(※まず、
理解してほしいのは、
どんな表現をしようが、
医療や介護をする人、
少なくともわたしが知る限りの人は、
全員目の前の患者さんや利用者さんに誠心誠意の気持ちで接しているし、
行動してきている人たち。
冷たくもなければ、
まるっとその人の人生を理解しようとした上で、
家族に寄り添った言い回しをしたりします。
言い方が不快だったらすみません。)
ガタイのいい男性の若年性認知症で、
突然スイッチが入って手がつけられなくなるくらい怒って暴れちゃう人がいて。
症状の進行に合わせて薬のコントロールをしているけど、
なかなか上手く合わせられなくて。
スイッチを毎回検討するけど、
毎回わからない。
わからないこともあるんです。
というか、
わからないときのほうが当たり前に多いんです。
仕方ない。
室温か?
服がチクチクする?
痛いとこある?
周りの環境?
自宅の環境の変化?
何か思い出しちゃった?それならもうやりようないよね。
一度入ったスイッチをOFFにすることは至難の技。
誰かがどうにかできるものではない。
例え妻であっても。
我が子であっても。
医者であっても。
時間しかない。
何気ない、
ふとした瞬間。
しばらく何も言わずそっとしてみたり、
トイレ誘導してみた時、
「コーヒー飲みますか?」の一言、
大好きな犬の話題をふってみた時…
もちろんスタッフは代わる代わる。
同じ話題やタイミングでも怒ってる時は怒ってるけど、
『その時』がきたら、
フッとOFFに戻る。
目の色が変わる。
その瞬間に周りは心底ホッとして。
本人にも周りの人にも自分にも、
誰にも被害がなかったことに安堵する。
特に、
ガタイがいい若い方だから。
暴れられたら、
女性スタッフは何人いたって止めきれない。
怪我をする危険性はかなり高い。
ぶっ飛ばされるかも。
他の高齢者に被害があったら、
「スタッフの責任」になる。
それだけは避けたい。
日中の頓服薬をお願いするも、
いまだに届かない。
だからって、
「薬で寝かせればいい」のか?
誰かが言ってた。
「自分でできなくなるくらいになってくれたら、こっちもやりやすいんだけどね」
こちらも暴力行為に対して恐怖心を持って接してる。
こう考えても不思議じゃないし、
責めてほしくはない。
でも、
すごくすごく悲しい考えでもある。
結果、
認知症が進めばこの方はそのうち全てに介助が必要になり、
暴れることもなくなると思う。
でも、
誰かが弱って動けなくなることを願うって、
普通とは真逆。
普通は、
できる限りADLが自立できるよう、
できることは自分でしてもらい、
残存機能をできるだけ残そうとこちらも働きかける。
でも、
「力が残っていると暴れる」=「力を奪おう」
これって、
この人の人間としての尊厳は完全に無視して、
介護する側のやりやすさだけしかみてない行為になってしまう。
結果そうなるとしても、
いち医療者いち介護者として、
どうあるべきか考えさせられる。
介護する側になってるときは、
危険もあって他のこともできなくなるから、
どうにかして「自分の時間を確保」しなければならない。
だからってその発想はやっぱり抵抗感がすごい。
日中の頓服薬がほしい。
だけど本来は、
薬漬けも違うはず…。
家族からしたら、
起きた瞬間から寝てくれるその時まで、
ずーっと続く介護。
いつ暴れられるかもわからず暴れたら対応に追われ、
本人は「元の本人」ではなくなってる。
どう考えたらいい?
みんなが振り回されてることに疲れてる。
「生かされてる」
そう感じることもある。
生きていてほしいのに。
大切な人なのに。
みんなが苦しい。
これを解決するためには、
やっぱり上手に薬をコントロールして、
上手にBPSDに対応していくしか方法はない。
できるならいいんだけど。
できるならこんなに困らないんだけど。
できるならこんなに苦しまないんだけど。
みんな生きててほしいし、
みんな尊重したいし、
みんな大切に思ってる。
病気が進行する前に、
できるだけ『人間らしさ』を保って生き抜いてほしい。
ただ生きるではなく、
生きる楽しみを感じながら生きていてほしい。
「大丈夫だよ、さいごまでみんなが助けるよ」って
支えられるひとりになりたい。
自分だってそういたいんだから。
だけど現実と理想はかけ離れてる。
家族は毎日疲弊していく。
スタッフは毎回暴力への恐怖に気負いする。
そして、
本人の症状が進行していくことを心待ちにする…。
わかんないよ。
情けないなぁ…