避難路は狭い階段70段 | 辻川泰史オフィシャルブログ「毎日が一期一会」Powered by Ameba

避難路は狭い階段70段

宮城県南三陸町の市街地を壊滅させた東日本大震災の大津波は、海岸から約1キロの特別養護老人ホーム「慈恵園(じけいえん)」にも襲いかかり、入所者46人、職員1人の命を奪った。2人が今も行方不明だ。職員が異変に気づいた時、大津波は間近に迫っていた。逃れる道は、計70段の狭い階段。介助なしに避難できないお年寄りには、絶望的な避難路だった。【泉谷由梨子、曽田拓】

 ■30分

 園にいたのは高齢者67人に職員ら29人。車椅子が手放せないか、寝たきりのお年寄りがほとんど。「3時のおやつを前に、お年寄りたちは食堂兼ホールに集まり始め、職員はその準備をしていた」。3月11日午後2時46分、いつもと変わらぬ園の光景を、生活相談員の佐々木博美さん(50)は記憶している。

 その日常を激しい揺れが破った。壁面の一部が崩れ、ひびが入った。いったん外に出たが、外は雪。「寒い」。お年寄りの訴えで、屋内のホールに戻った。停電で暖房が切れ、毛布を持ち出し、入所者に上着を着せて回った。「また揺れるの」。不安げなお年寄りには「もう大丈夫ですよ」と声をかけた。

 町の防災無線は「6メートルの津波が来る」と伝えた。「それならここまでは来ない」。佐々木さんは入所者の家族からの問い合わせに備え、電話がある事務室で待機した。生活相談員の及川綾子さん(45)は「最悪、床下浸水するかも」と思った。避難してきた住民が続々とホーム周辺に車を止め始めた。地震から約30分、津波到達までの時間はこうして過ぎた。

 ■高台

 慈恵園は市街地より高い海抜約15メートルの高台にある。同じ平屋にあるボランティアセンターと、裏の70段ある階段を上った先の県立志津川高校が津波の時の指定避難所だ。慈恵園は火災や地震時の避難訓練はしていたが、津波の訓練をしていなかった。同じ建物が避難所だからだ。更に安全な場に避難するには、階段を上るしかない。

 1960年のチリ地震津波も、この高台まではこなかった。周辺住民が集まったのも、そんな事情がある。

 志津川高校のグラウンド。サッカー部と野球部は地震で練習を中止し、体育館にいた女子生徒が泣きながらグラウンドに出た。学校は避難所としての準備を始めた。ライフラインが寸断されると判断し、家庭科室から鍋を出し水をため始めた。

 ■異変

 「造船所から煙が出てる。火事だあ」。屋外から聞こえた叫び声で、佐々木さんは異変に気づき、外に飛び出した。見下ろす町並みに上がる煙は黄色。「煙」の正体は、津波が家屋を巻き込み破壊した土ぼこりだった。

 園の周囲にいた人たちが一斉に階段を駆け上がった。佐々木さんも出入り口近くに立つ女性入所者の手をとった。だが、女性は足が悪く、階段を上れない。近所の人と2人で女性を引っ張り上げた。何とか階段の途中にある平地部分にたどりついた直後、園は濁流にのまれた。海水はその平地まで達した。

 及川さんは500メートルほど離れたJR志津川駅近くにある「ウジエスーパー」の看板がゆっくりと動いているのを見た。津波だ。「ダメだと思った」。西側出入り口にあるベッドが避難の邪魔になると思い、別の職員と一緒に外に出したが、ベッドのお年寄りを持ち上げられなかった。津波が、ベッドごとさらった。「ただ見るしかできなかった」

 階段に向かうと、車椅子を押し避難する職員がいた。しかし坂の傾斜がきつくて上れない。「上持って。下は支える」。及川さんが車椅子の2人を避難させると、波はすぐそばまで迫っていた。

 志津川高校からも救援の手が伸びた。グラウンドのサッカー部の3年生2人が飛び出すように慈恵園への階段を駆け下り、野球部が続いた。「生きている人がいるかもしれない」。慈恵園の方から叫び声が響いていた。裂いたカーテンを担架代わりにし、職員と生徒5、6人がお年寄りを運んだ。「生徒は泣きながら階段を必死で上がっていた」。同校サッカー部顧問の茂木安徳教諭(28)は言う。

 ■混乱

 同校に運ばれた入所者は30人弱。だが、既にこときれていた人もいた。職員らはぬれた服を脱がせ、教諭らが持ち寄った服を着せ、教室のカーテンを巻き付けた。冷える体をさすり一夜を明かした。

 左半身不随の田中うめ子さん(93)は生徒らに助けられた。「おっかなくて(何がなんだか)わかんなかった。寒さも感じなかった」。入院先の仙台市の病院で家族に話した。

 うめ子さんは、搬送後に一時、所在確認できなくなった。「ヘリコプターに乗せる際、本人の氏名や年齢を書いた医療用テープを腕に張った。うめ子さんをいつ乗せたか……」。園職員は混乱の中、誰をいつヘリに運んだか、記録を残すまでは思い至らなかった。

 搬送先の病院のリストには「たなかうめこ、97歳」とだけ書かれていた。更に3月末には別の病院に転院。うめ子さんたちの所在不明を伝える毎日新聞の記事がきっかけになり、4月初めにようやく家族と連絡がついた。

 「他にも、搬送先が分からなくなったとの問い合わせが数件あった」。県防災ヘリ管理事務所の千葉正広所長は明かす。災害時、高齢者の身元や病歴などを搬送先にいかに正確に伝えるか。津波は、そんな課題も残した。


毎日JPより