長篠の戦い うつけの兵法 番外編① | ショーエイのアタックまんがーワン

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タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

どうも・・・ショーエイです。

大河ドラマもそろそろ長篠の戦い、

または設楽原の戦いに差し迫ってきました。

 

最近では織田軍の三弾撃ちは無かったなどと、

色々な説が飛び交っていますが…

実際はどうでしょうか?

 

三段撃ちが無かったという話は、

信長の最有力資料として扱われている、

信長公記やその他同時代の資料に

記載が無いからという事からです。

 

逆に伝承や逸話として残るところを変遷した資料、

たしか…信長記(甫庵信長記)に

記載があるという事だったかな…

三段撃ちはここから来ている

創作という話で考えられているそうです。

 

ところが…歴史家の人たちは

科学的な分析をしているのか

些か疑問なので、

正直…三弾撃ち否定説は充てには出来ません!!

 

ちょっと信長たま風に皮肉を言っておきます。

 

【三弾撃ちを検証する上で大事な事!!】

先ず三弾撃ちという記述を用いた甫庵。

刊行されたのが1624年、1644年、1677年とされ、

初刊は1604年という説も有ります。

ただし・・・刊行された年数はあまり関係なく、

寧ろ1624年の頃に初刊が出来た場合でも、

十分に参照できる話です。

 

では…三弾撃ちが実在したか否かを検証する意味として。

問題は三弾撃ちが徳川時代に

当たり前の手法として残っていたかがポイントに成ります。

 

ここが数学的分析力に成ります。

 

①三弾撃ちが最強の銃戦術であったなら、

徳川時代には当たり前の様にその戦術が浸透していたはず。

 

②浸透した時代には当たり前の戦術過ぎて特別感を感じず、

歴史資料として残すほどの話では無かった可能性。

 

③そもそも三弾撃ちは打ち手が入れ替わって撃つのでは、

寧ろ効率が悪く、戦術性としては利点がない。

 

先ず、うつけの兵法では既に三弾撃ちの原型を説明してます。

いわば鉄砲を打つのが上手い人に連射させる方が、

戦術的な効率としては高いという部分です。

鉄砲の弱点は、

銃弾を発射するまでの準備時間が長い事です。

あとはコスパが高い事も有りますが、

その点は信長経済力で補えるところとして割愛します。

 

銃弾を発射するまでの時間を効率よく回転させるには、

三弾撃ちの基本的な発想で一致します。

いわば銃の打ち手の従者が準備作業を行って、

効率良く銃の打ち手が発射できるようにすればいいのです。

 

こういう撃ち方は長篠の戦い以後

当たり前の様に行われていたはずなのです。

 

と、言うのも信長たまの頭脳に限らず、

寧ろこの戦術は誰かが必ず思いつくだろう方法だからです。

ヨーロッパではナポレオンが使ったとしていますが…

鉄砲自体の物量が増えた場合、

寧ろ鉄砲の数よりも、

消耗品である銃弾のコスパの方が

勝敗を分けるということで考えられるからです。

 

なので江戸時代、いわば長篠に参加した

徳川家康からの徳川軍では

寧ろこの撃ち方は当然の戦術として

既に浸透していたという事です。

 

従者が銃弾の装填を準備する手法は、

寧ろ甫庵の時代には当たり前すぎて、

新鮮味を感じ成った。

寧ろその手法自体が

信長軍団の当たり前の撃ち方だった可能性もあるのですが、

甫庵はその手法の原型を信長たまが考えたとする形で、

原型は三人の撃ち手が入れ替わって撃ったとする方が、

戦術進化の流れとして成立するのではと

創作したとも考えられます。

それが長篠の戦いの時だったのではという流れです。

 

【従者が充填する三弾撃ちは信長軍では当たり前だった】

太田牛一の信長公記に記載がない点で考えると、

この三弾撃ちが信長軍の戦術として

あまりにも当たり前過ぎた為、

特別に記載するほどの話でも無かったという事、

いわば長篠の戦い以前、

姉川の戦いなどでも使われていたという話で、

鉄砲を使う=従者が充填して撃ち手に渡すが

当然だったという事です。

寧ろ鉄砲(銃身部分)の量によっては

これ2段撃ちという流れにも成り、

試しに4弾撃ちなどの実験も行う中で、

一番効率良く回せるのが

三弾撃ちという事に落ち着いたということで考えられます。

 

ここで戦術的に考える大きなポイントは、

撃ち手の集中力を如何に高く維持するかです。

常に敵を見て撃つタイミングだったり、

狙うコースを集中できるようにした方が、

射撃としては効率が良い。

こんな話は現代では寧ろ当たり前の話です。

スポーツ戦術が浸透した現代では、

当然とも言える話でもあります。

 

当たり前すぎて寧ろ新鮮味を感じない話でもあります。

ある意味これが大事だと気付くのは

信長たまに限った話でもないという事です。

鉄砲の伝来から寧ろ100年も経てば、

こういう戦術は必ず誰かか行きつく所とも言えます。

 

逆に鉄砲の銃身となる本体自体が高価だった時代では、

むしろ本体の数が不足する為、

中々三弾撃ち出来るだけの効率に

余裕が無かったというだけの事です。

いわば信長軍団ではその余裕があったため、

当たり前の効率として活用できたと言えるのです。

その為、発想自体は特別では無いが、

物量自体が特別に豊富だった信長軍団が、

この三弾撃ちを生み出せたという事は

十分な根拠として成立する話に成るわけです。

 

【三弾撃ちの当たり前を現代の仕事で考えてみよう】

先ず多くの人にも解かりやすい漫画制作。

連載漫画を作るのにアシスタントの活躍は必須です。

でも、彼らの活躍は読み手は誰も知りません。

背景を作る人、トーンを貼る人と様々です。

でも作品は作家のものと成ります。

三弾撃ちに於いても、銃で撃った手柄は撃ち手のものです。

 

ある意味、漫画制作に於ける役割分担を誰が考えたのか…

歴史家の三弾撃ちの議論とはこういう話です。

でも、漫画制作の役割分担は当然すぎて、

それをやっているからといって特別ではないのです。

 

これは映画製作も同じで、

編集担当などもそうですが、

撮影の際に、ライティング、スケジューリングする1stAD、

カメラマンなどと作業分担が当然です。

こうした作業分担は当然すぎて、

それをして制作していないこと自体、

逆に変と感じるのが現代です。

予算なくすべて一人でやるという事だと、

誰もが時間も労力も大変だと分かるレベルの話です。

 

いわば三弾撃ちの話と言うとは、

当然派生するだろう役割分担の話な訳で、

江戸時代には当たり前すぎる話だったのです。

ここから銃自体の進化が寧ろその効率を覆していきます。

いわば連想式の銃が発明され、

三弾撃ちで必要だった従者の労力は

省かれる流れに成るわけです。

一本の銃が有れば連射出来るのだから、

その労力は必要ないですよね。

現代ではマシンガンという

連射性の高い技術が当たり前と成って、

弾一発を発射するのに時間のかかる火縄銃なんて、

どう扱って良いものか寧ろ困惑するレベルです。

 

当たり前が廃れてしまうと…

その当たり前が資料として残らなくなる。

なので・・・資料が無いから現代人は

火縄銃の扱いへの発想が

火縄銃が発明された時で止まってしまっているのです。

マシンガンが有る時代、拳銃でも6発連射出来る時代に、

火縄銃の扱いを真剣に研究する必要性も無いから、

発想が追いつかないのは当然かもしれません。

逆に信長たまの日本に限った話でなく、

ヨーロッパでもこの当然の三弾撃ちは

存在したという話でもあるわけです。

 

勿論…合理的な発想の実践には多くの心理的障害もあります。

いわば1000丁の銃を3分割して使用する方が良いのか、

下手な鉄砲数撃ちゃ当たるで考えるのか。

大抵の人は後者の考えに陥ります。

寧ろ火縄銃が的を狙いにくい代物であったとするなら、

逆にその方が効率良いと考えるでしょう。

なので意外と三弾撃ちの発想をするのは難しいとも言えます。

 

合理的に1000丁の鉄砲を各自バラバラで撃たせるか、

1/3の鉄砲に連続性を用いて号令と共に

タイミング合わせて撃たせるか。

この効率に気づけるかどうかは大きな違いと成るのです。

下手な鉄砲数撃ちゃ当たる。

一斉に同時に狙いを定めず、

同じ敵の集団に隙間なく銃弾が飛ぶようにぶっ放す。

その間隔が短かければより効果的で、

1000丁より範囲は狭まるが、

300丁が隙間なく一方向向いて放たれれば、

その範囲の集団はそれだけ大きく討ち取れるという事に成ります。

寧ろ織田軍団の鉄砲戦術の極みは

こういう所にあったという事です。

 

敵は色々分散して集団で攻めてくる。

左翼、右翼、中央の3つから分散して攻めてくるわけで、

先ず1000丁がバラバラに狙いを定めると、

中々敵に当たりません。

狙いを定めたとしても…

武田軍1万3000の部隊の先鋒を3つのエリアに2000づつ、

計6000で配置して突撃した場合、

左翼に1000丁一発放って500を討ち取っても、

中央と右翼の部隊は迫ってきます。

銃を充填している間に、その間隔はより狭まり、

寧ろ騎馬の速度で迫られたなら、

銃を撃つ余裕すらなく成るわけです。

 

ここでも歴史家は武田の騎馬隊は無かったなどと言ってますが、

鉄砲の充填時間を考慮して敵陣に迫るには

騎馬である必要性が生じるのです。

また、歴史家は武術家でも無いゆえに、

騎馬の馬を狙われたら騎乗者は落馬するから、

騎馬突撃は効率が悪いという発想で止まっても居ます。

 

ここでもちゃんと考えましょう!!

騎馬隊の馬に弓矢や鉄砲が当たらないようにするには…

前衛に歩兵(盾兵)を配置していれば

ほぼその歩兵が狙いの障害に成ります。

良く海外の映画でも見る光景です。

行き成り先行で騎馬隊を突撃させるなんて事は

先ずしないでしょう。

間合いを詰めて行くまでは、歩兵を先行させて、

騎馬隊はその後方に陣取って進んでいきます。

ここで間合いという部分で考慮するなら、

それは歩兵が乱戦として突撃出来る間合いです。

その間合いを詰めるまでに弓矢合戦に成るのです。

間合いを詰めた…ある意味敵陣に

10メートルくらい手前に差し掛かってくると、

敵は今度は弓から近接武器に持ち替える必要性が生じます。

このタイミングで足の速い騎馬隊が歩兵の隊列の合間から、

突然突っ込んできたら…

まあ、かなり怖いですよね。

勿論、騎馬隊も馬に跨って攻撃するだけが戦術では有りません。

馬はあくまで敵に突進させるものという発想も有ります。

馬に跨ってそのまま馬を突進させつつ、

騎乗者は敵陣手前で馬から飛び降りて、

馬の突進に怯んだ敵を歩兵戦で討ち取っていくという方法も、

かなり良い感じで機能します。

勿論、馬は使い捨てに成るわけですが、

それだけの頭数の馬を用意できるなら、

この騎馬戦術は大いに脅威と成るのです。

武田の騎馬隊が噂通りであるなら、

正にこの戦術です。

木曽馬がポニー程度の体高ならば、

騎馬武者は後ろに上手く飛び降りる訓練をしていれば、

この突撃は機能するとも考えられます。

 

長篠の戦いが大きく取り上げられるのは、

寧ろこの武田の戦術に信長が対抗したという点だとも言えます。

信長の三弾撃ち同様に、

武田の騎馬戦術はある意味斬新。

いわば馬の犠牲ありきで突っ込んでくるという発想な訳です。

 

この勝負のポイントは…

間合いを上手く詰めれば武田の勝ち、

間合いを詰めさせずに殲滅出来れば織田の勝ち

という事だったと言えます。

ただし…残念なことに、

信長は既に武田の騎馬戦術を知っていた事だったわけです。

 

そのポイントは…

長篠の戦いの屏風画でも見られる馬防柵の存在。

そこを中心に用いた3重の陣容と、

武田をそこに突撃させた計略。

まあ、計略というより…

万が一に備えただけの所に結局武田が突撃してきてくれた、

と、いう話なだけです。

ある意味計略は2者択一の状況に追い込んで、

いわば…まさかこっちに来るなんて選択はしないかもね…

と、思っていた方に武田が飛び込んできて来てくれて、

ラッキー…という結果に成っただけです。

まあ、信玄なら別を選択しただろうけど…

どの道、殲滅する自信はあるものの、

信玄ならあそこまでの被害は出さなかったかも…

と、いった違いです。

 

①では三弾撃ちの実態を中心伝えましたが…

次回は信長が勝てた理由を説明します。

鉄砲だけが戦術では無いのです。

 

申し訳ないけど…

歴史家の中には

多くの大学の研究者の方々もいらっしゃいますが…

本当に戦術や戦略という発想面では素人故に、

中々本質の追及に至っていないのは

苦言として言わせていただきます。

ただし、ココではこうした優秀な研究者言っておきますが、

彼らが難しい文献を読み解いてくださった事で、

我々は歴史の大方の流れを知る事ができるのも事実です。

 

問題なのは・・・

歴史家の先生方の専門はそこまでという話です。

もし、本気で研究するのなら、

戦術、戦略の実証、物理的な被害数値、

戦術効率の比較など、

当時の軍略家になったつもりで分析して欲しい所です。

 

また、歴史書物の1次資料、2次資料という所だけで

考えるのではなく歴史的な流れであり、

今回の三弾撃ちで記した様に、

役割分担という発想が当然の物として

「当たり前」が発生するだろう事も踏まえて、

歴史を見て欲しいです。

 

ここで記した三弾撃ちなんて発想…

ハッキリ言って別段特別な発想では無いです。

必ず効率化を考えようとするなら、

寧ろ当然の様に発想されるものなのです。

 

武田の騎馬隊の話にしても、

騎乗攻撃では効率が悪いからという所で止まらず、

世界全体、中国大陸を含めて、

歴史上に騎馬隊が存在した点を踏まえて、

彼らがどう扱いづらい騎馬隊をあえて編成して用いたのか、

そういう部分を先ず考慮して考えて欲しいです。

 

確かに騎乗戦の効率の悪さは、

当方も何気に気味悪く感じていたけど…

では…何故他の国でも騎馬隊が存在したのか…

そう考えると逆に

武田の騎馬隊を否定できない要素と成るわけです。

 

騎馬隊で有名なジンギスカンの戦術を考えると…

重装騎兵(馬の足まで鎧を着せた騎馬)を前衛に突進するなら、

弓からの防御は理解でき、

騎馬の機動力を活かせば、

盾兵の陣容に対して横に移動する形で攻撃すれば

対応できるだろう点も考えられます。

いわば映画でよく見るように、

盾兵に向かって騎馬兵が真っすぐツッコむような戦術は取らない。

逆に欧州のランスという騎馬用の武器は、

真っすぐ盾兵に突進する為のデザインとも言える。

騎乗戦では確かにカウンターを食らわせるという部分で

特化した武器としても優秀と考えられる。

中国の戟という武器は、

馬の脚を狙うようにデザインされたという。

ただし…盾兵の間から馬の脚を狙って戟を伸ばすにしても、

ある程度の間合いが生じる。

こうした武器が主体として登場した時代の

ジンギスカンはどう戦ったのか?

 

火薬兵器をぶちまける。

ロープで敵の盾に引っかけて馬で引きずる。

崩れたその陣容に弓騎兵が弓を放つ。

確かに…ヤバそう。

馬の機動力を活かしつつ、

馬の馬力を活かして、

敵がどうしようも出来ない形で蹂躙する。

モンゴル軍が無敵だった点はこういう事なのかと思う。

逆に船で上陸して歩兵中心で戦った元寇では、

むしろモンゴル兵の本来の戦術が機能しなかった

地の利とも言うべきところも寄与したのかな…

 

ただ…騎兵を使った戦術としては、

恐らく上記のやり方で襲い掛かったのだと考える。

ある意味、この騎馬隊相手にどう戦うのか…

逆にもし…信長がジンギスカンの騎馬隊を

相手にするレベルまで想定していたのならの…

武田の騎馬戦術は

大きな障害でも何でもないレベルにも成るわけです。

 

とは言え…三弾撃ちが存在しないとか、

武田の騎馬隊が存在しないとか言った議論は、

寧ろ当時の日本人の知能は低かったと言っているだけなので、

逆に否定せずに存在したという前提で、

研究を進めた方が良いのではという話です。

ホントにこの程度の戦術が存在すらしないこと自体、

逆に間抜けすぎる話なのですから…