歌が生きがい | 辻川泰史オフィシャルブログ「毎日が一期一会」Powered by Ameba

歌が生きがい

70歳になるまで音楽を遠ざけていたの。でも今は、生きがいなのよ――。

 福山市南本庄のデイサービス施設。利用者の民謡の歌声が響く部屋で、東玲子(82)(福山市三吉町)が柔らかな表情で言った。

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 1929年、満州(現中国東北部)の奉天(現瀋陽)郊外で生まれた。父は南満州鉄道に勤務。小学生の頃は、級友たちと声を合わせて歌うのが好きだった。ラジオ局で合唱を披露したこともある。

 45年の終戦は疎開先の朝鮮半島で迎え、翌46年9月、長崎県佐世保市へ向かう引き揚げ船に乗った。家も財産もなくなったというあきらめの一方、両親の古里、新市に帰るということでほっとしていた。

 玄界灘にさしかかった頃、何か大きな物が海に落ちたような音が聞こえた。波間に大きな布が漂っていた。船中で亡くなった人の水葬だった。

 「白い布がすうっと船から離れていってね。古里を目前にして、死んでしまうなんて」。たまらなくなり、甲板の手すりにしがみついて「さよなら」と声を上げ、涙を流しながら、叫ぶように歌った。

 その歌が何だったのかは思い出せない。「自分を守るために忘れたのかしら」

 福山で結婚し、2人の子を育てる間も、音楽に背を向けていた。家事の合間にテレビから、恨みつらみを歌う演歌が流れるとチャンネルを変えた。戦後しばらくは暗い歌が多かったせいか、聴く気になれなかった。

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 50年以上が過ぎ、70歳になった頃、福山市内のテレビ局で開かれていたボイストレーニング教室に通った。放送局を見学したいと考えたからだった。発声練習で、「意外に声が出せるんだ」と自分の声に驚いた。声を合わせて歌うよう求められたとき、幼い頃の記憶がよみがえり、思い切り歌いたいという気持ちがこみ上げ、自然に声が出た。

 テノール歌手ルチアーノ・パバロッティの力強い歌声や、満州で見たアカシア並木を思い出させてくれる西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」がお気に入り。県民文化センターふくやま(東桜町)で仲間とともにステージにも立った。

 50歳代の頃、交通事故で背骨や腰骨を骨折し、今では支えなしで立つのも難しいが、「歌いたい」という思いで、7月から週2回、音楽療法を取り入れたデイサービス施設に通っている。

 歌や楽器を楽しむうち、曲がった背骨が少し伸びた気がする。少しうまく歩けるようにもなった。

 「皆によくしてもらって、幸せだなって思うから心から歌える。辛いことも多かったけど、神様、ありがとうって言うのよ」(敬称略、向井友理)

2011年10月9日 読売新聞)