創部5年 | 辻川泰史オフィシャルブログ「毎日が一期一会」Powered by Ameba

創部5年

◇草抜きから始め手応え
 小田浩監督(46)が前任・海田高の校長室で辞令を受けたのは、総合技術高が開校する直前の05年3月下旬。突然の転勤宣告だった。04年秋、海田高野球部は県大会でベスト4に進出。「夏は上位で勝負できる。慕ってきてくれた子たちだったので、夏までは見てあげたいという思い入れもあった」だけに、「頭が真っ白になった」。
 小田監督は、選手時代、広島商高で二塁手として甲子園準優勝に貢献。指導者のコーチ、監督としても、西条農高で春夏合わせて3回、甲子園に導いた。だが、新設校の野球部は無名。当然、高校野球を志して入学してくる生徒は、ほとんどいなかった。もやもやした気持ちが続いた。4月から学校が始まり、約2週間は学校の仕事だけで慌ただしく時が過ぎた。
 「練習してもいいですか」。しばらくして、3人の生徒が自分からグラウンドを訪ねて来た。野球に汗を流す姿を見ていると、気になって、自然と体が指導に動いた。「一歩目を踏み出すことができた」。1期生は、21人集まった。「根拠や確信はなかったが、やるからには、3年生になったときに県の上位で戦えるチームにしようと言い続けた。半分は自分自身に言い聞かせるように、意地だけでやってきた」
 しかし、集まってきた選手たちに驚きは隠せなかった。「坊主頭にしなければいけないのですか」「練習は毎日ですか」。中学時代、硬式野球の経験者はゼロで、レギュラー半分、控え半分という状況だった。小田監督は部員と共にグラウンドの雑草抜きから始め、グラウンド整備の仕方からラインの引き方まで指導し、先輩やマネジャー、主将の役割も一人で担った。1期生で内野手として活躍し、現在も大学で野球を続ける川島一城(20)=安芸区=は「先輩がいなくて、何をどうすればいいかわからなかった」と当時を振り返る。
 小田監督は、これまでの高校でやってきたのと同じ練習を課した。「これで練習できるようにならないと、県の上位では戦えない」。打っては空振り、守ってはエラーばかりだったが「習うより慣れろ」と意に介さず続けると、選手たちも徐々に感覚をつかみ始めた。小田監督も、2カ月ほどたつと「もしかしたら、3年生になったら上位にいけるかもしれない」と感じ始めるようになった。
 1年生だけで迎えた最初の公式戦は、秋の大会。尾三地区予選を通過し、県大会も2回戦まで進んだ。その2回戦で敗れた相手は、小田監督がかつて率いた西条農高。そして、現在は二人三脚でチームを指導する高柿健コーチ(38)が監督を務める高校だったが、この時は、共に指導することになろうとは知るよしもなかった。(敬称略)
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 学校の創設、そして野球部の創部からわずか6年目の総合技術。第2部では、無名の新設校から短期間で強豪校に飛躍した同校の、苦難の歴史を振り返る。【村本聡】

2月7日朝刊

http://sports.yahoo.co.jp/baseball/hs/news/article.html?id=20110207-00000155-mailo-l34



会社の創業期も同じような境遇だと思います。


数々の苦難を乗り越えての甲子園


特にこの総合技術高校のある広島県は、広陵高校、広島商業など競合が多い県です。


その中で勝ち上がり中国大会で結果を残し選抜高校野球に出場


こういった実例を見ると、自分にはあれが足りない、これが足りない、という言い訳は出来なくなります!