駒家と美濃土田氏は同等という立場。
故に土田御前の出自が美濃土田氏である事は、科学的に見ると有りえないと言える。
すると尾張の土田氏説に成るが…この尾張の土田氏の記録は土田政久という名以外の記録は皆無である。
母方の出自の家柄で考えるなら、信長の後の配下にその出自の人物が記録として登場する方が自然な訳で、その記録すら無い。
ここで科学的に推理するなら、その土田氏は消滅した可能性が高くなる。
③吉乃の出自、生駒家の実態と前野長康の存在
生駒家の話に関しては、前野長康親子の記録である前野家文書など「逸話」として考えるべき資料からその逸話を解読しなければ成らない。
前野家文書はほぼ伝聞…いわば聞き伝えが構成の主体である。
そしてその内容は当時のゴシップの要素が見受けられる。
生駒家の家系図の方では、吉乃の前夫とされる人物は何某弥平次と記され姓が省かれる形は家系図としては異例中の異例になる。
その異例中の異例の人物を前野家文書では、土田弥平次と記している。
あえて言っておくが、歴史上に記された話で今と成っては確実な証拠は皆無なため、100%の確証は与えられない。
しかし推理の部分で考えるなら、何故生駒家はその姓を隠し、前野家文書はその姓を「土田」と記したのかだ。
推理上で考慮するべきは、ゴシップとしての前野家文書では、実は「土田」と記した根拠は尾張の土田(つちだ)氏に対してでは無く、美濃の土田(どた)氏でむしろ生駒家に対するゴシップで記している。
ここで読み手の方に少しゴシップ要素に興味を持って頂こう。
織田信長の嫡男織田信忠の母親に前夫が存在した。
これは史実の記録上曖昧になるが、その織田信忠の母親は明確には吉乃とは断定されない状態である。
勿論「吉乃」という名も後世に付けられた名前だが、ここでは生駒家出自の信長の妻別名「生駒の方」を吉乃としておく。
その生駒家が吉乃の前夫の姓を「何某」とあえて記している点を怪しんで欲しい。実際に現存する家系図にも確認できるらしい。
信忠の生母には実は前夫が居たというだけで少し汚点に思ってしまう。
故に信忠の生母が曖昧な形で色々と伝えられている可能性はある。
ただし吉乃がその生母であるなら家系図からその記録を抹消しても問題なかった話でもあるが、家系図にはハッキリと前夫の存在が記されているのだ。
そこで考えられる実態は、織田家家中にその事実を知る者が多かったから隠せなかったという事。
では、何故その姓に関しては「何某」と記したのか。
政治家のゴシップとして、いわば権力者のゴシップとしては興味をそそる話に見えてくるのです。
事が進んでから織田家であり生駒家に出入りするようになった前野長康ら親子が、ほぼ同時期に信忠誕生を聞き知り、その母親である吉乃の話に興味を惹かれたのは十分有りうる話となる。
実際に秀吉との関係も有って出入りしていたとされる生駒家で色々な人物から話を伝え聞いた流れは、当然なものとして成立する。
出世した前野家は今では立派な武家であるが、秀吉と生駒家に出入りしていた時分は、良くて国人衆でほぼ野武士という存在で、ゴロツキというかヤクザな存在であったと言える。
その中で、誰もが口を閉ざす「何某弥平次」という「何某」とされる部分、長康ら親子で無くとも誰もが怪しむ所で、ようやくたどり着いた所で「土田」という名前が解った。
人の弱みに付け込む事に敏感なゴロツキであれば、ある意味突き詰めたい心理が働く内容とも成る。
さて伝聞なので「つちだ」と聞いたのか「どた」と聞いたのかは定かには出来ないが、何れにしても漢字の「土田」に結びつく憶測は探求心の心理として成立する。
さてここからは推理の話で、長康ら親子の憶測と同じ感じにもなるが、生駒家との繋がりから漢字の「土田」は自然、美濃の土田氏に結びつく。一方で信長の母親は前述の通り信秀の正妻である以上、美濃の土田氏はほぼ有りえない。しかし「つちだ」と聞いても漢字の「土田」に結びつく。
憶測を悪と考えるなら、音で聞く「つちだ」と「どた」は結びつかない。
ところが弱みに付け込もうと探る人間は寧ろ「何某」という意味で隠し立てする部分に憶測をぶつけて考えてみる。
ここで前野長康は蜂須賀小六と組んで、当時は野武士というゴロツキであったという点を忘れは成らない。
ゴロツキと断定する部分は、その当時の織田家での纏め役が、まださほど出世していない木下藤吉郎こと秀吉だった事でも言える。
ここは憶測で無く立派な推理として説明しておこう。
この当時、美濃と尾張は1556年に斎藤道三が戦死して、同盟関係が破綻した時期に成る。
故に織田家に使えながらも、織田家の弱みを握る事は、地理的に国栄で活動するゴロツキにとっては格好のネタとも言える。
後に秀吉の下で出世したから見えにくい部分だが、当時の木下藤吉郎の身分でそんな大出世が期待できるほどの信頼関係が有ったとは逆に考えられない。
ならば生き抜く処世術として美濃の斎藤義龍と信長を天秤に掛けておくほうが自然と言える。
そういう冷静な分析で前野長康ら親子の心情を察すると、これほど面白そうなネタは無いという話に繋がるのだ。
実際に前野家文書は存在する訳で、ゴシップを突き詰める動きはあったと言っても良い。
しかし、憶測が間違った方に進んだ可能性は高いのだ。
これは既に記している事だが美濃土田氏から信長の祖父である織田信定に「いぬゐ」という女性が嫁いだという記録も存在する。
おそらく前野長康らの情報網からそこを探り当てた可能性は高い。
生駒家と美濃土田家の関係性から話が聞こえてくる可能性は十分に高い。
この「いぬゐ」は実は信秀の生母「含笑院」とされる人物だが、その出自は織田筑前守良頼とされている。
ただ憶測が先行すると美濃土田氏から嫁いだとされる「いぬゐ」と同一人物と見なすことも出来る。
実際にこの話が本当なら、読み手の方がたも怪しむだろう。
そこで更に「土田御前」である。
信秀の母「いぬゐ」が美濃土田から嫁いだにも関わらず、織田弾正忠けでは誰もが「織田良頼」の娘と言っていると勘ぐると、土田御前の出自も尾張土田(つちだ)氏とされるが、実は美濃土田(どた)氏だったのではと勘繰る。
実際に土田政久の名前以外は尾張土田氏の存在は前野長康らが生駒家に出入りしていた時分には確認できない状態だったとも推測できる。
さて前野長康らこの憶測に進んだという根拠だが、それは歴史上の記録で曖昧に存在する部分が明確に残るからだ。
それは土田政久と「どたまさひさ」として実は生駒親重が政久の子、または同一人物であると記されている事だ。
生駒親重本人はこれを否定したという記録もある。
そこから察するに前野長康らは生駒親重本人にその事を直で追及した可能性が高くなる。
いわば織田家の弱みである前に、生駒家の弱みとして。
勿論、前野長康らの行動をゴロツキの手口として考えれば、生駒吉乃の嫁いだ先が実は「土田(どた)弥平次」という人物で、そこから出戻った吉乃には実は子種をやどしていたのではという流れ。
そこで信長の嫡子となる信忠はいわば美濃土田氏の超近親で生まれた子になる事実だが、長康が突き付けたのは信忠が実は信長の子でないという事だ。
これは前野家文書に吉乃の前夫・土田弥平次は1556年9月に没したという記録があるという点で明確になるが…
恐らく生駒親重は長康の追及が見当違い過ぎてハッキリと否定して見せたと考える。
その為、前野家文書を含む武功夜話では1551年やら1555年やらと信忠出生を巡って曖昧な表現が残ったり、信長と吉乃の関係は濃姫の輿入れ前だったという記述まで登場するのだ。
これらの曖昧な表現が残る部分としては、結局前野長康の生駒親重への追及は失敗したという事。
その上で生駒親重から聞かされた内容を恐らく後で思い返して史書として残す意味で整理したところ、「濃姫(帰蝶)の輿入れ前には吉乃と信長の関係があった」という話の部分で混乱したと見える。
実際に長康が最終的に追い求めたゴシップは、信長が美濃土田氏の近親相姦で誕生した点で、いわば祖父が美濃土田氏の「いぬゐ」と、そして父親は更に美濃土田氏の「土田御前」という関係。
その事実故に織田信長は「大うつけ」とされたという内容にも成るわけだが、そうなると同じ腹から生まれた織田信勝も同じになる事は忘れては成らないと言っておこう。
さて…これだけゴシップネタを求めて探りを入れたであろう前野長康がたどり着けなかった事実は…
そう考えると土田御前の史実的には最有力の出自に成る尾張土田(つちだ)氏の存在だ。
さて…何故この尾張土田氏が最有力なのか…
実は信秀の母親である含笑院の為に含笑寺を建立したという記録があるが、その場所が清州の土田であったという事だ。
歴史を研究する人たちは文書で無いため見逃しがちだが、信長の母親の土田を特定するのに最も有力な手掛かりなのだ。
当時の清洲周辺は大和守家が主体で弾正忠家が入り込める余地はほぼ無い。建立した時期が信長が生まれるより前の1528年であるとすると、信秀の勢力圏は那古野にすら達していない。
そうした中で尾張の首都とも言える清州に程なく近い場所を自由に出来るとは考えにくいのだ。
この土田という場所は清須城から1キロ圏内の場所になる事で、かなり特別な場所と見なしてよい。
この場所に母親の寺を建立したわけだ。
それが当時の織田信秀の力で可能だったという事は、そこの領主と懇意にしていたからという事で考えた方が良い。
そうなると尾張土田氏との関係に自然と結びつくわけで、寺の土地まで許せる関係となると親戚関係で考えるしか無くなる。
いわばその土田氏の娘を正妻として迎え入れたからとう関係性が結びつき、その存在が土田御前とされる事実から明確な辻褄として成立するのだ。
ただし、歴史上で直近の時代の前野長康ですら知りえなかった尾張土田氏の存在故に、歴史家にとっては謎多き部分になるのも事実である。
更には歴史上の文書から察するに、実際は生駒家は商家であったにも関わらず、生駒家は元来武家であったと現在でも主張している点。
いわば信忠の出自を今だ気遣う姿勢がそのまま伝統的に継承されている事と、何某弥平次の秘密は伝承としても口外せぬよう伝え聞かせんかった事。仮に当時の事を知る生駒家の者が伝え聞かせていたのなら「何某弥平次」の謎は500年も時を得た現在には公に資料として残るはずなのだから。
そういう姿勢を見ると現存する生駒家は今も昔も立派武士であるのだと理解できる。
それ故に「何某弥平次」という吉乃の前夫に大きな秘密が有る点は疑いもない所として残るのだ。
④筆頭家老林秀貞に限らず、母親の土田御前まで見捨てた事実
結局、信長に敵対した勢力は弟の織田信勝(信行)、林秀貞(旧道勝)、そして実母の土田御前が主犯格である。
単純に考えて信長が神輿として扱いづらく、信勝の方が扱いやすかったからという理由も考えられる。
恐らくは最終的にはそこも含めた形に成るだろう。
特に林秀貞の様な人物ならその基準は的を得るだろう。
勿論のこと自分の側で過保護に育てた信勝に母親の土田御前が傾くことは十分に考えられる。
しかし…ただ単に彼らが扱いづらいからという理由で、他の者たちがある意味弾正忠家としては不義理になる方へ靡くかという点である。
実直な性格で知られる柴田勝家が単に林秀貞に逆らえないからという理由で、信秀の決めた嫡男を見捨てるのか…
そういう疑問も感じるべき点である。
実際に信秀の死後1552年から直接対決の1556年稲生の戦いまで、4年の歳月があるが1553年に信勝は既に弾正忠を名乗って信秀の後継を自称している。
直接対決に至らなかったのは信長の背後に斎藤道三が居たからと言っても良い。その道三は1556年に戦死しているのだから。
それ故にこの弾正忠家のお家分裂は、4年間様子見があったわけではなく、信秀の死後、その喪に帰する時間を得て発生したものである。
信長が大うつけであると広まった時期は推察するに、濃姫こと帰蝶が信長に嫁ぐ以前と考えても良い。
ある意味、既に美濃守護の地位にあった斎藤道三が、自分の娘を守護代でも無い弾正忠家に嫁がせる決断に寄与した所で考えるべきだ。
いわば寧ろ信勝の様な普通に立派に育った相手なら、道三の性格上、格下との政略結婚に興味すら抱かなかったと考えても良い。
勿論、格下といっても美濃との抗争の主犯格は弾正忠家な訳で、和平の為という体裁は考えられなくも無い。
しかし、自分の娘を人質に出す様な話で信秀を信頼するとは寧ろ考えにくいのだ。
いわば和平の為の政略結婚なら、逆に信長の妹お市の方を義龍にという流れが当然である。
それがダメなら道三ほどの腹なら、松平か今川にでも帰蝶を嫁がせただろう。
これが寧ろ戦略的な見解であり、確かに濃姫こと帰蝶の輿入れは歴史家の思考でも意味不明すぎる話だろう。
ところが道三ほどの人物で、好奇心の高い人間なら、大うつけとまで言われる信長が本当はどういう人物なのか興味を抱くと言える。
単なる噂だけなら勿論興味は抱かない。
それを支えている人物が、道三が目にしても一目置ける平手政秀であり、自分を苦境まで追い込んだ織田信秀が大うつけとされるその信長を未だに廃嫡していない事だ。
こうして思考すると読み手にも道三が「信長とは何ぞや?」と興味をそそる部分は理解できると言えるだろう。
ではその実像をみるには…
まあ、自分の密偵として娘を送るのも有りかと考えるのも一理あるのだ。
無論、確実に成功する訳ではないが、信長が本当に大うつけなら帰蝶には戻ってこさせれば良いと、逆にそれが失敗してもその時は致し方ないと覚悟を決めた上で。
さて…その大うつけの噂話は勿論ある程度の詳細は、道三の耳にも届いてると考える方が普通である。
「素行が悪い、勉強が出来ない」
こんな程度の大うつけの噂なら、信長に限らずどこにでも有りそうな話だ。
では、前野家文書の様に近親相姦で生まれたという話だと…
逆に道三は気味悪がるだろう。
また、美濃土田氏は道三の所領で明智氏に近いため、寧ろその事実確認まで容易な訳だから、道三が一切気にせずに信長を受け入れた史実で流れるなら、寧ろ無いと言っても良い。
ならば戦略的な着眼点に絞って思考して見よう。
尾張を上手く攻略すると考えて、その中の一番大きな勢力である織田弾正忠家をどう料理するか、である。
団結した敵と真っ向から戦えばそれだけ被害は甚大なものになる。
しかし敵が自ら分裂すれば、敵は同士討ちを始めその一方に味方することで敵勢力の半分は少ない被害で仕留められる。
いわば信長の大うつけっぷりが寧ろ弾正忠家の分断に寄与するなら、信長に味方する形で介入し、そのもう一方を壊滅に追い込むのも手と考えるのだ。
ある種、信長への興味も有るが、場合によっては戦略的に利用できる形も見て取れる状況と成るのだ。
しかし、その大うつけの根源は何かが実は大事に成ってくるのだ。
家臣一団となって信長の廃嫡がまかり通る様では実は意味がない。
むしろそれを理由に介入出来ても、自軍に生じる被害は同じ程度に成ってしまう。
逆に家臣団の意見が割れるような話であれば、たとえ信秀が廃嫡を決めても分裂する可能性は高い。
あの手この手を尽くして尾張の分断を図った道三が興味を持つほどのインパクト。
織田家の大和守家や伊勢守家をそそのかして、信秀を苦しめようと謀ったものの大きな成果を得られなかった中での大きなインパクトで考えなければ成らない。
娘の命を掛けるとはそれだけの勝算は欲しいと考えるのは当然である。
そういう意味で考えるなら道三が見て取れる状況は、
母親の土田御前も激怒する状況。
筆頭家老の林秀貞を含む家臣団が呆れる状況。
信秀がそれでも信長の廃嫡に動かない状況。
この三点が揃うのは、人間としては致し方なくともリーダーとしては愚かな行動に成る。
いわば人間として致し方ないと見える故に、情として許せてしまう訳で信秀が親として許す事が理解できるという内容。
且つ情の薄い家臣団は許せず、情のある家臣団は信秀同様に理解する。それ故に家臣が割れて争う要素が見て取れる。
更に本来、情に流されるべき母親がその情を切り捨てるほどの内容になるのだ。
そこに隠された秘密「何某弥平次」の存在と、消えた尾張の土田氏を合わせると「恋に溺れて失態を犯した信長」=大うつけという事が見えてくるのだ。
現代でもこういう失態を犯せば世間からかなり叩かれるのは目に見える。織田家中が大騒ぎするほどの出来事であることも解かる。
吉乃という存在が、公な所であまり登場しない点、
信忠の母親として明確に記録が存在しない点、
そしてこの事件が信長公記を記した太田牛一ですら知りえなかったと考えるなら、当時を知る家臣の誰もが周知するほど、権力者となった信長自身が絶対に触れられたくない汚点になる。
いわば吉乃との恋に溺れて、母方の実家を結果的に滅ぼし、挙句の果ては家中を分断させる要因に成ったのだから。
故に信長自身も稲生の戦いの後、誰も処分出来なかったのだ。
林秀貞の様な人物は信長にとっては既に用済みと言えた訳で、稲生の戦いの後では殆ど活躍の場がない。
反対に秀貞の様な人物は危険な存在でしかなかったわけだが、それでも信長は処罰しなかった。
信長の性格を考えるなら問題の主犯格である人物は処分しても可笑しくは無い。
それをしなかったという事は、これも信長の性格で自分に汚点があったからだろう。
しかし推理を駆使して見出したこのエピソードであるが、問題が一点だけ残る。
それはこれだけの事件が500年もの間、公に語られない事だ。
織田家の汚点話として口止めされていたとしても、逸話としてどこかに聞こえていても可笑しくは無い。
いわば母方の出自の土田氏が消滅したニュースに成ってしまうからだ。
勿論、口止めを示唆したのは信長では無く、信秀に成るだろう。
いわばこの問題は信秀にとってその嫡男が犯した最大の汚点になるからだ。
事件の発生時期を丁度濃姫こと帰蝶の輿入れが決まる直前1548年で設定している訳だが、信秀の命によって関係者の口止めが信秀が亡くなる1552年まで徹底されていたとして、約4年間でこの話を一切語らないことが通常化されたかは不明であるが、昨今ではケネディの暗殺の実態であり、リンカーン暗殺など裏に潜む話は隠されたままに閉ざされていると考えると、本当に尾張土田氏の事件は隠蔽されたのかも知れない。
勿論、土田御前が孫にあたる織田信雄に語る可能性もあるが、それは孫に自分が信長の反逆者であった事を語るに等しく、あえて口にしなかったとも言える。ただ、自分の父親は土田政久で有ったという事のみで。
また林秀貞らも反逆の理由を信長が大うつけをしたからと語るに留め、決して土田氏滅亡を口にしなかった。それもある意味同士の側に立った土田御前に気を使ってのものとも考えられる。
ただし、信秀がどの時点で口外せぬように発令を出したかは不明であるが、もう一つの効果として信長が稲生の戦いの後で、踏み絵として反逆の理由に土田の話を用いた者は、父・信秀の言葉に逆らった者として処分した形は考えられる。
これによって家臣全体に自然と事件隠蔽意識が行き届いたとも言える。
何にせよ怪しむは土田弥平次とされるところが「何某弥平次」と記されている事実で、一説の光秀の弟分、明智秀満説の話より、何某と隠す根拠はより強まる。
いわば当時の日がまだ浅い流れで土田弥平次と記したのなら、土田事件とする話に結びつきやすくなり、織田家の禁句に触れることを恐れたと考える方が自然と言えるのだ。
生駒家としても吉乃が後妻になった事実までは隠蔽する必要ないと判断したか織田家の誰かから指導を受けたかでそこは残しつつ、その姓だけは不明としてあえて歴史上に何かを残そうとしたのかもしれない。
結果として前野長康ら親子は、「土田弥平次」の名を探り当てるも、的外れな形で「どたやへいじ」と結びつけてしまう訳だが、寧ろこの事で「土田(つちだ)」氏の痕跡がその当時には消えていた可能性が見えたのも事実である。
仮に「土田(つちだ)」氏の痕跡が有ったのなら、生駒親重が土田政久本人か、土田政久の息子かなどという記述は存在しなかったといえるのだ。
故に、この事件は信秀が早い段階で口外せぬよう家臣団に口止めし、最終的には信長がそれを踏み絵として投降者の意識を図ったため、誰も口にしなくなった。
故に500年間も闇に包まれた話に成るが実は何某弥平次とした事で何か重大な事件を隠した事を残したと考えるのである。
その重大な事件を紐解くと、生駒家と織田家の関係と更には土田氏との関係に自然と結びつき、それは信長、吉乃、土田御前が結びつく出来事なら後のお家騒動に結びつく流れが成立するという事なのだ。
更には信長の戦歴には初陣から暫くの空白期間が存在する。
歴史的な事件としても、1547年の初陣から1549年の濃姫の輿入れまではほぼ目立った動きは無い。
確かにこの間ただ遊んでいただけならそれも大うつけに見えるが、むしろこれから暫くして信秀が亡くなった際、信秀の主力を敵に回しても十分にやり合える部隊を自前で手にしていたと考えるなら、この時分から何も準備していない方が不自然に成ってしまうのだ。
ある意味4年間しか無かったとも言えるわけで、オリンピックで活躍する選手がこの4年間をどれだけ大事にするかで考えると、信長が何の行動していない事は歴戦の部隊に太刀打ちすら出来ない状態を意味する。
結果としてその部隊を相手に劣勢にありながら更に8年後の稲生の戦いで勝利するのだから、信長の自前の部隊は相当鍛え上げられていたと考えるべきである。
話を物語に戻して…
信長らは土田政久が予め領民を招集した時刻前に土田城到着した。
勿論野盗団の襲撃を受けて既に城は廃墟と化していた。
すると徐々に召集を受けた兵らが
300人程度集まってきた。
集まってきた兵らは土田城の惨状を見るや、
「土田様はどうされただ…」
と口々に困惑した。
そこへ信長らが登場して
河尻秀隆の口で彼らに事態の概要を伝えた。
「昨晩、土田殿らは野盗団の襲撃に会い討ち死にされた」
そして、
「我々はその土田殿と共同で野盗団を討伐する予定であったが、今と成ってはその弔い合戦となる」
と話した。
一見領主の弔い合戦という話で、招集を受けた領民の士気も上がりそうに見えるが、現実はそうではない。
その前に簡単な兵役の計算してみよう。
参考資料で軍役を調べたところ、
豊臣時代の資料では、百石7人制とあり、いわば百石に付軍役を7人出すと規定したようだ。
これは徳川時代には、百石2人制に変化する。
それ以前の戦国時代では大名によってまちまちだが、
おおよそ百石8~10人と考えても良いかと思われる。
では、その百石とはどういう大きさなのか…
一石は基本的には体積の基準で、
1升=約1.8リットルで、100升=1石と規定されているらしいが、
この規定は明治のもので、戦国時代の話だと曖昧になる。
ただし体積ではなく石高という意味で一石を考えると、
その広さが気に成るだろう。
1石の広さ=現代の基準で1000㎡だそうだ。
1000㎡を正方形で換算すると、
31.62mの二乗になる。
10石だと10000㎡なので、解りやすい。
100mの二乗だ。
問題の百石7人制の100石は、
316.2mの二乗だから、
ザックリと考えて
地方の小さな公営競馬場のトラックの広さくらいだろう。
そう逆算して考えると、
70人から100人集められる千石領主の領土は
一辺が1キロの二乗くらい。
地図で見るとこの広さ
大体明治神宮と代々木公園の
緑部分よりちょっと小さい位の広さだ。
700人から1000人の1万石の領主が
3.162㎞の二乗なので、
大体地図で見る羽田空港の大きさ位になる。
勿論石高は米の量の単位で、
1年間に大人一人が消費する量で見積もられるため、
その広さが単純に領土の広さなのか、
それともそこに存在する田んぼや畑全体の面積なのかは、
検地などをして計測することもあった時代で
明確に言える部分では無いが、
信長は特に検地を行っていなかった様なので、
ここは単純に領土の広さとして見積もるものとする。
では土田氏の領土の広さを
この話での兵役300人集める意味で計測してる。
300人を戦国時代の兵役基準で見積って、
三千石の領土と計算する。
三千石=3百万㎡なので、
一辺が大体1732mの正方形に成る。
さて一辺が1.73㎞で
名古屋第二号環状線上の清須西IC付近を見渡してみよう。
この辺りに土田という地名が残っていて、
清須西ICを中心に東は名鉄名古屋本線の新清洲駅で、
西には願正寺という寺が入る。
この願正寺との繋がりは定かではないが、
第36話に記した通り
織田信秀はその母親である含笑院を弔うために、
尾張土田の場所に含笑寺を建てたという話で、
「がんしょうじ」という呼び方から
何らかの関係性を考える寺として見積もるものとする。
横一辺は土田として残る地名からその願正寺に掛けての距離で、
凡そ2Kmとなる。
縦は大体、東海道新幹線の線路を見て、北は名鉄名古屋本線大里駅から、清洲西ICが2Km以内となる。
新清洲駅から五条川を挟んでほぼ東は清須城となるため、
新清洲駅付近は含まれないと考える。
元々この土田氏は近江の六角氏と、
尾張の斯波氏の関係を取り持つ意味で、
六角氏から外交官として尾張に来た身分で考えるなら、
この領土の場所と広さは妥当とも考えられる。
逆に土田御前が例え守護代で無いとしても
織田弾正忠家の正室として迎え入れられる意味では、
軍役で300人程度は集められる身分で無ければ
成らないとも言えよう。
何度も伝えるが、反対に美濃土田(どた)氏の場合だと、
美濃の斎藤道三と戦続きの状態で、
その家臣の明智方に近い美濃土田氏では、
常に反目に走る事も想定される点が考えられるため、
政略結婚という意味でも成立しない関係と言える。
いわば道三と信秀が戦う中で、
美濃土田氏出自の土田御前(どたごぜん)では、
何度も美濃土田氏の裏切りで殺される状況になるとも言え、
そういう状況では織田家で肩身の狭い思いをする事が、
最低でも想定されるからだ。
ここまで考慮すると確実に信長の生母の美濃土田出自説は、
先ず無いと断定できる。
ある意味織田家中を分断する兄弟喧嘩を
裏で糸引く存在として君臨する影響力は、
美濃土田氏の出自では
辻褄が全く合わなくなるという事に成るのだ。
さて、尾張の土田氏が
300人程度の兵力を集められる家柄であることは、
凡そで見積もる事が出来たわけだ。
余りこの辺の資料がないため、見積もり=仮定で、
あくまで推測と仮定の話に成るのだが、
読者の方がたには
小説としてまたは現実的なシミュレーションの下で
話の辻褄であり、その後の経緯なども含めた流れとして、
参考に考えて貰えればと伝えておくものとする。
さて、招集者であり領主を失った兵の心境はというと…
先ず一般的な漫画であり小説なら、
ここで弔い合戦という言葉で盛り上がるように構成するだろう。
しかし…徴兵であり軍役など好んで参加したいと思うか?
先ず命を投げ出す意味として無償で参加するには、
それ相応の理由が必要になる。
例えるなら今のウクライナの兵の様に、
他国に国を奪われたくないという強い意志が、
彼らに義務感や責任感を与える。
しかし、領主の弔い合戦では些かその点が薄いのだ。
秀隆はこうも加えた。
「この周辺に蔓延る野盗どもを駆逐すれば、そなたらも今後平穏に暮らせることにも成る。」
と、治安維持の名目を語った。
勿論、土田政久が招集する際にもそう伝えたであろう。
その上で彼らは招集に応じるも、
兵の士気という意味ではさほど効果はない。
ある意味この召集の義務感を与えるくらいである。
大抵の人間はこの義務感を与える所で終わってしまうのだ。
そしてそこで終わってしまう兵は実は弱いのだ。
義務感とは現代で解かりやすく言えば、
学生の勉強と同じだ。
この義務感だけで勉強できるのは、
寧ろ勉強の楽しみ方を知ったものだけで、
戦で言えば戦争が好きな人間となる。
勉強なら知識欲で学ぶことが好きな人間と成るが、
戦争では悪く言えば人をいたぶる事が好きな人間となる。
寧ろ大抵の人はそんな意欲は無いわけで、
義務感だけではやる気を起こせないのだ。
日本と言う国では、大半がここで終わる。
「働かざる者食うべからず」
こんなことわざを当たり前の様に発している国では、
現実が見えていないと言っておこう。
いわば何かあれば義務だからという言葉で、
相手を言いくるめているだけという話なのだ。
実は兵の士気を上げるには、
その労力に対する対価か、
その労力への責任感が必要になる。
勉強にしても
「俺が家族を裕福にする」
美談としてよく聞くものだが、
こうした家族に対する責任感は苦行に対するパワーとなる。
ある意味、家族を養うために
仕事を頑張る人たちが感じるパワーがこれだ。
現代日本は
ここだけで踏ん張っていると言っても良いだろう。
ただしそれは企業に対する責任感ではない分、
企業を盛り上げる士気には成らない事も言っておこう。
いわば企業では義務で働いているだけで、
その義務をこなすことが家族に対する責任感として
機能しているに過ぎないのだ。
いわば無難に給与を貰うだけの責任感でしかないのだ。
責任感を与える事は理想的に思えるが、
実はこれが一番難しいのである。
其々がその責任を感じるポイントに差異が生じるからだ。
いわば自分ならこれで責任を感じて頑張ると思っても、
他人には通じないのだ。
その人の責任感は理解できてきも、
他人は寧ろそんな責任感は持ちたくないとかんがえる場合もある。
日本が空回りする部分がここだと言っても良いだろう。
そんな事よりももう一つの対価で解決する方が合理的なのだ。
秀隆は招集された兵たちに、
「自分の家族が安堵して暮らせるようにこの討伐を為しえてもらいたい。」
と、伝えた。
いわばこの戦いに少しでも責任感を感じさせたいという意図だ。
一見、この秀隆の口上は素晴らしいようにも感じるだろう。
しかし、信長は「勘が良い」。
「勘が良い」とは筆者が知る限り、
司馬遼太郎先生が良く用いた言葉だ。
彼はこの言葉を「直感」という意味合いで用いていたが、
ここでは「洞察力が齎す空気を読む力」の意味で使う。
信長は招集兵たちの顔を眺めて、
今一士気の高まりに欠けることを察した。
その上で秀隆の口上に何かが足りないと気づいたのだ。
信長は何気にまだ吉法師だったころにおこなった
灌漑作業の現場を思い浮かべた。
その時の作業で金森右近の懸案だったが、
米を報奨として競わせたことで
全体の作業士気が大幅に向上したのを思い出したのだ。
また彼ら招集された兵にどことなくやる気の無さを感じて、
石合戦をしていたころの
相手に脅える農民の子らの姿を思い出した。
(これではこの兵たちは使い物に成らない)
信長は直感的にもそう感じた。
そこで信長は招集兵らに率直に聞いた。
「土田殿はお前らに何か約束でもしていたのか?」
招集兵らは焼け落ちた土田城を見て、節々にざわつくと、
その中の一人が、
「ワシらは今回の恩賞として米を家族分頂けると言われてただ…
それがお城が焼けてしまって・・・その話がどうなったのかと…」
戦国時代、農民が米を口にすることは
滅多になかったと言われている。
それだけ米は貴重な食品だったのだ。
軍役という中では義務故に、その領民は基本従わざるを得ない。
しかし今回の討伐は国を守る戦いとは別である。
秀隆が述べるように治安維持という名目で、
家族を守るという責任感で参加させることも
義務としては成立する。
しかしそれだけで命がけで戦うという話とは別物である。
いわば義務だけでは命欲しさに
逃げ出してしまう事も有りうるのだ。
勿論、多くの領主は
敵前逃亡にたいする罰則も用いて彼らを使うのだろう。
ところが信長は石合戦という罰則すらない遊び通じて、
兵の士気で戦況が大きく左右する事も学んでいた。
いわば弱兵では崩れだしたら止まらないのだ。
後の信長からすれば他の兵は
その辺を修正していないから弱かったのだと考えるだろう。
逆に本願寺の門徒宗の様に
命がけで向かって来る相手は手強いのだ。
恐らく太平洋戦争時の日本は
本願寺の様な手強さが有ったと言えるが…
結果として両者とも負けてしまったことは忘れてはいけないと、
今は伝えるに留めておこう。
さて報奨であり恩賞を求めての
討伐への参加という事を知って、
多くの日本人は間違った思考をしてしまう。
いわば義務や責任感なく
対価だけを求めるだけの連中に見えるだろう。
そういう意味で使えない、弱いと感じるだろう。
ある意味世の中が
寧ろ義務感や責任感のある人間を求める傾向にあり、
自分が使う側の人間視点で考えるから、
上辺だけの義務感や責任感が横行するのだ。
いわば使われる側は使う側の求める姿勢を演じて、
使ってもらってる社会になるのだ。
人は言葉で責任感や義務感を語る事は出来る。
しかしその義務感と責任感が本物なら、
それはその仕事に対する情熱に変わり、
素晴らしい結果を生み出すのだ。
ある意味勉強を学業として楽しむように、
仕事も楽しめる状態にあるのだ。
ところが大抵の人間はその領域に達することなく、
義務感や責任感を上辺だけで口にするのだ。
さて合理的な思考においては、
責任感を求める代わりに、
対価を支払うことは、
その対価でその人の情熱を買うという意味に成る。
言い換えればその対価を
責任感が変異する情熱そのものに転用するとい事だ。
それは対価を受ける事そのものが、
一番わかりやすい情熱に成りやすいということになるのだ。
むしろ上辺だけの責任感や義務感で仕事を求めてくる相手より、
対価で動く人間の方が解りやすく働いてくれる。
勿論のこと本当に責任感や義務感で
情熱をそそいで働いてくれる人間は重宝するが
それは望んでも手に入る人材では無く、
また知らない内に手に入っているものでも有るのだ。
ある意味、
使う側と使われる側の信頼関係が
構築されるまでの時間を要すると言っておこう。
筆者の様に論理的に考えるまでは無くとも、
信長は招集兵らの率直な話が寧ろ解かりやすかった。
逆に死した祖父の土田政久であり弥平次から、
兵の上手い扱い方を学んだ気がした。
(なるほど…そういう事で彼らのやる気を煽ったのか…)
すると、信長は自らの口で、
「敵は野盗団ゆえに、お宝、米などを蓄えている。奴らを倒した後は好きに乱取りしても構わぬとしよう!!」
乱取りとは戦利品をあさる行為である。
他国を占領した際は、その領民を苦しめる行為となる為
天下を目指す信長としては本来これらを禁止している。
しかしこの時は敵が盗賊ゆえに許すとしたのだ。
招集兵らは寧ろそれで士気が上がった。
本来領土拡大を目指す大名なら、
兵に乱取りを禁じるのが当たり前と考えても良いだろう。
ただ素行の悪い者たちは隠れてそれでもやっていた時代だ。
しかし、本来なら尾張であり織田信秀も禁じていた事で、
招集兵らも信長がそれを許すことに驚いた事実だ。
現代なら押収した盗品は持ち主に返すのが当たり前だが、
当時としては押収した品物が
誰のものであるか調べる事すらできない。
故にそれらは寧ろ指揮官らの戦利品になるものだろう。
それら戦利品を好きに持ち帰って良いというのだから、
招集兵らからすれば米を恩賞で頂く話より有難い。
また、相手が盗賊である故にその品物には夢が膨らむばかりだ。
乱取り許した信長に対して、
実直な秀隆は、
「若、乱取りは相手が野盗故に許したわけですか?」
と、聞いた。
そして信長は、
「相手が盗んだ物ゆえに乱取りを許しただけだ。」
と、伝えると、
秀隆は「ならば」と言わん形で口を閉じた。
そして信長は思い返した様に招集兵らに、
「ただし、女子供を見つけた場合は決して手を出すな!!それらは無事に故郷へ送り返す!!これを犯した者は死罪とする!!」
と、付け加えたのだった。
一方で信長が招集兵に乱取りを許した事で、
信長本隊に所属する者たちは戦利品を放棄することに成る。
いわば信長本隊はこの戦いを義務で挑むだけなのだ。
河尻秀隆という人物は
後に信長の側近である母衣衆の筆頭に成るわけである。
その秀隆は信長が招集兵らに乱取りを許した事で、
寧ろ信長本隊の人間に不満が出ていないかに気をまわした。
秀隆の直感ともいうべき気遣いである。
そしてそれを確認する意味で、
本隊の人間らを集めて出陣前に、
「我々の目的は戦の経験を積んで、武士として大功を立てることにある。その為に集った者たちで、戦利品などに目をくれる輩ではない!!」
と、伝えた。
「もし戦利品を欲するものが居るなら、この隊から離れ彼らと共に行くがいい。この隊に残るのなら戦に勝つ事だけを考えよ!!」
とあえて引き締める形で締めくくった。
勿論の事、信長本隊は元々が戦利品を押収する目的で、
野盗団と戦っているのではなく、
寧ろ野盗団を相手に軍事演習を行っているのが本来の目的だ。
自然とそうした目的で参加しているため、
彼らの注ぐ情熱は戦う事にあると言っても良い。
そしてこうした実戦を積んで、
本当の戦で大功を立てると言うのが彼らの目指すところになるのだ。
ある意味、信長の近習らは
そういう目的で集まっていることもあって、
反対に乱取りの様な行為に興味すら無かった。
逆に言えば戦略的な判断として雑兵にそれを許して、士気高揚にあてたことをある意味評価する感じもあったと言えよう。
これは現代社会にも通じる話だが、
ただ単に給与という金銭で雇っているだけの社員は、ここでいう雑兵と同じなのだ。
信長の近習の様に意識を高く持たせるには、
リーダーの目的と目標を共有して活動しなければならない。
当たり前の話だが、
それがあるゆえに下の者たちは自然とと学び、
自然と成長していけるのだ。
しかしリーダーが一方的に下の者たちに
目的目標の共有を求めても所詮は雑兵しか生まないのだ。
なぜなら彼らへの対価は
給与という金銭面でしか保証されないからだ。
日本企業の様に役職への出世という形でで煽っても、
それは個々の社員に目的目標を共有する意味とはならず、
寧ろ金銭的な対価で意欲を対上げているにすぎないのだ。
勿論の事、役職を得ることで
個人的な目標と目的が生まれることも、
仕事に対する意識も生じてくるだろうが、
結局はその一部以外の殆どの社員が
雑兵でしかないことを理解しなければならないのだ。
ここでいう雑兵は使えない者を意味するのではない。
言い方を変えて傭兵という意味で伝えてもよい。
個々の能力は千差万別でも結局は雇われ兵という事だ。
先ずリーダーは自分の下に居るものが
近習なのかそれとも雑兵なのかを弁えて
その扱い方を上手く調整しなければ、
組織的な機能として最大限に引き出せないという事を
理解する必要がある。
信長は実に巧妙にそれを使い分けたのだ。
「うつけの兵法」という意味で用兵術を伝えるなら、
これは後に秀吉を扱うことでも伝えられる。
資料的な価値の意味で逸話扱いにされるが、
前述にも記した秀吉の「三日普請(清州普請)」の話などがいい例だ。
これは信長が一行に終わらない清州城の修繕を
秀吉に任せたら三日で終わらせたという
秀吉出世話の有名なエピソードだ。
逸話扱いなのは20日掛かるところを
秀吉が3日で終わらせたという事なのだが、
実際に比較してその位の違いがあった程度で
理解してもらうとしよう。
今、ここでは秀吉がどの様な働きを見せたかは
割愛するものとして、
信長が雑兵を扱うに
雑兵を上手く扱える秀吉をリーダーにあてた点である。
ここから後に秀吉はほぼ傭兵とも言える野武士集団蜂須賀小六や前野長康らを率いた部隊で活躍することは、ほぼ周知の話となるだろう。
いわば信長はこうした人間性の違いを把握して、
各々が最大限に機能するように軍団編成を考えたという点で伝えてもいいだろう。
秀隆は招集兵らにも最初は崇高な目的で挑む事を期待していたが、信長が察したように彼らにそれは望めなかった。
信長は鼻っから招集兵らの戦う意識の低さを見透かしていたのだ。
それは以前から農民の子らと石合戦に励んでいた経験で理解していたといってもいいだろう。
沢彦の教育にそういう意図があったかは定かではないとしても、その導きによって兵の性質の違いを信長は会得できたと言っても良い。
兵の質の違いを気づいていたとはいえ、
秀隆の素朴な疑問がぶつけられたことによって、
信長は物と人間の分別に気づいた流れとなったことは伝えておこう。
それで女子供の話を付け足したのだ。
ある意味、2人の直接的な会話は些か嚙み合っていないが、秀隆の疑問によって信長は人道的な意味を気づかされ、秀隆は信長が人道的な修正を加えたことで武士と招集兵ら領民兵の違いを
理解したとも言って良いだろう。
勿論小説である故に着色はやりたい放題であるが、
信長の母衣衆の筆頭と成る人物は
寧ろこうした場面で気が回る人間であったと考えるべきで、
単なる武勇のみでなく、
部隊を引き締める才覚が
その地位への評価に値したと考えるなら、
こうしたエピソードは決して不自然では無く、
寧ろ必然となってくるのだ。
逆に佐久間信盛の功績やその後の結末であり、
失態などを考慮すると、
秀隆の様な気づかいは出来ないだろうと考えるのが当然で、
そうした流れから秀隆の様な人物なら
こういう場面で必ずこうしただろうという流れとなる。
秀隆がそのあとで本体の者たちに伝えた言葉は、
武士と領民兵の違いを分別した形で、本隊の将兵らは自分たちの目的を再確認できたといってもいいだろう。
特に現代の日本人に伝えたいことだが、道徳的な意識であり人道的な意識を安易に期待しては成らない。
寧ろこの秀隆の気遣いが無ければ、
信長本隊は精神的にどこかで瓦解したかもしれないのだ。
人は時折本来の目的を忘れてしまう事が有る。
一方は戦利品という報酬が約束され、
もう一方の自分たちは結果として無報酬になる。
無論、武士である意味としては
給与の様な形で受けられるのだが、
自分たちが武士で有る事すら忘れてしまう事も有るのだ。
特に戦と言う緊張した状況下に成ると、
こうした不満に近い状態は、
何の為に命がけで戦っているのかという弱音を齎すのだ。
こうした些細な士気の乱れが、
ある意味弱腰な姿勢を生み出して部隊を崩させる要因ともなる。
兵士一人一人で考えると、
そうした鬱憤が戦闘での集中力を欠く状況にも成って、
命を失う場面にもなると言っても良い。
こうして信長は招集兵たちの士気を高め、
更には秀隆によって
自らの部隊の目的意識が再確認された事で、
野盗団を倒すという共通の目的で挑む体制が整った。
一方そのころ末森城では、
土田御前が信秀に信長の廃嫡を直訴する事態が起こっていた。
さて…勇ましく弔い合戦に挑む信長とは裏腹に、土田御前と林秀貞の信長イジメがここから始まるのである。
昨今のSNS同様に悪く言われれば悪く見える。
それは戦国の世でも変わらぬ形なのだ。
そうした逆風の中、信長は果たしてどう生き抜くのか・・・