【第二十九話 尾張と越前】
桶狭間へのカウントダウン 残り13年+3年
〔ドラフト版〕修正版
道三が籠る稲葉山城から長良川を挟んで対陣する尾張越後の連合軍。この場所はその長良川を挟んで稲葉山城下がある道三側の場所を井ノ口と言うらしい。加納口はどうやら現在の岐阜駅南東の名鉄名古屋線加納駅辺りをいうらしい。
その井ノ口の対岸に布陣した尾張の信秀、そして越前の朝倉孝景は火矢での攻撃や夜襲を駆使して、稲葉山城下の井ノ口を破壊した。
いわば道三方への経済制裁の意味があったのだが、最終的な補給路は井ノ口から稲葉山城を完全に封鎖しなければ成らのだ。
尾張朝倉連合の中には、総兵力1万5千ある為稲葉山城包囲に十分と唱える者も居た。
しかしそれに異を唱えるのが朝倉宗滴であった。
長良川を挟んだ対岸から井ノ口へ渡っての布陣は、兵法上背水の陣になり、こうした兵法を熟知すると勿論嫌う。
ただ大陸の楚漢戦争の歴史に於いて漢の名将韓信が背水の陣を用いた例を挙げて、そう主張する者も多かった。
戦は戦費が嵩張るもの、それ故に早期決戦を目指してしまう思考が頭をよぎる。1万5千人分の兵糧を運び込むのも大変な労力だ。
更に言えば稲葉山城は敵の本営。故に敵は既に追い込まれたものとも考えてしまいがちになる。
そういう周りの雰囲気の中で、宗滴は今はまだ時期尚早と異を唱え続けた。
朝倉孝景も国の経営を考える身ゆえに、どちらかというと早期決戦に傾いてしまうのだ。
周囲が焦りを示す中で、信秀とその参謀の林秀勝は宗滴の考えに同調したしたのだ。
信秀は相手が道三である事を伝え、南方から攻め入っている笠松の状況が膠着している状態では、背水の陣を敷くことは命取りに成ると説明した。
いわば長良川の上流は道三方の手にあり、水計を以て長良川の両岸が分断されれば、井ノ口の方は退路も失い大損害を被るのである。
ここでいう水計とは、かの小説などで諸葛孔明が敵を一網打尽にする様な形とはまた異なり、上流の決壊で洪水を齎し足場のぬかるみなどを作って相手の動きを鈍らせるという程度の効果しかない。
ただし井ノ口は稲葉山の真下にあり、稲葉山は高所に成る分、地の利を得て足が鈍った敵を弓矢で狙い撃ちしやすくなるという効果も発生するのだ。
また水害は数日で収まるわけではなく、それが収まったとしてもその足場の悪い状況は中々改善されない。
勿論知恵を絞って船などを活用して対策を練るような考えもあるが、結局井ノ口を破壊してしまった事が、むしろ敵に最良の視界を与えてしまったことに成り、船を以て逃げるにしてもそれも敵の的の対象と成に成るのだ。
更には補給した物資もそこで無駄になり、結果包囲は崩れて撤退を余儀なくされかねない。
口達者な信秀は宗滴にに代わってそう伝えたのだ。
見事なまでに自分と同じ考えを代弁してくれた信秀に、宗滴は一目を置くのであった。
結果、孝景は宗滴らの戒めを理解して笠松の戦況が動くまでは暫く対岸に布陣する事に決めたのだ。
無論、長期戦が厳しいのは道三の方も同じである。
城下町の井ノ口があそこまで破壊された上では、むしろ敵が井ノ口に布陣してくれることを期待した。
そういう意味で信秀が警戒しているような備えは十分であるが敵は対岸から動かないのである。
戦上手な者同士の戦いとはこういうものお互いに都合よく隙を見せてくれないのだ。
いかに兵法を熟知していようとも、結局はこうした駆け引きを知らねば常に失態を演じる愚者と成るが常だからである。
故にここからの勝敗は更なる展開の発想力が決め手と成ってくる。
かの諸葛孔明の軍略もそうであるが、動かぬ敵を動くように仕向けるのがその発想力の根源である。
とは言え、動かぬ敵を動かすのは中々難しい。
では…道三はどう考えるのか…
今の目的は…敵を井ノ口に布陣させたいのだ…
そこで笠松で膠着している尾張の本隊が動き出せば、長良川対岸の部隊は井ノ口に入り込んでくる…無論、尾張本隊と信秀が居る越前との連合軍の合流は避けねば成らない…
そうやって一つ一つ分析しながら何が可能かを考えるのだ…
そこで…対岸の井ノ口側の部隊は動かせずとも、尾張本隊は動くかも知れないと…そういう閃きで道三は頭を切り替えていくのだ。
井ノ口に対陣されている状況は、敵はこちらの不利を予測する。
ならば突然笠松の部隊が後退したとしても、敵は自然な行動と認識するだろう。
問題は…笠松への備えとして木曽川に設置した堰の決壊を警戒するか否か…
ここが警戒されると…恐らく敵は動かない可能性もある…
いわば道三は自ら笠松へ尾張本隊を渡らせないように備えたものが寧ろ邪魔になってくる事を理解した。
道三はそうやって状況の欠点をも見極めながら考えを巡らせた。
無論、木曽川の堰を捨てるわけには行かない。その条件でこれをどう謀るのか・・・
道三が状況の打開を試行錯誤している中、井ノ口の対岸に布陣する尾張越前の連合軍では、軍議の後、しばしば親睦を深める酒席が設けられた。
ここで多くの人は勘違いしがちだが、尾張の織田信秀と越前の朝倉孝景は同格の扱いには成らないのだ。
元々は織田と朝倉は斯波氏を主家とした家臣団である。
しかし、そうした意味でも孝景は越前の守護代に成るわけで、尾張の守護代はあくまで大和守家であって、信秀の弾正忠家はその下の扱いに成る。
応仁の乱以降、朝倉家は斯波氏から独立した存在と成っており、そういう意味では越前守護で尾張斯波氏と同列に成る。
加納口の連合軍の大将はその朝倉孝景であり、信秀は尾張から派兵された援軍の将に過ぎないのだ。
信秀が宗滴に同調して井ノ口へ布陣の不利を解いた後の酒席の中で、突如当主の嫡男自慢が話題に上がった。
ここでいう当主とは朝倉孝景と信秀のことに成る。
孝景の嫡男は後の朝倉義景ことで1533年生まれで、1534年生まれの信長とはほぼ同年代に成る。
その義景は孝景が41歳の時にようやく生まれた男子だったという。史実上幼少期の記録はほとんど残っていないようだが、幼名は長夜叉であったという。
その長夜叉こと義景はこの1544年時点では11歳であり、吉法師はまだ10歳である。
そんな次期朝倉家当主となる長夜叉の話を朝倉家臣団が持ち掛けた。
「大殿(孝景)、そういえば長夜叉(のちの義景)様は最近、孫子を諳んじたとお聞きしましたが…」
「諳んじているとは言っているが…まだ11を数えたばかりで愛読しているに過ぎないだろう。」
「とは言え、あのような代物を愛読できるとは何とも末恐ろしいですな。」
後の朝倉義景は博識という意味では優秀だったと言える。
多くの作品では凡庸な人物に描かれるが、むしろ現代風の高学歴なエリートの典型と言っても過言ではないだろう。
「まあ、勉学に熱心なのは頼もしい事は確かだな。」
孝景にとって晩年の子ゆえにより可愛いのであろう。孝景は気分よくそう語った。
そして孝景は信秀にも年の近い子息がいる事を思い出して、
「ところで信秀殿のご子息も、ウチの長夜叉と年が近いと聞いているが…」
無論、多少酔ってはいると言っても信秀は立場を弁えていた。
自慢気に吉法師を立てるのではなく、むしろ話を盛って場を盛り上げることに徹したのだ。
「ウチの嫡男は、勉学など全くそっちのけで遊びほうけております…いや長夜叉様がうらやましい限りですな…」
そして更に場を盛り上げる意味で、
「孫子などを読めと申し付けても、この言い訳が何とも大たわけでしてのう・・・」
話し上手な信秀は少しタメを作って周囲の興味を煽るのであった。
「はてさて、いかように・・・」
信秀は周囲がそうして興味を示した事を確認して
「それが…孫子なんぞ自分で考えるから要らぬと抜かしよったのですわ」
すると周囲はその突拍子もない子供の言い訳を聞いて場は大いに盛り上がった。
「ははは、それは何とも大それた言い訳かな・・・子供らしいというより大そうな大物ですな。」
実情を知る林秀貞は寧ろ悩まし気な表情を浮かべていただろう。
それ以外の者は吉法師のうつけっぷりに大笑いして信秀のネタを楽しんだ。
孝景は寧ろ信秀の話の上手さに一目を置くのであった。
その周囲の殆どが、信秀の口上のネタか、またはその大たわけぷりを楽しんだのだが…そこに朝倉宗滴ひとりは別な見方で興味を示したのだ。
史実の資料としてこの朝倉宗滴が死ぬ間際に信長の行く末に興味を示していたという事は有名な話である。
朝倉をその後亡ぼす事に成る信長で、まだ尾張の隣国というほどではない越前の宗滴が信長に興味を持っていた事はある意味不思議である。
その宗滴の死は1555年で、桶狭間の戦いも終わっていない、また弟の決着も着いていない時分の事ゆえに、なぜ信長を気にかけていたのかという見識には些か不思議に思う点がある。
先見の明とは些細な情報から直感的に派生するものを分析して見極めるものである。
宗滴は信秀の口上であると知りながらも、むしろ信秀が冗談語ったその教育方針に何かを感じたのだろう。
先の作戦会議で宗滴は信秀の才覚に一目を置いた。
その人物が話を盛ったであろうと知りつつも、自分の嫡男に自らで考えるという教育を施していると考えたのだ。
無論この時点ではそれが成就するという保証はない。
宗滴自身が多くの戦を経験した事で、戦が書物通りに流れわけではない事を知っている。
現代風にビデオゲームを題材にゲーム理論的な要素で伝えるなら、書物はその攻略法である。ビデオゲームの様にプログラム化された内容で進行する出来事ならそれで攻略することは可能だろう。
しかし、一般的に使われるゲーム理論では、孫子の兵法で記された「兵は詭道成り」と同じで、現実社会は騙し合いの世界であり、そこに協調や協力の必要性を説いたものと成っている。
いわばその中での判断力は、自らの思考力が試される場で単純に攻略法的な知識が試される場では無いのである。
政治をゲームの中に盛り込むと、善良な言葉を吐くことが一種の攻略法的な要素として認識される。
しかし、情報社会でマジョリティである人々の思考が偽善という言葉の有り方を意識すると、その善良な言葉だけでは意味がなくなるのだ。
思考力の無い人間はこの攻略法に基づき、偽善を貫こうとするが、社会営利の関係でその偽善を暴こうとするものが存在したりすることでその偽善は淘汰されることにも成る。
ゆえに思考力の高い者は自らが偽善になる事を避け、むしろ人間としての自然な言葉を用いてそこに説得力を込めるのである。
いわば状況を適切に見極めて今何を伝えるべきかを把握してそこに言葉の重みを与えるのである。
これは戦いの場に於いても同じで、状況を見極めて今何をするべきかで勝敗の行く末を有利に進めなければ成らないのだ。
宗滴にとって朝倉の行く末を考えたときに、長夜叉が孫子を諳んじて喜んでいる事よりも、むしろ信秀の様に自分で思考させる教育の方が理想的であると感じた事が切っ掛けだったのかも知れない。
故にこうした酒席での切っ掛けで信秀と宗滴の間で何らかの交友関係が生じて互いに文のやり取りがあったか、または宗滴自身の興味から様々な文化人を通じて義景と信長の成長を比較する意味でその情報を収取していたことも考えられるのである。
もしこの加納口の戦いが1547年説に従っていれば、吉法師は13歳で、この話の筋書きとして、戦ごっこに明け暮れている事、または灌漑工事を齎した様な話が伝わって宗滴の興味を惹いたという流れも考えられる。
しかし、ここでは1544年説としているため、それらの内容は後に宗滴が個人的に取得する以外、尾張と越前に接点が無くなるのである。
こうして酒席を交えて信秀、宗滴二人の知将が理解を深めた形で越前と尾張の団結は強まったわけであるが…
ここに道三の謀(はかりごと)が如何にして襲い掛かるのか…
いよいよ加納口の戦いは決着へと向かうのである。
どうもショーエイです。
【修正版の理由】
加納口の戦いとされる加納口がどこにあるのか・・・
中々よく解らなかったため、最初は井ノ口の対岸と考えていた。
ところが…地図を見ると岐阜駅南東の名鉄線駅に加納という駅があるでは無いですか!!
それでも侵攻ルートの計算上では、長良川を挟んだ井の口の対岸が尾張越前の布陣する場所と考えます。
大垣から長良川を渡って今の加納駅辺りに布陣する場合、恐らく退路が断たれる危険性がある。
木曽川から北上して加納口に布陣した場合だと、むしろ道三の逆転劇は難しくなるのです。
加納口の戦いなのか井ノ口の戦いなのか名前が2つある所以。
こうした事も踏まえて形で考えて行く感じで構成していきます。
【修正前↓】
朝倉宗滴が死ぬ間際に、信長たまに言及していたという資料を目にしてかなり困惑しました。
本編でも書いたように、1555年に亡くなったとされる宗滴が信長たまの大成を予言していた根拠をどう辻褄合わせて考えるか…
実はこの戦いで信秀と宗滴が一緒に戦っていた資料が有ったのでここでの流れが切っ掛けだろうとは推測出来たものの、1544年説と1547年説とでは信長たまこと吉法師のエピソードに違いが生じるのでかなり悩みました。
1547年説ならもっと興味を惹く内容で宗滴に伝わったと思うのですが、どう考えても1547年説では無いと思うので1544年の時点である意味まだ良い子に近い吉法師にどう興味を持たせられるかで試行錯誤していたわけです。
さて…ウクライナ情勢…
既に3か月以上経過して、世の中もこの情報から熱が冷めてきた感が有ります。
ゲーム理論の中で少し語った状況の流れというのはこういう事も当てはまるのです。
戦争の優劣も、いささか変化しており、今後またどう変化していくのか正直解りません。
ただウクライナが巻き返すとか、ロシアが圧倒するという予測を立てるのは寧ろ愚かしい人のやる事で、自分に主導権のない出来事に対しては柔軟に見極める必要性があると言えます。
その中で違和感を感じる点は、ロシアが最新兵器の投入をまだそんなにしていない事。
背後に潜むNATOや米軍の情報収取を警戒しての事なのか、それとも技術的な事情で出来ないのか…
いわば後者の可能性を予測してウクライナが巻き返すと考えると、前者であった場合、その思考は後手に回ります。
逆にここまでの流れではロシアの作戦実行力が機能しなかった点が明白と成って事ですが、今後ここが修正されてくるのかは考慮しなければ成りません。
また兵の士気に関しても、意外とここまではモロかった印象が有ります。
ただ、そのことがNATO諸国に馬鹿にされていたことでロシア兵がどう考えてくるか…悔しいという気持ちを抱くのか、それとも諦めムードが漂うのか…正直ここも解りません。
当方はここまでロシアを過大評価して考えていた感が有りますが、それは結果です。
ウクライナを過小評価する感じでは考えていなかったので、いわば現状ウクライナにとってロシアに脆さが有ったのは運が良かったというだけの話です。
今後の展開もロシアの脆さが浮き彫りに成ればウクライナはいい形に展開すると言えますが、その脆さが修正されてくるとまた展開は変わります。
ニュースなどでは英軍の見解が良く出てきて、米軍の見解はあまり出てきてません。
英軍はロシアが脆いという点を指摘してウクライナが優勢に成る事を主張してますが、米軍は一応ロシアを過大評価して見続ける感じで考えているようです。
さて…兵は詭道成り
常に敵を過小評価して見ようとすることは、その過小評価に謀略があった時に予測しなかった奇襲を食らうのです。
いわば敵を油断させていた場合です。
過大評価をすることは常に相手がやりうる事を想定して考えます。
故にその警戒を越えた奇襲でない限り、そこに対処することはでき、また奇襲を受けた場合でも被害を最小限に止められます。
ここは現状でロシアがウクライナを過小評価していた可能性で考えられる部分で、ロシアはウクライナの反撃で大打撃を食らった感じです。
情報を過信して過小評価することは、それだけ準備の費用も時間も抑えて対応できる分、ある意味労力が抑えられます。
誰もが最小限の労力で戦いたいと考えるのは人間の嵯峨です。
逆に過大評価をして挑む場合、むしろ無駄なこともしなければ成りません。
この無駄なことを嫌う人が多いので、出来る限り情報収取を信じて対応しようと考えたくなるのです。
ところが予測と違って混乱してしまうのは前者の方で、後者はあらゆる予測に対応している分、混乱せず冷静に対応できるのです。
ここで実は大きな差が生じることを「兵は詭道成り」の一文に盛り込まれているのです。
無駄な労力に兵力を割けるように大軍を維持しておきたいわけで、ウクライナに対してロシアはまだそれが可能であるのです。
寧ろウクライナは無駄な兵力を割ける余裕がない分、そこを抑えて戦わなければ成りません。
ところがロシアをウクライナが過小評価する事は、こうした状況に博打的な奇襲で挑みがちに成ります。
その奇襲が運よく成就すれば良いのですが、運悪く失敗した際にはそこで貴重な兵力を損失します。
歴史的な評価では、織田信長も諸葛亮孔明も奇襲をあまり用いなかったとされてます。
実は相手を過小に考えて戦うことを嫌い、むしろそれで失敗した際のリスクを恐れたのです。
ただし…
これはブログで何度も書いた内容で、魔仙妃の言葉として伝えている事ですが…
「確率あるところに可能性有り、その可能性を確実たるまで練り上げて実行する事、これ奇策なり」
と、いう言葉です。
いわば奇襲も確実に成就すると判断できるものなら実行するのです。それだけ用意周到に準備とタイミング見計らって実行するものであると伝えておきます。
うつけの兵法では、これが桶狭間の戦いに用いられるわけですが、果たして桶狭間は奇襲になるのか、それとも正面突破だったのか、その実態を期待しつつ是非ご覧いただければと思います。