安土城再現【完全版】麒麟が来るよりハイクオリティ うつけの兵法 特別編 | ショーエイのアタックまんがーワン

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タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

どうも・・・ショーエイです。

前回地形が違ったという事に気づき、

更なるクオリティを目指し、

地形をほぼ再現して活用したバージョンが完成しました。

一部建物は面倒なので

CitiesSkylineというゲームのアセット(ユーザー提供の物)を

使用しております。

ほぼ類似という形で考えて下さい。

全部自作だと3か月から半年掛かる。

それでも7割以上は自作(コピー含む)。

 

先ずはGoogleMapやその他資料を参考に再現した地形。

現在では入り江状態の水の有った場所は、田んぼに成っています。

 

では、狩野永徳作と云われる安土城鳥観屏風画と比較して見て下さい。

雲に隠れた場所は地形と構造上、

また全体のバランスで建物を配置しました。

因みに本丸、天守閣、二の丸の信長邸(現・信長廟)は

全て自作です。

屏風画の鳥観図と実際の石垣跡とでは

位置関係が異なる部分がある為、石垣の配置に准じて、

特に本丸部分、天守閣部分の建物を構成してあります。

その上で建物の形は鳥観図を参考にした感じです。

 

では天守閣と本丸の景観です。

この部分は前回と全く同じです。

前回本丸は資料参考に再現しているので。

若干変わったのは信長邸のサイズを小さくした位。

 

大手道から登る先には↓の光景が見えたと思われます。

「麒麟が来る」でせめてこういう再現はしてほしかった…

 

大手門はこんな感じ…↓

鎌倉の鶴岡八幡宮に因んだデザイン。

信長たま自身が実際に見てはいないのだが、

京都の寺社仏閣を参考に、想像力を活かして作らせた…

と、言うより我がまま言って作らせた感じかな…

「大手門には鶴岡八幡宮を作れ!!」

天守閣もそうですが、信長たまのデザインというより、

寧ろ狩野永徳のデザインで、

天守閣に限っては、

信長たまが天竺の様な建物と命じたのかも・・

ざっくりと意味不明だが…

狩野永徳の不思議な六角形の石垣に建つデザインは

かなりお気に召したモノだった。

天竺と言えば、チベットのラサとも言われますが…

このラサで有名なポタラ宮は1690年に建てられたもの、

ところがラサには…

こんな感じ建物も存在し…

このラサのイメージが絵画という形で

当時の信長たまの目にも入ったのかも知れません。

そういう想像力を永徳に伝えながら、

あの大手門から見上げる安土城に結びついた可能性は

実は大きく有るのです。

 

当時の宣教師は安土城を見て、

宗教色がかなり強い城と表現しました。

ところが…それは寧ろデザインの参考でしか無く、

寧ろ、仏教、神道、キリスト教、何でも有りな感じったと言えます。

 

ある意味、信長たまからすれば、

天竺だろうがヘヴンだろうが、極楽だろうが何でも良いから、

とてつもない天空の城を築きたかったというのが本音でしょう。

オッサンも作ってて日本の限界MAXで構成したんだろうという結論です。

いわば屏風画などキリスト教的な絵画を掛ける人間は宣教師位しか居なかった。

寧ろ品質的に選別するなら、日本の絵師、狩野永徳をはじめとする人材の方が良かった。

彼らに自由に想像力を膨らませて描かせたものが、

当時の天守閣を埋め尽くしていた。

しかし、実はこうした構造はヨーロッパのルネッサンスの影響が伺えるモノでした。

いわばルネッサンス期の芸術では絵画や彫刻を

キャンパスに限らず教会などの壁面にも描いていたわけで、

宣教師からそういう文化の話を聞いて、

最終的に和風に再現したのが安土城と成った訳です。

宣教師の目からすれば、日本の絵師が描く宗教的な幻想は、

キリスト教でありルネッサンスの芸術とは全く違うものに映り、

それ故に宗教色が強いと表現したのでしょう。

ところが信長たまの指示上では、

寧ろそこに宣教師から伝え聞いた

ルネッサンスのイメージを浮かべていたと言えます。

 

次に大手門以外にも

鶴岡八幡宮をイメージして作らせた部分は、

城下町にも有ったと言えます。

 

大手門へ向けて並木の大通りを作っていたはずです。

何故断定して言えるのか?

それは軍事的作用があるからです。

写真の様に並木の外側は町人が歩く場所、

並木の内側の大きな通りは武家が城に行くための通りなのです。

いわば城までのバイパスを作るのは当然の発想。

急ぎで出陣する際に、町人が歩く場所と

混在させたくない構造と言えるのです。

バイパスはその為のもので、結果その境界を区切る意味で、

並木通りの様な形に成る。

それをどういう方向で付けただろうかは、

地形や資料を参考に恐らくという感じで造りました。

 

城下街と港町の間に楽市の様な場所を設けたのにも

実は合理的な理由があります。

楽市で売られるモノは地元の農民が制作した

いわば現地の特産品に成ります。

それを商人が買い付けて、他国へ売る。

その為に買い付けた品物を

出来るだけ早いルートで船に乗せる為です。

当時は琵琶湖も水運として活用されており、

安土から琵琶湖を通じて大津(現在の滋賀県県庁所在地)へ運び、

そこから京都、堺へ木津川(淀川)を伝って、または陸運で運んだ。

安土が入り江に建てられたのも、実はこうした水運によって

流通の拠点と成る為の目的があった。

まあ、この辺は歴史学者さん達も同じこと言ってます。

 

そういう意味で、港に近い場所を楽市として、

大手道と挟んで商人が買付しやすい様に考えたと言えます。

 

また、安土城下は似た様な建物で

埋め尽くされていたという点も気付きました。

ある意味、作るの面倒でコピペしていて気付いた事なのですが、

こんなにコピペ状態の街で良いのか?

と、オッサン自身に疑問を感じた所、

寧ろ、戸建て売りの方式なら考えそうと気づいたみたいです。

いわば、信長たまは城下街を自分の資金で勝手に作って、

商人たちにその建物を売って儲けた。

商人たちには

「安土で商売したいなら、店の建物を買え!!」

とさながら強制的に買わせた感じです。

無論、ただ強制的に買わせたのでは有りません。

いわば信長たまの言い方は、

「商売で儲けたければ俺の言う事を聞いておけ!!」

という意味です。

結果強制的に集結させられた安土での商売は

流通がそれだけ盛んになる分、重要な場所に成ったのです。

いわば安土で商売できない事は

商人として時代に乗り遅れる事を意味した訳です。

それ故に半ば強引に買わされつつも、

それだけの価値があるモノだったという事です。

無論、信長たまはそうすれば

安土の街としての価値が上がるという計算の下で、

そういう政策を行ったと言えるため、

建物がコピペの様に類似している方が現実的と言えるのです。

まあ、当時は現代ほどデザインが豊富で無かったのも事実で、

デザインに変化があったのは寧ろ寺社仏閣のもの位でだったとも言えます。

何故なら…信長たまもそうであったように、

城攻めの時は街燃やすからね…

拘っても燃えるから簡素で考えてたのかも…

 

こうした構成で大手通りのバイパスを伝って大手門に行く訳です。

江戸城の構成も同じですが大手門の前に必ず広場を設けます。

場合によっては大手門を入った場所に設ける場合も有ります。

この広場は軍を招集する場所として考えられ、

大手門の様な場所からその面前の軍に

檄を飛ばすのが通例だったと考えます。

実は日本の歴史書ではあまり登場しない「檄を飛ばす」とうい儀式。

逆に中国の史書では寧ろよく見られます。

実際に日本でも同じことはしていたと言え、

その名残が軍を通して学校の全校集会みたいな感じに発展したと言えます。

そういう構成から、大手門の下に広場を設けて

高台か檄を飛ばせるデザインにしました。

構造上、多分こんな感じですが…

実際信長たまはこの時分、

家臣に毛利攻めろ、上杉攻めろと命令していただけなので、

安土で軍を招集して檄飛ばしたかは不明です。

多分、一度もそれやってなさそう…

やってたとするなら武田とやり合う長篠に行く前にやったくらい?

それでも寧ろ「清州に集合!!」と号令を掛けて、

熱田神宮で験を担いで檄飛ばしてる可能性が高いです。

 

まあ、使う使わない関係なくそこにそういう機能があれば良いというのが信長たまだったと言えます。

因みにこの大手門防衛機能としてかなり効果的に作られていたと言えます。

まあ、地形が変わっても水源に悩まされる構造なのは変わりませんが・・

 

前回にも説明したように、

本丸と二の丸とされる信長邸の周りには堀が作られていた。

ところが水源が無いので、空堀状態だった可能性は大です。

写真の堀となる水の部分は

石垣が崩れてしまった感じの場所でもあり、

狩野永徳の鳥観図で見られた渡り(写真の天守閣左側の渡橋で、鳥観図だと直ぐ右手真横)が

その堀構想の可能性を示しています。

実際に雨期に成ると水が溜まった可能性も有り、

その為長年放置された結果、

その周辺の石垣も崩れたと推測します。

 

この構造から本丸北…地図で言うなれば…

八角平と書かれた部分に、

こうした景観を設けようとした感じです。

前回も作ったこの景色、

実際の地形でもこの部分が窪地または谷に成っていたため、

やはりこの構成で間違っては無かったみたい。

何かオッサン先生…信長たまに乗り移られたのか知らないけど、

かなり自信満々にこれ作っていて…

半分くらい後付けで地図確認して

やっぱりみたいな感じでやったそうです。

まあ、八角平の存在だけは知っていた前回の状態で、

川の流れている谷の存在を想像力だけで造っていた点で

ご理解いただければそんな気もしてくるのかも…

 

更に八角平には清水の舞台の様なものを想定していたはず…

この建物が実際に建っていたかは不明ですが、

間違いなく構想上あった代物と断言してます。

何故なら、川に水が流れていなくても、

地形の構造が京都音羽山清水寺の舞台がある状態に似ているから。

ここに同じ様な舞台を設けると、

こんな景色が眺められたはずなのです。

お金が有れば絶対に作るよね。

という事で八角平安土城北側は↓みたいな感じ…

ただ、1582年時点で安土城の山全体に

まだ拡張余力のあった点が伺えるため、

何処まで作られていたかは定かでは有りません。

地形を見るに、赤丸で囲まれたエリアは斜面を削ったり、平地かすることで更に建物が拡張できたであろう場所です。

以後、功績を得た家臣らに恩賞として与える場所にしていた可能性は大いにありそれが可能な地形であった点も安土の魅力と言えます。

その為、1582年時点では未開発だったとも言えます。

これらの場所…

上の様な八角平の景色が眺められる場所だったなら…

交通の便は悪くても、良い場所に感じませんか…

信長たまが天才的なのは

そういう心理も利用して恩賞に反映させようとした点です。

それ故に家臣らが欲しがるような構造を編み出し実現化する。

現代で言うなれば都市計画を実行して

タワーマンションを建る感じ。

日本というよりドバイでそれやってる感じで、

景色の良い場所なら誰もが欲しがるでしょという感じ。

色々働かせてる分、それだけ良いモノ上げるからね…

という感じなのでしょうね。

 

「麒麟が来る」の信長は、凡才過ぎると評したのは、

単なるパワハラ親父にしか見えなく成っているから。

信長たまはパワハラ気味に命じるけど、

半分我がままだけど…

必ずそれに応じた対価は用意する。

その為に貰う側が喜ぶものを生み出そうとしていたのです。

ギヴ&テイクをしっかりと考えていた感じで、

寧ろ、同じパワハラでも

スティーヴン・ジョブズに近い感じだったとも言えます。

 

領地という恩賞だけでは

何れ領地が枯渇していく点も既に察しており、

その領地に見合うだけの恩賞をどう用意するか…

それが安土城内への居住権であったり、

茶器などであったりとしたわけです。

 

因みに佐久間信盛がクビに成った件…

実は信盛の失態を挙げたのは表面上の理由。

うつけの兵法でも大事な役どころにしている信盛を

そんな理由では切りません。

寧ろ信盛が家臣として怠慢に成った事が問題で、

横領や家臣への未払いなどという不祥事のようなものが

報告されていたからと考えます。

19か条の折檻状を見る限り、それ相応の理由がある訳で、

現代の会社では、信盛は調子ぶっこいた役員状態で、

会社の信頼を損ねる人物に成っていたと言えます。

特に、水野信元の一件は家康との信頼関係に関わる話で、

信長たまは信盛が策略(嘘)以てでこの地を横領した可能性が

一番許せなかったと言えます。

ただ、明確に水野信元の嫌疑(武田と密通していた)を晴らす証拠らしい証拠も当時は隠蔽されて無かったことも有り、

これを理由に信盛を処断する事は出来なかったと言えます。

それ故に、功績面を理由に罷免したのでしょう。

信盛が切られた件はうつけの兵法を描いていく中で

徐々に調べて行くものとし、

それを信盛のキャラクターとして反映させていこうと思ってますが、

要らなくなったから切るという感じではない点ははっきり言えます。

 

とは言え、開発拡張が出来る余地を残した安土城、

本能寺の変で死ななければ、ここら辺にも誰かの邸宅または別荘という感じのものが建ち並んだと思えます。

 

まあ、そういう中でちょっとだけ盛った部分も…

大手門左のこのエリアに滝を流した…

だから…水源は何処?

 

信長たまの「我がままMAX安土城」

ここでいうワガママはワガママ・ボディに使う

ワガママの感じで考えて見て下さい。

とにかく自分が実際に見れない物を安土城の中に入れ込みたかった。

厳島神社であり、鶴岡八幡宮であり、

まだ手の届いていない地域の名所を絵画や言い伝えを聞いて、

再現して楽しみたかった。

それは明であり、天竺ラサ、更には欧州の景観も、

そこに埋め込みたかった。

人間なら誰しも興味を惹くような発想で、

信長たまはそれを実現しようとした。

それが安土城なのです。

故に秀吉は大阪城である程度はマネできても、

安土城ほどの構想はマネできなかっただろう言えます。

何故ならあらゆるものを凝縮して、

上手く再現できる様な指示が信長たまには出せても、

秀吉には出せなかった。

いわば秀吉には安土より豪勢な城をと指示が出せても、

天守には天竺の様なイメージを、

御殿には厳島神社のような水に浮かぶ社を、

大手門には鶴岡八幡宮の様な圧倒感を、

そしてそこに結ぶ街道は並木を植えて、美しく。

こうした差が安土と大坂城の違いだったと言えます。

 

そういう意味で安土城は「我がままMAX安土城」なのです。

 

こうして安土城を再度作り直すことで、

織田信長の世界観がより見えてきたと

オッサン先生は言ってます。

まあ、単なる3Dで模型を作りたかったという

趣味の良い訳なのだろうけど…

 

ではその他安土城の景観をお楽しみください。

 

多分、この↓のパノラマが屏風画鳥観図の全貌。

観音寺城から延びる山麓からこの景色は見れたかも知れません

 

所で安土城を現実的にこの規模で復元するなら

という発想で考えた際、

これ全部、IRカジノのすればいいとか…

要するに邸宅部分などは旅館として運営させ、

各旅館が各建物で運営する形。

そして天守閣では、イベントアトラクション、信長屋敷ではカジノ。

中には花札や丁半賭博と言った

日本式で畳の間でやる会場も用意する。

カジノにすれば原資も出るから実現可能。

また、ホテルの様な建物は設けずに

旅館経営に宿泊客を任せる事で、

海外のカジノとは別な味わいを持たせることが可能です。

特殊なIR施設でカジノも有るので

海外からの観光客に興味を持ってもらえるのは間違いなしです。

 

旅館形式の運営でホテルとは異なる為、

寧ろリピーターも多く集まりそう。

何せ海外の人が好きな

サムライのお城そのままアミューズメントにしちゃってるんだよ。

 

ここまでやれれば安土再建して

更に町おこしまで出来ちゃうと思うよ。

 

でも、日本人でここに踏み切る度胸がある人は居ないだろうし、

馬鹿な老害多くて色々規制突破が難しいのかな?

 

NHK大河ドラマの「麒麟が来る」…

確かに心理的な変化の描写は上手く作られているけど…

信長たまに限っては、元々が頭オカシイのだよ!!

環境でその頭のオカシさが変化したら、

クレイジーでは無いのだよ!!

 

信長たまに限って言えば、

まるでネット上でディスられてる感じのキャラ。

パワハラ勘違い親父に成り果てて、

女房に愛想つかれて、家臣からクレーム出放題。

信長たまは悪い奴です!!

という感じだよね。

 

もはやあれは歴史ドラマでは無く、

ファンタジー小説「ミッチーの大冒険」で良くない。

パワハラ魔王を倒す勇者明智ミッチーみたいな話で・・・

 

まあ、所詮は小説なのでそれはそれで良いのだけど…

 

問題は「平和」という言葉を勘違いした点!!

今でこそ他国とは解り合おうという点で言えるのだが・・・

 

戦国の時代で

戦が終わらないと嘆くクレームってアホですか?

戦を無くすために誰かが天下布武しなければいけないのだよ。

まあ、寧ろ「麒麟が来る」の見識は、

ミッチーの見識そのものと言える。

表面上でしか当時の民の苦しみを理解していない。

いわばキレイごと言う為の方便。

 

当時の民は戦が起こるごとに

地元が攻められれば家燃やされるのですよ。

城下町の商人も同じ。

もう一度この絵を見て見れば、

安土城攻めるのに城下町は邪魔。

先ず燃やします。

武家同士は、戦争で城下が燃やされるのは

戦略的に仕方のない事と割り切れるかもしれないが、

そこに住む住民はタマラナイ話です。

 

家も家財も全て消えちゃうんだよ…

下手したら田畑も荒らされちゃう…

食い物も無くなくなる。

当時の時代に社会保障なんて無い訳で、

下手したら飢え死に。

 

そういう中で平和を守るという事は、戦争をしない事では無く、

他国から攻められない事。

他国から攻められない様にするために他国に先に戦争を仕掛ける。

後手を踏んで戦争仕掛けられなければ、

他国が逆に今度は戦争を仕掛けてくる。

それが戦国時代の世の中なのです。

 

こうして今の時代に「平和」という言葉を伝えるのなら、

世界全体が戦国時代の様な不信感で結びつかず、

安心感で国際協調を進める事なのでは?

 

米中、米ロが向かおうとするように

お互いが不信感を煽るようにすれば、

自ずと攻められる前に攻めろこそが自国民を守る術と成るのです。

 

「麒麟が来る」の平和の論理を聞いて本当に反吐が出る!!

 

攻め続けるから平和が来ないのではないのだよ!!

攻め続けなければ自国民に被害が出るの!!

平和にするには誰かが攻め続けて天下を平定する事だけ。

当時の人なら皆理解できる話だろうに…

 

まあ、ミッチーみたいなのが無知な人をたぶらかす方便で、

麒麟が来るみたいな

「敵に攻め入るから戦争が無く成らない」

という平和を語って

寧ろ力なく飢える民を見殺しにしてしまっている「平和」を説くのでしょうね。

 

因みに信長たまは…自国の民に

平和などという言葉を用いることは無く、

寧ろ彼らが安全安心できる状態を維持しようと努めた。

故に信長の治世は庶民が評価したと言われるのです。

 

「喧嘩を仕掛けなければ喧嘩が起こらない」

という事は違います。

無礼が有るから喧嘩に成るのです。

喧嘩腰で無くとも無礼で有れば喧嘩を仕掛けたのと一緒。

日本人でここ解っていない人多くない?

 

丁寧に嫌味をまき散らす。

それも喧嘩吹っ掛けているのと同じです。

相手に失礼な態度を取っておきながら、

挑発も怒鳴っても無いから悪くない。

日本の司法ですらそういう論理が通じる。

 

それで平和を語っているが…

実際は皆、法律に怯えているだけ。

法律の縛りから解放されたら

誰も寧ろ強者として活きている人間の殆どは、

平和なんて意味理解しないのがこの国の実情です。

 

強者の語る平和は常に

ご都合に合わせた方便でしかないのだから、

こういう言葉に耳を傾けてはダメです。

ガンジーの様に無抵抗貫いて死ぬ覚悟が無いのなら、

キレイごとは口にしないで欲しいです。